先日、プロ野球に関して「人生を変えた名・珍場面」を振り返りましたが
今回は我が人生全般の転換点や名場面を振り返ってみたいと思います。
まずは小学校時代までの幼少期編。
まず人生が始まる前に私に起こっていた大きな出来事は、両親が
NHK職員だったことでしょう。NHKを愛する人間に育ちました。
次に起こったのは弟の誕生。弟が大好きなお姉ちゃんでした。
のちに弟がめちゃめちゃカッコいい少年・青年に育ったことで、
常に私は「弟自慢の弟好き姉ちゃん」だったと思います。
私の見た目は「かつてはブス、今はなんとか中の下」ってところなので、
「私の弟、超カッコいいんだよ」と言ってどれだけ冷笑されたことか。
いや、私の弟とは思えないカッコよさ。若いころは長瀬智也系で、
少し落ち着く年齢になったら江口洋介にやや寄り、中年に近づいたら
ちょっと高橋克典に寄ってきたかな、という感じですが
45歳を超えた今でもホントにカッコいいです。
今は人気カレー店店主で、インドやタイを放浪するなど自由人な過去を
持つ、決まったレールを生きるのが嫌いでイケメンの弟。
ブスでクソ真面目な優等生を経てずっと会社勤めの地味な姉。
どうやったらこんなに真反対の人種になるのかという稀少な例でしょう。
幼稚園時代、私の人生を大きく変えたのは「ピアノ教室事件」。
私は幼稚園で案内を見たか何かして、「カワイ体操教室」に通いたいと
思いました。それで母にその旨を伝えると、母は「じゃあ申し込んでくる」
と言っていました。しかし…
母はなぜかカワイ体操教室ではなく、ピアノ教室に申し込んで来たのです。
「ママちゃん、ピアノやるの子供のころから夢だったのよね~」
いや体操教室行きたい言うたんよ。ママちゃんの夢どうでもいいんよ。
しかし、巨人ファンなのに「他球団の帽子を買え」と言われても
疑問を持たないような、とても素直(あるいはバカ?)だった
子供時代の私は、体操教室をあきらめて、自分がやりたかったかの
ように、普通にピアノ教室に通いはじめました。
結局中学三年生の受験の時期にやめてしまいましたが、10年間習った
ピアノや音楽の知識はその後の人生でもいろいろ役に立ちました。
この時、ほんとに体操教室に通っていたら全然違った人生だったかも。
2月下旬生まれの私は、当然同じ学年の子より体が出来上がっていなくて、
幼稚園のかけっこその他の運動はことごとく勝てませんでした。
そのせいで、いつも母に「〇〇ちゃんはママに似て運動ダメだから」と
言われ、アルバムの運動会の写真には「ビリでした」と添え書きを
つけられ、ずっと「運動のできない、運動神経の鈍い、運動に
向かない子」という暗示をかけられて育ちました。
あの時、カワイ体操教室に行けていたら、真反対の人生もあったよね。
元気なスポーツ少女の私経由なら、どんな人生だったのかしら。
当時の我が家は家の一角でコインランドリーを営んでいました。
そこには漫画が置いてあり、まだ年端もいかぬ私は少年漫画雑誌が
いまいちわかりづらく、小さな冊子を手に取りました。
なかよしの付録だったかな。志摩ようこ「シャトル 真夏の空へ!」
絵は顔の中心線がずれて変でしたが、内容はとても面白い
バドミントンの漫画でした。
それで、私の夢は「バドミントンの選手」になりました。
しかし運動がダメだダメだと言われたので、その夢はやがて、
「バドミントンの漫画だから、バドミントンがダメなら漫画家になろう」
というよくわからない展開で「漫画家」に変わったのでした。
そういえば、シロアリがいっせいに羽化して、このコインランドリーが
びっしりハネアリに覆われたことがあったなあ。あれはホラーだった。
小学校では無難な優等生だった私。1、2、3年生と同じ担任で、
これがとても素晴らしい人格者で楽しい先生でした。
生徒に「短足ウミガメデブ海ガッパ」という変なあだ名をつけられても
(今思うとなんで海が二回入ってるんだろう)ニコニコしていて、
でも生徒が悪いことをすると容赦なく「お尻を叩くから後ろを向いて」
と言ってきちんと罰を与える、中年というか壮年の男性でした。
先生手づくりの「漢字新幹線」という、満点を取ると駅が進んでいく
システムの漢字ミニテスト、私はクラストップの3人のうちの1人でしたが、
あと1駅のところで、父の転勤により福岡に引っ越すことになりました。
最後のゴール駅は当時の東海道新幹線の終点、福岡の「小倉」。
「漢字新幹線」でなく、私本人が福岡に行っちゃった、というオチです。
この「短足ウミガメデブ海ガッパ」先生、すごいことに、この後
4年が経って私が東京に戻ってきたとき、駅前で、道の向こうから、
「おーい、〇〇か!」と声をかけてきたのです。
私がいなくなったのは小学3年生の夏。再会したのは中学1年生。
確かに、弟が同じ小学校に戻るという情報を得て、私が戻ってきていると
知っていたのかもしれませんが、それでも4年経った元担任の子を、
道の反対側から見分けて、絶対に私だと確信を持って声をかけられるとは。
教師は聖職であり、先生とはなんという素晴らしい人がなるのかと、
感動した瞬間でした。
さて、福岡に引っ越したばかりのころに話は戻ります。
引っ越したのは夏休み中。人生で初めて乗った飛行機を降りて、
自宅となるNHKの社宅にたどり着くと、まだ家具のトラックが
来ていませんでした。
我々は仕方なく、坂を下りてすぐのところにあったラーメン屋さんに
行きました。だがしかしそこは! 知らずに嗅げば悪臭にしか思えない、
博多とんこつラーメンのお店だったのです!
当時は東京に「九州のラーメン」の店がたくさんあったわけではなく、
「九州のとんこつラーメン」なんてものはまったく知りません。
あまりの異様な臭さに衝撃を受ける私と弟、そもそもラーメンが
あまり好きではない母、しかし他に飲食店はなく、お腹もすいて
いたのでやむなく入りました…が!
グルメラーメンなんて概念のない1980年か81年かの頃、
町の普通のラーメン屋で、博多とんこつラーメンの美味しさときたら!
我が家はしばらく、折を見てはそのラーメン屋さんに通うことに
なりました。いや~福岡のとんこつラーメンまじすげえ。
新たな地域文化、福岡の食文化に衝撃を受けた引っ越しの日でした。
学校が始まり、「東京から引っ越してきた転校生の〇〇さんです」
という紹介を受け、初日は転校生らしく挨拶以外ほとんど言葉を
発することなく過ごしました。
そして帰宅しようと下駄箱から靴を出し、コンクリートの上に
落としたところで突然、男の子の声がしました。
「おまえ、のぼしとったい!」
そして靴がボンッと蹴られて遠くまで転がっていき、背後から2人の
男の子が走って逃げていきました。よくある「都会の子いじめ」だったの
でしょう。でも私は、彼らに何らかの悪意があることを認識したものの、
「『のぼしとったい』って、どういう意味だろう????」
ということで頭がいっぱいでした。
その後福岡で、自分もバリバリの福岡弁を使って話すようになり、
「のぼしとったい」が「のぼせてるんだよ=生意気だ、偉そうだ」
という博多弁(福岡弁でなく博多弁!)とわかりました。
当時の彼らに言いたいわ~。
「東京モンだというだけで言いがかりをつけたいなら、
標準語で言ってもらわないとわからないんだよね~」
まあ、悪ガキの粋がったチョッカイということで、私もべつだん
気にしなかったけどね。(何を言われたかもわかんなかったし)
さいわい、福岡の人たちは私をすぐに仲間に入れてくれました。
驚いたのは、私の名字が読めない先生がたくさんいたこと。
実は私の名字は、私の地元の隣町に本家がある土着の一族で、
隣町では「石を投げれば〇〇の名字に当たる」という状態。
小学校は「1クラスに2人ずつ〇〇さんがいる」のが普通でした。
だから、私の名字を間違って読む人がいることに驚愕しました。
歴史上でこの名字の人のことも習うんだけどなあ。
私の下の名前は、同世代なら、東京・福岡を問わずクラスに
3人ずついるような多さです。
だから、東京にいた時は、自分のフルネームを日本に何万人も
いるような超~ありふれたものだと思っていました。
福岡に行ったらなんかわりと珍しい名字でオドロキでした。
東京ではなわとびがさかんです。二重跳びなんてできて当然、
なわとびの検定があって、はやぶさだ何との複合技だなんだと、
超ハイレベルななわとび技ができることを求められます。
私は「二重跳び→はやぶさ」の連続くらいしかできませんでした。
これは、東京ではただの落ちこぼれ、運動のできない子です。
しかし福岡では…
「〇〇さん、すごい! 前に出て模範演技をお願いします」
えっ私が“体育”の授業でデモンストレーションを!?
「二重跳びができればすごいのに、はやぶさまでできるの!?」
それが福岡でのなわとびの実情でした。地域差ってすごい。
さて、一方で福岡では剣道が超さかん。
私が「剣道を習いたい」と言ったせいで、弟まで剣道を習わされる
ハメになりました。弟よすまん。
今回は母もちゃんと剣道教室に申し込んでくれました。
私の通う小学校は、できてまだ3年だかの新しいところで、
剣道教室がなかったため、隣の小学校の少年剣道教室に入りました。
ここはかなり遠く、隣の隣の町にあります。小学生にはかなり重い
防具を積んで自転車で通います。
そこで2年ほど剣道をやりましたが、1級審査には二回も落ちました…。
先生が落ちた理由を聞いてくれたのですが、「姿勢も、気合も、
すごくいい。ただ、動きがちょっと遅いのが…」とのこと。
つまり、ドンくさい動きがダメ、とのこと。
のちに東京に戻ってきて、中学校で剣道を始めてそれほど上手くなって
いるように見えない友人が1級に通るのを見て、「これなら当時の私の
ほうが」と思ったりしたものですが…
福岡は剣道王国。福岡の1級は格別なのだ、と思うことにしています。
一番の思い出は、雪の中、裸足に靴を履いて寒稽古に向かい、
結果的に氷水に足を浸しつつ道場にたどり着くことになって、人生初の
しもやけになったことかな。寒稽古の後に配られてみんなで食べた
ぜんざいが美味しかったのを覚えています。
そして町内会のスポーツがハンパなかったのも地域の特徴。
「茶山二丁目」「田島三丁目」など、校区の中で「〇丁目」ごとに
チームを作り、男子は野球、女子はドッジボールで優勝を争います。
各チーム、オリジナルのユニフォームがあって着用必須。
一体何のでかい大会だよ、という超~激マジな練習が課されます。
大会直前は毎日のように練習。ユニフォームを着てゼッケンを付けて、
ボールから逃げ惑うばかりの私。一方で弟は4年生で町内のエース格。
あのまま弟が5年、6年と茶山二丁目のエースだったなら…
弟が大会に出られたのは小学4年生まででした。5年生の夏には
東京に戻って、地元のチームでサッカーを始めてしまったので…
さて…小学校での私はというと、「漫画ノート」に漫画を描いて
クラスメイトに読んでもらったりしていました。
しかし…中学年の時も高学年の時も、私より圧倒的に上手い女の子が
クラスに必ずいました。
今思うと、その時点で才能のなさを自覚するべきだったのか。
中学年の時のクラスの漫画のものすごく上手い子は2人いて、彼女たちは
名字の1文字ずつを取って「カキ」と称して仲よくしていました。
それがうらやましかった私は、「マンガグループ」を結成しました。
さいわい漫画を描くのが好きな子が仲間に入ってくれて、私は持ち前の
センスのなさから「ザ・マンガグループ」と名づけました。
略して「ザ・マ」。
高学年になってクラス替えがあり、メンバーを募りなおした新しい
マンガグループの名前を、私は一生懸命考えました。
私は真剣に考えれば考えるほどセンスのなさが冴えわたります。
「前は略して『ザ・マ』だったんだから、『マ』で終わる言葉に略せる
名前にしよう。××マ…サンマとか、うーん」
そうね、「サン(太陽)マンガグループ」にして、略称を「サンマ」に
しているほうが、ダサくてもまだよっぽどマシだったね…
私がつけた名前は「通り・マンガグループ」。意味わからん。
略して「通りマ」になるから、って通り魔のこと!?
うん、実際当時の漫画ノートに「通り魔」って漢字で書いてある。
なんか多分、センスがなすぎて脳内おかしな子だったんだと思う。
「通り魔ノート」を何冊も作って描いている小学生って…
そして、私の無駄なカリスマ性というか人集めの才能が発揮され、
クラスの女子全員がこの「通り魔」に入って漫画ノートを作って、
全員が1ページは漫画を描いてくれたというのが私の自慢ですが…
担任の先生が通信簿に書いてくれた言葉が忘れられない。
「とおりまのグループも〇〇さんを中心に動いているようだし、
みんなの中心に立ってとても元気に楽しく活躍しています」
…「とおりまのグループ」を称える文言を書くはめになった先生よ、
本当にごめん。漢字で書くのが憚られた気持ちがわかる。
当時のこの小学校のクラスには、ヤンキーぽい女子というか、
クラスの女子全員ににらみを利かせ、一定の期間をおいて相手を変えて
いじめっぽいことを繰り返す2人組がいました。
実際は特定の子をいじめるわけではないので、なんとなく面倒な存在、
という程度でみんなも仲よくしていたんだけど。
(そういうヤンキー系の子にまで漫画を描かせた私って…)
ある日、彼女たち2人が「〇〇、ちょっとおいで」と私を呼びました。
「ああ、次のターゲットは私なのかな」と思って素直に呼ばれて
ゆきました。すると…
「〇〇、あんたもう、ブラ着けたほうがいいよ、ブラ」
彼女たちは、いじめどころか、私にありがたい忠告をしてくれたのです。
自分の体が大人になることを意識もしたくなかったその頃。まだ全然
そんな必要ないと思ってました。実際、計っても一番小さいサイズの
ブラジャーしか必要じゃなかったのですが、私は渋々ながら、母に
ブラジャーを買ってもらいました。
多分彼女たちに言われなければ自分の体の成長に目をつぶり、わりと
遅くまで放っておいたと思います。そうしたら絶対垂れてたな。
容姿に気をつかうようになってからその有難みが本当によくわかり、
ずっとずっと、彼女たちには心から感謝しています。
そして思い出す、1983年の日本シリーズ…
昔西武は「西鉄ライオンズ」として福岡を本拠地としていたので、
その時のファンを親に持つなどして西武ファンの小学生もたくさん
いたのです。まだホークスも福岡じゃなくて、南海で関西にいたし。
巨人ファン対西武ファンの男子でクラスは真っ二つ。
私は普段男子と全然しゃべらないのに、この時だけは巨人ファンとして
巨人ファン男子の群れに加勢していました。しかし…
巨人が先に王手をかけたものの、その後連敗して日本一は西武へ…
西武ファンから「巨人ファンかっこわりー、へっへー」などの
屈辱的な罵声を浴びせられ、耐えるしかなかった日々は、私を
筋金入りの西武ライオンズ嫌いに育て上げました。
ロッテファンの私は西武に親しみを持っているけれど、巨人ファンの
私は西武が超めっちゃ大嫌い、みたいな感じかな。
あとは、「福岡にいるうちに九州を旅行しておこう。旅費が安く済む」
ということで家族であちこちに旅行したのも良き思い出です。
この旅行の際にバナナチップスを食べすぎて車に酔って吐き、今でも
私はバナナチップスが苦手です。
そして私は福岡で中学生になるわけですが、その中学校には1学期の
間しかいませんでした。そこでもよき友、よき先生に恵まれました。
中学校に植えられた桜の木になっていた、黒くて小さいさくらんぼを
みんなで競って取って食ったのを思い出します。何やっとんじゃ。
そういえば福岡の家の、近所3軒で共有している駐車場の隅では、
木いちごがなるたびに弟と競って食べてたな。
家を出て道を隔ててすぐのところに池があり(汚くてほぼ沼)、
そこで秘密基地を作ったり、ヘドロにひざまで埋まってザリガニを
獲ったりもしました。その池の周囲は四つ葉のクローバーがかなり
多く発生していて、たくさん押し葉にしたものです。
油山にカブトムシを獲りに行ったり。母が庭でインコをつかまえて、
それから長くインコを飼うことになったり。釣りに行って釣り人の
捨てたフグを拾い集めて来て飼ったり。
ほんとに福岡では豊かな経験をいろいろさせてもらいました。
こうして福岡時代は終わり、私の人生は次の章へと進むのでした!
今回は我が人生全般の転換点や名場面を振り返ってみたいと思います。
まずは小学校時代までの幼少期編。
まず人生が始まる前に私に起こっていた大きな出来事は、両親が
NHK職員だったことでしょう。NHKを愛する人間に育ちました。
次に起こったのは弟の誕生。弟が大好きなお姉ちゃんでした。
のちに弟がめちゃめちゃカッコいい少年・青年に育ったことで、
常に私は「弟自慢の弟好き姉ちゃん」だったと思います。
私の見た目は「かつてはブス、今はなんとか中の下」ってところなので、
「私の弟、超カッコいいんだよ」と言ってどれだけ冷笑されたことか。
いや、私の弟とは思えないカッコよさ。若いころは長瀬智也系で、
少し落ち着く年齢になったら江口洋介にやや寄り、中年に近づいたら
ちょっと高橋克典に寄ってきたかな、という感じですが
45歳を超えた今でもホントにカッコいいです。
今は人気カレー店店主で、インドやタイを放浪するなど自由人な過去を
持つ、決まったレールを生きるのが嫌いでイケメンの弟。
ブスでクソ真面目な優等生を経てずっと会社勤めの地味な姉。
どうやったらこんなに真反対の人種になるのかという稀少な例でしょう。
幼稚園時代、私の人生を大きく変えたのは「ピアノ教室事件」。
私は幼稚園で案内を見たか何かして、「カワイ体操教室」に通いたいと
思いました。それで母にその旨を伝えると、母は「じゃあ申し込んでくる」
と言っていました。しかし…
母はなぜかカワイ体操教室ではなく、ピアノ教室に申し込んで来たのです。
「ママちゃん、ピアノやるの子供のころから夢だったのよね~」
いや体操教室行きたい言うたんよ。ママちゃんの夢どうでもいいんよ。
しかし、巨人ファンなのに「他球団の帽子を買え」と言われても
疑問を持たないような、とても素直(あるいはバカ?)だった
子供時代の私は、体操教室をあきらめて、自分がやりたかったかの
ように、普通にピアノ教室に通いはじめました。
結局中学三年生の受験の時期にやめてしまいましたが、10年間習った
ピアノや音楽の知識はその後の人生でもいろいろ役に立ちました。
この時、ほんとに体操教室に通っていたら全然違った人生だったかも。
2月下旬生まれの私は、当然同じ学年の子より体が出来上がっていなくて、
幼稚園のかけっこその他の運動はことごとく勝てませんでした。
そのせいで、いつも母に「〇〇ちゃんはママに似て運動ダメだから」と
言われ、アルバムの運動会の写真には「ビリでした」と添え書きを
つけられ、ずっと「運動のできない、運動神経の鈍い、運動に
向かない子」という暗示をかけられて育ちました。
あの時、カワイ体操教室に行けていたら、真反対の人生もあったよね。
元気なスポーツ少女の私経由なら、どんな人生だったのかしら。
当時の我が家は家の一角でコインランドリーを営んでいました。
そこには漫画が置いてあり、まだ年端もいかぬ私は少年漫画雑誌が
いまいちわかりづらく、小さな冊子を手に取りました。
なかよしの付録だったかな。志摩ようこ「シャトル 真夏の空へ!」
絵は顔の中心線がずれて変でしたが、内容はとても面白い
バドミントンの漫画でした。
それで、私の夢は「バドミントンの選手」になりました。
しかし運動がダメだダメだと言われたので、その夢はやがて、
「バドミントンの漫画だから、バドミントンがダメなら漫画家になろう」
というよくわからない展開で「漫画家」に変わったのでした。
そういえば、シロアリがいっせいに羽化して、このコインランドリーが
びっしりハネアリに覆われたことがあったなあ。あれはホラーだった。
小学校では無難な優等生だった私。1、2、3年生と同じ担任で、
これがとても素晴らしい人格者で楽しい先生でした。
生徒に「短足ウミガメデブ海ガッパ」という変なあだ名をつけられても
(今思うとなんで海が二回入ってるんだろう)ニコニコしていて、
でも生徒が悪いことをすると容赦なく「お尻を叩くから後ろを向いて」
と言ってきちんと罰を与える、中年というか壮年の男性でした。
先生手づくりの「漢字新幹線」という、満点を取ると駅が進んでいく
システムの漢字ミニテスト、私はクラストップの3人のうちの1人でしたが、
あと1駅のところで、父の転勤により福岡に引っ越すことになりました。
最後のゴール駅は当時の東海道新幹線の終点、福岡の「小倉」。
「漢字新幹線」でなく、私本人が福岡に行っちゃった、というオチです。
この「短足ウミガメデブ海ガッパ」先生、すごいことに、この後
4年が経って私が東京に戻ってきたとき、駅前で、道の向こうから、
「おーい、〇〇か!」と声をかけてきたのです。
私がいなくなったのは小学3年生の夏。再会したのは中学1年生。
確かに、弟が同じ小学校に戻るという情報を得て、私が戻ってきていると
知っていたのかもしれませんが、それでも4年経った元担任の子を、
道の反対側から見分けて、絶対に私だと確信を持って声をかけられるとは。
教師は聖職であり、先生とはなんという素晴らしい人がなるのかと、
感動した瞬間でした。
さて、福岡に引っ越したばかりのころに話は戻ります。
引っ越したのは夏休み中。人生で初めて乗った飛行機を降りて、
自宅となるNHKの社宅にたどり着くと、まだ家具のトラックが
来ていませんでした。
我々は仕方なく、坂を下りてすぐのところにあったラーメン屋さんに
行きました。だがしかしそこは! 知らずに嗅げば悪臭にしか思えない、
博多とんこつラーメンのお店だったのです!
当時は東京に「九州のラーメン」の店がたくさんあったわけではなく、
「九州のとんこつラーメン」なんてものはまったく知りません。
あまりの異様な臭さに衝撃を受ける私と弟、そもそもラーメンが
あまり好きではない母、しかし他に飲食店はなく、お腹もすいて
いたのでやむなく入りました…が!
グルメラーメンなんて概念のない1980年か81年かの頃、
町の普通のラーメン屋で、博多とんこつラーメンの美味しさときたら!
我が家はしばらく、折を見てはそのラーメン屋さんに通うことに
なりました。いや~福岡のとんこつラーメンまじすげえ。
新たな地域文化、福岡の食文化に衝撃を受けた引っ越しの日でした。
学校が始まり、「東京から引っ越してきた転校生の〇〇さんです」
という紹介を受け、初日は転校生らしく挨拶以外ほとんど言葉を
発することなく過ごしました。
そして帰宅しようと下駄箱から靴を出し、コンクリートの上に
落としたところで突然、男の子の声がしました。
「おまえ、のぼしとったい!」
そして靴がボンッと蹴られて遠くまで転がっていき、背後から2人の
男の子が走って逃げていきました。よくある「都会の子いじめ」だったの
でしょう。でも私は、彼らに何らかの悪意があることを認識したものの、
「『のぼしとったい』って、どういう意味だろう????」
ということで頭がいっぱいでした。
その後福岡で、自分もバリバリの福岡弁を使って話すようになり、
「のぼしとったい」が「のぼせてるんだよ=生意気だ、偉そうだ」
という博多弁(福岡弁でなく博多弁!)とわかりました。
当時の彼らに言いたいわ~。
「東京モンだというだけで言いがかりをつけたいなら、
標準語で言ってもらわないとわからないんだよね~」
まあ、悪ガキの粋がったチョッカイということで、私もべつだん
気にしなかったけどね。(何を言われたかもわかんなかったし)
さいわい、福岡の人たちは私をすぐに仲間に入れてくれました。
驚いたのは、私の名字が読めない先生がたくさんいたこと。
実は私の名字は、私の地元の隣町に本家がある土着の一族で、
隣町では「石を投げれば〇〇の名字に当たる」という状態。
小学校は「1クラスに2人ずつ〇〇さんがいる」のが普通でした。
だから、私の名字を間違って読む人がいることに驚愕しました。
歴史上でこの名字の人のことも習うんだけどなあ。
私の下の名前は、同世代なら、東京・福岡を問わずクラスに
3人ずついるような多さです。
だから、東京にいた時は、自分のフルネームを日本に何万人も
いるような超~ありふれたものだと思っていました。
福岡に行ったらなんかわりと珍しい名字でオドロキでした。
東京ではなわとびがさかんです。二重跳びなんてできて当然、
なわとびの検定があって、はやぶさだ何との複合技だなんだと、
超ハイレベルななわとび技ができることを求められます。
私は「二重跳び→はやぶさ」の連続くらいしかできませんでした。
これは、東京ではただの落ちこぼれ、運動のできない子です。
しかし福岡では…
「〇〇さん、すごい! 前に出て模範演技をお願いします」
えっ私が“体育”の授業でデモンストレーションを!?
「二重跳びができればすごいのに、はやぶさまでできるの!?」
それが福岡でのなわとびの実情でした。地域差ってすごい。
さて、一方で福岡では剣道が超さかん。
私が「剣道を習いたい」と言ったせいで、弟まで剣道を習わされる
ハメになりました。弟よすまん。
今回は母もちゃんと剣道教室に申し込んでくれました。
私の通う小学校は、できてまだ3年だかの新しいところで、
剣道教室がなかったため、隣の小学校の少年剣道教室に入りました。
ここはかなり遠く、隣の隣の町にあります。小学生にはかなり重い
防具を積んで自転車で通います。
そこで2年ほど剣道をやりましたが、1級審査には二回も落ちました…。
先生が落ちた理由を聞いてくれたのですが、「姿勢も、気合も、
すごくいい。ただ、動きがちょっと遅いのが…」とのこと。
つまり、ドンくさい動きがダメ、とのこと。
のちに東京に戻ってきて、中学校で剣道を始めてそれほど上手くなって
いるように見えない友人が1級に通るのを見て、「これなら当時の私の
ほうが」と思ったりしたものですが…
福岡は剣道王国。福岡の1級は格別なのだ、と思うことにしています。
一番の思い出は、雪の中、裸足に靴を履いて寒稽古に向かい、
結果的に氷水に足を浸しつつ道場にたどり着くことになって、人生初の
しもやけになったことかな。寒稽古の後に配られてみんなで食べた
ぜんざいが美味しかったのを覚えています。
そして町内会のスポーツがハンパなかったのも地域の特徴。
「茶山二丁目」「田島三丁目」など、校区の中で「〇丁目」ごとに
チームを作り、男子は野球、女子はドッジボールで優勝を争います。
各チーム、オリジナルのユニフォームがあって着用必須。
一体何のでかい大会だよ、という超~激マジな練習が課されます。
大会直前は毎日のように練習。ユニフォームを着てゼッケンを付けて、
ボールから逃げ惑うばかりの私。一方で弟は4年生で町内のエース格。
あのまま弟が5年、6年と茶山二丁目のエースだったなら…
弟が大会に出られたのは小学4年生まででした。5年生の夏には
東京に戻って、地元のチームでサッカーを始めてしまったので…
さて…小学校での私はというと、「漫画ノート」に漫画を描いて
クラスメイトに読んでもらったりしていました。
しかし…中学年の時も高学年の時も、私より圧倒的に上手い女の子が
クラスに必ずいました。
今思うと、その時点で才能のなさを自覚するべきだったのか。
中学年の時のクラスの漫画のものすごく上手い子は2人いて、彼女たちは
名字の1文字ずつを取って「カキ」と称して仲よくしていました。
それがうらやましかった私は、「マンガグループ」を結成しました。
さいわい漫画を描くのが好きな子が仲間に入ってくれて、私は持ち前の
センスのなさから「ザ・マンガグループ」と名づけました。
略して「ザ・マ」。
高学年になってクラス替えがあり、メンバーを募りなおした新しい
マンガグループの名前を、私は一生懸命考えました。
私は真剣に考えれば考えるほどセンスのなさが冴えわたります。
「前は略して『ザ・マ』だったんだから、『マ』で終わる言葉に略せる
名前にしよう。××マ…サンマとか、うーん」
そうね、「サン(太陽)マンガグループ」にして、略称を「サンマ」に
しているほうが、ダサくてもまだよっぽどマシだったね…
私がつけた名前は「通り・マンガグループ」。意味わからん。
略して「通りマ」になるから、って通り魔のこと!?
うん、実際当時の漫画ノートに「通り魔」って漢字で書いてある。
なんか多分、センスがなすぎて脳内おかしな子だったんだと思う。
「通り魔ノート」を何冊も作って描いている小学生って…
そして、私の無駄なカリスマ性というか人集めの才能が発揮され、
クラスの女子全員がこの「通り魔」に入って漫画ノートを作って、
全員が1ページは漫画を描いてくれたというのが私の自慢ですが…
担任の先生が通信簿に書いてくれた言葉が忘れられない。
「とおりまのグループも〇〇さんを中心に動いているようだし、
みんなの中心に立ってとても元気に楽しく活躍しています」
…「とおりまのグループ」を称える文言を書くはめになった先生よ、
本当にごめん。漢字で書くのが憚られた気持ちがわかる。
当時のこの小学校のクラスには、ヤンキーぽい女子というか、
クラスの女子全員ににらみを利かせ、一定の期間をおいて相手を変えて
いじめっぽいことを繰り返す2人組がいました。
実際は特定の子をいじめるわけではないので、なんとなく面倒な存在、
という程度でみんなも仲よくしていたんだけど。
(そういうヤンキー系の子にまで漫画を描かせた私って…)
ある日、彼女たち2人が「〇〇、ちょっとおいで」と私を呼びました。
「ああ、次のターゲットは私なのかな」と思って素直に呼ばれて
ゆきました。すると…
「〇〇、あんたもう、ブラ着けたほうがいいよ、ブラ」
彼女たちは、いじめどころか、私にありがたい忠告をしてくれたのです。
自分の体が大人になることを意識もしたくなかったその頃。まだ全然
そんな必要ないと思ってました。実際、計っても一番小さいサイズの
ブラジャーしか必要じゃなかったのですが、私は渋々ながら、母に
ブラジャーを買ってもらいました。
多分彼女たちに言われなければ自分の体の成長に目をつぶり、わりと
遅くまで放っておいたと思います。そうしたら絶対垂れてたな。
容姿に気をつかうようになってからその有難みが本当によくわかり、
ずっとずっと、彼女たちには心から感謝しています。
そして思い出す、1983年の日本シリーズ…
昔西武は「西鉄ライオンズ」として福岡を本拠地としていたので、
その時のファンを親に持つなどして西武ファンの小学生もたくさん
いたのです。まだホークスも福岡じゃなくて、南海で関西にいたし。
巨人ファン対西武ファンの男子でクラスは真っ二つ。
私は普段男子と全然しゃべらないのに、この時だけは巨人ファンとして
巨人ファン男子の群れに加勢していました。しかし…
巨人が先に王手をかけたものの、その後連敗して日本一は西武へ…
西武ファンから「巨人ファンかっこわりー、へっへー」などの
屈辱的な罵声を浴びせられ、耐えるしかなかった日々は、私を
筋金入りの西武ライオンズ嫌いに育て上げました。
ロッテファンの私は西武に親しみを持っているけれど、巨人ファンの
私は西武が超めっちゃ大嫌い、みたいな感じかな。
あとは、「福岡にいるうちに九州を旅行しておこう。旅費が安く済む」
ということで家族であちこちに旅行したのも良き思い出です。
この旅行の際にバナナチップスを食べすぎて車に酔って吐き、今でも
私はバナナチップスが苦手です。
そして私は福岡で中学生になるわけですが、その中学校には1学期の
間しかいませんでした。そこでもよき友、よき先生に恵まれました。
中学校に植えられた桜の木になっていた、黒くて小さいさくらんぼを
みんなで競って取って食ったのを思い出します。何やっとんじゃ。
そういえば福岡の家の、近所3軒で共有している駐車場の隅では、
木いちごがなるたびに弟と競って食べてたな。
家を出て道を隔ててすぐのところに池があり(汚くてほぼ沼)、
そこで秘密基地を作ったり、ヘドロにひざまで埋まってザリガニを
獲ったりもしました。その池の周囲は四つ葉のクローバーがかなり
多く発生していて、たくさん押し葉にしたものです。
油山にカブトムシを獲りに行ったり。母が庭でインコをつかまえて、
それから長くインコを飼うことになったり。釣りに行って釣り人の
捨てたフグを拾い集めて来て飼ったり。
ほんとに福岡では豊かな経験をいろいろさせてもらいました。
こうして福岡時代は終わり、私の人生は次の章へと進むのでした!