カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

1999年11月1日から16日

2012年03月27日 01時20分38秒 | Weblog
11月16日(火)

 都立大へ。若干寝坊する。宮台真司さんの授業を途中から聞く。以下、教養課程「社会学」のメモ。

教養過程「社会学」宮台真司講師

 言明可能性条件と生活世界内機能

 「言明可能性条件」と「生活世界内機能」の例として、吉幾三の「ウインナーコーヒー」のエピソード。上京したばかりの吉幾三が喫茶店でアルバイトをしていたときのこと。マスター不在のとき、客がウインナーコーヒーを注文した。吉幾三はコーヒーに、ウインナーソーセージを二本付けて客に出した。客はウインナーソーセージをかじり、コーヒーを飲んで帰っていった。というエピソード。(これを宮台真司は「吉幾三問題」と呼ぶ)
 ヴィトゲンシュタインの後継者クリプキは「言明可能性条件」ということを言っている。人間が会話をするには、ある言葉があるものを差す、ということが「任意の第三者」を連れてきたとき「判断が一致する」という予期があって成立する。だが常に「任意の第三者と判断が一致する」かどうかは実証できない。有限個の操作の中で確認することはできない。
 カール・ポパーKarl Popperは「カラスは黒い」か? という例を挙げている。「任意のカラスは黒い」これは理念だ。現実の中で確証はできない。
 「我々は理念的な(実証不可能な)期待(予期)をもって行動する」ことを、ヴィトゲンシュタインは発見した。
 私たちは生活の中でさまざまな信頼・予期を前提としている。だが、この予期は、たまたま今まで裏切られることのなかった期待にすぎない。(これが「言明可能性条件」と「生活世界内機能」の問題である)

 社会学の再帰性

 「人の行為」と、「社会イメージ」は、互いに再帰し合う。ケインズ理論では、不況になると人は貯蓄をはじめ、不況は更に悪化する。「貯蓄は反社会的ふるまいだ」とケインズは述べた。
 「人の行為」は、社会と自己言及的関係にある。社会は暗黙の前提(予期)によって裏打ちされている。
 「社会イメージ」を記述する学問が、社会学だ。社会学の呈示する社会イメージの浸透により、人々の行為は変化する。

 尊厳の問題。近代化には「宗教」が必要であった、という問題。「隣人愛」の意味

 DIGNITY、「尊厳」の問題。「尊厳」とは存在を祝福するような、善きこと。キリスト教的神の概念と呼応する。

 近代天皇制は、ヨーロッパ留学をした伊藤博文のアイデアによって作られた。島宇宙的な「村」を超えた「国家」という共同体に尽す、という制度だ。近代化には動員が必要だ。動員には宗教的基盤が必要だ。日本にそれがないことを留学した維新の元勲たちは痛感した。それゆえ、近代天皇制が作られた。

 「公」、パブリックとは、想像もつかないような嗜好を持つ、まるっきりの他者と共生するための想像力のことだ。

 キリスト教で言う「隣人愛」とは、お隣と仲良くしましょう、という意味ではない。親を捨てよ、故郷を捨てよ、自分に敵対するような隣人を愛せ。…こういうありそうもない「愛」をイエスは実践したと信じる、これがキリスト教の「隣人愛」だ。
 キリスト教は戒律を捨てた初めての宗教だ。ユダヤ教は戒律でできあがっている。戒律に従っていられるのは豊かな恵まれた人だけだ。貧しい者は生活のために戒律を破らなくてはならない。戒律は、それを守れるほど恵まれた者を救い、それを破らなくてはならないほど恵まれない者を見捨てる。…今やイエスによって神との契約は新ためられた、とするのが「新約」だ。
 「隣人愛」は、異邦人パウロがローマに布教するさいクローズアップしたものだ。
 キリスト教は、はじめ、ギリシャ語を話す商人たちに信仰された。彼らは国を持たない。どこの共同体にも所属しない。流浪の民だ。共同体に支えを持たない人々の心の支えとなったのが、キリスト教だ。キリスト教的伝統(カトリック)は、共同体を超えた正しさ(普遍)にある。

 「宗教」について

 宮台真司による「宗教」の定義;【前提を欠いた偶然的なもの(端的・イニシアルなもの)を、無害なものとして受容する(馴致する)装置の総体】
 端的なものとは、「なぜこの世に私はいるのか?」、あるいは「出会い」のように偶発性に左右されるもの、これらが「端的」なものだ。

 過去の「宗教」の定義にはどんなものがあったか。

 1;超自然的、超経験的な事柄への信念(18世紀、人類学発展以前の定義)
 …この問題点;人の知る現実は常にローカルなものでしかない。この定義のままでは、たとえばUFO研究者が宗教者になってしまう。比喩表現としては、そうは言える。だが、ここで捉えようとする「宗教」からは外れる。

 2;聖と俗の別。聖なるものに関わるコミュニケーションの総体(19世紀の定義)
 私たちは「聖・俗」という概念をずっと持ってきた。聖概念は、たとえば祭りの時間であり、シメナワによる結界だ。
 …この問題点;なにが「聖」であるのか確定できない。「聖」の定義は、「非日常的興奮・熱狂」だ。ではデモ行進は宗教的か? あるいはダンスは宗教的か? 

 3;パラマウント・リアリティ。至高の現実。コスモス。
 現実はピラミッド型の階層を持ち、その階層の最上位を語るのが宗教だ、とする説。
 …この問題点;憲法は宗教か? 人権概念は宗教か? 科学的探求は宗教的体験とは、言わない。社会学の求める構成要件を充たさない。

 以上、「社会学」のメモ。

 宮台真司さんに授業の後、挨拶する。びっくりされる。「どうしたの?」と問われる。『美しき少年の理由なき自殺』で天ぷら学生を拒まないとあったので、と応える。研究室の場所と、ゼミの教室案内していただく。「時間があったら話ができるのだけど、あいにくこの後予定を入れてしまっていて」と宮台さん。「できるだけこれから毎週来ます」と私。
 山本直樹と対談したことを伺う。「山本直樹はみな計算づくで描いているんじゃないか、と思っていたのだけど、会ってみたら、どうもそういうわけじゃないようだった。なんていうか、感覚的な。鎌やんみたいなタイプだと想像してたんだけど、全然違うタイプだったね。あまり人と話するタイプじゃないし。鎌やんは社交的でしょう」社交的な漫画家なんて珍しいし、私の場合は客商売の経験値が人よりたまたま多かっただけで、本質的には内向的ですよ、と思ったが、それは言わなかった。

 ゼミまでは時間が随分ある。学食でご飯食べる。ぶらぶらする。ところで都立大は無意味にブラブラたむろしていられる場所がない。そういう場所の重要さを宮台さんは著書で言っていたが、職場がまさにそういう場所なんだな、と思う。

 宮台さんのいらっしゃらないとき宮台さんの研究室のドアの張り紙を見ると、青ボールペンで以下のような落書きがへたくそな文字で書いてある。

「宮台君へ。『あんた気持ちワルイノ』消えろよ。『あるいは君のまわりでは、まわりの空気がくさる。くさってもいいけど、税金もらってくさらせるなよ。』」

 以前、エヴァのテレビ版終了直後、ガイナックスの扉にスプレーで「天誅(ただし『誅』の字は言ベンだけ)」と落書きしてあったのを思い出す。悲しくなる。

 宮台ゼミの教室に早めに着席し、『世界の教科書にみる戦争の教え方』(別技篤彦。朝日文庫)読んで時間潰す。宮台さんが言うには、他の学校の学生や、社会人や、高校生などもゼミに参加しているとのこと。小さな教室がぎゅうぎゅう詰めになる。高校生らしい茶髪の男女3名も入室。授業前に彼らは宮台さんのところへ挨拶に行く。礼儀正しくて良い子だ。
 宮台さんが入室し、ゼミ開始。学生がテキスト(本)を読み、その内容についてレジュメ(梗概)を作り、発表する形式。学生の発表を宮台さんが聞き、間違ったことを述べていないか確認する。理解が怪しいところを宮台さんが指摘し、訂正する。この回の学生さんは本質を我がこととして織り込む訓練がまだできていないようだった。自分の言葉が他者にどう伝わるか、ということへの配慮ができるほどの賢明さ経験値をまだ得ていなかった。以下、レジュメを元にしたメモ。レジュメの日本語の指示代名詞、論理帰結が怪しいので、誤解の幅が多いレジュメだった。以下、読解しにくいとこ多いと思う。私もよく判ってない。学生さんの発表は、ここまでで一区切りの内容です、という読点に欠けていた。上滑りしていたと思う。そのため聞くこちらに緊張と集中力をえらい要求していた。それは学生さんがそのことに無頓着だったからだ。言葉と言葉の論理構造が正確なら、高度な内容も読者にストレス与えること少なく伝わるものだ。高度な内容をストレス少なく理解することは人間にとり快感だ。以下、快感から遠いと思う。
(以下、うざったい方はここまでジャンプしてください)

 『ルーマン社会システム論』(新泉社)
(以下、赤文字は鎌やんによる解釈)

 1;社会学の観察には、「区別」と「指示」がある。社会というシステムを「観察」するのが、社会学の仕事だ。「観察」行為は、観察者が、a;何かを基準として社会を区別(カテゴライズ)すること、b;区別した内容について述べること、の二つに分かれる。
 2;観察は、さまざまなシステムに適用できる。観察はシステム内部での操作だ。観察は、(観察のために)選び出された「区別」に拘束される。観察者は観察対象(社会)の中にいる。観察のため用いる区別から、観察者は自由ではない。
 3;観察者は自分自身を観察することができない。観察者は観察の盲点となる。「第一の観察者」を、「第二の観察者」が観察することで、この盲点を克服できる。これを第二次的観察と言う。第二次的観察でも、観察をしている観察者自身は観察の盲点になる。他の観察者に比べ第二の観察者が特権的な位置にいるわけではない(「第一の観察者」の盲点を「第二の観察者」は観察できるが、それは「第二の観察者」が「第一の観察者」より優れているから、ではない)。「第一の観察者」が、時間を置いて別な区別を用いて、「第二の観察者」になることはできる。(観察者は反省的に自身を含めた過去を観察することができる)
 第一次的観察のみで捉えた世界は、単層的脈絡(特定の区別で固定された領域)からなる、二値的世界。第一次的観察は自分を除いた世界の全てを単純に区別し説明できる。だが一時的観察で見る世界は単純で一面的だ。
 第二次的観察で捉えた世界は、重層的脈絡を持つ。人は立体的に選択肢を比較することができるようになる。第二次的観察によって、人は自分がどう行動するのが、望ましい結果を得ることになるのかを知る。

 観察は常に「パラドキシカル」に(矛盾・逆説を孕んで)構成される。嘘つきのパラドクス。
 「全てのクレタ人は嘘吐きだ」と言うクレタ人。
1;パラドキシカルな発言は完全な記述(全てのクレタ人)を目指すが、その発言は自分自身をその中に含まなければ完全性に到達しない。パラドキシカルな発言は自己準拠的構造を持ち、その発言は自分自身にも当てはまる。
2;パラドキシカルな発言は対立項(嘘つきと嘘をつかない人)を含むため、その発言はある区別を用いている。
 第二次観察者は、観察のパラドクス及びその脱パラドクス化のテクニックを観察することができる。第一次的観察では、パラドクスを解決できない。第二次的観察によってパラドクスは解決できる。問題に対する別の機能的に等価な解決の模索が可能。
 観察の理論が観察について述べていることは、理論そのものに対しても当てはまる。

 社会診断について。
 第二次観察を適用することにより、社会はどのようにして自分自身を観察するのか、その際に社会は何を視野に収めるのか、という問題を提起。「リスク」について、「道徳」について。

 「リスク」について。
 リスクは観察によって決定する。リスクは第二次観察に平行する。リスクは第二次観察によって生まれる。
 ウィトゲンシュタインによれば、観察がなければ論理ゲームは成立しない。

 *;「リスク」と「安全性」という区別
 未来は未知だからリスクがない、ということはない。(未知である未来の問題。「だろう」の問題)
 「リスクがない」だろう、という、決定者の問題。

 *;「リスク」と「危険」の区別
 損害は、決定に焦点を置けばリスクの問題となり、外的要因(環境)に焦点を置けば危険の問題となる。
 前近代社会では、損害は外的要因(運命・不幸)のせいにできた。このとき選択は関係ない。選択の幅がなかったから。「**は危険だ」という言い方は外的要因に損害の責任を置いている。
 近代社会は、リスク社会である。自身で選択することは、リスクを負うことである。
 「リスクと危険という区別は、リスクのある行動の社会的な局面に、すなわち、決定者が誰であり、自らは決定に加わらないのに損害を受ける当事者は誰なのか、その決定が誰にとってリスクであり誰にとって危険なのかに、特に照準を当てるのである」

 *リスクのコミュニケーション
 他者が自分と同じ視点で観察している、ということは期待できない。さまざまな観察者が少なくとも共存できるような相互了解の形態を保っていくことが求められる。決定者(当事者)には、決定することへの賛否を決定できない。

 「道徳」について。
 道徳は、コミュニケーションの特殊なあり方である。
 倫理学は、「道徳の問題に関わりを持ち、道徳を反省しようとする」記述である。

 道徳的コミュニケーションは、以下の性格を持つ。
 「善悪」(という第一次的観察)のみで世界を区別する。人間を尊敬と軽蔑(という単層的脈絡)に位置付ける。
 全てのことは「善悪」(という二値)で評価できる。
 道徳的コミュニケーションはコンフリクト(対立)を絶えず生み出す、もしくは激化させるという問題を孕む。

 倫理学は、道徳を内部から反省し、善悪を指標として認知的に記述しようとする。(社会学は外部から観察する)
 基礎付けの倫理学は、道徳的判断が正当・合理的であることを示すための究極原理をもちだそうとする。普遍的で統一的な、合意を得られるような道徳観を確立し制度化させることがdきる、という仮定に基づく。
 反省の倫理学は、道徳的判断の基礎づけを断念し、道徳的自体の認知的記述に自らを制限する。

 機能的に分化した近代社会は道徳的コミュニケーションによっては統合されえない(社会学的観察)
 社会学は反省をうながす契機になりうる。第一次的観察(道徳)の盲点を社会学はとりあつかう。

 以上、レジュメを元にした。
 以下は宮台さんの語るところをメモしたもの。

 社会学と倫理の関係で、ライフスペースの例が挙げられる。

 これは「言明可能性条件」と「生活世界内機能」というクリプキの概念にあたる問題だ。
 「言明可能性条件」とは、このライフスペースのミイラの場合、「誰が見ても死んでいるだろう」という条件、それはどういう条件か。どういう限定がなされるか。「誰を連れてきてもそれをそう呼ぶだろう」任意の第三者と判断が一致するだろう、という予期。
 ライフスペースの主張は第一次的観察だ。これを正しく批判するためには第二次的観察が必要となる。これを、社会学コミュニケーションと言う。
 「生活世界内機能」とは妥当性の主張である。「これは死んでないんです」ライフスペースはこれが妥当であると主張する。

 ライフスペースの話をいったん離れ、道徳の問題を考えよう。

 ある発言、ある主張、ある価値判断には、発言者が必ずしも意識しない波及効果が生まれる。道徳の価値判断(第一次的観察)は、問題の隠蔽化の危険を孕む。そのことを社会学は第二次的観察しなくてはならない。

 第一次的観察の中にいる限り、人は、盲信的になる。道徳・善悪判断は良いか悪いか、第一次的観察者には判断できない。それに対し、第二次的観察は反省的になる。

 ルーマンと倫理学の関係を考えよう。ルーマンは行政の専門家だった。

 倫理学のルーツは行政学である。ある価値判断をし、それを実行するのが良いか悪いか、善か悪か、という学問が、行政学だ。ルーマンは、善悪という価値判断ではなく、システム合理性という価値判断がむしろ重要だ、という結論に至った。これは無原則に善いとか、善行であるから良い結果になるはずだ、という捉え方ではなく、与えられた前提からどういう帰結が生まれるか、ある統一されたシステムの条件と波及効果を見極めようとするのが、社会学の視点、ルーマンの視点だ。

 生活世界内機能は、ある生活世界内で、そういうものだ、これはこういうものだ、という同意が機能している、ということだ。だが、現代では、おのおのの生活は断片化し、島宇宙化している。自分にとっての生活世界内機能が「任意の第三者」にそのまま適用されることを期待できない。

 ライフスペースの問題はまた、宗教と社会(の共存可能性)の問題だ。宗教と社会という問題は、本来的に解決不能な問題だ。宗教は救済機能を持つ。救済機能を持つためには、宗教は社会より大きくなければならない。キリスト教は国家という社会より大きいから救済機能がある。宗教はそれに求められる機能効能からして社会より大きい。(この問題対策のため西洋の歴史はプロテスタント抵抗派の宗教改革運動、カトリック普遍派とプロテスタント抵抗派の宗教戦争を必要とした)

 臨界点クリティカルポイント

 私たちは、臨界点クリティカルポイントの問題を重視しなくてはならない。とりかえしのつかないことを想定するのが近代社会である。死はとりかえしがつかない。尊厳死の問題はその視点から捉えなくてはならない。

 内発性の過剰と、自己愛

 多くのロマンチシズムはナルシシズム、保身に見える、というのがルーマンの視点だ。短絡的自己愛は醜い。これを否定し克服するのは展開的自己愛である。第二次的、第三次的観察を織り込むことだ。

 政治も、文学も、内発性の過剰に支えられる。ベタな政治活動、ベタな文学活動は、ベタな自己愛でしかない。こういう人は、政治活動も文学活動もしないほうが良い。内発的であるのか、自己愛的であるのかは、他者を計る判断基準になりうる。
 内発性であるかどうかは、自己反省的であるかどうかである。自身のナルシシズムを相対化しようとするかどうかだ。

 ハーバーマスとルーマンの論争があった。
 ハーバーマスは、リベラル左派だった。ナチズムを否定したが、共産主義なら良い、とした。
 ルーマンは、そういう思考そのものがダメなのだとした。同時に誠意への敬意を主張した。必要な賢明さの不足を危惧した。

 政治と文学の問題。(江藤淳も取り上げている)
 社会を生きるには内発性は必要。過剰な内発性は、政治か、文学で表現される。たんに「政治家になりたい」、たんに「漫画家になりたい」、たんに「小説家になりたい」というのは、承認欲求にすぎない。

 宮台真司氏が「過剰な内発性」を見る政治家は二人いる。田中角栄と小沢一郎だ。田中角栄は、人間は何に弱いのかよく知っていた。人間は金に弱い。情に弱い。田中角栄は陳情に来るどんな人物であろうと、その家族一切について調べてから会った。田中角栄に会った人は、田中角栄が自分についてよく知っていることに皆感動した。(人は己を知る人のために死ぬ)田中角栄に会った人は、皆、田中角栄の熱心な支持者になった。田中角栄は共同体を利用し、田中角栄自体は共同体を超えていた。そこの点を、小沢一郎は持たない。小沢一郎は理想主義者で集金能力はあるが、人が何に弱いのかについて、鈍い。

 

 以上、メモ。次回はジャン・ハロルド・ブルンヴァン『消えるヒッチハイカー』(新宿書房)について。


 11月16日の授業で判らなかった用語・それに関連する概念を自習してみました。

 エンカルタ98で、判らない言葉を調べてみました。
 メタ言語と対象言語(うそつきのパラドックス)、 ウィトゲンシュタインの哲学(言語ゲーム)、ポッパー(反証不可能性)、ハーバーマス、分析哲学と言語哲学(論理実証主義)

 また、『岩波思想・哲学辞典』でも以下の言葉を調べてみました。
 指示、対象、嘘つきのパラドックス、ラッセルのパラドックス、メタ言語/対象言語、自己言及、認知活動、反証可能性、言語ゲーム、クリプキ、モデル理論、記号論理学、様相論理、解釈

 

 エンカルタ98より

 メタ言語と対象言語 メタげんごとたいしょうげんご Metalanguage and Object language
 対象についてかたられる言語を対象言語といい、この対象言語についてかたられる言語をメタ言語という。「机」や「緑の」という言葉は対象言語であり、これらについてかたられる「名詞」や「形容詞」という言葉はメタ言語である。あるいは、英語の文法書を日本語で書いた場合、英語は対象言語であり、日本語はメタ言語になる。
 うそつきのパラドックス
 さまざまなパラドックスや詭弁(きべん)は、対象言語とメタ言語の混同から生じる。たとえば「クレタ人はうそつきだ、とクレタ人がいった」という古代ギリシアから有名な「うそつきのパラドックス」は、最初のクレタ人は対象言語で、後者はメタ言語であるという違いを混同することによって生じる。これは、「だれも目的語を飲まない。『水を』は目的語である。それゆえだれも水を飲まない」という詭弁と同じ性質のものである。(参照)
"メタ言語と対象言語" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 ウィトゲンシュタインの哲学
 ウィトゲンシュタインの哲学は、「論理哲学論考」の中で展開された前期思想と、「哲学探究」に代表される後期思想にわけられる。しかし前・後期ともに、哲学を、言語を分析する活動であると考える点では一貫していた。
 「論理哲学論考」
 「論理哲学論考」においては、言語は要素命題といわれるそれ以上分割することのできない最小単位によってできあがっているとされる。しかし、日常つかわれる言葉は、複雑で混乱している。そのような言語と対応して世界のほうも表面は複雑で錯綜(さくそう)しているが、分析によってそれ以上分割できない原子的な事実へとたどりつくことができる。ウィトゲンシュタインによれば、要素命題は、この原子的な事実をそのままうつしているのである。
 このように事実と正確に対応している命題、つまり科学における命題だけが意味のある命題だとウィトゲンシュタインはいう。それゆえ、これまで形而上学によってかたられた文や、倫理的な文は無意味なものになってしまう。「論理哲学論考」は、「かたりえないものについては沈黙しなければならない」という有名な言葉でむすばれている。このような考え方にウィーン学団の論理実証主義者たちは強く影響され、形而上学的命題などは無意味なものだとしてすてさった。
 ただし、ウィトゲンシュタイン自身は「かたりえないもの」の領域をみとめ、それについて無意味にかたることのないよう、いわば逆方向から言語の限界づけをおこなったのだとも考えられている。
 「哲学探究」
 「哲学探究」では、「論理哲学論考」の言語観は否定され、より実際の言葉の使用の場面に目がむけられる。言葉はさまざまな状況でいろいろなやり方でつかわれており、「論理哲学論考」で想定したような統一的な言語など存在しないと考えられるようになった。
 このような、さまざまにことなった言語の活動を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」とよんだ。科学者には科学者の、神学者には神学者の「言語ゲーム」があり、言葉の意味はその言葉がつかわれている実際の文脈によってきまる。ウィトゲンシュタインは、哲学の仕事は実際おこなわれているこのような「言語ゲーム」を記述することにあると論じた。"ウィトゲンシュタイン,L." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 ポッパー Karl Raimund Popper 1902~94 ポッパーは「探求の論理」(1934)において、科学は基本的に帰納的学問だという常識をくつがえし、「反証可能性」という考えを提出した。科学理論というのは仮説にすぎず、その仮説のもとで観察によってそれぞれの言明をたしかめるのであり、もし別の観察によってその言明が間違いだとわかった場合には、この科学理論はただちにすてさられる。このような反証の試みによって理論が間違いにならないかぎり、この理論はうけいれられる。しかしその理論はあくまで仮説にとどまり、確実な科学理論などどこにも存在しないと主張した。
 「開かれた社会とその敵」(1945)では、ポッパーは民主主義の立場をとり、プラトンやマルクスの政治理論のもつ全体主義的傾向を批判した。"ポッパー,K.R." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 ハーバーマス Jurgen Habermas 1929~ ドイツの哲学者、社会学者。ホルクハイマー、アドルノなきあとのフランクフルト学派第2世代の中心的人物。デュッセルドルフに生まれ、ゲッティンゲン、チューリヒ、ボンの各大学で哲学、社会学をまなぶ。「公共性の構造転換」(1962)によって一躍有名になり、以後、ハイデルベルク大学、フランクフルト大学で教鞭をとる。1971年以降は、現代文明世界における人間の生活条件の研究を目的とするマックス・プランク研究所の所長をつとめる。
多産な著作活動
マルクス主義者であるにもかかわらず、ハーバーマスの著作活動はきわめて多方面におよぶ。カント、シェリング、ヘーゲルなどのドイツ観念論哲学とウィトゲンシュタイン、ポッパーといった英米系の哲学との間の生産的対話をこころみ、ミード、パーソンズらの社会学的議論にも造詣(ぞうけい)が深い。ポッパーやアルバートといった批判的合理主義者との実証主義論争、ガダマーとの解釈学論争、ルーマンとのシステム論争も有名。主著に、「理論と実践」(1963)、「認識と関心」(1968)、「コミュニケーション的行為の理論」(1981)などがある。"ハーバーマス,J." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 分析哲学と言語哲学 ぶんせきてつがくとげんごてつがく Analytic and Linguistic Philosophy 英米を中心に展開された20世紀の哲学運動。論理実証主義や日常言語学派の総称。哲学の本来の活動は、言葉やそれによって表現される概念をはっきりしたものにすることだという考え方を共有している。このような言葉の分析によって、言葉の混乱によって生じた哲学的な諸問題を解消することを目的にしている。
 論理実証主義者たち
 ケンブリッジ大学のラッセルのもとに、分析哲学の歴史において中心的な役割をはたすウィトゲンシュタインがやってくる。彼は最初の主著「論理哲学論考」(1921)において哲学は言語批判だと主張し、言葉は世界の像であるという、ラッセルの論理的原子論と同様の考えを展開した。
 この時期のウィトゲンシュタインにとって、意味のある文とは、世界の像である自然科学の命題だけであり、自然をこえた、神や倫理についての文は無意味な命題であった。
 ラッセル、ウィトゲンシュタイン、マッハなどの影響をうけ、哲学者と数学者のグループが、1920年代のウィーンで論理実証主義といわれる運動をはじめた。シュリックとカルナップが中心となり、ウィーン学団は分析哲学の歴史の中でもっとも重要な役割を演じた。彼らによれば哲学の仕事は意味の分析であり、新しい事実の発見や世界全体について説明することではない。
 論理実証主義者は、意味のある文は分析的命題と経験的に確認できる命題の2つであるとした。分析的命題は、論理学や数学の命題であり、つかわれている言葉によってそのただしさはきまる。経験的に確認できる命題というのは、少なくとも原理的には感覚経験によって検証されるこの世界についての命題である。このような命題にのみ意味があるとする意味の検証理論によれば、科学的な文だけが事実についてのただしい主張であり、形而上(けいじじょう)学や宗教や倫理に関する文は、事実についてはなにもいっていないことになる。
 ポッパーによる批判
 しかしこの検証理論は、ポッパーをはじめとする哲学者たちによって徹底的に批判された。ウィトゲンシュタインも自らの「論理哲学論考」の考えを否定し、「哲学探究」(1953)に結実する新しい思想を展開する。この本で彼は、日常の場面での言葉の使い方に目をむけ、言葉の多様な姿を明らかにした。
 言語ゲーム
 その過程で「言語ゲーム」という重要な考えが生まれる。科学者、詩人、神学者などはそれぞれことなった言語ゲームをおこなっている。したがって、ひとつの文の意味は、その文があらわれる文脈、そしてその文がつかわれている言語ゲームのルールから理解されなければならない。ウィトゲンシュタインによれば、哲学とは言葉の混乱によって生まれた問題を解決する作業であり、そのような問題の解決の鍵は日常の言葉の分析であり、言葉の適切な使用なのである。"分析哲学と言語哲学" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 

 『岩波哲学・思想事典』で、判らない言葉を調べてみました。
 指示、対象、嘘つきのパラドックス、ラッセルのパラドックス、メタ言語/対象言語、自己言及、認知活動、反証可能性、言語ゲーム、クリプキ、モデル理論、記号論理学、様相論理、解釈

 

 指示reference;指示という概念は、固有名のような単称名辞が、フレーゲの本来の意味での「対象」を名指すさいの、記号と対象との間の関係のことである。
 クリプキは、固有名は概念の助けを借りることなく直接特定の個体を指示するが、それをなしうるのは、その個体を命名した時点から、その名を用いている今この場面まで因果の連鎖が途切れることなく続いているからだと考えた。

 対象object;主観・主体と対比して使われる客観・客体にあたる。客観・客体とも訳される。心が目指し向かう事柄のこと。目標、主題。狭義には対象とは文の主語によって表される実体的なものであるが、述語によって表される、もののもつ性質・関係・事態・事実を言う。フレーゲでは固有名によって指示されるもの、一般的には指示的行為によって示されたもので、性質・関係などの特性が帰せられるもののこと。

 嘘つきのパラドックス(エピメニデスのパラドックス);これを厳密な形式的言語に即して扱い「真理」概念に重要な洞察を得たのはタルスキ。タルスキは、ある言語(対象言語)の中の文の真偽を決定するには、その言語より一段上のレベルの言語(メタ言語)の中でその定義を行なうべきだと考えた。対象言語より豊かなメタ言語を使い、二つの言語の区別を守れば、対象言語の真理はメタ言語内で再帰的に定義できることを示した。

 ラッセルのパラドックス;「xはxの成員ではない」という条件を満たす集合xを全て集めた集合を「ラッセル集合r」と定義する。このとき、ラッセル集合rはrの成員だろうか。
 1;もしrがrの成員なら、rを定義する条件により、rはrの成員ではない。
 2;もしrがrの成員でないなら、これはrを定義する条件を満たすのでrはrの成員である。
 1,2より、「Aならば非-A、かつ非-AならA」となり矛盾する。

 メタ言語/対象言語;目下の考察対象となっている言語を「対象言語」、その考察の成果を述べるのに用いられる言語を「メタ言語」という。日本語で書かれた英文法書の例の場合、英語が対象言語、日本語がメタ言語である。日本語で書かれた日本語文法書の例では、対象言語メタ言語ともに日本語である。メタ言語と対象言語の区別は絶対的ではなく相対的である。英文法書が完全であるためには、全ての英語表現について文法的説明を行なわなければならないから、メタ言語である日本語は対象言語である英語を何らかの仕方ですべて含んでいなければならない、このことをメタ言語は対象言語より本質的に豊富であるという。(参照)

 自己言及self-reference;再帰性reflexivenessの一種。自己指示、自己参照とも言う。「嘘つきのパラドックス」や「ラッセルのパラドックス」のように、二律背反を惹き起こす。「この文は日本語で書かれている」(ここで「この文」は当の文全体を指示するものと解する)のような構文論的自己言及は、内容空虚である。  「あらゆる命題は疑わしい」という懐疑主義のテーゼや、「あらゆる意識は虚偽意識である」というイデオロギー論の強い主張は、真であると仮定すると、自己適用self-applicationによって、疑わしいもの、偽なるものとなる。つまり自己破壊に陥る可能性がある。

 認知活動;知覚・判断・推論・問題解決・記憶・意識・感情・学習・遂行・言語理解・言語使用・談話などを指す。

 反証可能性;言明が偽とされる可能性を「反証可能性」という。ポパーは経験科学的言明とそうでないものを区別するという「境界設定問題Abgrenzungsproblemを解くために『探求の論理』[1934]においてこれをを方法論的基準として提案した。ポパーによれば、言明(あるいは理論)は、反証可能であるときそしてその時にのみ経験科学的である。
 ポパーによれば、言明もしくは理論は、それと論理的に矛盾する「基礎言明」(観察可能な出来事を述べる言明)を持つならば、反証可能である。たとえば、「すべてのスワンは白い」という言明は、時空上のある領域における黒いスワンの存在を述べる基礎言明が真であるときに反証される。これに対して「人間のすべての行為は利己的である。見たところそうでない行為にしても、そうでないように見せるという利己的関心からなされている」という主張は、論理上、この主張と矛盾する基礎言明が存在しえないから反証不可能であり、非経験的科学的言明に分類される。(参照)

 言語ゲーム;ヴィトゲンシュタインは「命題は実在の像である」とする従来のテーゼを破棄した。代わって登場するのが、言語活動をゲームになぞらえるアナロジーであり、言語使用の多様性への着目である。出発点となったのは過渡期の数学論であり、彼はそこで数学の公理をチェスの規則に類比する形式主義の考えに批判的検討を加え、そこからあらゆる構文法はゲームであり、任意であるという結論を引き出している。
 「言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態すなわち原初的言語の研究である。われわれが真偽の問題、命題と事実との一致と不一致の問題、肯定、仮定、問いの本性の問題を研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。これらの思考の諸形態がそこでは、高度に複雑な思考過程の背景に混乱させられることなく現れているからである」
 言語ゲームは方法概念であると同時に事実概念であるという両義性を持つ。
 方法概念としての言語ゲームは考察のために設定される一種の文法モデルであり、類似や相違を通じて言語の働きを明かにする比較対象に他ならない。言語ゲームの諸規則は哲学的考察の目的に応じわれわれが構成するのである。それを通じてわれわれは言語使用の諸条件、すなわち、その場面でのさまざまな語の目的と働きを明確に見渡すことができる。
 他方で言語ゲームは、言語活動が人間の多様な生活形式に根ざした「自然史」に属していることを表現する事実概念である。言語ゲームの多様性は、言語使用の基盤である人間生活の多様性に由来する。その多様性を無視して一般化を行ない、言語を生活の土台から切り離して抽象化するとき、悪しき哲学的誤謬が生ずる。その意味で言語ゲームの考察は、さまざまな哲学的困惑に対して治療的効果を発揮する。(参照)

 クリプキ;アメリカの哲学者。クリプキ・モデルと呼ばれる様相理論のモデルを考案。モデル理論で多くの業績を残す。

 モデル理論;モデル理論では、論理的言語の意味はある対象領域(モデルの領域)上で指示的(外延的)な解釈として与えられる。
 現代論理学の初期においては、形式論理言語で正確に書かれた理想的な公理的理論体系はその理論が意図する対象領域の構造(標準モデル)を完全に特徴づける、と無批判に想定されていたが、ゲーデルは不完全性定理[1931]を示し、これを否定した。また、言語的レベルの証明可能性概念が捉えうるのは標準モデルだけでなく、非標準モデルをも含む(一般に無限個の)モデル群に対する恒真性概念である(完全性定理[1930])ことを示した。
 モデル理論には、古典的モデル理論(タルスキ)の他に、
1;集合論のモデル;内部モデル(ゲーデル)、強制法(コーエン)、プール値モデル(ソロヴェイ、スコット)
2;カテゴリー論的モデル;層理論、トポス理論
3;可能世界モデル(クリプキ);直観主義論理、様相論理

 記号論理学;現代の論理学の最大の特徴は、日本語や英語のような自然言語の文で表現されている論証を研究するために、論理学者によって人工的に作られた言語を用いるという点にある。形式的体系formal system と呼ばれるこうした人工言語は、言語の妥当性に関わる限りの自然言語の特徴を再現することを意図している。それゆえ、それ以外の自然言語の要素は捨象される。自然言語における論証は、形式的体系のなかでそれと対応する論証に照らして、その妥当性の判定が行われる。
 フレーゲによれば、もっとも単純な文は名前と述語から構成される。例;「ポチ(名前)は犬だ(述語)」。
 より複雑な文を構成する手段には二つある。
 1;否定や条件法といった命題結合詞。
 2;「すべての」「少なくとも一つの」といった表現に対応する量化子quantifier。これは述語論理の言語である。
 名前;アルファベット小文字で表記 a,b,c
 述語;アルファベット大文字で表記 F,G
 否定;¬  条件法;→ 
 「すべての」(全称量化子);∀
 「少なくとも一つの」(存在量化子);∃
 述語論理で、「どんな犬もいつかは死ぬ。ポチは犬だ。従って、ポチもいつか死ぬ」を表記すると、以下のようになる。
「∀x(Fx→∃yGxy)、Fa、よって、∃yGay」
(「Fx」=「xは犬だ」、「Gxy」=「xは時点yで死ぬ」、「a」=「ポチ」)

 様相論理;必然性と可能性の論理。
 命題様相論理の構文論は通常の命題論理に□(「必然的に」)と◇(「可能的に」)という二つを加える。
 標準的公理系はS5と呼ばれる、以下のものである。
 P→P トートロジー
 □P→P もし必然的にPならば、Pである
 ◇P→□◇P 
 □(P→Q)→(□P→□Q)
 ◇P→¬□¬P
 推論規則は二つ。「PとP→QからQを導け」「Pから□Pを導け」 

 解釈;現代論理学では、記号に意味を与えることを言う。述語論理学では、ある論議領域unverse of discourseを確定し、述語記号に特定の性質や関係を対応させること。

11月15日(月)

 記憶にない。 11月16日の日記へジャンプ

11月14日(日)

 午前10時、ほしのえみこさん他一名と結婚式の打ち合わせをする。

 午後1時30分。池袋駅で砂さんと待ち合わせ。砂さんが遅れる。砂さん寝てるかもと心配になって電話しようとする。電話番号書いてあるメモを持ってこなかったことに気づく。えーと、メモ帳にある名簿で砂さんの電話番号知ってそうなのは。東浩紀さんにどきどきしながら電話する。電話が途中で切れる。砂さんいらっしゃる。東浩紀さんにごめんさいでした、と再度電話する。

 紀伊国屋書店に関する件、砂さんとRB67さんで情報交換。太田出版の活躍、紀伊国屋の態度、など有益な情報をいただく。いずれこれはTINAMIXにアップされる。
 東浩紀さんがフランス、イギリスで体験したことなどを砂さんから伺う。以下は砂さんから伺った、東浩紀さんの考え。フランスにはサブカルチャーは存在しない。フランスにはメインカルチャーしかない。それだけフランス革命は徹底的だった。フーコーが、国家、刑務所、学校を類比させた本当の意味がわかった、フランスという国はまんま学校的刑務所的だからだ。あれは比喩ではなかったのだ。日本人である東さんがフランス思想をすること、という行為に懐疑的になってしまったそうだ。イギリスは居心地が悪くなかったそうだ。アイルランドはお伽の国のようだったそうだ。イギリスにはしっかりとサブカルチャーがあるそうだ。イギリス全土どこであろうと、サブカルチャーはサブカルチャーだけで流通できるそうだ。日本では、サブカルチャーが他のサブカルチャーと流通するためにはいったんメインカルチャーを通らなくてはならない。流通の転換が日本では必要だ。そしてそれは遠からず起こる。今回の紀伊国屋書店の件もそういう視点からも捉えられて良い。以上、砂さんから伺った話。

 RB67さんの主張。流通は良きものをセレクトして民衆に与える、というかたちであってはならない。アメリカの例。アメリカは日本とは比べ物にならないほど児童ポルノの規制が徹底している。ヌーディストビーチの写真集がある。これには子どものヌードも映っている。それが書店に並んでいることにクレームは多く来る。だが書店はそれを書店からなくそうとはしない。芸術とされているヌーディストビーチの写真が、取り締まられるべきかどうかは、判例を待つべきだ。それまでは書店はそれを置く。判断は購入者がすればいい。売れるから置く、という側面はあるだろう、だが、判断の材料を多く置くことが書店の使命だ、という哲学がそこにある。以上、RB67さんから伺った話。

 午後5時。新宿コマでディグさんと待ち合わせ。惑星ピスタチオの演劇『白血球ライダー2000』観る。
 惑星ピスタチオは、テレビのヒーローものなどの、安っぽくオタクなテレビでの共通体験で観客と言語の共有を図る。それは自身(演者と観客)の現実体験の貧困さを、ギャグとしてメタ視させる機能がある。そこが面白い。だが、これを繰り返すと、この貧困な語彙だけでは表しにくい表し得ないものがあることに気づいて行く。演者はその問題を演者自身に突きつけるようになっていく。今回のピスタチオは、そのことの模索をしている。結果として失敗している。だがのたうとうとする姿勢はいいと思う。テーマについての考察がまだまだ甘く、演者たちの中できっちりと整理されていない。結果観客には難解なものになった。演者自身何を語りたいのか言語化に苦しんでいるのだと思う。新人が多く、発声活舌が怪しく聞きとりにくいところが随所にあり、そういう人はまた身体での表現も独り善がりで観客との共感に失敗しているが、新人を多く参加させてみた、ということが、小さく纏まってしまうまい、というピスタチオの姿勢を表しているのだと思う。
 ディグさんもほぼ同意見。 

11月10日(水)から13日(土)

 記憶にない。

11月9日(火)

 宮台真司さんの授業は火曜日にある、と聞いたので、都立大へ行く。

(この間あったことはおいおい書きまする)

11月1日(月)

 東京に戻る。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿