鴨頭の掲示板

日本史学関係の個人的な備忘録として使用します。

【受贈】 岡本健一郎「対馬藩の諸船対応と郷村構造」(長崎歴史文化博物館『研究紀要』第18号、2024年3月)

2024年04月14日 00時58分13秒 | いち研究者としての日記

岡本健一郎さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

17世紀半ば~18世紀前半という日本近世史研究では一般的に史料の残存状況がよくないとされる時期につき、対馬藩(現長崎県域)の郷村社会における海事の対応を「対馬宗家文書」を丹念に分析しながら検討しています。その際、当時国内一般的な海村とは異なって朝鮮国との通信・貿易の窓口を担う特性と先行の対馬藩領郷村構造論とを踏まえながら、当該社会ならではの対応を位置づけようとしました。

以下は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。

1.研究史における位置づけかたについて。対馬藩領における海事といえば、大まかに(1)国内船の海難事故処理、(2)朝鮮船・唐船を中心とする外国船が漂着事故をした場合の処理、(3)朝鮮船を中心とする外国船の来航補助、(4)国外に漂流した国内船の送還対応、の4種類が挙げられます。論文では(1)(2)に重点を置きつつ史料分析に取り組んでいますが、これら(1)(2)の全国的実態研究を1冊の書にまとめ日本近世史研究で海難救助制度史をテーマ化させたといえるのは金指正三『近世海難救助制度の研究』(吉川弘文館、1968年)でしょう。その出版のあと、1970~80年代にかけ全国各地で自治体史誌編さん事業の本格化にともなって史料の収集・調査も進展し、地域ごとに実態を説明する研究論著が発表されるようになりました。つまり、1960年代以降に全国レベルで細かく枝分かれが進んだテーマの1つなのです。ゆえに、研究史の整理においては、金指氏の研究を基準点としそこからいかに枝分かれしていったのかまで踏まえれば、論文の位置づけがよりわかりやすくなると思います。

2.テーマとした郷村構造の説明方法について。史料を分析した結果、藩庁と現場とのあいだでいかなる上意下達・下意上達の構造が築かれたといえるのか、意思疎通の構図を1点提示すれば読者はわかりやすくなると思います。特に、当該地域ならではの役の名称が複数あるので、対馬藩史を専門としない者に対してはなおさら重要でしょう。

3.上記2に関連し、意思疎通と公費の移動との相関について。論文でも国内漂着朝鮮船への対応で褒美を与えられたことに触れていますが(掲載誌15~16頁)、公費の流れの構造も、論文のテーマにおいては重要です。上記1.(1)~(4)について、同じ海事といえども、それぞれで現場への公費支給の仕組みに相違があると思われます。大雑把にいえば、日常一般的な海事ならば支給されない対応の作業でも、これが幕府海事だと、請求に応じ公費分を支給される場合があるのです。そこで重要なのは、海事をめぐっていかなる公費支給の制度が整えられ、郷村社会の誰が代表して藩庁に請求することになっているかです。大抵の人間なら生活のため、公費支給対象となる対応に作業の力点を移すものでしょう(今日のサラリーマン組織にも通ずる話なのか、何とも言えませんが……)。ゆえに、公務を差配して、実績を取りまとめ、そして藩庁に請求する役割を担う人間が実は、支配構造の本質を物語るキーマンなのです。

4.これはおそらく、規定の字数へすでに達していたこと、関係史料の分量が多数あり分析にまだまだ時間がかかること、を要因として次稿以降の課題へ先送りしたのでしょうけど、同じ時期における朝鮮通信使迎接の場合との対比です。史料の残存状況からして、当時一般的な海事と朝鮮通信使の迎接とを詳しく対比できる地域は対馬ぐらいに限られているので、日本近世海事史の研究においても貴重だといっても過言でありません。今後の研究が本当に楽しみです。


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【受贈】 下田悠真「慶応三... | トップ | 【受贈】 岡本健一郎《年次... »
最新の画像もっと見る

いち研究者としての日記」カテゴリの最新記事