我が人生全般の転換点や名場面を振り返るエッセイ第三弾。
今回は浪人~大学時代、怠惰な青春時代編。
浪人時代は、後輩たちと遊び惚けたり、失恋でだいぶやせたりして、
まるっきり勉強をせずに秋まで過ごしていました。で、秋の時点で、
浪人生が強いはずの暗記科目、「日本史」の偏差値が42。さすがに
反省しました。
私の高校時代を華やかにしてくれた美人の親友はすでに現役で
名門大学に合格していて、しかも彼女のノートが素晴らしいのは
知っていたので、彼女の日本史のノートを借りて勉強しました。
私、顔も頭も努力も彼女に負けてるよ! ダサ!
しかし私が彼女から一番学んだことはまったく別でした。
彼女は本当に綺麗で賢くて優しく強く、またふんわり可愛らしくて、
美人の中でも特に男性受けする家庭的で温かい雰囲気を持っていました。
でも彼女自身は男性にひどく辛辣で冷たい一面が…。ブスで男に縁のない
私は、「なんともったいないことを」としか思えなかったのですが…
彼女と長く友人をやっていて目にしたのは、「ちょっとでもいい顔をすると、
勝手にいいように解釈して調子に乗り、面倒ばかり持ち込んでくる男ども」
の姿でした。彼女はずっと、こんな若さで、男どもの自分勝手に対応し続ける
人生をおくってきたのでしょう。「自分に近寄ってくる男」に常に警戒心と
不信感を抱かなければいけないのはしんどいと思います。
好感を持っている男性に対しても「この人は本当に、私の本質を見ようと
してくれているのか?」ということに不安を持っている彼女の様子を見て、
実は決して美人が「恵まれている」わけではないのだと知りました。
むしろ、好きなだけ好きな人に夢中になって、相手が多少私に興味を持って
くれれば「容姿につられた」ではなくて中身を見てくれたと思えて安心できる
私のほうが、自由で、自主的に幸福になれるのです。
私は、美人に対する卑屈な嫉妬心のようなものをすべて失いました。
彼女たちは私のような者からは想像もつかない面倒を背負って戦っている。
さらに同性からもうらやまれたりやっかまれたりして、大変だ。
私はその後もわりと美人とつるむことが多くなるのですが、多分、美人に対する
ひがみも何もなく、彼女たちの根本的な苦労をある程度客観的に理解できている
状態なので、美人さんたちからも付き合いやすかったのではないかと思います。
浪人しても目標だった名門大学に合格できなかった私は、薄汚い怪しい高校とは
かけ離れた、キリスト教系のミッション大学に進学しました。
キリスト教の教科が必須だったその大学で、「私はキリスト教がこういう理由で
好きになれない」というレポートを書いてA(優良)の成績をもらいました。
うーん、なかなかいい大学じゃん。高校では、クラスで大ウケして爆笑を
さらった「私とNHK」という私の発表論文を、左翼っぽい国語の先生が
「私はNHKが嫌いです」と言って低評価にしたが、えらい違いだ。
そしてこの大学、なんとも中庸でふわ~んとした平和な人の多いところで、
「隠れ金持ち」のたくさんいる、どことなく豊かな環境でした。
大学の友人が「庭で取れたのが食べきれないので」と大量の柿や栗を
友人一同に配ったり(どんだけ庭広いねん!)、別の友人が「うちは古くて
汚いから恥ずかしい」と言っていたのに行ってみたら成城のでかい旧家だったり
(旧家の家屋が古いのは当然じゃ!)、さらに別の友人宅はビルの最上
2フロアを贅沢に使って玄関に大理石の彫像があったりとか…
浪人中に親友になった高校時代の2歳下の後輩も金持ちの息子で、彼とも年中
一緒にいたので、とにかく周囲に金持ちの多い環境になりました。
我が家(というか母)のポリシーは、実際には大して金持ちでもない凡人の
家でも、立派で優秀なエリートとして生きよ、というフィーリングでした。
米と茶は絶対安物を買わない、2つの商品があったら質の良い高いもののほうを
買う、試食や詰め放題などであさましい姿を見せるのは恥、他人との交際に金を
ケチるべからず…
そうした美学を良しとして育てられた私なので、この大学の「庶民と金持ちが
適度に混ざった友人環境」は自分を引き上げてくれるような気がしたものです。
貧乏で薄汚い…もとい超・ド汚い都立高校も私に合っていて楽しかったから、
私の適応力が高いというだけのことかもしれないけど。
とはいえ、大学の1、2年次は厚木の山の中に片道2時間半かけて通学して
いたので、人生はまるっきり豊かになりませんでした。単位を取るのに
めいっぱい。時間割はゆるゆるで楽ちんな学部でしたが…とにかくキャンパスが
遠かった。
私はここでもサークルに3つ入りました。
一つは大本命、漫画研究会。もう一つは「映画・イベント(主に旅行)・文芸」
を三本の柱に据えている創作サークル。もう一つは教授を中心とした集まりで
「アドグル」という大学独自の特殊なサークルのうち、理系の教授のところに
所属してみました。
実は私、高校時代に一番読んでいた本が「相対性理論」「量子力学」「宇宙論」
などの科学系専門書。なんとかそうした類の理論を理解したかったのですが、
いくら本を読んでも全然理解できず…それで、理工学部の量子力学の教授の
アドグルに入ってみたわけです。実際は量子力学の話は全然出なかったけど。
でもこのアドグルでは「理系社会・理系文化」を少し肌で感じることができて、
これも貴重な経験となりました。
文系女子というだけで妙にちやほやされるとか。飲み会で脱ぐ男がいて、私は
耐えきれず脱出したのに理系女子は慣れたもので適当にやりすごすとか。
研究室にお泊まりセットみたいなのがあって、ほんとに泊まりがけで実験する
ことがあるんだとか。就職は教授を通してある程度決まるとか。自分と縁の
なさそうな世界でも、覗いてみることには価値があるものだ…と思った
理系サークル体験でした。
このサークルは、私の周辺の代の人がほとんど来なくなっても、卒業後なお
参加していました。しゃべる相手ほとんどいなかったけど、「誰?」という
方々と都度なんとか会話して飲み会に出てたという…。頑張るな~私。
「映画・イベント(主に旅行)・文芸」のサークルは、イベントと文芸の部門が
なんと休眠していました。えー文芸班に入りたくて入部したのに。
しかし私はくじけず、文芸班の復活を買って出て、実際復活させました。
とはいえやはりこのサークルは「映画制作」が主体でした。映画に出ようという
人たちの集いなので、顔のいい人がけっこう多い! 華やかなサークルでした。
合宿の足は車。車を持っている人が、車を持たない人を分乗させて合宿に
出かけます。200キロでぶっとばすクルマ自慢の男、超絶イケメンなのに
変に都会人ぶったりせず「宮城」ナンバーの地元車を東京に持ってきて堂々と
乗っている自然体な先輩など、いろんな車文化にも接しました。
合宿では徹夜飲み、日中はテニスをしたりして、帰りは居眠り運転の先輩を
起こしながら命の危機と共に帰還。「いかにもイケてる大学生」のような
サークル活動を経験できました。
私が3年生の時には、「サークル全員が出演する映画」が撮影されました。
「全員が、一番似合う役で」という方針で作られた映画、私に割り振られた
のは「マッドサイエンティスト」の役。うーんそういう立場か…。とはいえ、
演じてとても面白い役回りで、やりがいがありました。「狂喜して笑う演技」
が一番難しかった。でも、この映画を全員に焼き増して配ってくれるという
話がなぜか実現されず、残念なことにその映画は手元に残っていません。
それでも、学生映画の撮影を手伝い、また出演するなんて、私の人生からは
なかなか想像できない思いがけない体験ができました。
そしてやっぱり私は「漫研の人」。漫画研究会に一番エネルギーを割いた大学時代
でした。3年で渋谷のキャンパスに移ってからは、授業に行かずに学食で漫画を
描いたりして過ごしてたし…。高校で自分を「ただの人」なうえに「勉強の
できないダメな奴」と認定した私は、それを言い訳に堕落していました。
漫画もいっぱい描いたけど、小学校でマンガグループに「通り魔」という名前を
つけるようなセンスが成長によって洗練されることはついになく、センスなしの
才能なし…
さらにゲーム三昧で時間を無駄にし、「ぷよぷよ」で100万点を目指して朝を
迎えたり、「ドラクエ5」で全モンスターを集めようと躍起になった挙句データが
飛んだり…
大学に入れてくれた両親に申し訳ないダメ人間生活を送りました。
大学2年生の時にコピー誌編集長、3年生では編集長を歴任し、サークルの
中心メンバーとして実際それなりに活躍もできていたと思いますが、
ここで素敵な恋が経験できたこと、そして未来のダンナをとっつかまえたこと、
それが漫画研究会で私が一番成しえたことだったかもしれません。
なお、映画のサークルは皆さん車持ちでしたが、こっちの合宿の足は電車。
サークルの後はゲームセンターに行ったり、男の先輩の家に徹夜マージャンに
行く男どもが多数いたり、この漫画研究会はマニアックな男社会。高校の
漫画研究会は女所帯だったので、また違う味わいの漫画研究会でした。
大学のクラスメイトとは6人の仲良しグループを作ってつるんでいました。
一人、気合の入った子がいて、清里に女子旅に行った時、いきなり「朝、
8時半にテニスコート予約してあるから!」と言われて全員呆然としました。
別の旅行では2人ずつ3部屋を予約していたのですが、彼女が「私、朝5時に
起きて10キロ走るから、5時に目覚まし鳴ってもOKな人と同じ部屋で!」
と言ったら皆が「ええ…」となって、私が「じゃあ」と同室になり、ついでに
一緒に走ろうとして1キロで挫折してホテルに戻ったりしました。
6人で交換ノートを作ってその中で若い悩みを共有し合ったり相談し合ったり…
コイバナをするのもこのメンツが中心でした。
高校の漫画研究会のOB会にも入り、いろいろ「大人の女性の遊び」を教えて
もらいました。OB会のイベントとして「ランチクルーズ」や「ワイン会」が
開催され、ワインに超詳しい先輩がレクチャーをしてくれました。
イクラが苦手なので参加しませんでしたが、荒巻鮭を一匹あますことなく
使いきってパーティーをやる「鮭の会」などのユニークなイベントもありました。
そうした案内が入ってくるOB会報はいつも楽しく読めました。
また、このOB会が出していたオリジナル漫画の同人誌はハイレベルで、
そこから3人も漫画家が輩出されました。末端に参加させてもらいましたが、
コミケで売り子をやった時に先輩の名声をファンから耳にして恐縮したものです。
高校の後輩たちともさらに結束が固くなり、ファミコンの古いゲームを愛好する
面々で集うようになりました。このメンツでファミコン雑誌を作り、コミケに
出るようにもなりました。
この仲間の一人が2つ下の親友、金持ちの息子だったので、彼の別荘に仲間たちで
集って自炊しながら泊まり込みでゲームをしまくりました。
とにかく人間関係が充実していた大学時代でした。
人生初のアルバイトをしたのは大学2年生の冬。
コージーコーナーの工場で2週間の短期バイトをやりました。
アルバイト初日、お昼にあまりにおなかがすいて、嫌いな漬物までも食べずに
いられなかったのが衝撃的でした。労働って大変なんだと感じました。
そして、やっと手に入れた8万円を手に帰宅した最終日…
目の前で、弟が「パチンコで勝った」と言って20万円をひらひらさせていて、
「勤労って何だろう」と虚しくなったものです。
そして3年生になってキャンパスが近くなったため、やっと本格的にアルバイトを
経験しました。働いたのは近所のちゃんこ屋さん。
しかし、悪い意味でお嬢さん育ちの私は、気が利かないし、食べ物も扱い慣れない。
「キャベツの千切りはできる?」「いえ全然…」「じゃあ、おにぎり握って」
「あの、握ったことがないので…」。注文を次々言われてささっと対応する
他の子たちに対して、「えっとちょっと待ってください、伝票を…」と、
書かないと対応できない脳内いっぱいいっぱいの私。
私が一番役に立ったのは、元相撲取りのマスターの次に力自慢だったので、二階の
宴会場にビール満載のビールケースをまるごと持って上がれたことくらい。
ここで、私はおにぎりが握れるようになり、キャベツの千切りもそれなりに
細く美味しく切れるようになりました。
なので、母のおにぎりは俵型ですが、私のおにぎりは三角形です。
就職の時期になってハッピーな大学生活は暗転します。
我々の2つ上の先輩くらいまでは就職活動は楽勝でした。その時点ではバブルの
余韻が残っていたのです。しかし…
私たちの世代は完全に就職氷河期となり、求人そのものが激減。
しかも、男女雇用機会均等法施行後なのに、堂々と女性差別ができる世の中で、
男子のところには百科事典のような分量で企業のエントリーシートハガキが
届けられているのに、女子には「卓上ミニ辞典」のような分量のハガキのみ。
私が「定員いっぱいです」と断られたセミナーに、後から申し込んだ男子は
普通に入れてもらえるなど、いろいろな差別を実体験しました。
それまで「男女差別」なんて感じたこともなかったのに、「社会に出る」となれば
「女はお茶くみコピーの末に結婚退職だから要らない」とでも言われているような
圧倒的な斥力を感じることとなりました。
「サークル3つを兼部して文芸班長を務めたり、サークル誌の編集長を務めたり…」
とそれなりにアピール要素はあったと思うのですが、不勉強や社会的な知識不足も
あり、私は4年生の夏の終わりになってもまだ内定が一つもとれていませんでした。
大企業、有名企業を軒並み落ちて、中小企業も結局は全滅…
なのに世の中はまだバブルの感覚で「就職が決まらない大学生が多いんですって、
まあ皆高望みばっかりするからよね」とバイト先のちゃんこ屋で話している人を、
「中小も全部落ちたわ!」と本気で殴り倒したかった。
親も「なぜ就職できないの、普通に活動すればできるはずなのに」という感覚。
この時、どれだけ就職活動の状況が急変していたか、一般の大人は全然わかって
いなかったし、私たち大学生は当然、もっとわかっていませんでした。
2つ上より上の先輩は「いかに自分たちが楽勝で内定を取ったか」という自慢話。
大人たちは「内定がとれないなんて信じられない、ちゃんとやればそれなりに
就職は決まるはず。就職が決まらない人が悪い」という感覚。
この時、数十年先に「就職氷河期世代」「ロスジェネ」として社会問題にされる
ほど就職先がなく、人材がないがしろにされた時代に入っていたと、まだ認識
されていませんでした。だから、内定が取れずに多くの人が自分を責め、自分に
絶望し、苦しむこととなりました。
第二次ベビーブーム世代で人口が最も多い世代なのに、とんでもなく求人数が
減って、すさまじく狭き門に多大な人が殺到していたことを、誰も正しく評価
しなかった時代。
私は幸い、なんとか「地元の遊園地」に内定をもらうことができました。
しかし「初任給の低い地元の中小企業」でしかなく、誰からも「いいところに
入った」とは言ってもらえない、ビミョーな就職先でした。
それでも、一応は「やりたいこと」を見出せる、子供のころから馴染んだ場所で
働けるので、私自身はホッとして、夢を抱いて先に進むことができました。
この時代の就職がいかに厳しく、しんどかったかというと…
友人は、仲間内でもうらやまれる「山一証券」から内定をもらったのに、なぜか
もっと給料の低い大手学習塾グループに進路を決めてしまいました。誰もが
「もったいない、なんてことを!!」と惜しんだのですが…
山一証券はその後倒産。給料のいい金融業界に入れたことを喜んでいた人たちが
まだ新人なのに転職に奔走することになりました。
安定、安泰だと思われていた企業が「普通に倒産する」時代が来ていました。
とんでもない狭き門をなんとか通り抜けた優秀な人材が、先人の失敗によって
世間の荒波に生身でまた放り出される時代にもなっていたのです。
まさかの「山一を蹴るなんて」が「山一を蹴っておいて、よかったね」に変わる。
何を信じればいいのかわからない、バブル崩壊直後の就職氷河期の現実でした。
私の人生は、たくさんの人々が私の周囲をいつも彩ってくれていることで成立し、
豊かになっているなと思います。
特に、成長してからは、私が何をしたかというのはあまりなくて、どんな人と
どんな風に関わってきたかという話ばかりです。
その分、笑い話的なエピソードが少なくて盛り上がりませんが、引き続き
現在に至るまでを書いていきたいと思います。
今回は浪人~大学時代、怠惰な青春時代編。
浪人時代は、後輩たちと遊び惚けたり、失恋でだいぶやせたりして、
まるっきり勉強をせずに秋まで過ごしていました。で、秋の時点で、
浪人生が強いはずの暗記科目、「日本史」の偏差値が42。さすがに
反省しました。
私の高校時代を華やかにしてくれた美人の親友はすでに現役で
名門大学に合格していて、しかも彼女のノートが素晴らしいのは
知っていたので、彼女の日本史のノートを借りて勉強しました。
私、顔も頭も努力も彼女に負けてるよ! ダサ!
しかし私が彼女から一番学んだことはまったく別でした。
彼女は本当に綺麗で賢くて優しく強く、またふんわり可愛らしくて、
美人の中でも特に男性受けする家庭的で温かい雰囲気を持っていました。
でも彼女自身は男性にひどく辛辣で冷たい一面が…。ブスで男に縁のない
私は、「なんともったいないことを」としか思えなかったのですが…
彼女と長く友人をやっていて目にしたのは、「ちょっとでもいい顔をすると、
勝手にいいように解釈して調子に乗り、面倒ばかり持ち込んでくる男ども」
の姿でした。彼女はずっと、こんな若さで、男どもの自分勝手に対応し続ける
人生をおくってきたのでしょう。「自分に近寄ってくる男」に常に警戒心と
不信感を抱かなければいけないのはしんどいと思います。
好感を持っている男性に対しても「この人は本当に、私の本質を見ようと
してくれているのか?」ということに不安を持っている彼女の様子を見て、
実は決して美人が「恵まれている」わけではないのだと知りました。
むしろ、好きなだけ好きな人に夢中になって、相手が多少私に興味を持って
くれれば「容姿につられた」ではなくて中身を見てくれたと思えて安心できる
私のほうが、自由で、自主的に幸福になれるのです。
私は、美人に対する卑屈な嫉妬心のようなものをすべて失いました。
彼女たちは私のような者からは想像もつかない面倒を背負って戦っている。
さらに同性からもうらやまれたりやっかまれたりして、大変だ。
私はその後もわりと美人とつるむことが多くなるのですが、多分、美人に対する
ひがみも何もなく、彼女たちの根本的な苦労をある程度客観的に理解できている
状態なので、美人さんたちからも付き合いやすかったのではないかと思います。
浪人しても目標だった名門大学に合格できなかった私は、薄汚い怪しい高校とは
かけ離れた、キリスト教系のミッション大学に進学しました。
キリスト教の教科が必須だったその大学で、「私はキリスト教がこういう理由で
好きになれない」というレポートを書いてA(優良)の成績をもらいました。
うーん、なかなかいい大学じゃん。高校では、クラスで大ウケして爆笑を
さらった「私とNHK」という私の発表論文を、左翼っぽい国語の先生が
「私はNHKが嫌いです」と言って低評価にしたが、えらい違いだ。
そしてこの大学、なんとも中庸でふわ~んとした平和な人の多いところで、
「隠れ金持ち」のたくさんいる、どことなく豊かな環境でした。
大学の友人が「庭で取れたのが食べきれないので」と大量の柿や栗を
友人一同に配ったり(どんだけ庭広いねん!)、別の友人が「うちは古くて
汚いから恥ずかしい」と言っていたのに行ってみたら成城のでかい旧家だったり
(旧家の家屋が古いのは当然じゃ!)、さらに別の友人宅はビルの最上
2フロアを贅沢に使って玄関に大理石の彫像があったりとか…
浪人中に親友になった高校時代の2歳下の後輩も金持ちの息子で、彼とも年中
一緒にいたので、とにかく周囲に金持ちの多い環境になりました。
我が家(というか母)のポリシーは、実際には大して金持ちでもない凡人の
家でも、立派で優秀なエリートとして生きよ、というフィーリングでした。
米と茶は絶対安物を買わない、2つの商品があったら質の良い高いもののほうを
買う、試食や詰め放題などであさましい姿を見せるのは恥、他人との交際に金を
ケチるべからず…
そうした美学を良しとして育てられた私なので、この大学の「庶民と金持ちが
適度に混ざった友人環境」は自分を引き上げてくれるような気がしたものです。
貧乏で薄汚い…もとい超・ド汚い都立高校も私に合っていて楽しかったから、
私の適応力が高いというだけのことかもしれないけど。
とはいえ、大学の1、2年次は厚木の山の中に片道2時間半かけて通学して
いたので、人生はまるっきり豊かになりませんでした。単位を取るのに
めいっぱい。時間割はゆるゆるで楽ちんな学部でしたが…とにかくキャンパスが
遠かった。
私はここでもサークルに3つ入りました。
一つは大本命、漫画研究会。もう一つは「映画・イベント(主に旅行)・文芸」
を三本の柱に据えている創作サークル。もう一つは教授を中心とした集まりで
「アドグル」という大学独自の特殊なサークルのうち、理系の教授のところに
所属してみました。
実は私、高校時代に一番読んでいた本が「相対性理論」「量子力学」「宇宙論」
などの科学系専門書。なんとかそうした類の理論を理解したかったのですが、
いくら本を読んでも全然理解できず…それで、理工学部の量子力学の教授の
アドグルに入ってみたわけです。実際は量子力学の話は全然出なかったけど。
でもこのアドグルでは「理系社会・理系文化」を少し肌で感じることができて、
これも貴重な経験となりました。
文系女子というだけで妙にちやほやされるとか。飲み会で脱ぐ男がいて、私は
耐えきれず脱出したのに理系女子は慣れたもので適当にやりすごすとか。
研究室にお泊まりセットみたいなのがあって、ほんとに泊まりがけで実験する
ことがあるんだとか。就職は教授を通してある程度決まるとか。自分と縁の
なさそうな世界でも、覗いてみることには価値があるものだ…と思った
理系サークル体験でした。
このサークルは、私の周辺の代の人がほとんど来なくなっても、卒業後なお
参加していました。しゃべる相手ほとんどいなかったけど、「誰?」という
方々と都度なんとか会話して飲み会に出てたという…。頑張るな~私。
「映画・イベント(主に旅行)・文芸」のサークルは、イベントと文芸の部門が
なんと休眠していました。えー文芸班に入りたくて入部したのに。
しかし私はくじけず、文芸班の復活を買って出て、実際復活させました。
とはいえやはりこのサークルは「映画制作」が主体でした。映画に出ようという
人たちの集いなので、顔のいい人がけっこう多い! 華やかなサークルでした。
合宿の足は車。車を持っている人が、車を持たない人を分乗させて合宿に
出かけます。200キロでぶっとばすクルマ自慢の男、超絶イケメンなのに
変に都会人ぶったりせず「宮城」ナンバーの地元車を東京に持ってきて堂々と
乗っている自然体な先輩など、いろんな車文化にも接しました。
合宿では徹夜飲み、日中はテニスをしたりして、帰りは居眠り運転の先輩を
起こしながら命の危機と共に帰還。「いかにもイケてる大学生」のような
サークル活動を経験できました。
私が3年生の時には、「サークル全員が出演する映画」が撮影されました。
「全員が、一番似合う役で」という方針で作られた映画、私に割り振られた
のは「マッドサイエンティスト」の役。うーんそういう立場か…。とはいえ、
演じてとても面白い役回りで、やりがいがありました。「狂喜して笑う演技」
が一番難しかった。でも、この映画を全員に焼き増して配ってくれるという
話がなぜか実現されず、残念なことにその映画は手元に残っていません。
それでも、学生映画の撮影を手伝い、また出演するなんて、私の人生からは
なかなか想像できない思いがけない体験ができました。
そしてやっぱり私は「漫研の人」。漫画研究会に一番エネルギーを割いた大学時代
でした。3年で渋谷のキャンパスに移ってからは、授業に行かずに学食で漫画を
描いたりして過ごしてたし…。高校で自分を「ただの人」なうえに「勉強の
できないダメな奴」と認定した私は、それを言い訳に堕落していました。
漫画もいっぱい描いたけど、小学校でマンガグループに「通り魔」という名前を
つけるようなセンスが成長によって洗練されることはついになく、センスなしの
才能なし…
さらにゲーム三昧で時間を無駄にし、「ぷよぷよ」で100万点を目指して朝を
迎えたり、「ドラクエ5」で全モンスターを集めようと躍起になった挙句データが
飛んだり…
大学に入れてくれた両親に申し訳ないダメ人間生活を送りました。
大学2年生の時にコピー誌編集長、3年生では編集長を歴任し、サークルの
中心メンバーとして実際それなりに活躍もできていたと思いますが、
ここで素敵な恋が経験できたこと、そして未来のダンナをとっつかまえたこと、
それが漫画研究会で私が一番成しえたことだったかもしれません。
なお、映画のサークルは皆さん車持ちでしたが、こっちの合宿の足は電車。
サークルの後はゲームセンターに行ったり、男の先輩の家に徹夜マージャンに
行く男どもが多数いたり、この漫画研究会はマニアックな男社会。高校の
漫画研究会は女所帯だったので、また違う味わいの漫画研究会でした。
大学のクラスメイトとは6人の仲良しグループを作ってつるんでいました。
一人、気合の入った子がいて、清里に女子旅に行った時、いきなり「朝、
8時半にテニスコート予約してあるから!」と言われて全員呆然としました。
別の旅行では2人ずつ3部屋を予約していたのですが、彼女が「私、朝5時に
起きて10キロ走るから、5時に目覚まし鳴ってもOKな人と同じ部屋で!」
と言ったら皆が「ええ…」となって、私が「じゃあ」と同室になり、ついでに
一緒に走ろうとして1キロで挫折してホテルに戻ったりしました。
6人で交換ノートを作ってその中で若い悩みを共有し合ったり相談し合ったり…
コイバナをするのもこのメンツが中心でした。
高校の漫画研究会のOB会にも入り、いろいろ「大人の女性の遊び」を教えて
もらいました。OB会のイベントとして「ランチクルーズ」や「ワイン会」が
開催され、ワインに超詳しい先輩がレクチャーをしてくれました。
イクラが苦手なので参加しませんでしたが、荒巻鮭を一匹あますことなく
使いきってパーティーをやる「鮭の会」などのユニークなイベントもありました。
そうした案内が入ってくるOB会報はいつも楽しく読めました。
また、このOB会が出していたオリジナル漫画の同人誌はハイレベルで、
そこから3人も漫画家が輩出されました。末端に参加させてもらいましたが、
コミケで売り子をやった時に先輩の名声をファンから耳にして恐縮したものです。
高校の後輩たちともさらに結束が固くなり、ファミコンの古いゲームを愛好する
面々で集うようになりました。このメンツでファミコン雑誌を作り、コミケに
出るようにもなりました。
この仲間の一人が2つ下の親友、金持ちの息子だったので、彼の別荘に仲間たちで
集って自炊しながら泊まり込みでゲームをしまくりました。
とにかく人間関係が充実していた大学時代でした。
人生初のアルバイトをしたのは大学2年生の冬。
コージーコーナーの工場で2週間の短期バイトをやりました。
アルバイト初日、お昼にあまりにおなかがすいて、嫌いな漬物までも食べずに
いられなかったのが衝撃的でした。労働って大変なんだと感じました。
そして、やっと手に入れた8万円を手に帰宅した最終日…
目の前で、弟が「パチンコで勝った」と言って20万円をひらひらさせていて、
「勤労って何だろう」と虚しくなったものです。
そして3年生になってキャンパスが近くなったため、やっと本格的にアルバイトを
経験しました。働いたのは近所のちゃんこ屋さん。
しかし、悪い意味でお嬢さん育ちの私は、気が利かないし、食べ物も扱い慣れない。
「キャベツの千切りはできる?」「いえ全然…」「じゃあ、おにぎり握って」
「あの、握ったことがないので…」。注文を次々言われてささっと対応する
他の子たちに対して、「えっとちょっと待ってください、伝票を…」と、
書かないと対応できない脳内いっぱいいっぱいの私。
私が一番役に立ったのは、元相撲取りのマスターの次に力自慢だったので、二階の
宴会場にビール満載のビールケースをまるごと持って上がれたことくらい。
ここで、私はおにぎりが握れるようになり、キャベツの千切りもそれなりに
細く美味しく切れるようになりました。
なので、母のおにぎりは俵型ですが、私のおにぎりは三角形です。
就職の時期になってハッピーな大学生活は暗転します。
我々の2つ上の先輩くらいまでは就職活動は楽勝でした。その時点ではバブルの
余韻が残っていたのです。しかし…
私たちの世代は完全に就職氷河期となり、求人そのものが激減。
しかも、男女雇用機会均等法施行後なのに、堂々と女性差別ができる世の中で、
男子のところには百科事典のような分量で企業のエントリーシートハガキが
届けられているのに、女子には「卓上ミニ辞典」のような分量のハガキのみ。
私が「定員いっぱいです」と断られたセミナーに、後から申し込んだ男子は
普通に入れてもらえるなど、いろいろな差別を実体験しました。
それまで「男女差別」なんて感じたこともなかったのに、「社会に出る」となれば
「女はお茶くみコピーの末に結婚退職だから要らない」とでも言われているような
圧倒的な斥力を感じることとなりました。
「サークル3つを兼部して文芸班長を務めたり、サークル誌の編集長を務めたり…」
とそれなりにアピール要素はあったと思うのですが、不勉強や社会的な知識不足も
あり、私は4年生の夏の終わりになってもまだ内定が一つもとれていませんでした。
大企業、有名企業を軒並み落ちて、中小企業も結局は全滅…
なのに世の中はまだバブルの感覚で「就職が決まらない大学生が多いんですって、
まあ皆高望みばっかりするからよね」とバイト先のちゃんこ屋で話している人を、
「中小も全部落ちたわ!」と本気で殴り倒したかった。
親も「なぜ就職できないの、普通に活動すればできるはずなのに」という感覚。
この時、どれだけ就職活動の状況が急変していたか、一般の大人は全然わかって
いなかったし、私たち大学生は当然、もっとわかっていませんでした。
2つ上より上の先輩は「いかに自分たちが楽勝で内定を取ったか」という自慢話。
大人たちは「内定がとれないなんて信じられない、ちゃんとやればそれなりに
就職は決まるはず。就職が決まらない人が悪い」という感覚。
この時、数十年先に「就職氷河期世代」「ロスジェネ」として社会問題にされる
ほど就職先がなく、人材がないがしろにされた時代に入っていたと、まだ認識
されていませんでした。だから、内定が取れずに多くの人が自分を責め、自分に
絶望し、苦しむこととなりました。
第二次ベビーブーム世代で人口が最も多い世代なのに、とんでもなく求人数が
減って、すさまじく狭き門に多大な人が殺到していたことを、誰も正しく評価
しなかった時代。
私は幸い、なんとか「地元の遊園地」に内定をもらうことができました。
しかし「初任給の低い地元の中小企業」でしかなく、誰からも「いいところに
入った」とは言ってもらえない、ビミョーな就職先でした。
それでも、一応は「やりたいこと」を見出せる、子供のころから馴染んだ場所で
働けるので、私自身はホッとして、夢を抱いて先に進むことができました。
この時代の就職がいかに厳しく、しんどかったかというと…
友人は、仲間内でもうらやまれる「山一証券」から内定をもらったのに、なぜか
もっと給料の低い大手学習塾グループに進路を決めてしまいました。誰もが
「もったいない、なんてことを!!」と惜しんだのですが…
山一証券はその後倒産。給料のいい金融業界に入れたことを喜んでいた人たちが
まだ新人なのに転職に奔走することになりました。
安定、安泰だと思われていた企業が「普通に倒産する」時代が来ていました。
とんでもない狭き門をなんとか通り抜けた優秀な人材が、先人の失敗によって
世間の荒波に生身でまた放り出される時代にもなっていたのです。
まさかの「山一を蹴るなんて」が「山一を蹴っておいて、よかったね」に変わる。
何を信じればいいのかわからない、バブル崩壊直後の就職氷河期の現実でした。
私の人生は、たくさんの人々が私の周囲をいつも彩ってくれていることで成立し、
豊かになっているなと思います。
特に、成長してからは、私が何をしたかというのはあまりなくて、どんな人と
どんな風に関わってきたかという話ばかりです。
その分、笑い話的なエピソードが少なくて盛り上がりませんが、引き続き
現在に至るまでを書いていきたいと思います。