4月10日(土)
なぜか電話通じなくなる。NTTに見てもらう。電話線のせいではなくTAのためらしい。理由わからないまま回復。
ちと体調崩したらしい。
タイトルを「日本閉塞」から「願い星」に変更。
4月9日(金)
うちの近所では、春にはこんな光景がよく見られる。
4月8日(木)
シナリオ2稿、コンテ1稿。
4月7日(水)
やっとお話まとまる。仮題「日本閉塞」。
4月6日(火)
昨日の日記、自分語炸裂でコミュニケーション言語として機能していない。読んでくださるかたに申し訳がない。
ほんとは誰とも話なんかしたくないんだ。きっと俺は。これが「こうでしかない自分」の実像。げほげほ。ごめんなさい、反省します。
ロリコンには肝臓が弱い人間が多いという仮説を私は立ててる。どの程度妥当性があるのかな。肝臓が弱いと欝気質になりやすいらしい。肝臓が弱いと悲観的な感情に襲われやすくなり、自身を価値なき者と感じる瞬間が多くなり、自分以外の人格に臆病になり、人格としての存在を無視することのできる子供と同等な(「対等な」ではない)心情になる、と、な。
ところで都知事選、石原慎太郎が一番人気ってどういうことだろ。ボクはオタクだからさっぱりわからない。石原慎太郎の暴論は国際的には通用しない、貧弱な自我の日本人にとって優しく異国人に過酷な手前勝手なものだということくらいしか知らない。俺、もっと色々知らないと。
4月5日(月) 「こうでありたい自分」「こうでしかない自分」「ムラ」
目を覚ますと、風邪をひきかけてる。天罰。しのぐ。
鬱々として思う。
人は誰でも「こうでありたい自分」(理想自我)と「こうでしかない自分」(現実自我/実存)という二つの自己イメージを持っている。正常な人間なら、「こうでしかない自分」(現実自我)を改善改良克己して「こうでありたい自分」(理想自我)に近づけようとする。
だが、心の荒廃した人間は、「こうでしかない自分」(現実自我/実存)を、無条件に、何の努力もなしに、イコール「こうでありたい自分」(理想自我)なのだ、と、欺瞞強弁する。これは人間が最もしてはならないことの一つだ。
「こうでありたい自分」(理想自我)から観て、「こうでしかない自分」(現実自我)は、嫌悪の対象だ。嫌悪対象を理想像だと詭弁するという無理を行うことにより、精神は不安定になる。本来「こうでしかない自分」(現実自我)に向かうはずだった嫌悪の感情は、自身に向かうことができず、外に向かって吐き出される。自己嫌悪を他者に投影する。他者を悪し様に罵り、いかに他者が誤っているか強弁する。そうやって「こうでしかない自分」を守ろうとする。ああ、うんざりだ。
「誇りの持てない国家の国民だ」という「こうでしかない自分」(現実自我)をイコールそのままで「誇りの持てる国家でありその国民だ」(理想自我)だと強弁すること、これがたとえば自由主義史観だ。こうなってしまった自分、本当はそうなりたかったわけではない自分、惰性によってそこに陥ってしまった「こうでしかない自分」を、自分の頭の中を変えることによって美化しようとすること、これほど醜い行為はない。「美しい嘘」ほど醜いものはない。
構造を/システムを/ムラというものを、自身の意志により現実的に改変改善すること(「ムラ」/タコツボを消滅させること)、自分の人生を自分で支配すること、そこに正しい意味で「自分を肯定する感情」が発生する。(「ムラ」は、イコール「構造」「システム」ではない。ムラは構造だが、構造はムラではない)
昨日の自身の日記は、「こうでしかない自分」への嫌悪を外部に投影したものなのかも知れない、と、感じる。
なぜ構造/システムで考える必要があるのか?
個人の行動は環境に限定制約される。いかに個人個人が良心的でも、彼/彼女を取り巻く環境(社会構造/システム/ムラ)が良心的意志を押し潰すために機能する形になっていたら、個人個人の良心は行き場を失い、また実際以上に一人一人が孤立化する。
分断統治は、統治者(統治するムラ)にとって、最も賢明な手段だ。本来の対立関係(縦の対立/「人」対「ムラ」)から目を逸(そ)らせ、誤った対立図式(横の対立/「ムラ」対「ムラ」)に、被統治者のエネルギーを消耗させる。生理的感情(憎悪など)は、目に見えるものを対象としやすい。目に見えにくいものへは、人は、漠然とした不安/恐怖を覚えやすい。不安/恐怖/畏怖の感情が、カリスマ/権威的なものを支える。統治者(統治するムラ/ムラ自体)は被統治者同士(統治されるムラ同士)が適度にいがみ合う状態を望む。構造(ムラの集合体)が継続するためには、構造の底辺(個々のムラ)が、構造(全体としてのムラ/ムラの集合体)自体に本質的脅威を与えないことが、構造にとって望ましいのだ。
構造/システムは改変しなくてはならない。構造/システムは人の作ったものであるから、人の手で変わりうる。
システムの問題として捉えない人間は、自身が不幸であるのは、どこかに「悪者」がいるからだ、と考える。「悪者」として、たとえば悪書(健全育成ムラの説)、教科書(自由主義史観ムラの説)、軍隊(サヨクムラの説)、政治家(政治家と接点を持たないムラの説)、官僚(官僚と接点を持たないムラの説)などが槍玉となる。オタク共同体(オタクムラ)からの疎外感を覚える人間なら、コミケ主宰者を「悪者」と設定する。だが「悪者」は実在しない。
4月4日(日) あからさま
鬱々として思うとこある。こういう感情は大切にして漫画に描くのが正しくはあるのだろうけど、ここにも書く。
何かに詳しい人間は、それをあからさまに語ることをみっともないと感じる。漫画描きでロックに詳しい人間ならわざわざ漫画にロックのことは描かない。自分が知っていればそれでいいことであって、ひけらかすものではないからだ。これは恥を知る正常な日本人の感性だ。
それはいい。だが私はこの感性、この美徳によって人生狂わされた。えらい迷惑だ。その程度で狂うくらいなら初めからたいした人生でないという考えも成立するし一定の正当性はある。そして、自身に対し、個人の問題/自身の問題として向き合えない人間は最低だ。だが、同時に構造的問題/システムの問題/ムラの問題として観る視点を欠くとき、人は他者に対し、善意に満ちながら、主観において正義を実行しながら、とことん残酷になる。
その残酷への鈍感さを私は今許せないし、たぶんこれから先はもっと許せなくなるだろう。知っている人間、詳しい人間、情報を持つ人間は、情報を提示するほうが結果として他者を不幸にしないと私は確信する。そのことによって、その情報提供者・情報発信者が、構造/システム/ムラという視点に鈍感な人から、あるいは情報/知識から疎外されていることに怨恨を持つ人から、侮蔑され、憎悪されたとしても、敢えて情報を呈示し続けることのほうが、「おのれの美徳のために」矜持を正していることより意義があると私は信じる。
この話題はもっとこなして書くべきだけど、それはまた今度にする。
そしてこの感情もまた私の個人的な怨恨である。
4月3日(土)
部屋配置換え続き。
曽さん帰宅。
自分のHPに繋がらない。サーバが拡張工事のためだろうか?
カウンタのズレが何に起因するか、だいたい推測つく。後で多いほうの数字に書き替えておこう。
4月2日(金)
地鎮祭。契約書取り交わし。
従兄から籍を入れていることと子ども生まれたこと伺う。
親に金をせびりたかったが、代わりに食べ物をもらう。
東京へ戻ると、ディグさんから留守電。紙魚子と栞が生首拾った公園で、ディグさん、よさこいさんと、花見。実家からの食料を蕩尽する。ニュース23の「子供からの声」観つつ、ディグさんと意見が分かれる。ディグさんの部屋で就寝。
4月1日(木)
森見さんのお仕事、朝2時頃終了。布団にはいる。興奮したためか眠れない。電車動く時間に駅まで送っていただく。
自分の部屋に戻る。眠くなるが、眠ると予定が狂うので、部屋の配置、風水的に望ましいように変える。久しく受信できなかったAMラジオが受信可能になる。御利益御利益。電話が不通になる。格闘し、通じるのを確認し、実家へ。お仕事これでたくさん来ますように。
なぜか電話通じなくなる。NTTに見てもらう。電話線のせいではなくTAのためらしい。理由わからないまま回復。
ちと体調崩したらしい。
タイトルを「日本閉塞」から「願い星」に変更。
4月9日(金)
うちの近所では、春にはこんな光景がよく見られる。
4月8日(木)
シナリオ2稿、コンテ1稿。
4月7日(水)
やっとお話まとまる。仮題「日本閉塞」。
4月6日(火)
昨日の日記、自分語炸裂でコミュニケーション言語として機能していない。読んでくださるかたに申し訳がない。
ほんとは誰とも話なんかしたくないんだ。きっと俺は。これが「こうでしかない自分」の実像。げほげほ。ごめんなさい、反省します。
ロリコンには肝臓が弱い人間が多いという仮説を私は立ててる。どの程度妥当性があるのかな。肝臓が弱いと欝気質になりやすいらしい。肝臓が弱いと悲観的な感情に襲われやすくなり、自身を価値なき者と感じる瞬間が多くなり、自分以外の人格に臆病になり、人格としての存在を無視することのできる子供と同等な(「対等な」ではない)心情になる、と、な。
ところで都知事選、石原慎太郎が一番人気ってどういうことだろ。ボクはオタクだからさっぱりわからない。石原慎太郎の暴論は国際的には通用しない、貧弱な自我の日本人にとって優しく異国人に過酷な手前勝手なものだということくらいしか知らない。俺、もっと色々知らないと。
4月5日(月) 「こうでありたい自分」「こうでしかない自分」「ムラ」
目を覚ますと、風邪をひきかけてる。天罰。しのぐ。
鬱々として思う。
人は誰でも「こうでありたい自分」(理想自我)と「こうでしかない自分」(現実自我/実存)という二つの自己イメージを持っている。正常な人間なら、「こうでしかない自分」(現実自我)を改善改良克己して「こうでありたい自分」(理想自我)に近づけようとする。
だが、心の荒廃した人間は、「こうでしかない自分」(現実自我/実存)を、無条件に、何の努力もなしに、イコール「こうでありたい自分」(理想自我)なのだ、と、欺瞞強弁する。これは人間が最もしてはならないことの一つだ。
「こうでありたい自分」(理想自我)から観て、「こうでしかない自分」(現実自我)は、嫌悪の対象だ。嫌悪対象を理想像だと詭弁するという無理を行うことにより、精神は不安定になる。本来「こうでしかない自分」(現実自我)に向かうはずだった嫌悪の感情は、自身に向かうことができず、外に向かって吐き出される。自己嫌悪を他者に投影する。他者を悪し様に罵り、いかに他者が誤っているか強弁する。そうやって「こうでしかない自分」を守ろうとする。ああ、うんざりだ。
「誇りの持てない国家の国民だ」という「こうでしかない自分」(現実自我)をイコールそのままで「誇りの持てる国家でありその国民だ」(理想自我)だと強弁すること、これがたとえば自由主義史観だ。こうなってしまった自分、本当はそうなりたかったわけではない自分、惰性によってそこに陥ってしまった「こうでしかない自分」を、自分の頭の中を変えることによって美化しようとすること、これほど醜い行為はない。「美しい嘘」ほど醜いものはない。
構造を/システムを/ムラというものを、自身の意志により現実的に改変改善すること(「ムラ」/タコツボを消滅させること)、自分の人生を自分で支配すること、そこに正しい意味で「自分を肯定する感情」が発生する。(「ムラ」は、イコール「構造」「システム」ではない。ムラは構造だが、構造はムラではない)
昨日の自身の日記は、「こうでしかない自分」への嫌悪を外部に投影したものなのかも知れない、と、感じる。
なぜ構造/システムで考える必要があるのか?
個人の行動は環境に限定制約される。いかに個人個人が良心的でも、彼/彼女を取り巻く環境(社会構造/システム/ムラ)が良心的意志を押し潰すために機能する形になっていたら、個人個人の良心は行き場を失い、また実際以上に一人一人が孤立化する。
分断統治は、統治者(統治するムラ)にとって、最も賢明な手段だ。本来の対立関係(縦の対立/「人」対「ムラ」)から目を逸(そ)らせ、誤った対立図式(横の対立/「ムラ」対「ムラ」)に、被統治者のエネルギーを消耗させる。生理的感情(憎悪など)は、目に見えるものを対象としやすい。目に見えにくいものへは、人は、漠然とした不安/恐怖を覚えやすい。不安/恐怖/畏怖の感情が、カリスマ/権威的なものを支える。統治者(統治するムラ/ムラ自体)は被統治者同士(統治されるムラ同士)が適度にいがみ合う状態を望む。構造(ムラの集合体)が継続するためには、構造の底辺(個々のムラ)が、構造(全体としてのムラ/ムラの集合体)自体に本質的脅威を与えないことが、構造にとって望ましいのだ。
構造/システムは改変しなくてはならない。構造/システムは人の作ったものであるから、人の手で変わりうる。
システムの問題として捉えない人間は、自身が不幸であるのは、どこかに「悪者」がいるからだ、と考える。「悪者」として、たとえば悪書(健全育成ムラの説)、教科書(自由主義史観ムラの説)、軍隊(サヨクムラの説)、政治家(政治家と接点を持たないムラの説)、官僚(官僚と接点を持たないムラの説)などが槍玉となる。オタク共同体(オタクムラ)からの疎外感を覚える人間なら、コミケ主宰者を「悪者」と設定する。だが「悪者」は実在しない。
4月4日(日) あからさま
鬱々として思うとこある。こういう感情は大切にして漫画に描くのが正しくはあるのだろうけど、ここにも書く。
何かに詳しい人間は、それをあからさまに語ることをみっともないと感じる。漫画描きでロックに詳しい人間ならわざわざ漫画にロックのことは描かない。自分が知っていればそれでいいことであって、ひけらかすものではないからだ。これは恥を知る正常な日本人の感性だ。
それはいい。だが私はこの感性、この美徳によって人生狂わされた。えらい迷惑だ。その程度で狂うくらいなら初めからたいした人生でないという考えも成立するし一定の正当性はある。そして、自身に対し、個人の問題/自身の問題として向き合えない人間は最低だ。だが、同時に構造的問題/システムの問題/ムラの問題として観る視点を欠くとき、人は他者に対し、善意に満ちながら、主観において正義を実行しながら、とことん残酷になる。
その残酷への鈍感さを私は今許せないし、たぶんこれから先はもっと許せなくなるだろう。知っている人間、詳しい人間、情報を持つ人間は、情報を提示するほうが結果として他者を不幸にしないと私は確信する。そのことによって、その情報提供者・情報発信者が、構造/システム/ムラという視点に鈍感な人から、あるいは情報/知識から疎外されていることに怨恨を持つ人から、侮蔑され、憎悪されたとしても、敢えて情報を呈示し続けることのほうが、「おのれの美徳のために」矜持を正していることより意義があると私は信じる。
この話題はもっとこなして書くべきだけど、それはまた今度にする。
そしてこの感情もまた私の個人的な怨恨である。
4月3日(土)
部屋配置換え続き。
曽さん帰宅。
自分のHPに繋がらない。サーバが拡張工事のためだろうか?
カウンタのズレが何に起因するか、だいたい推測つく。後で多いほうの数字に書き替えておこう。
4月2日(金)
地鎮祭。契約書取り交わし。
従兄から籍を入れていることと子ども生まれたこと伺う。
親に金をせびりたかったが、代わりに食べ物をもらう。
東京へ戻ると、ディグさんから留守電。紙魚子と栞が生首拾った公園で、ディグさん、よさこいさんと、花見。実家からの食料を蕩尽する。ニュース23の「子供からの声」観つつ、ディグさんと意見が分かれる。ディグさんの部屋で就寝。
4月1日(木)
森見さんのお仕事、朝2時頃終了。布団にはいる。興奮したためか眠れない。電車動く時間に駅まで送っていただく。
自分の部屋に戻る。眠くなるが、眠ると予定が狂うので、部屋の配置、風水的に望ましいように変える。久しく受信できなかったAMラジオが受信可能になる。御利益御利益。電話が不通になる。格闘し、通じるのを確認し、実家へ。お仕事これでたくさん来ますように。