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日本史学関係の個人的な備忘録として使用します。

【受贈】 東昇「第2章『文化期通信使対馬来聘と郡方支配の展開』」(中野等編『中近世九州・西国史研究』、吉川弘文館、2024年3月)

2024年04月22日 04時09分13秒 | いち研究者としての日記
東昇先生より標記論文の抜刷を1つ、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

標記の論文では、それまで将軍就任のたび江戸まで登っていた朝鮮通信使につき、経済的事情により対馬(現長崎県対馬市)までの行程に短縮・節約されたいわゆる「易地聘礼」(えきちへいれい、文化8年〔1811〕、論文では「対馬来聘」とも表記)をテーマに取りあげ、対馬藩による地域支配の、その前後における変化を説明しようとしています。
結論を簡潔にいえば対馬藩の地域社会は、いわゆる「四つの口」の1つとしてそれまで信使迎接などの御用で多量の貨幣が投入されるなどして、貨幣経済にもとづく被支配層の階層分化が進んでいました。ところが、その準備のなかで天明の飢饉(1780年代)を経験したときのような農村社会への回帰・再興が促され、その翌年、文化9年(1812)より対馬藩の郡奉行所を中心としさらにこうした政策を推し進めていくと、指摘しています。

以下の3点は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。
1つ、地域社会への公金投下を正しく評価するうえで肝腎な情報を補っていくこと。第1~2節で、藩領社会の構成や朝鮮通信使の迎接をめぐる支配層からの褒賞の内容を記述しているものの、門外漢の読者が当時島民1人あたりの収益(もちろん正確な実態把握は困難でしょうから、ある程度の見積もり)を理解するうえで重要な情報までは整理されていません。例えば、掲載書210頁で「夫役では、幕府役人への付人数合計二千七百九十九人、普請や運漕水夫などの徴発郷夫役は約二十七万人とあり、多くの領民が動員された」とあります。これは、のべ人数なのか、そうでないのでしょうか。対馬の人口規模を加味すればおそらく前者でしょう。ならば約27万人とはいうものの、2,700人が100回なのか、270人が1,000回なのかで、地域への貨幣の行き渡り方が異なってきます。当時の島の人口、水夫(通史的には「水主」とよぶ地域が多い)の登録者数などの情報も他史料で補いながら、実際の支給対象数を見通しやすくするのが好ましいでしょう。
2つめは、1つめに関連して、貨幣での支給額の根拠となる計算式は何かです。論文では、実際に支給された金額などを明記していますが、これはどのような計算式で算出された数値なのか。そして、計算式は時代のなかでいかに変更されるものかは、対馬の社会史を貨幣経済の視座で見通すうえで重要な論点でしょう。私が専門的に取り組む瀬戸内海伊予国域島嶼部の場合では、支給額の計算にあたり米1石あたりの貨幣換算のレートが公定されて、このレートにもとづき貨幣あるいは米現物の支給量が決められていました。しかも、ここでのレートは、私が読んだ史料の場合だと、一般的な相場より少し高めに設定されています。では、対馬藩の場合どのような仕組みなのでしょうか。朝鮮通信使など国家的な迎接の場合だと、おそらく、実際には〝どんぶり勘定〟的な計算もあったでしょうけど、当時の経済状況と正しく見比べるうえで不可欠な情報だと考えます。
そして3つめは、2つめに述べたことと関連して、現物と貨幣2つの経済のあいだにおけるバランスの歴史です。くり返しになりますが今回の論文は、有名な全国的大飢饉が生じた天明年間から易地聘礼があった文化年間までの変化を対象とし、大雑把にいえば、地域社会で現物の経済が潤うと貨幣経済が発展し、貨幣経済が社会の不都合を生むと現物重視の政索へ揺り戻そうとする藩政の本質を指摘しました。しかし、こうした流れが以前から周期性をもって連続するものなのか否かは、対馬の歴史を正しく理解するうえで重要な論点でしょう。おそらく、個人的な予想としては前者であり、現物と貨幣のあいだで重点を交互に揺り戻しながらバランスを取ってきたのが対馬の近世史ではないかと考えます。もし予想どおり周期性をもつものならば、文化年間の現物重視化は、易地聘礼を超えた動き(=変化のきっかけの1つにすぎない)である可能性も出てくるのではないでしょうか。

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