goo blog サービス終了のお知らせ 

カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

1999年4月1日から4月10日 マシウスの夜郎自大日記

2012年03月27日 00時50分58秒 | Weblog
4月10日(土)

なぜか電話通じなくなる。NTTに見てもらう。電話線のせいではなくTAのためらしい。理由わからないまま回復。
ちと体調崩したらしい。
タイトルを「日本閉塞」から「願い星」に変更。



4月9日(金)

うちの近所では、春にはこんな光景がよく見られる。



4月8日(木)

シナリオ2稿、コンテ1稿。



4月7日(水)

やっとお話まとまる。仮題「日本閉塞」。



4月6日(火)

昨日の日記、自分語炸裂でコミュニケーション言語として機能していない。読んでくださるかたに申し訳がない。
ほんとは誰とも話なんかしたくないんだ。きっと俺は。これが「こうでしかない自分」の実像。げほげほ。ごめんなさい、反省します。
ロリコンには肝臓が弱い人間が多いという仮説を私は立ててる。どの程度妥当性があるのかな。肝臓が弱いと欝気質になりやすいらしい。肝臓が弱いと悲観的な感情に襲われやすくなり、自身を価値なき者と感じる瞬間が多くなり、自分以外の人格に臆病になり、人格としての存在を無視することのできる子供と同等な(「対等な」ではない)心情になる、と、な。

ところで都知事選、石原慎太郎が一番人気ってどういうことだろ。ボクはオタクだからさっぱりわからない。石原慎太郎の暴論は国際的には通用しない、貧弱な自我の日本人にとって優しく異国人に過酷な手前勝手なものだということくらいしか知らない。俺、もっと色々知らないと。



4月5日(月) 「こうでありたい自分」「こうでしかない自分」「ムラ」

目を覚ますと、風邪をひきかけてる。天罰。しのぐ。

鬱々として思う。
人は誰でも「こうでありたい自分」(理想自我)と「こうでしかない自分」(現実自我/実存)という二つの自己イメージを持っている。正常な人間なら、「こうでしかない自分」(現実自我)を改善改良克己して「こうでありたい自分」(理想自我)に近づけようとする。
だが、心の荒廃した人間は、「こうでしかない自分」(現実自我/実存)を、無条件に、何の努力もなしに、イコール「こうでありたい自分」(理想自我)なのだ、と、欺瞞強弁する。これは人間が最もしてはならないことの一つだ。
「こうでありたい自分」(理想自我)から観て、「こうでしかない自分」(現実自我)は、嫌悪の対象だ。嫌悪対象を理想像だと詭弁するという無理を行うことにより、精神は不安定になる。本来「こうでしかない自分」(現実自我)に向かうはずだった嫌悪の感情は、自身に向かうことができず、外に向かって吐き出される。自己嫌悪を他者に投影する。他者を悪し様に罵り、いかに他者が誤っているか強弁する。そうやって「こうでしかない自分」を守ろうとする。ああ、うんざりだ。
「誇りの持てない国家の国民だ」という「こうでしかない自分」(現実自我)をイコールそのままで「誇りの持てる国家でありその国民だ」(理想自我)だと強弁すること、これがたとえば自由主義史観だ。こうなってしまった自分、本当はそうなりたかったわけではない自分、惰性によってそこに陥ってしまった「こうでしかない自分」を、自分の頭の中を変えることによって美化しようとすること、これほど醜い行為はない。「美しい嘘」ほど醜いものはない。
構造を/システムを/ムラというものを、自身の意志により現実的に改変改善すること(「ムラ」/タコツボを消滅させること)、自分の人生を自分で支配すること、そこに正しい意味で「自分を肯定する感情」が発生する。(「ムラ」は、イコール「構造」「システム」ではない。ムラは構造だが、構造はムラではない)
昨日の自身の日記は、「こうでしかない自分」への嫌悪を外部に投影したものなのかも知れない、と、感じる。

なぜ構造/システムで考える必要があるのか?
個人の行動は環境に限定制約される。いかに個人個人が良心的でも、彼/彼女を取り巻く環境(社会構造/システム/ムラ)が良心的意志を押し潰すために機能する形になっていたら、個人個人の良心は行き場を失い、また実際以上に一人一人が孤立化する。
分断統治は、統治者(統治するムラ)にとって、最も賢明な手段だ。本来の対立関係(縦の対立/「人」対「ムラ」)から目を逸(そ)らせ、誤った対立図式(横の対立/「ムラ」対「ムラ」)に、被統治者のエネルギーを消耗させる。生理的感情(憎悪など)は、目に見えるものを対象としやすい。目に見えにくいものへは、人は、漠然とした不安/恐怖を覚えやすい。不安/恐怖/畏怖の感情が、カリスマ/権威的なものを支える。統治者(統治するムラ/ムラ自体)は被統治者同士(統治されるムラ同士)が適度にいがみ合う状態を望む。構造(ムラの集合体)が継続するためには、構造の底辺(個々のムラ)が、構造(全体としてのムラ/ムラの集合体)自体に本質的脅威を与えないことが、構造にとって望ましいのだ。
構造/システムは改変しなくてはならない。構造/システムは人の作ったものであるから、人の手で変わりうる。
システムの問題として捉えない人間は、自身が不幸であるのは、どこかに「悪者」がいるからだ、と考える。「悪者」として、たとえば悪書(健全育成ムラの説)、教科書(自由主義史観ムラの説)、軍隊(サヨクムラの説)、政治家(政治家と接点を持たないムラの説)、官僚(官僚と接点を持たないムラの説)などが槍玉となる。オタク共同体(オタクムラ)からの疎外感を覚える人間なら、コミケ主宰者を「悪者」と設定する。だが「悪者」は実在しない。



4月4日(日) あからさま

鬱々として思うとこある。こういう感情は大切にして漫画に描くのが正しくはあるのだろうけど、ここにも書く。
何かに詳しい人間は、それをあからさまに語ることをみっともないと感じる。漫画描きでロックに詳しい人間ならわざわざ漫画にロックのことは描かない。自分が知っていればそれでいいことであって、ひけらかすものではないからだ。これは恥を知る正常な日本人の感性だ。
それはいい。だが私はこの感性、この美徳によって人生狂わされた。えらい迷惑だ。その程度で狂うくらいなら初めからたいした人生でないという考えも成立するし一定の正当性はある。そして、自身に対し、個人の問題/自身の問題として向き合えない人間は最低だ。だが、同時に構造的問題/システムの問題/ムラの問題として観る視点を欠くとき、人は他者に対し、善意に満ちながら、主観において正義を実行しながら、とことん残酷になる。
その残酷への鈍感さを私は今許せないし、たぶんこれから先はもっと許せなくなるだろう。知っている人間、詳しい人間、情報を持つ人間は、情報を提示するほうが結果として他者を不幸にしないと私は確信する。そのことによって、その情報提供者・情報発信者が、構造/システム/ムラという視点に鈍感な人から、あるいは情報/知識から疎外されていることに怨恨を持つ人から、侮蔑され、憎悪されたとしても、敢えて情報を呈示し続けることのほうが、「おのれの美徳のために」矜持を正していることより意義があると私は信じる。
この話題はもっとこなして書くべきだけど、それはまた今度にする。
そしてこの感情もまた私の個人的な怨恨である。



4月3日(土)

部屋配置換え続き。
曽さん帰宅。

自分のHPに繋がらない。サーバが拡張工事のためだろうか?

カウンタのズレが何に起因するか、だいたい推測つく。後で多いほうの数字に書き替えておこう。



4月2日(金)

地鎮祭。契約書取り交わし。
従兄から籍を入れていることと子ども生まれたこと伺う。
親に金をせびりたかったが、代わりに食べ物をもらう。
東京へ戻ると、ディグさんから留守電。紙魚子と栞が生首拾った公園で、ディグさん、よさこいさんと、花見。実家からの食料を蕩尽する。ニュース23の「子供からの声」観つつ、ディグさんと意見が分かれる。ディグさんの部屋で就寝。



4月1日(木)

森見さんのお仕事、朝2時頃終了。布団にはいる。興奮したためか眠れない。電車動く時間に駅まで送っていただく。
自分の部屋に戻る。眠くなるが、眠ると予定が狂うので、部屋の配置、風水的に望ましいように変える。久しく受信できなかったAMラジオが受信可能になる。御利益御利益。電話が不通になる。格闘し、通じるのを確認し、実家へ。お仕事これでたくさん来ますように。

1999年3月21日から3月30日 マシウスの夜郎自大日記

2012年03月27日 00時48分49秒 | Weblog
マシウス:「格闘士ローマの星」に登場。花屋の大男で怪力の持ち主。
主人公アリオンと互角に戦うことのできるマシウスは
ローマに滅ぼされたカリビア王国の勇士であったが、
キリストを信じるがゆえに非暴力に徹し、
現在は王女ロザリアのボディーガードとしてローマで花屋をしている。
・・・と、「人間ゾンビ」の宇田川岳夫さんから伺いました。

新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。


3月31日(水) アシ

森見明日さんは随分気を遣ってくださり、恐縮してくださった。こちらはこちらで初心に帰る。有益な情報をいただく。見えなかったものが見える。アイデアをいくつも拾う。
わずかな間に森見さんにこれだけ差をつけられたのだな、と、思い知る。
森見さんと話す。
「あまり程度の低い読者の要求に気を遣いすぎないほうがいいと思う。昔、俺の好きな小説家が、本当はたっぷり書き込みたかったのに、筋を追うことに夢中な読者から『もっと先を読ませろ、早く先を読ませろ』と要望が強かったので、それを聞き入れて書き込まずにいた、ということがあったんだ。今読み返してみると、たしかにじっくり書き込んだほうが良かった。漫画も同じだと思う」
考えると、自分がそれを実践できていない。
「俺、よく、『もう作風が固まっている』とか『ロリしか描けない作家だ』とか言われるんだよね。納得がいかないんだけどね。どうしてそういうことにされちゃうんだろうね?」
森見さんが答える。「そういう作家ばっかりだからじゃなんじゃないですか?」

鎌やんをアシに使ってくださる奇特なかた、いらっしゃいましたら、連絡ください。



3月30日(火) アシ

森見明日さんのとこへアシに行く。
プロの背中を見る。アシは先生の背中を見て育つ。アシはするものだ、と、思った。正直言ってネームに苦しんでいたのでアシを引き受けたことを初め後悔していたが、予想以上に多く刺激受ける。ひとと接することの大事さをつくづく知る。



3月29日(月)

ドルフィンインターネットから、新規カウンタサーバーができたと連絡あったので、カウンタを交換する。従来のカウンタではネスケとIEの間に1710件のズレがあった。少ないほうの数字に合わせる。またズレたりしませんように。

編集さんから電話。
弱音を吐く。「ネタはそれなりに浮かぶんですが、エロシーンにうまく結びつかないんです」
読者に媚びなくていい、と、力づけていただく。O次郎さんありがとう。



3月28日(日)

バナー二つ目試作。「りんく」一件追加、一件バナー追加。絵、2枚追加。「SITUMON」追加。表紙書き直し。
夜、曽さん、来日。



3月27日(土)

他のかたがチャットしながらさくさく絵を描かれるのに驚く。HPの表紙描いたりする。TINAMIのお陰でカウンタの回転前より早くなる。ネームちっともできないので、代わりにバナー作る。でもバナーはネームの代わりにはならない。



3月26日(金)

数日前に、てるき輝さんに教えていただいてIRC登録に成功する。チャットしたりして、非建設的に過ごす。
安請け合いしてしまう。後悔する。



3月25日(木) 「子どもというレトリック」、悪書追放運動

足元見つめることって大事かな、と思って、「悪書追放」運動について、今更ながら、ちと調べてみました。「子どもというレトリック」(青弓社)
米国では50年代にコミックのブームがありまして、ホラーコミックとか人気あったんですが、悪書追放運動が盛んになりまして、「子どもに有害な」残酷表現が司法で裁かれたり規制されちゃったりして、コミックは下火になっていったそうですね。
手塚治虫は偉大でしたけど、日本のマンガ文化が盛況なのは、必ずしも手塚先生の功績ばかりじゃなくて、運が良かった、という側面はあるんでしょうね。
ちなみに規制された残酷表現て、孤児を主人公としたストーリーのオチで、父母を殺害したのがその孤児だった、と、そういうコミックが裁かれてですね、「道徳的に悪影響を与える」「残酷だ」と。わっはっは。以来モンスターの顔を、たとえば魔女の顔をおどろおどろしく描くのは「残酷表現」だと。そんな規制がなされているそうですね。
この「悪書追放」運動は、19世紀からの「ポルノ有害論」の流れ汲んでまして。
1;ある「有害」なテキストがその受け手(子ども)に対する有害な影響の直接原因である。
2:個人にとっての有害性は、社会全体にとっての有害性である。
3;ポルノは以上2種類の有害性ゆえに規制されるべきである。
こういうロジックが基盤にあるようですね。
俗流のポルノ反対運動で矯風会的(パターナリズム的)な発想されるかたは、「女性として」「親として」ポルノを許せない、という発言されがちだ、と。実はこの発言の中に立場の二枚舌がある。つまり「女性として」の立場なのか、「親として」の立場なのか、どっちかにしろ、ということです。その意味で矯風会的発想のポルノ反対運動というのは「女性運動ではない」。
「大人」と「子ども」の差異を縮小するのが「自己決定権」という発想で、逆に差異を拡大するのが「有害図書規制」とロリコンという嗜好だったりするんですね。
ロリコンという嗜好は、情的/精神構造的には、「有害図書規制」パターナリズム(恩情主義)の裏面なんですね。
だからこそ、と、鎌やんは考えるんですけど、ロリコンとしての嗜好持つ者は、パターナリズム的発想に、警戒しなくちゃならない。「自然主義的誤謬」と、この本では呼んでいるけれど、「『である』から根拠なしに『であるべき』を導く誤り」を警戒しなくちゃならない。なんら改善のための努力をしないで、既にして克服できていると断言することは、人間が最もやってはならないことだ。無謬である、神聖にして誤りはない、という前提こそ、巨大な悪と残酷を招くのですね。
男(雄)は女(雌)に比べ、性欲が強い。女(雌)は男(雄)に比べ、性欲を抑圧するからですね。これは、生物として男より女のほうが価値があるからだそうで。卵子は精子よりずっと貴重だということですね。雄は短期的に多く繁殖するチャンスがあるが、雌は一年に一度しか繁殖のチャンスがない。雄が繁殖のために支払うコストはゼロであるが、雌は肉体的精神的に長期にわたる負担を負うことになります。
ポルノが、より男にとって必要なものである理由はこの辺りにあるんでしょうけど、だからこそ男性はポルノを語るとき、女性を決して敵視しちゃいけないように、私は思います。自然主義的誤謬に陥らないために。



3月24日(水) 「人権」は「甘い」でしょうか?

「人権」という概念には、こういう非難がつきまとう。「人権なんてものはないんだから、そんなこと言っている人間は甘いんだ」
「人権なんてものはない」それはある意味でその通りだ。「人権」は理念にすぎない。理念にすぎないもの、存在しないものを希求することこそが、「人間的な」行動だと私は思う。
その一方で、ある程度「人権」のロジックを勉強した友人が、近頃、他の友人から「何でも理屈で考えるのは冷たくて人間じゃないみたいだ、とよく非難される」、とこぼした。



3月23日(火)

非建設的に過ごす。



3月22日(月) 『中国近代の群像』

『中国近代の群像』(陳舜臣、朝日選書)読了。
王国維は「百人の政治家より一人の大文豪のほうが国家に有益」と信じた。魯迅は王国維より4才若年。この二人は同郷。魯迅ははじめ医学を志し、後に文学に転向する。体を癒すより心を癒す方が大切だと思ったからだ。ここまではよく似ている。だが「王国維は内向しなければ、文学ができないものと考え、その対蹠物として政治をとらえ、それを軽んじた。魯迅の文学は、現実に目をそそぎ、現実のなかに政治をとらえ、それを避けてはならぬものと理解した。魯迅が創作活動をしたのに、王国維はほとんどそれができず、研究と評論活動にとどまった」とのこと。魯迅になりたいですね。



3月21日(日) 「CURE」

ディグさんの薦めで黒沢清「CURE」観る。硬質でクールな作品。日本にもこんないい監督がいたんだね、と、ディグさんと語り合う。昨日のえだのさんのオープンミーティングでは明朗な知的興奮を覚えたけど、「CURE」からは内面の深淵部を動かされるような感覚を得る。芸術の働きは、こうなんだな、と感じる。非常に良質なサイコホラー。「CURE」とは「癒し」の意味だけど、この映画に「癒し」というタイトルをつけるセンスも凄い。一見後、若干語り足りないのでは、と感じた部分あったが、ディグさんと検証しあううち、作品は十分語っていたことに気づく。

1999年3月11日から3月20日 マシウスの夜郎自大日記

2012年03月27日 00時47分50秒 | Weblog
3月20日(土) えだの幸男オープンミーティング

えだの幸男(衆議院議員)さんのオープンミーティングに参加する。月1回、大宮公民館で開催されている。雨で寒い中、案外出席者が多かった。ほぼ満席。
今回のテーマは「年金」だった。わしにとって最も興味の薄いテーマだったが、全く退屈しなかった。えだのさんの論理は明晰であり、それを聴くのは快かった。明朗な知的快感を得る。
講演のメモを以下に記す。
年金は老後のための貯金ではない。貯金ならば国家がする必要はない。個人が老後のための貯金をすることにはリスクがある。インフレなどに対応できないからだ。老後何年生きるのか不明であるので、老後のためにどれだけの金を用意しておけばいいのか不明となる。また過剰な貯蓄は経済の停滞を招く。若壮年が老年を、国全体で支える、これが年金である。これを個々の家庭内で行うなら、子どもが産まれない可能性もある。年金の不公平は世代間で問題にするのではなく、同世代間でこそ問題とするべきである。年金は税制化されるほうが一元化する。消費税をそれに当てるのが望ましい。「目的税」という言葉が俗に言われるが、「目的税」と言うからには、財源としてそれ以外用いるべきではない。消費税は(医療介護を含めた)年金以外には用いず、従来の年金国民健康保険は廃し、それは消費税のみでまかなう、とするのが将来的に望ましい。消費税は逆進性が高い(所得の低い人の負担が大きい)と俗に言われるが、保険料の逆進性は消費税をはるかに上回る。ならば、保険料を廃し消費税をそれにあてるほうが合理的である。この場合消費税は10%ほどになる。現在の国民保険にも税金が用いられている。そのことを考えれば、このように改善するほうが低所得者にとってもよいものとなる。将来的には、国の仕事は、年金や社会保障のみに限定していく。

えだのさんの講演のあと、質疑応答。参加者の質問内容のものすごさにアホはオタクだけの専売特許でないことを知る。スタージョンの法則はどこでも有効だ。ちゃんと応対しているえだのさんはたいしたものだと思った。私なら途中でブチ切れている。

「政治家の仕事は問題を社会システムから捉え改善することだ」とえだの幸男さんは語った。それと対照的に、漫画家は読者一人一人の内面に対してそこに働きかけることが仕事なのだな、と、その夜考える。

えだの幸男さんのページへは、うちとこからだと民主党ページ経由で行けます。

邦夫ちゃんとは私は政治信条は異なるけど、相対的に見て邦夫ちゃんが今回の候補の中ではあれで一番ましなのだな、と、考える。少なくとも石原慎太郎よりははるかにいい。都知事選は邦夫ちゃんに勝ってもらいたいと思う。



3月19日(金) 飢えている

飢えている者は延々食い物の話をする。飽食する者はそれを不作法だと感じる。私は飢えている。飽食する者の口吻に漂う美食の香りに敬意は払う。しかし私は飽食しているわけではないので飽食している者と同じことはできない。この日、飽食されている敬愛する美食家から批判されたので、飽食している者の真似をはじめようかと考える。が、できようはずもない。飽食している者は飽食している者同士で不作法を軽蔑されていただきたい。文人相軽んず。空腹はある限界を超えると感じなくなるものであり、餓死寸前の者が飽食しているかのような錯覚をしていることはままある。私は餓死する気はない。

法案のこと、「よく頑張ってくれました」という言葉を、町田ひらくさんと、あじまるさんから、いただきました。これだけでいい。飽食されているかたがたから嘲笑されてでも無様にはいずった甲斐がありました。



3月18日(木) 児童ポルノ法案、今後など

児童ポルノ法案について特別な情報を私が持つわけではないですが、たぶん最終調整案で通ように思います。
「ポルノ」の定義等ではエクパット関西さんの意見を私は強く支持します。「ポルノ」の定義については、矯風会的発想と、最後まで論戦が行われました。エクパット関西さんへ対し私は最大限の敬意を払います。今回の法案はここまでの形となりましたが、今後見直しされるさい、いっそうエクパット関西さんの精神が鮮明となったものとなることを今は期待します。
余談じみますが、マンボウとか私とかがこの法案に注目した理由のひとつは、この法案が実質上「悪書取り締まり」のための警察(それを含む「悪書追放」圧力)の新たな武器を与えることにならないか、という危惧でした。
「なにを『児童ポルノ』と呼ぶのか」について、法案は、かなり繊細なところに落ち着いたように私は思います。

さて、この法案成立にやや先立ち、ニュースなどでこのような報道がなされました。「『児童ポルノ』をCDロムに焼き付けたものをインターネットなどで販売していた男が逮捕された」・・・私は、これに、一種の作為を感じます。議論に議論を重ねた「児童ポルノ」という(法的)概念を、故意に不鮮明にした報道であり、警察発表だったと感じるからです。私が言っているのは、一種の陰謀論かも知れません。しかしながら、「児童ポルノ」という定義について、これまで重ねられた努力を無効化させることは望ましいことだとは私には思えません。

「悪書追放」の精神は、「人権」とは別なロジックによって成立しています。「人権」と対立するロジックです。
「悪書追放」運動は、「読書空間」の成立と、軌を一にします。「家長も知らないこと」を本で知る。読書は読む者に批判的態度をもたらします。「悪書」とは「書物」そのものを指します。「家長」にとって恐怖なのは、「悪書」自体の影響力だけではなく、家族の一人が「悪書」を手に、(家族)共同体とは別な、一人きりの世界に閉じこもることが、恐怖なのです。批判的態度を持ち、個が確立すること、それは、「家長」的実存を持つ者から見たら「共同体解体」の恐怖です。この恐怖が、「悪書追放」の精神を支えています。

「悪書」である、「有害」である、という論拠として、「有害コミック」のときも、「子ども」が持ち出されました。今回の「児童ポルノ」ではさらに「子ども」と「子どもの被害」についてより検討と論議が深化したように思います。
私自身は、たとえば「マンガ防衛同盟私設掲示板」管理者として、議論の深化にほとんど寄与しなかったばかりか管理者としてふさわしくない発言も繰り返してしまいました。そのことを、掲示板参加者ならびにマンガ防衛同盟に対し、謝罪し反省します。

法案は万全なものではないし、ぼんくらしているとせっかく積み重ねられたもの、それに傾けられた人々の労力が無視され、誤用運用される恐れは、これは人間のすることですから、常にあります。私たちはそのときに無神経な既成事実に負けることなく、「なぜ」なのか、「どういう論理なのか」を吟味し、法の濫用であるときには濫用であると主張することが、私たちに課せられていると、私は考えます。

これはあくまで私個人の感想です。(市民団体)マンガ防衛同盟その他は一切無関係です。私はマンガ防衛同盟の役職を昨年いっぱいで降りました。私のHPで「私設」してました「マンガ防衛同盟私設掲示板」もこれを機とし閉鎖いたします(市民団体マンガ防衛同盟並びにマンボウMLは私とは関係なく継続しますのでご安心を)。おつきあいいただき、ありがとうございました。



3月17日(水)

風邪に負けてる。



3月16日(火)

風邪に負けてる。



3月15日(月)

接骨院へ行く。肩の痛みは風邪による炎症とのこと。接骨院では冷湿布になるのでこれに適さないと教えられる。薬飲んで寝る。



3月14日(日)

朝、曽さん、一時帰国。
夜、首から肩にかけて、筋を違える。



3月13日(土)

風邪が好転しない。



3月12日(金)

ネーム2本。うち一本、18ページ用のもの、11ページでネタが終わる。自主没。やりなおし。



3月11日(木) 体験の総合

3月7日の日記で、就学以前の幼児段階から、視聴覚媒体によって情報を吸収し、知能形成をおこなってきた子供たちは、学校で系統的にあたえられる知識についても、その理解の仕方がちがいはじめているのではないかという意見もあるのだ。という小松左京の文を引用したけど、宮崎駿「出発点」(徳間書店)にはこんな文があった。

よく思い出してみると、この商売に入ったとき、自分たちも実に愚かな若者だったんですよね。だから「近頃の若いもんは」ということは言わないようにしているんですけど、この頃、これはちょっとまずいんじゃないかなと、職場の中にいても感じるんですよ。体験が、総合されないんですよ。これは恐ろしい経験なんですけどね。
どういうことかというと、自分の絵なら描ける、それも結構上手に描く。だから試験に受かって、ここに入ります。だけど仕事は自分の絵を描くことじゃない。人の絵をとりあえず動かしたり、間に絵を入れたりしてやるわけです。そうするとこれまでなら、その経験が自分の描く絵に戻ってきて、自分の絵がちょっと変わったり、人の絵を動かしているんだけど、自分の絵の経験がちょっとそっちに生かされたりしながら、少しずつ経験が膨らんでくる。けど、全然それが総合されない人間が出てきちゃったんです。いまから十年ぐらい前からです。本人はものすごく苦しみながらやってるんですけど、その苦しみの経験が、自分の描く絵の中に何も投影されないんですね。そのための神経索がつながってないんですよ。それは多分もっと小さいときにつながるべき神経索だったんだろうと思うしかないんですね。
色を塗る仕事があるんですが、僕らの世代では遅い早いはありましたけども、必ずある一定のところまでは誰でも塗れたんです。そこから先は適性がものをいって、手早にできるとか、てきぱきできるとか、才能を発揮していい色を決めていくとか、いろいろ広がっていくんですけどね。ところが最近は、入ったときから一年間なんにも進歩しない子がいるんです。本人は必死にやるんですよ。みんなが帰ったあとも一人残ってね。でも経験が蓄積されてこない。こういうことは僕らは予想もしていなかったことなんです。

1999年3月1日から3月10日 マシウスの夜郎自大日記

2012年03月27日 00時44分54秒 | Weblog
3月10日(水)

風邪をGET。



3月9日(火) 「ガメラ」

「ガメラ3」観に新宿へ。気温6度。三寒四温。寒い。
「ガメラ3」は、「ガメラ1」(95年)の、98%くらいの出来。渋谷の破壊シーンはなかなか良かったけど、ショッキング映画としてもう三分の一歩踏み込んでくれれば、と思う。
私は「ガメラ1」は非常に良い作品だと評価している。「ガメラ1」で最も面白かったところの一つは、怪獣退治に自衛隊を派遣するために、議会で臨時立法するさまが描かれたところだ。
「ガメラ2」はあまり評価しない。「ガメラ2」は最高の自衛隊宣伝映画だと思う。そこが最も気に入らないところだ。前線部隊が賢明かつ懸命に行動するのを描くのはいい。だが、「踊る大捜査線」で描かれているとおり、日本のシステムでは、上層部の無能さのため現場に矛盾がしわ寄せされる。これは「そういう見方もあるね」という次元の話ではなく、日本が今直面している大問題であり大現象であり同時代的で切実な現実だと私は考える。この問題への視点を鋭くアホらしく描いたからこそ「踊る大捜査線」はヒットしているのだと思う。「ガメラ2」では登場する自衛隊関係者が皆賢明すぎた。「ガメラ2」は「怪獣映画とは、戦争映画のオマージュである」という想定の元描かれたそうだ。そのことはいい。だが「戦争」とはなんであるか、ということへの考察が浅かったと思う。自らの軍隊が皆そろって賢明な判断をする、という前提で架空の戦争映画を描くのは、あまりに手前勝手だ。都合が良すぎる。戦争は愚行の積み重なりであり、愚行のより少なかった側が勝つのだ。戦争体験を持つ世代が消えた後に、「戦争」というリアルに直面したさい、人はどう動くか、それが描かれなくてはなかなかった。「ガメラ2」ではそれがご都合主義に流れ、結果、私の中では駄作という判断になった。撮影に自衛隊の協力を仰ぐ以上、自衛隊を強く描かなくてはならない、という要請はあるだろう。だが、こんだけ自衛隊が強かったらガメラいらないじゃん。
「ガメラ3」ではある程度そのことが反省されている。自衛隊は国政の管理下にある。国政のほうは(映画撮影に協力いただいているわけでもないし)賢明な判断を常にするわけではない。そこがある程度描かれている。そこが何より評価できる。ガメラが人間の味方と言うより「地球の意志」である、という位置にシフトした結果、ギャオス(人間の敵)vsガメラ(地球の意志)vs自衛隊(日本、人間)という三つ巴の図式になった。これは今後「ガメラ」シリーズが仮に続くとしたら、望ましい期待をさせてくれる。ガメラは正義だが、人間は常に正義ではいられないからだ。もし続編が描かれることになったら、そういう続編であってほしい(こういう期待はたいがい裏切られる)。
ところで、話の構成要素の中で、行き場を失っていたものがいくつかあったように思う。
人間ドラマの中心は、前田愛と、物部少年と、イリスの三角関係に絞るべきだったんじゃないだろうか。ガメラと前田愛とイリスは、加害者になる意志はないが加害者になってしまう、という点で共通している。そこのところで物部少年がどう行動するか、望ましい生き方の一つのモデルが呈示されるべきだったと思う。そう考えると物部少年と中山忍(他の「ガメラ1」登場者か、手塚とおる・山咲千里でもいいけど)はもっと早い時点で接触していたほうがよかったかもしれない。中山忍は主役然としてとてもよかった。
安藤希(のぞみ)(物部少年の妹)が後半全く登場しなかったのは、個人的に残念。構成を考えると何故登場したのかよくわからない。ちょい役としては存在感がありすぎた。その意味もったいない。(前田愛が田舎で虐められているさまはとてもよかった)
ディグさんの意見では、手塚とおる・山咲千里はいらなかったんじゃないか、とのこと。オカルトな要素が浮いている、あるいはオカルトという素材自体が陳腐化している、という意見だ。そうかもしれない。ただ山咲千里の役は、日本国家をある側面で象徴している。その意味構成要素に加えていたのは制作者の判断として賢明だと思う。その素材が消化し切れていたかというと、いささか疑問があるけど、じゃあどう描く方法があるかとなると難しくて、あのくらいに留めておくのが一つの限界かも、と、私は考える。

レヴォから落選通知。
よさこい野郎さんとこにレヴォのとき委託させていただくお願いする。
コミティアから連絡。ティアズマガジンで「偽善者」取り上げてくださるそうな。ありがたや。

夜、ディグさんが来る。「ムトゥ」観る。観てる途中で体力尽きて寝る。



3月8日(月)

事務。コピー機修繕。



3月7日(日) 「未来の思想」

従姉が資格試験で私の下宿の近くまで来たが、私は留守中。私は間が悪い。何らかのもてなしをするべきだったのに。
雨。出発がだらだら遅れる。渋滞。

ディグさんとよさこい野郎さんとMDGさんと四人でお好み焼き食べる。こーわさんとはゲーセンでちらとだけお目にかかる。ガメラ観に行かれてたそうな。
ポップンミュージック、よさこい野郎さんから買う。

『未来の思想』(小松左京・著、中公新書、昭和42年)に、こんな文章があったので、メモしておく。
就学以前の幼児段階から、視聴覚媒体によって情報を吸収し、知能形成をおこなってきた子供たちは、学校で系統的にあたえられる知識についても、その理解の仕方がちがいはじめているのではないかという意見もあるのだ。論理的にあたえられる情報を、子供たちは自分でパターン的ないしイメージ的に再構成して理解している徴候が見られるという。教師の方が算術的にあたえる情報を、子供たちはトポロジックに理解し、把握しているといったらいいだろうか。あるいは、線的・言語的な情報を点的・感覚的に理解しているとでもいうべきか。これまでの論理的情報構成に習熟してきた身にとっては、いったいこれでいいのかという不安も起ってくる(後略)
その「子供」たちは、大人になり、二世を生んでいる。ここで紹介されている「意見」はその後発展したのだろうか? たしかに自分は線的・言語的思考に弱いようにも感じるのだけど。だからそういう思考を獲得しなくてはならないようにも感じる。
それと同時に、一世代、二世代前の人間と、自分たちとでは、理解・記憶の仕方が違っている、ということには、経験的に説得力を感じるところであり、同時に、恐怖を覚えるところだ。この小松左京氏の文は、情報と教育について書かれている章だ。就学以前に大量の情報に晒されることによって、教育の場で呈示される知識が、相対的に煤けた、なんら新鮮みのない、乾涸らびた情報でしかなくなっている、ということは、子どもの頃、うんざりするほど私はあった。学習には「動機付け」が必須なのだが、「動機付け」の重要な一つに、好奇心を刺激されること、未知のものへの憧れ、知ること、未知だったものを我がものとして獲得することへの純粋な喜びがあるのだが、いくつかの幸運な例を除き、教育現場は、その「動機付け」に失敗していると私は考える。子どもは過剰な情報に現実には晒されているのだが、「学校」はその現実に適応できていない。その齟齬は現場に苦しむものにはあまりに明らかなのだが、幸運にも苦しまずにすんだり、現文部大臣のように最も恵まれた現場を職場としていた者には、その事実が見えない。自分が気づかないことは存在しないことだ、目の前にあるというが私の目には見えない、それは私が目を瞑っているからなのだが、私は目を瞑っていることそのものに気づいていないから、それはないのと同じなのだ、という感性の持ち主によって、齟齬と軋みは増大していく。そしてときに、部分のみに着目する者によって、特定の情報を管理・遮断することによって、「健全化」を図ろうとするヒステリー現象が起きる。事実を無視し欺瞞する行為が、ヒステリー、精神の失調を招く。

高室弓生さんから、カンパのお米をいただく。



3月6日(土) 湖のこと

従弟が結婚。おめでとう。彼は一児の父に。
遠縁の、私より一歳年上のかたと少しだけ話する。なにごとかしようとするとき全ての人間を丸く収める方法というのはない、という話題。
従兄弟たちと親睦を深める。10年くらい田舎を空けていることを思い知る。



湖は今年は増水。ある水位を越えると、ワカサギがいなくなる。普通、「水増せば魚増す」と言われるが、その通念が通じない。ある水位以上になると、ワカサギ生息に適さない何か毒のようなものが湖に溶け出すのではないだろうか。漁協から地元の大学などに原因の調査依頼しているそうだけど、このあたりを科学的に調べてほしい、と、地元のかたの声。
ブラックバスは、日本中のあらゆる湖、沼、池に生息するようになったが、この魚は、ルアー業者が、夜間巨大なタンクいっぱいに積んで、無断放流したものだ。釣り具であるルアーが売れるようにだ。そのため日本の淡水の生態系は破壊された。この湖では、自然状態のワカサギは絶滅した。遠方から、ワカサギの稚魚や卵を輸入し、それを放流する。だがワカサギはなかなか住まない。地引き網漁をしていた漁師は、軒並み廃業を迫られた。

湖には、水鳥が多くいる。今は渡り鳥が最も多くいる季節だ。
今年はオシドリの姿が見えない。人に捕られたようだ。
白い鴨が、以前はたくさんこの湖に常住していた。突然変異種だったのではないかと思う。最後の一羽が、今年、車に轢かれて死んだ。
以前、どこから来たのか、ガチョウが一羽だけ湖に住んでいた。鴨たちの群のリーダーをしていた。数年前、腹が異様に膨れ、衰弱していた。獣医に見せた。餌だと思って釣り具のワームを呑み、それが内蔵を塞いだのだ。数日後、死んだ。ワームや釣り針を呑んで死ぬ水鳥は多い。
雁が常住している。なかなか数が増えない。近頃の釣り師は、腰以上まで水に入れる長靴を履いている。そして水辺に産み落とされた雁や鴨などの卵をいじり、壊す。
年に一度、ボランティアによって、水辺の枯れ草が刈り取られ、焼かれる。水鳥の卵も枯れ草と一緒に、移動され、壊される。
カラスばかり増えていく。カラスは肉食だ。カラスは水鳥の雛を襲い、食う。カラスは鳥類で最も知能が高い。めったなことでは人間に捕られない。

田舎では、ここ数ヶ月の間に、自殺が四人起きたそうだ。ガソリンを被り焼身自殺、包丁を握ったまま首吊り自殺、自動車の排ガスを車中に引き込んでの自殺。





3月5日(金) 「鎖国」

出かけようとしたとこで曽さんが帰宅したので、近所に開店したばかりで只今半額のステーキ屋さんで夕食一緒する。

移動時間利用して、『鎖国~日本の悲劇』(和辻哲郎・著、岩波文庫)読了。昭和25年の作品。
太平洋戦争敗北の原因を「科学的精神の欠如」「推理力による把握を重んじない」民族の性向によるものとする。「鎖国」「国を鎖(と)ざす行動」が何を意味するか、「世界的視圏の成立」と、「視圏拡大」の欲求を持たないこと・他の文化圏に関心を持たないことが何を生み、何を失うのか、という視点から、世界史を語る。
航海者ヘンリ王子、大航海時代、コルテスのメキシコ征服、ピサロのインカ征服、日本でのキリスト教布教から禁教に至る歴史、など、今まで興味はあったがほとんど知らなかった事柄について、コンパクトに綴られてあり興味深く読む。
織田信長が宣教師を優遇したのはヨーロッパ文明を求めたためだが、不幸にして信長の周囲の知識人は信長ほどには視圏拡大の要求を持たなかった。「先駆者としての信長という人物には、よほど見直さなければならない面がある」(下巻188p)と書かれている。
ところで、先駆者としての信長、という視点は現在では常識の部類だが、私の聞きかじりでは織田信長の評価は戦後になってから高まったそうだ。この本などが、その再評価のきっかけになったのかも。ちなみに、江戸時代での民衆が信長をどう評価していたかという知ったかぶりを書くと、まず徳川政権・家康への当てつけとして徳川以前に天下人となった豊臣秀吉に人気が集まった。織田信長は天下人になる前の秀吉の、仕えにくい短気な主人、という卑小な描かれかたをして、むしろ秀吉のライバル・敵役としての明智光秀の評価のほうが高かった、そうだ。以上、知ったかぶり。
宣教師たちは「秀吉は信長ほどに他人の意見を容れる力がない」と報告している。「信長は信仰の欲求を持たず、したがって宣教師の要求する第一の資格を欠いていたが、しかし未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い欲求を持っていた。それは権力欲の充足によって静まりうるものではなかった。秀吉には、そういう点がまるでなかった」
意外な印象を私は読んで感じた。だが説得力がある。キリスト教の禁教は秀吉によってはじめられた。世界から国を鎖ざす道はそのときはじまった。
「世界的視圏」他の文明への関心、これは異質な他者への関心と表裏にある。私たちはいまだ鎖国の心を引きずっているようだ。



3月4日(木) 「古代国語の音韻に就いて」

モデムが不調になって、繋がらなくなる。5時間ほど無駄に消耗。午後、tommiさんに連絡して、教えていただき、直る。
ポップンミュージック、よさこい野郎さんから借りる。

『古代国語の音韻に就いて』(橋本進吉・著、岩波文庫)読了。橋本進吉は音韻の変化を便宜的に三期に分けている。奈良朝までを第一期、平安から室町までを第二期、江戸時代から現代までを第三期。
「は」の発音は第一期(奈良朝)より前はpa、第一期にfaに変化し、第二期に語頭以外の「は」はwaに変化する。第三期に「は」faは、haに変化する。
古語の已然形と命令形は(万葉仮名の時代は)別音だった。
「が」ngaの鼻濁音はおそらく平安時代以降発生したもので、それ以前はgaのみ音としてあった。(この本には書いていないが、近年はまたgaのみになりつつあるように思う)
本を読んで連想したのだけど、海外などとの交流が絶えると、あまり唇を動かさない、くぐもった発音が増えるように思う。逆に、海外との交流が盛んになると、唇を動かす、明瞭な発音が増える(音も輸入されるし)ように感じる。現在は発音が明瞭の方向に変化している時期だと感じる。



3月3日(水) 「竜馬暗殺」、薬害エイズ和解三周年

「竜馬暗殺」(東和ビデオ)観る。学生時代、この映画での、中岡慎太郎と坂本竜馬の友情に憧れていた友人がいたこと思い出す。私は今回はじめて観る。映画としては面白いと思う。だが私はこういう友情に憧れない。竜馬はヒーローで、中岡はメガネ君だ。観客は中岡の中に自分と同じもの、純粋ゆえの狂信を見る。純粋とは現実に対処する能力の貧弱さを意味する(それは劇中にも語られている)。中岡より愚鈍な(中岡が評すに「理想がない」)陸援隊員を登場させることによって、中岡は愚鈍な陸援隊員(それは中岡の実像でもある)と、理想像である竜馬との間でふらつく。このふらつきが、観客の実像だ。
中岡は、竜馬(理想像)のように強くありたいが竜馬(理想像)には決してなれない、現実の人間だ。私の学生時代の友人が求めたのは、「(竜馬のような)自分の理想像を投影できる友人を持ち、(ときに彼の暗殺を企てることで)彼と対等の資格を持ち、(彼に許してもらうことで)彼に自分の全てを受け入れてもらう」という、とことん自分にとって都合のいい「友情」像だ。フィクションとして、いい作り方だと思う。だが、この「物語」を現実に無理矢理当てはめようとして、他者に理想像を投影し、それは身勝手な期待であるがゆえやがてその他者が理想像に合致しないという現実に接したさい裏切られたと感じ、ゆえなき憎悪をはじめるという、「狼くん」がたくさんたくさんいらっしゃることにたいがいうんざりしている私は、こういう幻想の「友情」に憧れは抱けない。
触発されて司馬遼の「竜馬が行く」文庫最終巻ぱらぱらとめくる。「竜馬が行く」の中の、後藤象二郎に接したときの近藤勇の姿が痛い。田舎者で功名心があって朴訥で純粋で、後付けで多少の学問を懸命に仕入れ、アホなりに政治を察知しようとして、敗北していく姿は他人事ではない。
「私が愛した少女」(ポニーキャニオン)観る。イタリア映画。ヒロインがいい。家庭を結ぶため子どもが(無自覚に)(心の)病を持ち続ける、というところは、同時代的だと思う。イタリアの精神病院は開放的なのだな、というとこにも感心。子どもは三界に家なし。午前6時。



午後6時から、「薬害エイズ和解三周年『家西悟議員と政治を語る集い』」参加させてもらう。エロマンガ家しているお陰でこういう機会を得た。人生塞翁が馬。

菅直人氏の講演。かつて日本には売血があった。現在、輸血用血液は献血によってまかなわれている。しかしながら血液製剤用の血液・脳死状態の臓器を、日本は海外に頼っている、これは身勝手なことである。売血が禁じられるきっかけは、ライシャワー大使が日本国内で暗殺未遂されたさい、輸血された血液によって肝炎に感染したことによる。といったことを知る。そのうちもっと詳しく勉強してみよう。取り急ぎメモのみ。
家西悟議員は、HIV原告団代表だったので、厚生行政に色々発言している。だが厚生行政はなかなか好転しない。問題の多くは、「天下り」の慣例にある。
高級官僚の「天下り」先の機関に対し、国家予算は必要をはるかに越えてばらまかれている。その予算と引き替えに、「天下り」先での元官僚の待遇・ポストが約束される。これが行政の大きな疾病となっている。かつて菅直人は「天下り」は多くある行政問題の内の一つだと考えていたが、現在は最も重要な問題だと考えるに至っている。薬害HIVはそういう背景の中で発生した。

レセプションのとき、エクパット関西の坪井さんがいらしていたので、お話しさせていただく。今日の午前中、「国際婦人年連絡会主催『子ども買春等禁止法』について各党に聞く会」に参加された。矯風会を中心とした50以上の婦人団体と、超党派の議員さんたちの対話。矯風会は「裸イコール悪」という前提があるので、「ポルノ」「買春」の定義などで意見が対立し、えだの幸男議員がずいぶんご苦労されたそうだ。

・・・本日の反省。名刺作っておこう。

知り合いと、都知事選について無駄話。
民主党が鳩山邦夫氏を推したのは、保守層の票を期待してのことだろう。国会内には保守的空気が強いため、国民・都民の実像よりも保守層を過剰に意識してしまうことになる。
明石氏をとくに推したのは公明党だそうだ。公明党の支持団体が、国連大使していた明石氏に以前から接触はかっていたそうだ。政党政治的には、公明党に好感を抱かない票は、明石氏以外に流れるだろう、と、予測される。知り合いの観測では、明石氏自身の人格能力はともかくとして、自民党という枠から出馬する以上、知事になったのちはその枠に縛られ、都政は停滞するだろう、とのこと。
桝添要一氏の考え支援している「市民運動」は、ガーディアンエンジェルズを指す。リベラリズムの敵だ。
・・・民主党は今回の都知事選、候補の立て方に失敗した、と、私は考える。保守浮動票の食い合いをしているが、本来民主党が期待するべき民主中道(センターレフト)の受け皿がないからだ。邦夫ちゃん以外の候補を立てることができたら、ほぼ間違いなく勝っていただろうに。と、思う。

家西悟議員の「集い」には、鳩山邦夫、鳩山由紀夫、えだの幸男、羽田孜、土井たか子、笹川たかし(自民党)など、さまざまな党の議員が参加していた。家西議員の仕事が政党政治的でなく、意義ある仕事をしているためだと思う。



3月2日(火) 悪魔みたいな、interest

設計士氏と打ち合わせ。私は少し風邪っぽい。
妙に電話多い。2月25日の日記で書いた、記憶錯誤していたかもと思っていたこと、錯誤でなかったことの確認に成功。尾城さんを煩わせてしまった。財政、好転。気を抜かず丁寧に生活立て直そう。
練馬方面から変わった仕事の依頼来る。

ディグさんと会話。ディグさんが言う。
「宮崎駿て、スタジオの他の人間にとっては悪魔みたいな人だと思うんですよ。まず、色んなことを知っている、そんなことまでということまで知っている、仕事の経験が長くて多い、今でもすごく仕事している、すごく努力家で、おまけにいつでも仕事場にいる、何を描いて持っていってもきっと何かしら言われる、(たぶん)決して誉めない、これは同じ仕事場に通う人間にとっては悪夢ですよ。『ER』の主人公の一人がそういうキャラなんですけどね。・・・決して人を誉めない、ってとこがひょっとしたらポイントかな」
面白い視点だと思う。ここにメモしておく。
ディグさんが「面白い」と感じる映画を、私なんかは観てるとつい眠ってしまったりする。
「本当にいい映画ってのは文学と同じで、観客の側に参加や緊張を求めるんですよ。映画を見慣れてないと、それに気づけなくて退屈とか眠いとか感じちゃうんでしょう」
そうなのだろう、映画に対する私の感性は幼稚だ。私は「ポルノ」しかわからない。
ちょうど桑原武夫『文学入門』(岩波新書)を私は読んだばかりだったので、ディグさん相手に、「面白さには二種類ある、とその本に書いてあった」、と、知ったかぶる。interestingとamusingの二種類だ。amusingでは読者は与えられた娯楽を消費するのみだ。interestingでは読者が能動的に作品に参加する、読者は緊張を求められる。「オタクな」という形容で軽蔑されるたぐいの作品はamusingだけで、interestingに欠ける。ポルノはamusingであり、芸術はinterestingだ。ヒット作はamusingとinterestingのバランスがいい.。
ディグさんが言う。「amusingのみで作られた作品は読者のinterestingを呼ばないから、結果、物足りなさを感じさせますね」
「ポルノ」はセックスを扱ったもののみを指すのではない。たとえば「巨大ロボット」はポルノだ。「こういう快楽をあなたに与えます」ということが明らかで露骨なものは、ポルノだ。安易なファンタジーもどき、安易なSFもどき、安易なホラーもどきはポルノなのだ。
あるものを「面白い」「好きだ」と感じるとき、「ポルノ」として好きなのか、interestingを覚えるのか、少なくとも作者であろうとする人間は分けて考える必要があると考える。
私たちはもっとamusingを会得しよう、とディグさんと話す。



3月1日(月)

非建設的に過ごす。
キャッチホンの設定してみる。

1999年2月21日から2月28日 イジレッチャー夜郎自大日記

2012年03月27日 00時43分38秒 | Weblog
イジレッチャー;他者の動作が緩慢で賢明でないことに対し不満の意を表すさい用いる。
形容詞。ふつう名詞格補語として用いられる。

新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。

過去の日記へ 3月の日記へ

2月28日(日) 君が代

 コンピュータさま立ち上げると、何か知らんがモニター消えてること数回。そういうときにはモニター電源入れても点かない。どうしたんだろ?

 ISDNアダプタの取説、とんでもないとこから発掘。一人暮らしでも相当ブラックホールだらけになるけど、二人暮らしなのだからなおさら。

 法案の最新版入手。意見伺うためエクパット関西さんにも回す。

 君が代斉唱しろという文部省と、その強制に異議を唱える教職員組合の板挟みに悩み、広島の校長が自殺、というニュース。これで連想したのは、戦前、火事の校舎から陛下御真影とりだそうとして焼死した校長の話。たしか丸山真男の本で読んだように覚えているけど、原典あたれず。どの本だっけ? それとも別な本だったか? 間に立つものは辛いだろうが、今回自殺した校長は、彼自身としてはどちらの主張がより筋が通っていると感じていたんだろう? より筋が通っていると感じる側に徹底して与するある種のエゴイズム・愚鈍さがあれば、自殺という選択はしなくてすんだように思う。そういうエゴイズム・そういう鈍感さは鍛錬を必要とする。そういう鍛錬が、人間には必要なのだと思う。
 君が代・国旗のことがらがいまだに精算できていないというのは、戦後の精算ができていないということで、その精算ができていないということ自体、日本の恥ずべきことだと私は思う。でもって、私は教職員組合の側の意見に賛成する。
 君が代を斉唱させる率を向上させるということは、人間の生命より重要なことなんだろうか?

 

2月27日(土) 目を瞑れば安心

 朝生で、邦夫ちゃんが「都知事になったら東京の食品の安全のため汚染を調べる」と言って、他のパネラーから叩かれていた。
 私は食品の汚染を調べること自体には賛成だ。どのみち安全な食品など存在しないのだ。だからこそ、どの程度危険なのか実態を公共組織が調べ公開することはいいことだ。そのほうがむしろ深刻な汚染に至る前に本気で対策対処しようという合意ができるからだ。いや、とっくに深刻なのだろうが、だとしたら深刻であるという事実に対し真摯になるべきなのだ。目を瞑って何も知らされないことによって「きっと安全なんだ」と根拠なく思っているより、どのくらい危険なのか自分の目でよくよく見ながら行動するほうが間違いなく賢明だからだ。
 だが邦夫ちゃんが何も考えずに喋っていることは明白だった。戦争展で日本軍の犯した蛮行を展示するのは「そのことによって日本人を卑屈にさせるからよくない」という意見の邦夫ちゃんは持ち主だ。目を瞑っているほうが邦夫ちゃんは安心なのだ。
 あるいは、邦夫ちゃんはまるっきり国民・市民というものを信用していないのかもしれない。国民が「本当のこと」を知ったらパニック起こして自暴自棄になってしまうと恐れているのかもしれない。あるいは国民が「本当のこと」知ってショックを受けないように、という「親心」なのかもしれない。こういう「親心」を「パターナリズム」という。大きなお世話なのだ。事実を目の前にすることによって錯乱するような貧弱な精神は軽蔑されるべきなのだ。でもって邦夫ちゃんはそういう軽蔑を国民に対して抱いているのだ。

 事務作業。
 ディグさん誕生日。何もしてあげられず。

 

2月26日(金)

 ナンプラー(タイの魚醤油)と唐辛子で、エスニック風肉じゃが作ってみる。とても美味しい。

 ICQ登録しようとすると、なんか知らんが、止まる。

 

2月25日(木) 記憶の錯誤?

 時期も覚えている。4ヶ月ほど前だ。子細も覚えている。こういうことをそのときに話したはずだ。
 だが、この記憶が、自分の妄想、記憶の錯誤だったらしい。それは実際にあったことであれば自分にとって都合がいい。そのため事実ではないということを納得できない。私が騙されているか、私の記憶が私の都合のいいようにねじ曲げられ私の中で定着していたか、どちらかだ。
 理性的に考えるなら、可能性としては、たぶん、後者のほうが高い。ちょうど丸一年くらい、記憶がずれているのだとしたら、それはそれでありそうなことだ。だが、今日まで、心の一部で頼りにしていた、それが妄想だとしたらさもしい記憶だ。これが記憶の錯誤だしたら、自分という存在はなんとまあ頼りにならないものなのだろう。そして、そんなものは、たぶん頼りにならないものなんだろう。

 記憶がずれていたわけではないらしい、ということ確認。願望がそのときに聞き違いをさせたらしい。どっちみちよくわからない。相手方がそんな事実はないと言っているのでこれ以上考えるのはやめる。

 

2月24日(水) みいちゃん

 東京は曇りのち雨。
 田舎では雪。今年初めて雪を見た。寒さは、地元の感覚ではそれほどでもないが、東京程度の防寒しかしていなかったので、寒さで腹をこわす。
 設計士氏は、技術者・芸術家としての腕はよいが、商人としては誉められない。そして、そのクライアントである当方にとって、それは微笑ましいことではない。

 みいちゃんに会う。彼女も風邪。熱のある顔をしている。熱が40度を越えると脳の蛋白質が変質するぞ、と、脅す。彼女の父方の祖母の話を聞く。当然与えるべき愛情を与えない人間はどうしてこうも多いのか。恋うは乞うから来、愛しはかなしと読むそうな。みいちゃんから「少女コミック」もらう。
 「最近、ブルース・ウィルスにはまってんの」と、みい。「みいね、オジサンが趣味なんだ。オジサンでね、かっこいいのが趣味」
 「前はブラピがいいって言ってなかった?」
 「結婚しちゃったんだもん。・・・あたしが知らないでするんだったらいいけど」
 色々連想できる、趣のある台詞だ。そのうち漫画に使おう。ここにメモしておく。
 みいちゃんの祖母(前述の「父方の祖母」とは別人)のことを、別な場所でみいちゃんの立場になって「おばあさん」とつい呼んでしまって、自分でハラハラする。俺にとってはそうじゃないだろ。罪悪感。日本人は恥を恐れ罰を恐れるが、罪を恐れないそうな。良心をごまかす連想。

 曽さん帰宅。

 

2月23日(火)

 非建設的に過ごす。

 

2月22日(月) オサンドン

 午前6時頃就寝。
 午前9時半頃、留守電に足立真一さんからのメッセージ。切羽詰まった声だったので、起きて、足立真一さんに電話する。
 風邪が酷くて、熱が凄い、原稿の手伝いをして欲しい、家族が誰も今いなくて、風邪薬買ってきて欲しい、とのこと。
 風邪で苦しみ熱にうなされているとき、自分以外誰もいず、風邪薬を買う金もなく食事すらまともにとれず死の恐怖を覚えたことが、私にも過去あったので、原稿の手伝いはともかく、オサンドンさんしに行くことにする。

 風邪薬を買い込み、バス、電車、バス、徒歩、で足立真一さんの家に着いたら、足立さんのお父さんが、私より一足早く帰っていらした。
 足立真一さんの部屋へ。足立さん、たしかに体調劣悪なご様子。MAC画面に作業途中の絵が表示されている。足立真一さんが言う。
「鎌やんさん、Illustator使えますよね?」
「いや、使えないよ」
 あっさり私は否定する。足立さんの容態が一気に悪化する。どうした? なにかショックなことでもあったのか?
 あまりものを口にしていないようなので、バスに乗って、買い出しに行く。
 「俺が機械いじるより、足立さんが体調回復するのを早めるほうが、結果として早く終わるはずだよな」
 と自分に都合良く考えながら買い物。買い出しから帰ると足立さんのお祖母さんがいる。なんか、来た意味がだいぶなくなっている。
 卵酒の作り方書いた手帳を自分の部屋に置き忘れてきたので、実家に電話する。妹が出る。妹から手順を訊く。作る。ちょっと失敗する。なぜ失敗したか愚痴りたいところだけど、僕は男の子だから愚痴らない。足立真一さんに卵酒を呑ませる。
 シチューを作る。吸血鬼が逃げ出すほどニンニクを使用する。作りながら足立真一さんの容態看ると、もの凄く体調悪くなっている。どうした? 何か変なものでも食べたのか?
 見るからに高熱に苦しんでいるようだったので、タオルを水で冷やし、足立さんの額に当てる。シチューを食べさせる。足立さん、手が震えている。
 水道でタオルを冷やしても今ひとつ冷たくならない。足立お祖母さんに氷嚢を捜してもらう。見つからない。洗面器出してもらう。洗面器に氷水を作り、それでタオルを冷やす。
 手がかじかむほどタオルの取り替えをする。足立さんが一人暮らしならともかく、私は何してんだろうか、という疑問もちょっと湧く。
 ひょっとしたら自分がしているこれは美しい行為かもしれない、と自己耽溺もしかける。しかしながら熱冷まシートのあるこのご時世に手をかじかませるのは合理的ではない、と考え直す。足立真一さんから薬店の位置を教えてもらい、買いに行く。
 「風邪で死にそうだけれど、家族が誰もいない」という呼び出しは強力だな、などと道中夢想する。女を部屋に呼び出すときには現実的に有効だな、と考える。あ、でも、みいちゃんには使えないな、遠距離すぎるから、などと莫迦な思いに耽る。
 薬店、開いているのに店員がいない。
 「すみませーん」
 呼ばわってみる。人のいる様子ではない。座敷を覗いてみる。人がいない。おいおい。けっこう高い商品もあるのに。
 困ったなー、ど-しよーかなー、これが自分の村でだったら書き置きしていけばどうにかなるけど。と考える。
 足立さんが心配だったので、金置いて商品持っていこうとする。陸橋を渡りきり道路の反対側に出たとこで、店主のおじさんらしき人が店に戻ってくるのが見える。犬の散歩をしていたらしい。陸橋を戻り店に帰って、薬店のおじさんに事情説明する。ばつが悪くて二個買う。
 これが「郊外」だ、と、恥ずかしい気持ちをごまかすべく考える。薬店のおじさんは「田舎」のひとの考え方をしている。しかし環境は都市化している。逆に、足立さんは「都市」のひとの考え方をしている。足立さんから見ると環境が田舎である。以上、良心のごまかし。
 足立真一さんに熱冷まシートを貼る。
 足立さんが寝ている傍らで、オスカー・ワイルド『幸福な王子』読む。収録作の「忠実な友達」「すばらしいロケット」、主観と客観のズレ、自分にとって都合のいい思考法の醜悪さが描かれている。この作品が非難しているのはこの俺のことだ、と、読んで痛がる。痛い痛い痛いよお。
 食べると当面人に会えなくなる、ネギとニラとニンニクだらけの豚汁か、風邪に効くゼンザイを足立さんが起きたら作ろうと思っていたけど、起きないので、作らない。
 二時間ごとに熱冷まシートを取り替え、終電の終わる前に帰宅。
 日記を書くまで、今日はちょっといいことをしたような気になっていた。文章化して、どう自分を欺瞞していたか気づく。 

 

2月21日(日) 声、ホルス

 大宮へ行こうと予定していた。寝過ごす。
 みいちゃんから留守電にメッセージがある。なにごと? 自分にとって都合のいい妄想をめいっぱい膨らませ電話する。
 みいちゃんの母親からの依頼ごと。さっきまでの妄想を忘れ去って、自分は他者のために骨身を尽くす人間であると速やかに欺瞞を完了し、その後数時間自分のやましい心を忘却させるべく依頼ごとをつとめる。

 みいちゃんの声は、いわゆる「可愛らしい声」ではないな、と思った。ある美人なかたと電話したときも同じ印象を持った。「はすっぱな」という形容が合う、潤いが乏しく、どこか人を拒絶しているところが、共通して感じられる。
 声は、自己イメージに左右される。自覚するしないは別として、自分が他者からどう思われたいか、あるいは、自身をどう思っているのか、という自己イメージは、声・口調に顕れる。
 声はひとの印象を決定する。そのことに無自覚だった人間が、社会に出てから「好ましく思われる」よう大急ぎで演出した声には、嘘臭さがつきまとう。自己イメージの力が弱いか、自身を好ましい存在と思っていないか、いずれにせよ演技力が乏しい。演技力のある人間は、自分は心底そう思っていると自分に言い聞かせているものだ。演技以外の声を忘れてしまった人間もいる。演技以外の声・言葉を忘れ、自分で自分を支配できなくなると、つまり「素の」自分に戻れず、「作った」自分が暴走をはじめると、これが分裂症と呼ばれるらしい。
 みいちゃんは美少女だ。だが、他者から「可愛らしい」と思われることを求めまい、と彼女は無意識に思っているのだろう。「可愛らしさ」とは、無力であること依存的であることも、概念として含む。みいちゃんは、他者に依存してたまるものかと感じているだろうし、自分が無力な存在であってなるものかと感じているのだろう。そこに痛ましさを私は覚える。以上、過度の感情移入。

 『太陽の王子ホルスの大冒険』観る。
 宮崎駿も高畑勲も、これを作るまでがたぶん最もたいへんで、この後はこれを(無意識に)骨子としているのかな、などと思う。この時点では成功できてなかったとこを、その後の作品で色々工夫していったんだな、とか。白土三平の影響を当時強く受けてたのかな、斧はワタリで村長はカムイ伝の庄屋だな、とか。
 ヒルダは薔薇の花嫁だな、とか。民話で女性に悪が投影されがちなのは、男にとって女は他者の最たる者、異邦人(よそ者)だからなのだな、とか。だから「ホルス」では少年の恋人という役柄も与えているんだな、とか。少年(男)を主人公にすると、女性に悪が投影されるのは男の都合による、という点が不明瞭になるから「ウテナ」は少女が主人公なのだな、とか。
 話の前半でびっくりするような動き描いて、後半はそれほどでもないのはこのときもなんか、とか。
 「これ舞台どこなんだろう?」とディグさんが疑問覚える。何となく北の国、という想定なんちゃうんか、敢えて特定するならスカンジナビアかスエーデン違うか? と私が言う。「アイルランドか、いや、ロシアかな」と、ディグさん。
 「話のモチーフになった民話あるのかな?」とディグさんが疑問覚える。 東映の労働組合争議がモチーフなんちゃうんか? と私は知ったかぶってみる。 「だとしたらなおのことロシアの話なんじゃ・・・あれ、でもバグパイプ吹いてる」とディグさん。
 色々思う。すると悪魔は、皇帝・権力の象徴か。権力は虚構によって守られる。「太陽の剣」は事実・真実の光であり、それに照らされることで、虚構によって守られていた権力が無力化し、悪魔が敗れたのか。ヒルダの持つ魔法の石は、虚構の力、嘘の塊、・・・あ。この着想はいいかもしれない。
 冒頭、悪魔とホルスが出会うシーンで、ホルスの命は悪魔に握られている。ホルスは悪魔の手にある命綱にすがりながら悪魔を罵倒する。ここの展開は私には奇妙に感じられる。ディグさんが言う。
「ホルスは、自分から手を離すほうが面白いですよね。手を離し、落ちるかと視聴者に思わせておいて、悪魔めがけて駆け出す。・・・あ、でもそれじゃ少年らしくないか。この真正直で駆け引きしないとこが少年らしいのか」
「ディグさんのアイデアはいいんじゃない? たしかに少年がそうするより、世慣れした大人、たとえばルパンがそうするほうが、似合っているけど」
 と、ここに記しながら、あの綱は会社からの給料、という暗喩なのかな、などとも思ってしまった。制作者は自覚的じゃないだろうけど、制作者の置かれている現実は作品を内面から拘束する。だとしたらあの時点では制作者にはああしか描けなかったのだろう。見せ方としてはディグさんの出したアイデアのほうが優れていると私は思うけど。
 ・・・今述べたここのシーンよりも前に、ホルスが自分の目で悪魔の所業を見つめておくことがシナリオ上必要だな、とも思う。ホルスは悪魔からどんな被害をこの時点で被っているか、若干疑問がある。そしてそれが悪魔の仕業だとする有力な証拠は、父親の臨終間際の台詞以外ほとんどない。すると、ホルスは、他者からの伝聞で悪魔の性格を決めつけているのでは? それはまずいんちゃうか?
 ホルスが悪魔を「敵」と見なし、ヒルダを「味方」と見なした理由は、ホルスが彼・彼女をどういう人格だと思いこんでいるのか、思いたがっているのか、ということ以上の説明が、作中でなされていない。
 悪魔が登場シーンで曲がりなりにもホルスの命を救っている(命綱を握っている)のは、これは、いかがなものかと思う。悪魔(資本家)は先天的に悪魔という制作者の教条。このあたりは、この時代の作品に共通する欠陥なのかもしれない。主人公の実存と、主人公の掲げる理念が乖離し、そのことに作者が無自覚であるところ・・・『ザ・ムーン』『男組』など。
 筆を滑らせるが、教条主義ほど世に害をなし醜いものはない。理念と教条は、理念を知らないものには区別できない。

1999年2月11日から2月20日

2012年03月27日 00時42分48秒 | Weblog
2月20日(土) 永山さんに会う

 曽さん仕事へ。
 Illustratorいじくる。わかんなくってディグさんに来ていただき教えてもらう。前にtommiさんに教えていただいたとこがわからなず、作業が完全にストップする。発狂しそうになってtommiさんに電話する。通じない。
 永山薫さんから電話。唐沢俊一氏のロフト、観に来てみませんか、とのお誘い。足立真一さん風邪だというのを私が無理矢理呼び出す。
 出かける間際、tommiさんから電話いただく。疑問の箇所を教えていただく。ありがとうございます。
 足立真一さんと待ち合わせ。足立真一さん体調が崩れ辛そう。長電話の後で体調崩れたそうな。ごめん。
 松沢呉一さん、伊藤剛さん、山崎一幸さん(メールマガジンradica)にお会いする。
「あら。俺、すっかり『永山一派』ですね。永山さんのおっしゃってた『全方位外交』を心がけてたのに。」
「全然全方位外交になってないよ」と、永山さんから諭される。そうだったか。
 山崎一幸さんから、notのみで組み立てるプログラムの話を教えていただく。「~ではない」という指令のみで論理を組み立てると、機械内部では簡単で単純になる。外からはよくわからないものとなる。(閉塞的)オタクの思考法との共通点が感じられる。
 私と足立真一さん両者へ、もっと仕事しなさい、と永山薫さんから忠告される。ごもっともでございます。作品でもって読者をねじ伏せていないという事実に対して謙虚にならなくては。現在の美少女漫画業界は、三流エロ劇画の末期に似ている、という話を伺う。そうなのか。なら、あのときと同じく、たぶんそう遠くないうちに劇的に流れが変わるのだろう、と私は予想する。漫画業界には余裕がなくなっている。漫画家はこの厳しい状況で生き残りを真剣に考えなくてはならない。という話題。どういう作家が生き残るか、という想定では、たぶん永山さんと私の想定は異なる。「自分だけは絶対生き残る」という、ここだけは、私は自分にとって都合のいい思考を捨てない。これが単なる欺瞞に終わりませんように。
 松沢呉一さんから、ガロについて面白い話を伺う。
 駅へ行くと、終電が終わっていた。あちゃ。足立真一さんと「つぼ八」へ。力とはなんだろうか、知名度は力だ、といった話をする。絵の勉強をちゃんとはじめます、と足立真一さんに誓う。足立真一さん、ズタズタな体調でお帰りになる。お疲れさまです。

 作品描くことに力回すべく、HPはほったらかしか、閉鎖にするのが吉かな、と思う。とりあえずこーゆー公開の日記に本当のことを書く必要も義理も、誰に対してもないということだけ記して自戒しとこ。

 

2月19日(金) 長電話7時間

 足立真一さんから電話。7時間ほど話す。いくつも着想をいただく。
 男の描く女の子は、つまるところ自分の内面の女性像だし、少女は性の未分化な内面の子どもなのだろう、と言ってみる。「ああ、なるほど」と足立真一さん妙な得心の仕方する。私の内面が想像できたそうな。
「どんなことがわかったの?」と恐る恐る訊いてみる。
「鎌やんさんは、本当は他者に優しい人じゃないでしょう。優しくしよう優しくしようとして優しくしているでしょう」
 そ、そうだったのか。自分のこと、ひょっとしたら根の優しい人間かもしれないと思っていたのに(笑)。

 

2月18日(木) こみくら10、勝者

 キャッチホン機能が正しく機能していない。NTTのせいではなくて私のせいらしい。ターミナルアダプタの取説見つからない。

 COMICアリスくらぶ10号届く。もりしげさんの漫画が久しぶりに載っている。町田ひらく先生はカバーに名はあるけど載っていないようだ。町田ひらく先生を天才と認めるにやぶさかでない理由の一つはその生産量にもあるのだけど、珍しく落とされたのだろうか。天才も人なり。タカハシマコ先生の漫画はいつも痛くていい。聞くところではやおいの世界の巨匠だそうな。
 町田ひらく先生の「ALICE BLAND」とすえひろがり先生の「タイムマシン」とその他雑誌含め数册本を編集さんからいただく。・・・こんなに編集さんに本頼んどいたかな? あ、チョコも入ってた。あれ、手紙があるぞ。手紙には、コアから私のコミックス出るかもという話が潰れた、とある。がく。そうか。編集さん気を遣ってくださったのか。コアの営業を説得できるよう説得力を自分で演出しないとなあ。どうやら法案の行方などで営業さんがびびっているらしい。
 そうか。児童ポルノ法案は人ごとじゃないんだよな、まったくもって自分の生活に直結してたんだな、と、莫迦なこと思う。自分一人のため、とだけ考えて動けるほど人間は強くない。大義に殉じているんだと思わなければ日々を生きるのだって辛すぎる。そして心底そう信じることができるときにたぶん人間は充実する。充実を求めてカルトの餌食になったりもするわけですが。事象において利己的な行動に限って人間は自身の心に対しそれを利他的行動であると言いくるめようとする。今回の場合、自身の心に対して説得力持たせるために「法案をネタにして金儲けしたろ」という行動から最も遠い行動を自分に対してさせているのだろう。そういう意識に無自覚であるほうがおそらくそういう行動がとりやすい。
 法案のことでしなくちゃならないこと、しばらくほったらかしにしていたのだが、連絡するべきとこに連絡してみる。自分がしなくちゃならなかったことは、自分抜きにどうにかなっているっぽい。そのことは自分にとっていいことではきっとないだろうけど。

 私は麻雀が弱い。自分の手の内にばかり夢中になり、周りを見ないからだ。そしてそれ以上に、強気になるべきときに強気にならないからだ。負けることが何より嫌いなのに、勝つことにはやましさばかり感じるからだ。勝つ人間は、勝つことになんの心の痛みも感じないよう自身を訓練づけた人間なのかもしれない。
 勝者の概念が私は誤っているのかもしれない、と、思い直す。どう自分は思いこんでいるのか。勝者は一人である。勝者は孤独である。私はこの孤独が怖いのかもしれない。たった一人である存在は、やっかみの的である。たった一人である存在に対しては、無名な群衆ではないという理由によって、脅威を感じない無名な群衆に彼を変えようと、彼以外の群衆は、執拗に、入れ替わり立ち替わり画策し続ける。
 しかしこの自分の思いこみは改変するべきだ。勝者は孤独だが、勝者は複数いる。孤独に耐えた者同士だけが真の連帯を知る。したがって、その連帯を求めるためにこそ、勝者にならなくてはならない。孤独な勝者だけが孤独ではないのだ。
 以上、畳の水練。 

 

2月17日(水)

 非建設的に過ごす。

 

2月16日(火) 自分語

 某方言をHPの目次に試みに用いてみる。他者に用いているのか自身に用いているのか誤解被りそうな説明文になってしまった。なかなかむずかしい。

 曽さんの原稿少し訳し、S社へ。
 打ち合わせのあとで曽さんが愚痴る。
「編集さんの言ってる内容は俺、理解できるのに、内容が理解できていないと思われる。そうじゃない、言葉がなに言ってるのかわからないんだ。俺、日本語の名詞よくわからないんだ。もっと簡単な言いかたしてくれれば俺わかるのに。
 これ、仕事場でも同じだ。『サカヤを描け』って言われても、俺、何言われているのかわからない。『サケを売っている店を描け』って言ってくれれば、俺、わかるのに」
 曽さんの語学力はそうとう上がっているが、それでも日本人の小学6年生くらいの語彙しか持っていない。漢字の熟語は、広東語と日本語では発音が全く違う。広東語の音は日本になく、日本語の音は広東語にはない。私たちは漢字熟語を耳で聞いたとき、その音を自分の知る発音として拾い、それを脳裏で文字化視覚化し、意味を同定する。文字で書けばすぐに理解できるが、その漢字熟語を耳で拾うことは、彼にはできない。
 日本人同士であっても、ひとは、「自分語」を話し、互いに「自分語」を自分の脳裏の辞書で訳しあってコミュニケーションしている。突っ込んだ話をする相手に恵まれていなかったり、人格が未熟だったり、交流する関係ではなく服従させる関係しか経験していなかったりすると、日本語を習得せず「自分語」だけですませている人というのは、案外多い。
「子どもや外国人と話すると、その人がほんとに頭いいのかどうかわかるよね。難しい言葉をただ言葉としてだけ覚えている人は、別な言葉で同じことを言うことができない。自分が言っている内容がわかっていない人は、『自分語』が通じないと、『自分自身がろくすっぽ理解できていないのだ』とか『自分の説明する能力が弱いんだ』と想像することを拒否して、『相手が莫迦だ』という結論に飛びつきたがる」
曽さんが聞き違える。「頭弱い人?」
「そうだね、頭いい人か頭弱い人かわかるね」

 

2月15日(月) もののけメイキングビデオ

 コミケ申込書郵送。サークルカットは時間との闘いに敗れる。受かりますように。
 曽さんの原稿訳す。意見交換。曽さん、今日編集部に持っていく予定を、明日に延ばす。
 肩から首にかけて痛みが走る。寝違えに近い状態に。久しぶりに接骨院へ行き、低周波治療してもらう。
 曽さんから焼き肉おごっていただく。

 ジブリのもののけメイキングビデオ第2集レンタルして観る。ディグさんから「NEWTYPE」見せていただく。ターンAガンダムと映画版ウテナとガメラ3の記事を読む。なるほど、これが噂のシド・ミード・ガンダム。

 ジブリのビデオで、「もののけ」の(宮崎アニメらしからぬ)残酷シーンを宣伝のさい、あえて前面に出した、という戦略が明かされる。(短期的に)作品にとってマイナスに見えるような記事こそ、記者は喜んで飛びつく。そういう記事が、ある程度の時間の中で語られるうち、プラスに転じるのだ、とのこと。
「そうか!」とディグさんと得心する。「シド・ミードデザインのガンダムを宣伝の前面に出している理由はそれか」

 宮崎駿への評価はディグさんと私はほぼ一致する。彼は現在存命する数少ない本物の巨匠だ。
 高畑勲への評価はだいぶ異なる。「蛍の墓」の評価で、いつものことだが、意見が分かれる。
 私が言う。「高畑は観念を転がす作家だ。俺はそこが嫌いなんだ。視聴者がアニメに求めるのは転がされた観念自体ではない。アニメの動きそのものだ。観念は動き自体で語らなくちゃダメなんだ」力説しながらいつも自分がやっていることがまるでその逆であることに気づかされる。そのことも私が高畑を評価したくない理由の一つだ。
「主人公がなんら建設的なことをしていないところがダメだ」と言葉を続ける。
「主人公がけなげに最大限の努力をして、それでも悲劇的結末を向かえなくちゃ納得もできないし共感もできない。高畑は甘いんだ」
「主人公はたしかに何も建設的なことができていないけど、それは彼が子どもだからじゃないですか。普通の子どもが戦争という極限状態に置かれたら、だれだってろくなことができない、妹と二人きりで暮らそうなんて莫迦な夢想を、子どもらしい夢想を考える、戦争というものはそれすらも許さない、そこが共感できるしいいところなんじゃないですか」と、ディグさん。
「戦争が極限状態だと言ったって、醜いエゴイズムが露呈されるのは、別に戦争状態だけに限らない。現代にだってある。『戦争』を『醜いエゴそのもの』として捉えるならば、あの映画が現代で作られたからには、現在今ここで直面するだろうエゴイズムに通じるものがあの作品の中で、具体的に語られなくてはならない。そうでなければ現代に作られた意味がない。過去のある時期をけなしているにすぎない。あるいは憐憫しているにすぎない。だとしたら情緒に流されたにすぎず、本来作品が訴えるべきであった、あるいは作者が転がしたはずの観念は視聴者に届かないことになるはずだ。
 なるほど、ディグさんの読み方は意義深い。俺にはそういう読み方はできなかった。ディグさんがその捉え方を用いて自覚的に作品を作ったなら、それはいいものになるだろう。だけど俺にはあの作品がディグさんが読みとったほど自覚的であるとは思えない。これは、俺が冷たい見方をしすぎているのかもしれないし、ディグさんが俺より作品に対して好意的に観ているせいかもしれないけど」と自分に都合良く記憶している幼少期への怨恨を込めて私は力説する。
「どうしてそんなに『蛍の墓』が嫌いなんですか?」
「人間のエゴイズムの醜さは、あんなもんじゃない」
「ほんとに人間が嫌いなんですね」

 

2月14日(日) コミティア

 眠らないままコミティアへ。毬藻公司さんのお隣だと、着いてからわかる。色々ご迷惑おかけしました。
 コミティアでは「新筋肉番長」入手できたのが嬉しい。あと、すすき野さん、MDGさん他と同人誌交換させていただきました。
 手伝ってくださると言っていたディグさんの到着が遅れる。眠さと空腹で気が遠くなり人の声が聞こえなくなり反応応対できないことしばしば。失礼しました。
 お客さんで、励みになった、といった旨をおっしゃってくださったかたがいらっしゃったのは、こちらこそ励みになりました。
 ディグさんが来てくださったので、店番から離れ、初めてTRCの食堂施設でご飯食べる。ハズレ。
 コミティア終了後、ディグさんよさこいさんとTRC近くの水族館覗く。こんなとこに水族館あったと知らなかった。こういう施設はできる限り利用するべきだと思っていたのでいい機会だった。水族館でペンギンを見る。水の妖精クリオネの食事するシーンのビデオ見る。なるほど、「クリオネの食事シーンはおっかない」と聞いていたけど、これは怖い。カールビンソンのチカちゃんそのまんま。クリオネは貝の仲間だと知る。
 タイ料理で栄養補給して二人と別れる。
 曽さんサッカーに行っていて不在。家についてすぐ寝る。

 

2月13日(土)

 Illustratorいじくったり、tommiさんにいじりかた教えていただいたりする。
 よさこいさんから電話もらう。コミティアには行きます。

 中国史の夜郎の資料見つける。夜郎はオアシス国家でなく中原から見て南西、蜀(四川)の上流とわかる。時代は漢の武帝の頃。紀元前1世紀くらい。後で日記、書き直しておこう。

 曽さんの原稿を訳す。意見交換。
 コミケ申込書のカット描き。うまくいかない。

 

2月12日(金)

 tommiさんにつきあっていただいてHDD購入。コンピュータさまの改造していただく。

 

2月11日(木)

 非建設的に過ごす。
 曽さんが言うには、香港ではバレンタンデーは男が女性に贈りものするそうだ。
「花とか贈るわけ?」と私が訊く。
「そう。日本はいいなあ。日本と香港とやっぱ全然違う」と、曽さん。
「日本では、最初にチョコレートの会社が『バレンタインデーは女の人が男の人にチョコを贈る日だ』、って広めたからね」などと知ったかぶる。
曽さんが続けて訊ねる。「じゃあ、クリスマスと同じでこの日はホテルがいっぱいになるのか?」
「クリスマスほどじゃないけど、まあ、多少はあるんじゃない?」と知ったかぶる。
「いいなあ、日本は何でもセックスだな」
どうも誤った日本像を植えつつある。
 曽さん、財布を落とす。

1999年2月1日から2月10日

2012年03月27日 00時42分09秒 | Weblog
2月10日(水)

 東京都知事選、民主党からは邦夫ちゃんが出る。げんなり。自分のことを「少年のような心」とか言っている。「少年のような」とは他者の幼児性を好ましいものとして表現する言葉だ。なるほど邦夫ちゃんの単純な気性は彼の幼児性から導かれるのだろう。鳩山由紀夫がさきがけを出て新党を作りたい旨言い出したとき、菅直人がそれに合流したのは、鳩山氏の能力に期待したわけではなく、鳩山氏の財力が期待できるものだったからだ。
  私は司馬遼の「項羽と劉邦」が好きで何回も読んでいるけど、劉邦も大富豪の呂一族と姻戚関係を結んだことで、漢土制覇の財政的基盤ができた。その後の中国史は建国を劉邦の故事に倣っている。なるほど財力はそのために必要なんだな、と、子どもの言うようなことを恥ずかしげもなく書き置く。午前4時半。

 実家へ。待ち合わせ時間間違える。設計士と打ち合わせ。ひとの足元が見えるととても寒々しい。設計士と、うちの親と、両者の先入観がどれだけ異なるかその溝の埋め合わせをする。ぐったり。
 みいちゃんには会えず。
 ポップの試し刷りをクライアントへ渡す。
 田舎にいる間だけ方言と共通語のバイリンガルになっていることに、田舎の駅で気づく。カタカナで書くと外国語風に一見錯覚するかな、などと莫迦なこと考える。架空の外国描くとき利用しない手はないな、と思う。夢想だけしているバルビバニ国もし描く機会あったら人名にでも使おう。と、夢想をここにメモしとこ。

 

2月9日(火)

 BBSの返信書きながら、漫画とは思索なのだ、と考えがまとまる。以下、拙いおもいつき。
 「芸術は理屈ではない」と俗に言われるが、それは芸術が論理より感性を重んじるからであって、思索でない芸術「も」存在する、と言うほうがおそらく正確なのだ。
 より正確に言うなら、創作家自身の意識に上らない論理(あるいはいまだ言語化されていない論理)に基づく芸術「も」ある、が、論理に基づかない(でたらめな)芸術は存在しない。
 我がものとなっていない思考思想を、(仮想の)教師の目の色を覗くように「思索ぶった」作品を描いたとしたら、それはたしかに芸術ではない。だがそれ以前に思索ですらない。
 良質の思索を表現する手段として、哲学があり、科学があり、芸術があり、小説があり、映画があり、漫画があるのだ。
 「漫画は芸術ではない」と俗に言われるが、この場合の「芸術」は「権威的なもの」の言い換えに他ならない。「権威の」ではない。
 「漫画は商業活動だから芸術ではない」という解釈をする者もいるが、近代社会において商業活動に馴染まない(耐えない)芸術は非常に数少ない。実在するかどうかすら私は知らない。乱暴に言えば商業的価値すらない芸術など論理矛盾である。
 芸術ARTとは工芸する技術を指す。商業的には商業的要請を満たすことのみが(漫画を含めた)工芸商品製作者に求められることだが、そこで求められている商業的要請の水準を超えた生産品を「芸術」と呼ぶ、そういう語の用い方が一般になされている。そして芸術の機能は自己表現である。自己とは内面化した世界である。以上恥知らずなたわごと。
 夜郎自大日記に錨(アンカー)つける。午前7時。

 午後7時起きる。「鎌やん、生活、もとに戻った」と、曽さんから皮肉言われる。とほほ。
 コンピュータ、tommiさんに看てもらうまで諦めないとダメっぽい。明日ポップのクライアントに渡したかったのだけど。
 朝書いた(夜郎自大日記の)文を読んで自分でげんなりする。何を書いているんだか。消すのは恥をかかないという意味で賢明な選択の一つだけど、敢えて愚行侵すのも試行錯誤の一つだろうから、消さないで残しておこ。
 ここ数日、時間を建設的に使っていない。  

2月8日(月) 田舎自慢

 二人とも就寝。私はコンピュータさまと相談中。あかん。自身の非力のみ知る。午前8時30分。

 エナジートロンにかからないのであまり疲労回復しない。ディグさんから電話。いつきさんが受け取り、ゲームしに出かける。
 午後3時半頃もぞもぞと私は起きる。
 ご飯どうしよう、いつ二人戻って来るんだろう、見捨てられちゃったのかな、などと足立真一さんと莫迦話をする。空腹になってきたので一応食い物買い出しに行く。戻ると丁度二人の姿が。中野まんだらけへ行っていたそうな。インドカレー屋さんへ。
 足立真一さんは田舎の苦労を知らない、と、3人でいかに田舎に生活することがしんどいか自慢しあう。
 夜8時をすぎたらもうどこにも明かりがないんだ、足元だって見えない、とか。本屋へ行くには一時間に一本しかないバスに乗って行かなくちゃならないんだ、いやうちの田舎は二時間に一本だ、とか。本屋が歩いていける距離にあるのは贅沢だ、小学生のときは校則で電車に乗っちゃいけないことになっているから、小学生が本買うのはすごく大変なんだ、とか。中学生の頃アニメ雑誌を買うのにどれだけ苦労したことか。いや、うちの田舎にはそもそもアニメ雑誌なんてどこにも置いてなかった、とか。コンビニに行くのにどれだけ苦労するか、うちは車でなくちゃ行けない距離だ、いや、うちは車で40分かかる、とか。テレビからは東京の情報が流れて来るからなんとなく田舎にいても自分は東京の人間とそんなに変わらない生活しているかのような錯覚しているんだが、いざ東京に住んでみると感覚が全然違うんだ、とか。足立さんはもっと田舎の生活というものを知る必要がある、とか。いやそれ以前に俺たちは東京の生活を知る必要がある、渋谷とか俺たち全然知らないじゃないか、とか。
 曽さん仕事から帰ってくる。インターネット覗いた後3人は帰宅。

 
2月7日(日) ペドな自己矛盾

 メモリが足りない。らしい。コンピュータさまが働いてくださらない。ディグさんにillustratorで色々していただくが、photoshopに開けない。あかん。ポップ作成、完全に中断。ディグさん午前5時頃就寝。その後5時間ほどコンピュータさまの中身を眠気をこらえて色々探るが自分の非力を思い知る。1時間くらいでできる作業だと思っていたのは大甘。
 夕方約束があったので、朝10時ころ一旦寝て、3時半頃起きる。池袋GIGOへ。
 よさこい野郎さんと久々会う。他、足立真一さんといつきこうすけさん。ゲームを教えてもらったり、歌ったり、親好を深める。夜11時30分解散。
 いつきさん、私の部屋の近所のインドカレー屋に行ったことがない、と言う。足立真一さんといつきさん、私の部屋にお泊まりに。いつきさんは来訪二回目、だそうな。失礼ながら初回の記憶が希薄。初回はワタワタした来訪だったらしい。
 エロ本とエロ画像とエロビデオでもてなす。
 ロリコンである自身がロリコンというものを最も嫌うというのは、これは欺瞞なのだろうかどうなのだろうか、とか、ペドファイルの非道を訴えるためには猟銃もって小学校襲って少女やり倒して「俺は全存在を賭けて世に訴える、ペドに極刑を!」とお前やれ、俺は嫌だ、とか、あと二三作「学校占領」ネタで誰かがエロマンガ描けば「学校占領」ジャンルが生まれるな、とか、小学校占領にしろ高速道路監禁にしろ実際やるやつ出たらどうすんだ、とか、犯罪「する」機会は誰にでもあるけど犯罪を「実行する」のはまた別な話だ、とか、犯罪行為をすることによっていったい人間は何を得ようとするのか、とか、変態は外見では分からないから姪を大切に思うならくれぐれも他人を信用しないよう妹によくよく言い聞かせている、特に教師と小児科医は信用したらいけない、とか、安心できない時代になってしまったなあ、とか、安心できないのは時代ではなくてお前なんちゃうんか、とか、深刻な話と莫迦な話をする。

 ところで近頃の私は人付き合いに細やかな配慮を欠いている。・・・反省するべき。とくに、大事にしたい何人かには。

 
2月6日(土)

 非建設的に過ごす。深夜、ディグさんに来ていただく。ポップ作成の仕上げを手伝っていただく。

2月5日(金)

 HPに同人誌の記録をアップしたり、非生産的に過ごす。机で、コトリと落ちるように眠ってしまい、気づくと全身痺れている。布団に寝直す。不健康。

2月4日(木) 

 起床すると、曽さんは既に仕事へ。
 ポップ描きするのにコンピュータさまのお力を拝借しようと考える。Illusutratorの解説書求めて、新刊本屋3軒古本屋2軒巡る。今まで解説書も見んと使用としてたんかわしは。
 ついでにHPの表紙の絵も新しくしてみる。
 絵をスキャンしようと思ったら、ドライバがないとかコンピュータさまが仰せになられる。うそお。コンピュータさまが確認せよと仰せになられたとこ確認しようとするけどよくわからないのでインターネットからドライバ持ってこようと繋げ、自分の夜食にトーストをオーブンで焼いていると、ぶつんと真っ暗闇に。ブレーカが落ちた。ぎゃあ。なぜかその後は問題なくスキャンできた。描いた。アップ。

 
2月3日(水) 節分

 午後8時起床。豆まきもせず。
 思うと、子どもの頃、「鬼は外、福は内」と言うのが嫌だった。「鬼」「福」の概念が納得できなかった。「福」を父母にとって望ましい平穏だとするなら、そんな平穏は私にとっては望ましくないものだったからだ。「自分にとって」何が望ましく、「自分にとって」どういう未来が望ましく、その未来を建設するために自身に何ができるのか、というのが多少なりとも得心できるようになったのは、ついここ数年のこと。

2月2日(火) 「だよね」、外国人居留サービス、曽さんの打ち合わせ

 徹夜な状態で、建築設計士さんのとこへ。昔、石森プロのあったトコのすぐ近く。
 設計の打ち合わせした後、だらだらととりとめのない話を。私たちの世代は、「だよね」といえる共通の基盤がない、という話題とか。
 共通の基盤がない状態には人間は耐えられないから、「だよね」と(一応)言いあえる小さな集団を作り、その中に閉塞していく。この、おのおのの小さな集団同士の間では、「だよね」は互いに全く通じない。「だよね」と言える場所は文化が作っていた。現在は互いに異なる文化を生きている。
 父の世代は家父長制を全く自明な前提としている。私の世代には家父長制は悪でしかない。異なる文化を生きるものからは、他者の「自分にとって都合のいい考え方」がよく見える。そしてそれは彼以外の他者にとって耐え難く不快なものである。だが当人はそのことに無自覚である。地元の人間とよりも、香港で生まれ育ったオタクとのほうが文化の断絶がずっと少ない。とか。そんな話。

 ちょっと時間があったので、大学のサークルへ。四年生がいたが、さすがに顔がもうよくわからない。ノートを見ると懐かしい名前があった。昔、合宿のとき、戯れなディベートでこき下ろす側に立ったことを、私は今も反省している。ごめんなさい、水野さん。

 曽さんの付き添いでS社に。私のほうが先に着く。
 書類取りに大手町の合同庁舎の外国人居留サービスセンターへ行く。こういう経験は珍しいものだろうな、と、思う。 雨の浮船さんに示唆されたのだが、韓国系日本人、といった言い方をしないのは日本の後進性だな、とも思う。サービスセンター内、案外、人がいる。不機嫌そうなおばさんが一人で対応している。たった一枚の書類、というか書式要項の書いてある紙片を取りに来ただけだが、おばさんは別の外国人とやりとりしている。その紙片を、おばさんの座る机のカウンターにあるのを発見した。とろうとする。おばさんが不快そうに、「勝手なことするな、この野蛮人が、貴様なにしに日本なんか来たんだ、日本じゃ日本のルール守れ、このボケ」という態度でそれをとどめる。おとなしく順番を待つ。順番待ったあと紙片一枚だけもらって部屋を出る。おのれ日本人め。

 曽さんの漫画の打ち合わせにつきあう。二時間ほど編集さんとのやりとり。編集さんに用ができたので一時間ほど外に出て、食事する。曽さんにおごっていただく。日記つけるようになってから気づいたけど、わし、近頃人からおごってもらってばっかりだ。恩を送っていただいているのだろう。ありがたいありがたい。いずれ私も人に恩を送らなくては。食事しながら曽さんとオチについて意見交換。
 再びS社へ。キャラクターの人間性の掘り下げと動機付けの妥当性が読者の興味共感を喚起する、という編集さんの意見。全く合意する。そのことができるできないはまた別な話だけれど。正直言って、こんなにこの編集氏と意見があったのは初めて。編集氏の曽さんへの理解が深まったことと、曽さんの今回のネームの弱点がわりあいはっきりしていたためかな? 
 曽さんは週に5日泊まり込みで仕事していながらネーム提出している。偉い。私はそれに比べてなんてダメチンだろうか。 

 曽さんと別れ、マンガ防衛同盟の集会で、池袋へ。青山さんがいたおかげで、ためになる話を聞く。土谷くんから、ダメになる話も聞く。

 帰宅後、森見明日さんから電話。ヤングキングアワーズ表紙のこと、おめでとうと言う。中国人女性の名前の案を相談される。曽さんに訊き、答える。森見さんはまさに成功しつつある。
 他者の成功を祝うのは気持ちいい。自分がなんの努力もしていないのにまるで自分が成功したかのような錯覚を、あるいは自分の力で他者を成功させたかのような錯覚を覚えることができるからだ。
 だが、だからこそ、まず自身が成功しなくてはならない。とつくづく思う。

 
2月1日(月) 曽さんのネームを訳す

 お洗濯。
 ポップの絵を描く。没。もう一枚書く。
 曽さんの原稿の翻訳作業開始。私は広東語を知らない。曽さんと相談しながらネームを決定していく。曽さんの原稿のネームを日本語に直す作業は、えーと、5回目かな。曽さんの日本語が達者になったのと、こっちが慣れたので、今までに比べるとわりと順調に。しかしながら、翌朝までかかる。
 曽さんの漫画のネームを、私以外の、広東語の専門家が翻訳したことが、何回かあった。それを見せてもらったことがあった。日本語としては、まあ、正確だった。元の広東語をきっちり翻訳していた。
 ところで中国語は日本語に比べ短い文章の中に多くのものを入れることができる。四文字あれば主語・述語動詞・補語・目的語が収まる。日本語では同じ文字数に入れることができるのは、せいぜい述語だけだ。したがって、正確に訳すほど、喋り言葉としては妙な日本語、漫画のネームではない日本語になっていく。
 小説を翻訳できるのは、文章力がない語学力のある人間では、ない。語学のできる文章家が、翻訳家だ。と、いう話だ。漫画のネームでも、たぶん同じことが言える。 

1999年1月20日から1月31日まで

2012年03月27日 00時40分05秒 | Weblog

1月31日(日) ビッグ・リボウスキ、ギャグとユーモア

財政少なくとも一ヶ月はどうにかなる算段つく。しかしながらこれは努力の結果ではない。そのことをここに記して戒めておこ。自分は豚野郎だ。

天気が良かったのでお洗濯しようかな、などと考えているとディグさんから電話。「リング2」と「死国」を突発的に見たくなったので一緒に行かないか、との誘い。「ビッグ・リボウスキ」のほうが見たくないか? と私が提案。「リボウスキ」見に渋谷へ。
なにも自由業である私たちがわざわざ休日に映画見んでも、と、渋谷に着いてから後悔する。「リボウスキ」単館上映のせいか、映画館の中にはいるとけっこう行列してたりする。案外いい席に座れる。見る。
ハメットやチャンドラーを意識した映画だったのだ、ということに気づいたのは映画館出てから。上映中、妙にくすくす笑う男が近くにいたのが、若干不快だった。喜劇というものをどう受け取るかという意識の違いか? あるいは私の喜劇への感受性の不足か? コーエン兄弟は喜劇作家かもしれないが、笑わかす作家ではないように私は思う。喜劇性よりは寓話性が強いと私は思うのだけど、評価できるほどはまだ数を見ていない。あるいは私の知らないジャンル映画独特のお約束へのギャグがあったのかもしれない。「未来は今」のほうが観客の視点が見通しがよく、そのあたり私好みだった。「リボウスキ」は一人称の映画で、手法としてそれは正解だとは思う。

ギャグといえば。ギャグとユーモアの違い、というおもいつきについて。
ギャグとは、口にしてはならないことを口走り、恐怖に対して痙攣する行為、だと思う。笑う、という行為は、動物が牙をむく行動がその起源だが、つまり恐怖を感じる対象、脅威を覚える対象に対し、痙攣的に精神防御をはかる、これがたぶんギャグ。
ユーモアとは、滲み出る人間味、といったもの。
日本人はユーモアに乏しい。らしい。少なくとも歴史的に重要な場面でユーモアを残した政治指導者はたしかに乏しい。これは悲しむべきことだ。良質のユーモアは、良質な人間性と良質な知性から、たぶん生まれる。それが乏しい国では、タブーが増え、タブーに窒息しそうになると、破壊手段としてギャグを使用する。
口にしてはならないことを口走る、というのは不文律を壊す、ということだ。「薔薇の花嫁」な(あるいは「狼くん」な)メンタリティは、(社会的に要請されているかのように当人が感じている)不文律への服従が生む。日本人は(あるいはオタクは)この(仮想の)不文律に支配されがちだ。そんな不文律なんか、存在しない。

曽さん、仕事から帰宅。



1月30日(土) アーキレーターの集い

昼頃起きる。設計士さんに電話する。繋がらない。インターネットの「主郎PINK」に繋ぐ。繋がらない。おとっときのシャツを探す。見つからない。持っていって恥ずかしくない鞄を探す。見つからない。ええいこの紙袋でいいか。名刺代わりに「偽善者」数册詰め込む。那智さんからのメールにあった地図をプリントアウトしてワシントンホテルに向かう。迷う。たどり着く。ちと遅刻する。幸い致命的な遅刻ではない。アーキレーターの集い、無事終了。那智さん、お疲れさまでした。主郎さんには郵便で「偽善者」送ることにしよ。



1月29日(金)

いつきさん、足立真一さんと夕食を一緒にする。漫画家は鬱病に似ている、といった話をする。人づきあいしなくても困らないので、全く人づきあいしなくなると、いっそう欝に近くなる。すがわらくにゆき氏の漫画では、漫画家は皆躁鬱病だそうだ。締め切り前に編集から電話が来ると欝になる。締め切りがすぎて編集から電話がないともっと欝になる。
売り子が足りない、挨拶廻りできる余裕が全然ない、どうにかならないものか、といった話題。「初日のサークルと仲良くなれば、問題解決するよね」とか「コスプレして、コスプレ仲間作って、売り子していただくのはどうだろう」などと話す。足立真一さん、プロバイダ契約したそうなので、近日中にネット世界にいらっしゃるようになるらしい。ホームページ作成は、半年か一年さきの予定。
自分の部屋に戻り、(主郎PINKの)那智さんに電話する。明日の打ち合わせ。えらい話になっていて、「ぎゃっ」と私は悲鳴を上げる。困ったよお。
ディグさん来る。「ツインピークス」最終回見ることにする。見ている途中で私は眠ってしまった。



1月28日(木) バス停ではぐれる。

寝た。起きた。疲労回復していない。昼食を足立真一さんと食べる。足立さんとこに遊びに行く約束する。部屋に戻る。ディグさんが来てる。「ツインピークス」最終回持ってきてくださっている。しかし見る時間がないことを説明。
風呂を沸かす。風呂に入る。風呂から出て、三人して部屋を出る。金を持ってきてないことに気づき、二人にさきにバス停に向かってもらう。
金を持ち、バス停に向かう。ディグさんは行き先が違うので姿見えなくて当然だが、足立さんの姿が見えない。どこのバス停なのか指定し忘れてたこと気づく。バス停三ヶ所見る。いない。いったん部屋に戻る。留守電に足立さんからメッセージが。場所を指定してくださっていたので、そこと思われるところに行く。いない。もう一ヶ所へ移動。いない。乗る予定の行き先のバスが来る。足立さんはきっと先に行ったのだろうと、自分に都合のいい考えをし、バスに乗る。
「どのバス停から乗ろうが、行き先は一緒だ」などと思う。「これは他のことでも言えるな」などとも思う。「わしらはどのバス停から乗ろうかごちゃごちゃ言い合っているけど、とっとと乗ってしまうほうが大事なんじゃないかな」などと思う。行き先がはっきりしている場合はこれは間違っていないはずだ。ただ、人生という移動では、行き先がよくわかっていないので、移動中、不安になってバスやら電車やらを降りたくなるのだ。
電車に乗り継ぎ、バスに乗り、足立さんの家に着く。玄関を開ける。足立さんの靴がない。しまった私のほうが先に来てしまった。足立さん置いてきぼりにされて泣いてるかもしれない。玄関のチャイムを数回鳴らすが、人が出ない。本屋ででも時間潰すか。道すがら公衆電話があったので足立さんとこに電話する。足立さんの妹さんが出る。「はぐれちゃいまして」と事情説明する。足立さん家に入れていただく。足立さんの部屋で寝る。眠れないので本読む。足立さん来る。どこで行き違いになったか話し合うが、結局よくわからない。自分の部屋、留守電セットし忘れたこと気づく。
いつきこうすけさんと足立さんと、夕食を一緒にする。足立さんがいつきさんに嫉妬している、といったことを足立さんが言う。独楽を廻すとき、足立さんは何回も何回も試して、やっとこさ廻すことができるのに、いつきさんは「どれどれ」と言って、一発で廻してしまう、そういうところがある。と、足立さんが言う。いつきさんがそれに対して言う。「足立は、独楽が回っても、いや、この廻りかたではダメだ。理想のフォームで回せていない、と言って、いつまでも理想のフォームにこだわるトコがある」互いの特徴をよく示していると思う。
夕食代、足立さんに奢っていただく。私は寄生虫。



1月27日(水)

足立真一さん、ディグさん、曽さんのご協力により、やっと原稿、どうにかなりました。今回は編集さんにえらい迷惑かけました。尾城さん(担当編集者)、お疲れさまです。
曽さん、仕事に行く。ディグさん、自分の部屋に帰る。足立さん、寝る。
足立さんが眠っている間、誤って新品のインクを畳にこぼしてしまう。とほほ。この金欠の状況でインク一瓶の消失は大きい。久しく「夜郎自大日記」アップしていないので、日記書こうとするが、疲れて書けない。寝る。



1月26日(火) 電気仕掛け(エナジートロン)

あんまりしんどいので、エナジートロン(電気治療器)を敷きながら原稿する。体調、それなりに回復。というか、電気仕掛けで私は動いている状態。エナジートロンが切れると私も執筆が止まる。インクが古くなっているらしくて、線がイメージ通り引けない。インク新しいのはよ買いに行かねば。午前6時。

足立真一さん、多忙の中、手伝いに来てくださる。
考えてみると、毎回、足立さん、ディグさん、曽さんのお三方に手伝っていただいているが、三人とも私なんか比べものにならないほど絵の上手な方々。私は幸せ者です。
卓袱台(ちゃぶだい)を、曽さんがアシ先へ持っていったままだったので、中古品屋へ買いに行く。なぜか二軒閉まっている。しかたなく新品を購入。ついでに座布団購入。
作業中、私が電気仕掛けになっているので、ディグさんにうかつに接触してしまい、放電し、「ぎゃっ」とディグさんが悲鳴を上げること数回。風呂上がりに見ると、ディグさんの放電した箇所、赤くなっていたりする。ごめん、ディグさん。
仕事中、BGVとして「ウテナ」をかける。「どうです、面白いでしょう」「面白いですねー」よしよし二人ともハマってくださった。ウテナ布教活動は順調だ。ロリコンとウテナは相性がいい。ロリコンは薔薇の花嫁によお似ている。

・・・この文章、誰が見ても、既知外が書いているのでは、と思うでしょうなあ。なんだよ電気仕掛けって。



1月25日(月)

肝臓が疲れているらしい。編集さんごめんなさい。



1月24日(日)

20日の日記、歌詞、えらい記憶違いしていたことに気づく。恥ずかしいのでこっそり正確なものに書き直す。午前4時。

体調が悪かったのは、低気圧が近づいていたせいかもしれない。久しぶりの雨天。いざ低気圧の中に入って気圧が安定するとそこそこ体調回復する。俺って、爺臭え。午後3時。

曽さん、仕事から帰ってくる。また来週アシ行かなくちゃならないそうだ。
足立真一さんから電話。いつきこうすけさんの手伝いが終わったので、ということで、私の助っ人を申し出てくださる。ありがとう。
一部に、足立真一さんが私のアシスタントしている、という噂があるそうですが、足立真一先生のほうが私よりお金持ちです。足立さんは友情で私の手伝いしてくださっているんです。感謝感謝。



1月23日(土)

寝冷えしたらしく体調が悪い。
今日になってサンクリのチケットに気づいたりする。机の目の前に貼ってあったこと忘れてた。俺、アホか。午後6時。



1月22日(金) 棘のない薔薇はない

電話代払ったついでに長いこと滞納していた水道代払って、ほっとしてインターネット繋ごう思ったら、回線問屋さんに止められていること気づいて、回線問屋さんに払う。
ふと通帳の残額見ると、ビリビリと痺れるような残高。最近、残高見て痺れること実に多い。今月家賃払えませんわ。そりゃあこれだけ仕事しないでいたら金もなくて当然ですわ。財政の基礎体力いったん衰えると回復がむずかしいですね。「棘(とげ)のない薔薇はない」
アシの仕事でも探そうかしら。午前11時45分。

バナーというものをどうやって取り込んだらいいか、やっとわかる。わし、電脳世界に対して愛情がないなあ。リンク集、一部、文字からバナーへ改造。ちゃんと自分のweb表題とバナーくらい絵で作ろう。と思う。午後10時。



1月21日(木) お台場人質事件

気がつくと、電話が止められている。やー、電話通じないと、静かっちゃあ静かですが、不安で堪りませんね。同居人も今いないので、誰ともコミュニケーションとっていない。とっても不健康。不健康である理由の一つは自身への客観視が緩みぼやけるからだ。人と話をしないほど、夜郎自大は強化されてしまう。人混みの中で、誰に対してというわけでなく、一人でぶつぶつと、しかもわざわざ他者に聞こえるように大声でわけのわからないことを言っている、「痛い」人に、限りなく近づいていってしまう。

お台場で、16歳少年が、9歳少年を人質に「刑法の罰則強化」を主張した、というニュース。仮に彼の主張が通り、強化された法で、まず罰されるのは主張した彼自身だということへ、果たして彼に想像力があったかどうか。筋が通らない社会への憤りを彼の妄想世界にある「悪人への処罰」ということによって解消しようという、魔術的思考・魔術的行動。刑法強化とか、少年法強化とか、父権強化的心情は、一見威勢がいいが、この事件はそういうものの本質を象徴している。思想的には「人権」概念の希薄・不在。加害者の心理を勝手に想像すると、他者からの承認不足による敗北感をどうにかするための代償行動。そして選択した行為の短絡性。「痛い」人の痛い行動。
年齢を経る、ということは、粘り強くなる、ということだ。果実は簡単には手に入らない。「やる」ことは「やってしまえば」案外たやすいが、「やり続ける」ことは、存外しんどい。そのしんどさに耐えることが、たぶん、大事なことなのだと私は考えます。



1月20日(水) 百万本のバラ、新世紀のオタク、学問という題材

ウテナのビデオ見直してるうちに、気になって、花言葉を調べてみる。花言葉の資料のうまいのが見つからず、断片的情報しか入手できない。

薔薇には「気高き愛情」という意味がある。「薔薇の下(もと)」という語句には「秘密」という意味がある。「棘(とげ)のない薔薇はない」という慣用句は、「人生には必ず苦しみがある」、という意味がある。
以下、
赤い薔薇;「愛、恥ずかしげな、我が心汝のみ知る」 ピンクの薔薇;「私を射止めて、背徳」 濃紅の薔薇;「内気な恥じらい」 白薔薇;「私はあなたにふさわしい、(私はあなたを)尊敬(する)、忠誠」 黄色の薔薇;「愛の衰え、美」 赤と白の薔薇「結合、あたたかい心」 赤い蕾(つぼみ);「清らかに美しい」 白い蕾;「少女」

ウテナの劇中、暁夫がウテナにひなげしの花言葉を説明する描写がある。だが視聴者にその内容は告げられない。「調べてご覧」と制作者は語っているのだ。「調べてみれば、もっとなにか見えるよ」と。(残念ながら私はまだひなげしの花言葉を知らない) その後、サボテンの花が咲く描写がある。サボテンの花の花言葉は「秘められた情熱」

加藤登紀子が「百万本のバラ」という歌を唄っている。ロシア人による作曲、リトアニア人の作詞。この作詞家が、後に、ソ連崩壊リトアニア独立の際、広場を埋め尽くした革命市民のパレードの先頭を歩んでいたのを、加藤登紀子はテレビのニュースで観た。

歌は告げる。
貧しい絵描きが旅の女優に恋をした。絵描きはささやかな全ての財産をはたいて、百万本の薔薇を買う。彼女のために。女優に百万本の薔薇の花を捧げたい。この思いは伝わることがないことを、絵描きは知っている。それでも絵描きは女優の部屋から見える広場を薔薇で埋め尽くす。ある朝、彼女は窓の外が赤い薔薇でいっぱいであることに気づく。彼女はゾッとする。どこかの金持ちが、たちの悪いイタズラをしたのだと彼女は思った。絵描きは女優のその姿を、窓の下からこっそりと見ている。出会いはそれで終わり。女優は別の街へ。鮮やかで綺羅綺羅しい薔薇は女優の人生。絵描きは貧しく孤独な日々を送る。薔薇の思いでは彼の心の中で消えなかった。

リトアニアからのニュースを見て、加藤登紀子は思った。絵描きの赤い薔薇が意味するものは、独立のときリトアニアの広場を埋め尽くした自分(作詞家)たち(独立運動家)、市民革命の過程で(自分/リトアニア人の作詞家が)流す血なのかもしれない、と。なぜ詩の中で女優はゾッとしたのか。革命の過程でなされる行為は女優には残酷にしか見えないからだ。女優は絵描きが愛情を注ぎたいと願った対象だ。革命に置き換えるなら、革命者が愛情を注ぐ対象。そして革命者はその救済対象から恐怖される。
加藤登紀子は「紅の豚」のジーナ役をした。若かりし頃、加藤登紀子は、自分の家に、新左翼の過激派集団をかくまっていた経歴がある。

ウテナのテーマの一つは、「誰かを犠牲にするような正義」など正義ではない、ということだ。私たちはこのことをつい忘れがちになる。新左翼が敗北した理由の一つは、正義の名の下に他者に犠牲を強いるという、彼ら新左翼が理念として否定していた旧日本軍の犯した過ちを、彼ら自身繰り返したところにある。
奇跡を起こしたウテナは最終回で劇中の全てのひとから忘れられる。現実と同様に・・・奇跡をなした者は、忘れられる。それが日常なのだ。薔薇の花嫁でなくなる決意を抱いた者だけが、彼女を記憶する。これも、現実と同様に。
「創作」creationは、「天地創造」を意味する。「創作」を口にする者は、「天地創造」、神DIOSの行為をなそうとしている、神への挑戦DUELをする者としての戦慄を覚えるべきだ。

・・・花言葉調べているうちに、「パイナップルの花言葉」というのを発見する。「完璧」を意味するのだそうだ。え? パイナップルって、花が咲くの? 植物園で調べたとき、職員さんから「花は退化していて咲かない」と聞いていたのに。花言葉の本によると「南国らしい鮮やかな花が咲く」ですって? どういうこと? ああ。パイナップルは謎でいっぱいだ。午後7時。



足立真一さんと電話で話する。「新世紀のオタク」という着想について。
「新世紀のオタク」は、「普通を排し、普遍を希求する」これが特徴だ。「普遍」とは、どのような場所、どのようなときでも通用しうるものを言う。「旧世紀のオタク」にまとわりつく病、「仲間内だけの」という閉鎖性・閉塞性の打破を、それは希求する。
かつて、80年代、「オタク」というジャンルは、小さかった。小さいが故に、「わかる人にだけわかる」というかたちの仲間意識・冗談の共有があった。しかし今は、「オタク」的なものは際限なく一般化している。オタクは一般化していないからこそオタクだった。そこで私たちオタクには、新しきこの状況への態度の選択が迫られている。かつての「オタク」的環境の維持を目的とするか、その閉塞した殻をうち破りオタクとしての自覚を持ちつつ卵の殻を破壊し外へ羽ばたこうとするか。
「卵の殻(オタクであることの閉塞)を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく(オタクは「普遍」との関わりを持たないまま、幻想/妄想「鳳学園」の中で生き腐れる)。卵は世界(オタクが思いこんでいるオタク的世界の限界「世界の果て」)だ。雛鳥は我らだ。世界の殻を破壊せよ。世界(生き方)を革命するために」
普遍を前にして、それを忘れるか(「旧世紀のオタク」の生き方)、それに挑む(「新世紀のオタク」の生き方)か。
「新世紀」という語は、「新世紀エヴァンゲリオン」の「新世紀」でもある。庵野は、「新世紀のオタク」に霊感を与えた、「旧世紀のオタク」の代表だ。エヴァがその存在をもって(作者自身気づけなかった)提示した課題を、「旧世紀のオタク」が超えられなかったものを、超えようとした者・・・幾原監督、東浩紀などがその代表・・・が、「新世紀のオタク」なのだ。足立真一さんや砂さんも「新世紀のオタク」の列に加えさせていただきたい。
エロアニパロ(「旧世紀的)が司法に裁かれたこと、伊藤剛氏が司法という手段を用いて(新世紀的)、唐沢俊一氏のオタク的手法の問題(旧世紀的)を明確化する試みをすること、これらは旧世紀的手法の限界を明確化するように思う。
「旧世紀のオタク」の価値観ではそれは「シャレがわからない」ことになる。だが、冗談は冗談の共有される空間があった上で機能する。「旧世紀のオタク」の信じるかたちの「冗談の共有されるオタク世界」は既に膨張しすぎているため、「旧世紀のオタク」の信じるかたちでは、存在しない。オタク的殻という特化によってはオタクは守られない。オタク的殻のないステージで私たちはオタクを続けるしか道はない。
そして「新世紀のオタク」には、なろうとすれば誰でも「なろうとすること」はできる。



NHK「人間大学」で猫の生態を放送。私、「ハイエナは夜嗤う」という漫画で、猫科では唯一ライオンが群を作る、と書いてしまったが、チータも群で生活するそうです。動物学的に間違いをしてしまった。
てゆーか、私の描いているもの、学問的間違いは随所にあります。可能な限り誤りは減らすべく努めてますが、動物学については素人なので学問的誤りは無自覚に侵している可能性、多いです。
自覚的ホラも多いです。ホラがなければ漫画ではないからです。また学問(動物行動学、心理学、哲学など)自体が目的なわけではない。したがってその意味。漫画を学問的に信用されると困ります。学問を漫画の中で使用するのは、あくまで素材のひとつとして使用しているんです。機能としては、私の漫画にとって「学問」は、「巨大ロボットもの」での「SF考証」、「エロマンガ」にとっての「絵のデッサン力」とほぼ等しい。あっているにこしたことはないが、要は読者に対し説得力を持たせるため道具のひとつなのだ。
動物行動学者に言わせると、動物を用いた寓話は動物への偏見を助長し、百害あって一利ないそうな。私は「新世紀のオタク」を志向するので、その批判を受け止めつつ、敢えて動物行動学を素材にしてエロマンガ描きますが。

ちなみに、手塚治虫は「ブラック・ジャック」連載中、東大医学部から医学的間違いを指摘され、「そんなでたらめ描くなら漫画なんか辞めちまえ」と言われたそうです。「火の鳥」連載中は「この時代の権力形態からみてこの漫画は間違っている」と手塚は非難されました。ちなみに「やけっぱちのマリア」連載中は「子供に悪影響与える有害漫画」と非難されたそうです。
そんな手塚治虫も、死後は神様。・・・存命中から神格化されてましたけど。信者は「オタク」で、一般人にとって似た存在になった。「オタク」的なものは一般化しつつある。

1999年1月9日から1月19日まで

2012年03月27日 00時37分06秒 | Weblog
1月19日(火) 夜郎自大日記

日記の名称を「不定期日記」から「夜郎自大日記」に改称します。

昔々、中国の西域に、「夜郎」という、ちっぽけなオアシス国家があった。漢土から、夜郎へ使節が向かった。夜郎の王は、使節を歓待し、彼らに訊ねた。
「漢土と、夜郎と、どちらが大きいでしょうな?」
夜郎は自らを大とする。以後、身の程をわきまえず大言壮語する者を「夜郎自大」と呼ぶようになった。

小さな美しい池が複数ある村の小学生たちが、隣村の湖を見に行った。彼女らは驚いた。こんなに大きな池を見るのは初めてだったからだ。小学生の一人が、児童会長に訊ねた。
「ねえ、海って、このくらい大きいのかな?」
児童会長は賢い少年だった。だから、「海」はその湖より大きいことを知っていた。
「莫迦だなあ、海は、この湖の倍くらいあるよ」
これは鎌やん自身のエピソードでは、残念ながらない。だが、このエピソードは他人事ではない。午前11時15分。

ディグさんが曽さんとテレビ観ていた。その音で起きる。『ON YOUR MARK』(チャゲ&飛鳥ミュージックビデオ、宮崎駿作画)ディグさんから見せてもらう。
豊川稲理さん来る。豊川さんの友達が同じアパートに住んでいる。そこからもらったお寿司をお裾分けしていただく。ありがたいありがたい。豊川さんは声優文化に詳しい。色々教わる。

曽さん、アシ先に、帰国が近いので辞めさせていただきたい旨、電話する。以上、午後11時過ぎのこと。



1月18日(月) 口癖、ロリータもののJUSTIFY

ディグさんと曽さんと、夕食食べる。曽さんにまたもおごってもらう。
曽さんが言う。「鎌やん、寝言言うし、あと、鼾(いびき)凄い」 え? そうなの? 俺ってそうなの?
ディグさんが言う。「そうですね、ヒトの鼾で起こされたのって初めてでしたよ」 がーん。そうだったのか。二人ともごめんなさい。
ディグさんが言う。「曽さんの日本語って、鎌やんさんの言葉がずいぶん感染(うつ)ってますね」 え? 「鎌やんさんて、けっこう口癖ありますよ。あまり普通のヒトが使わない言葉使うじゃないですか」
そうか? 私は訊いた。「たとえば、どんなの?」
ディグさんが答える。「たとえば・・・『畜生!』ってよく言うでしょ」
私が訊ねる。「え・・・? ディグさんだったら、どう言う?」
ディグさん「クソッ」
鎌やん「『クソ』より『畜生』のほうが優雅じゃない?」ちなみに食事中の会話。
ディグさん「同じですよ・・・で、『畜生!』って言う人、聞いたことない」
鎌やん「そうかなあ?」
曽さんが言う。「そうやねエ」
あ、たしかにそれは私の口癖だ。
曽さんが言う。「まあねエ。まあいいけどさア。はいはい」
・・・どれも私の口癖だ。私の口癖って、ヒトを小馬鹿にしたような言葉が多いのか。「・・・ごめん」
曽さんが言う。「『ごめん』も鎌やんの口癖」

夕食後、ディグさんと別れる。曽さんから、テレビでやった『リング』(にっかつ)のビデオを見せてもらう。私は絵を描きながら観ていたが、途中から真剣に観る。ラストでびっくりする。「なるほど、これは面白い」
曽さんが訊く。「俺、主役の女の子が好きで録画したんだけど、鎌やん、面白かったか?」
私が言う。「うん、ありがとう。これは勉強になった。途中は色々納得いかないとこあったけど、このラストは素晴らしい」
曽さんが言う。「そいつは良かった」
・・・『そいつは良かった』? これも普通の人が使う言葉じゃないよな。普通は「良かった」だけだよな。感染(うつ)しちゃった言葉なんだろうな。曽さんにそのことを説明する。
曽さんが言う。「『そいつは良かった』って、どういう人が使う言葉?」
私が答える。「漫画のキャラクターか、時代劇の登場人物か、刑事物のドラマのおっさん刑事が使う。『そいつぁあ良かった』・・・そうか、俺の使っている言葉って、漫画のキャラクターの台詞なのか。なんてことだ。は、恥ずかしい。モロにオタク。もっと普通の喋りかたをするべきなんだろうか・・・でもなあ、自分は自分なりに考えた結果今の喋りかたしているんだし・・・変にヒトに合わせたら、自分が自分でなくなる」
曽さんが答える。「いいんじゃないんですかあ?」
・・・それも私の口癖だ・・・



てるき熊さんから電話来る。アニパロとは何か、エロパロとは何か、と、熱く語り合う。私が一方的に喋りすぎてしまった。てるきさんごめんなさい。
私なりの結論。全ての創作はパロディ(替え歌)と言いうる。その意味において、原典にはない魅力を持つ限り、あらゆるパロディは正当化(justify正当であることの証明)されうる。

暴力表現、残酷表現、ロリータもののjustifyを、以下に少しだけ試みる。
加害者は愛情を注ぐ対象を求めている。だが加害者は自身を「対象に愛情を注ぐにふさわしい存在である」と認めていない。よって、加害者は「自分にお似合いな」行動をとろうとする。それが加害行為である。ことにロリータの場合、ロリータとの間に「対等な愛情」は成立しない。「愛情」であるかのように加害者が錯覚しているものは、せいぜい過干渉・過保護、対象を隷属させるのに等しいのだ。父権的恩情主義パターナリズム。
自身を「他者に愛情を注ぐに値しない」存在である、とする感性は、広く蔓延している。「他者に愛情を注ぐに値しないから、自分にお似合いな行為をする」それが他者への加害であり、自傷なのだ。女子中高生が援助交際する感性にも通じるはずだ。この視点を私は忘れてはならない。



1月17日(日) 阪神淡路大震災が4年前にあった

サンシャインクリエイションがあったけど、自分のサークルで申し込んだわけでないのでチケットなくて、イベントそのものを忘れていて寝てました。・・・しまった。同人誌持っていけばなんぼかでも。
曽くん、仕事から帰ってくる。



1月16日(土) リトルモア、南京の真実

ついうかうかと隣駅の新刊本屋へ行き、宮台真司・東浩紀対談(冬コミ初日よりも前に収録)の載っている『リトルモア』7号と、ついでに『南京の真実』(講談社)衝動買いしてしまう。

『リトルモア』の東氏の言葉。「本を読んでないんだから、とにかく読めよ。君は哲学に興味がないかもしれないけれども、これだけのことをやってるやつ(東氏)が同時代にいたら、お前は何か思わないか」
この言葉の意味を、その直後に東氏が自ら語っている。
>状況認識に限って宮台さんを全面的に同意すると事前に言いましたのは、「社会」全体を支える普遍妥当性が崩れて、みんな狭い共同体の中で退屈な日常を生きざるをえないという今の現実においては、あちこちに生じたコミュニケーションギャップを乗り越えるために何らかのツールを開発しなくちゃいけない、ということが実感として非常に分かるということです。だけど、僕(東浩紀)がやっている哲学とか思想って、自分達だけは世界視線を持っているんだと自負しているジャンルだから、僕は趣味として哲学をやっているんですと、単純に普遍妥当性を諦めるわけにいかない。

東氏の気分を、非常に乏しい材料から(乏しいのは鎌やんの勉強不足による)、鎌やんは勝手に想像してみる(東氏にとって迷惑なことでしょうけど。ついでに書くと乏しい材料で決めつけるのは莫迦の証明であり、以下、鎌やんは自身が莫迦であることの証明をしている)。

・・・過去に、偉大な先達はたしかにいた。東氏が対談の中で名をあげた、デリダとかフロイトとかハイデガーとか。だけど、現在、今このとき、彼ら先達に匹敵することをなしつつある「どこかの立派な先生」が私たちの知らないところに存在しているかのような期待を、私たちは安穏と抱いていて大丈夫なのか? 人類の知性なんては、徹底して考え抜き検証し抜いた、ほんの数人によってかろうじて繋がり続いている、か細い糸なのだ。その糸を紡ぐ作業をしなければならない「ほんの数人」という使命を負わされているのは、恐ろしいことに自分/君なのかもしれない。その数人がするべき作業をしなければ、この細い糸は途切れるかもしれない。この戦慄の実感。細い糸が途切れる。考えてみろ。日々、他者と言葉が通じている実感が持てているだろうか? 自分の思い、意図、観念、そういったものが他者と共有できている実感を感じたことがあるだろうか? 逆に言えば、他者の思いを把握できる精神と知能の豊かさ強靱さを持てているか? 隣の人間とすら会話が成立しなくなっているとしたら、糸は、途切れているのではないのか? 東氏の選択した「哲学」というジャンルで言う「普遍」とは、糸を紡ごうとする、数千年にわたる、人間の切ない願いの結晶なのだ。(そして東氏はそれを我が身一人に体現させようとしている。しかも現時点で成功している。学術書である『存在論的、郵便的』は、ひと月で1万5千部売れているそうだ。これは凄いことだ。東氏は戦術的にも成功しているのだ)

・・・そして、鎌やんは勝手な妄想をさらに暴走させるけれど、東氏を「新世紀のオタク」とするなら、この切実さから目を背けまいとする決意が、もちろんそのための説得力への礼節も含め(自身への決意は他者への敬意によって裏打ちされる)、「旧世紀のオタク」からくっきりと分ける境界線になっているのじゃないか、と。以上は鎌やんの妄想。
変な妄想というか連想を、全然別な角度から続けると、東氏の口調は、いんど・めたしんさんにちょっと似ている。声の質とか含め(笑)。はいはい、これ妄想です。

『南京の真実』、ついうかうかと三分の一くらい読んでしまった。この私の行為はまぎれもなく現実逃避。それはそれとして、この本は面白い。リーベのキャラがすごくいい。映画化するそうなので、ちゃんと観に行きたいものです。リーベが、めっちゃ善人で、意志が強くて、しかもナチというとこが、深くて良い。

手帳が見あたらず、設計士さんに連絡しなくちゃならないのだけど、連絡できない。しかしこれも怠惰ゆえの言い訳。



1月15日(金)成人の日 ナウシカの胸

風邪、だいぶ治ってきたらしい。ついうかうかと、宮崎駿『出発点』読んでしまう。励まされる。『出発点』の感想はまた後日に書きませう。
一カ所だけ、以下に抜粋。

インタビュアー;ナウシカという少女は、実に魅力的ですよね。
宮崎駿; ナウシカの胸は大きいでしょ。
インタビュアー;はい(笑)。
宮崎駿; あれは自分の子どもに乳を飲ませるだけじゃなくてね、好きな男を抱くためじゃなくてね、あそこにいる城オジやお婆さんたちが死んでいくときにね、抱きとめてあげるためのね、そういう胸じゃないかと思ってるんです。だから、でかくなくちゃいけないんですよ。
インタビュアー;ああ・・・なるほど・・・(衝撃!)



1月14日(木) 風邪、捜し物、震災の連想

午前2時をすぎると、くしゃみが止まらなくなる。まだ風邪が治っているわけではないのだと再確認。
「昨年は風邪をひかなかった」と、さきに日記に書きましたが、記憶違いだったこと、思い出す。風邪が深刻なものになるのをどうにか凌ぎ続けてきた、と言うべき。

日が明けて、『人間ゾンビ』の宇田川さんから会誌届く。次の会費払わないと。
宮路兼幸さんから賀状届く。あ、たぶんこっちからは出してない。まずい。もう寒中見舞いになってしまう。宮路さんの賀状、コミケで風邪もらって正月寝て過ごしてしまった、と書かれている。意味不明な親近感が沸く。
そういえばクヒオ大佐も風邪だとwebに書かれていた。大事にされてくださいね。

男物の服の資料が見つからない。探しまくる。見つからない。げんなり。「買うか」と思って本屋へ。近所の新刊本屋、私が越してきて以来、一年に一軒づつ潰れている。新刊情報に関してまことにお寒い環境。古本屋は増えている。古本屋へ行く。目当ての本は見つからない。宮崎駿『出発点』(徳間書店)あったのでつい衝動買い。読むのは後のお楽しみとして、積(つ)ん読。

捜し物は見つからないのに、ずっと長いこと見つからなかった、ロリータ小説発掘してしまう。『にんふらばあジャパン』の休刊いっこ前の号に載っていたもの。初めて読んだとき、口の中がからからになり、読み返すたびにわけのわからない衝動が自分を支配した。いずれ打ち込んでHPにアップしようかな、と思う。蛭子神健の小説とか。などと考え、自分の中の矛盾に負けそうになる。アレに感じたものは、なにが満たされていないのか、満たされないものが欠落したまま突きつけられた感覚だったのかな、とも思う。

てるき熊さんから電話いただく。ポケットモンスターのエロ同人誌描いて売ってた同人作家が任天堂に訴えられて逮捕されたとのこと。著作権問題は、同人誌の鬼門だ。今回の事件はどう考えるべきなんだろう。

もうじき、阪神淡路大震災から、四年が経ちます。阪神大震災に関して、不謹慎でオカルトなおもいつきを以下に記します。
今から76年前、1923年、関東大震災というのがあった。昭和史はここから始まる。関東大震災の4年後、1927年、日本に金融恐慌が起きる。1931年、満州事変。1936年西安事件。1937年、日中戦争開始。39年ノモンハン事件。40年仏印進駐。41年太平洋戦争開始。
「震災」を始点として、似たようなことが繰り返されているような。同じような間違いをしないためには、先人はなにをどう間違えたのか、よくよく考え気をつける必要が、たぶんあるんでしょうね。以上、自・自連立のなった日に、不謹慎でオカルトなおもいつきを記す。



1月13日(水) サルの性、「祖国」

メモ。サルのセックスについて。サルのペニス。

サルの性皮。

図版は平凡社『人間の性はどこからきたのか』より。
雌が雄を選ぶ社会では、雄のペニスは派手なものになる。また交尾中、敵に襲われる危険を減らすため、雌により多くの快楽をより早く与える目的でペニスは複雑化する。ゴリラのような一夫多妻制ではペニスは貧弱になる。
「性皮」は、雌が雄に対し、性的に受け入れる状態にあることを示すもの。
受胎目的以外で性交するのは人間だけの特徴ではなく、コミュニケーションとしての性交は、同性愛を含め、霊長類に広く見られる。人類の雌に「性皮」はないが、人類の雌の胸は、目的としては「性皮」に近いようだ。ヒヒのなかには、胸にも性皮があるものがある。
以上、雑学。そのうちマンガで使うつもり。

風邪で寝込む。健康器具エナジートロンにかかる。この器具の説明をすると、とてもいかがわしく聞こえるが、だいぶ快復したのはエナジートロンのお陰だと信じ込んでいる。
永野のりこ『電波オデッセイ』3巻(アスペクト)読む。永野のりこは次第に素直になってきていると思う。良い傾向だと思う。
曽くんは今日から仕事で泊まり込み。帰りは日曜の予定。午後9時。

昨年末、曽くんと足立真一さんと、酒飲みに行った。つれづれにそのときの話をここに書く。
曽くんは香港人。日本のテレビなどに対して、いい感じでミーハーだ。私は中国史ミーハーだったりする。日本のテレビドラマや芸能界などについては曽くんのほうが私よりずっと詳しいし、中国の古代史中世史については私のほうが曽くんより詳しい。
以前曽くんが描いたマンガに「祖国」というネームがあった。「祖国」という概念は、あまり日本では馴染みがない。その話題から、日中戦争の話になった。曽くんと政治的な話題をするのは初めてだった。
曽くんは言う。「中国人はダメな人間が多い。だから、日本との戦争に中国は負けたのだ」
私はそれは違うと主張した。「日本人は、とくに官僚・役人になるとダメになる人間が多い。日本は、兵士は強いし下士官は優秀だが、将校はダメだ。だから中国との戦争に日本は負けたのだ」
どうやら私たちは、相手の国を実物より理想化し、自分の国を実際よりシニカルに見ているのだろう。
「わかった。たぶん、どっちの国も、それほど良い国じゃない」と、翌日、曽くんは笑いながら私に言った。午後10時30分。



1月12日(火)

ポップ試作。Illustraterで試してみる。使い勝手が分からない。photoshopでどうにかする。えらい時間食う。疲れ溜まってたので試作をファックスしてすぐ寝る。
ディグさんは今日からアルバイト開始のはず。人間の人生は、偶然と、誰と交遊するかによってかなり変わるようだ、と、改めて思う。
7,8年越しの、実家の、環境庁による建築許可・事業許可、どうにか通ったらしい。



1 月11日(月) 風邪、励み、課題、ネーム、新宿蔦屋、BJ

10日午後8時半頃、曽くんが帰ってきて、そのチャイムの音で起床。自分が風邪気味なことに気づく。昨日気が弱くなっていたのは体調のせいだったらしい。それともこの因果関係は逆かな? 昨年一年は珍しく一度も風邪ひかなかった。誰か一緒に生活していないと、とことん生活が自堕落になる。それで体調崩すのかな? 曽くんが同居してくれているのはその意味非常にありがたい。行こうかと思っていた宮台真司氏の講演には行けなかった。俺はだらしない。
曽くん、給金を調べたら、「万札のぶん入っていないらしい、どうも(アシ先の)先生が入れるの間違えたらしい」、と気づく。先生に電話する。話し中。再度掛ける。ファックス切り替えになっていた。事情を書いて、ファックスする。
午後12時頃、ディグさんが来る。曽くんがディグさんから「ゼルダの伝説」の解き方を教わる。午前2時頃、曽くん就寝。
ディグさんが持ってきてくれたビデオ『未来は今』観る。その間にディグさん就寝。

午前3時頃、砂さんから電話いただく。冬コミ初日の宮台真司・東浩紀対談イベントのとき、砂さんを誘ったことのお礼言われる。東さんやI氏(評論家・仮名)が私に興味持ってくださっていることなど、教えていただく。ありがたいありがたい。私のマンガを描く手つき(つまり技術)はともかくとして、エロマンガというものを使ってがめつく何かしようと私がムキになっている(馬鹿正直にやっている)ところが、人々の興味を引いているらしい。ありがたいありがたい。私がほんとに幼女とマンガで描いているようなことしてるかどうか、というのも関心のもとらしいけど、まあ、そう思わせたのならある意味勝ちかな。ありがたいありがたい。すごく励みになりました。砂さんありがとう。今度はこっちから電話します。てゆーか、暇になったらお会いしましょう。

ものを描くとき、ナルシシズムとの距離、というのは問題だ。そして、私にとって(たぶん早急に)クリアしなくてはならない課題だ。などと書いているこれもナルシシズム。そして対等な権利を持つキャラ同士がガツンガツンと葛藤する、そういうドラマが描けなくてはならない。これは課題であり目標。自分のマンガがちゃんとそうなっていないのは、自分の内面に「対等な関係の相手との葛藤」というものが未熟なのだ、と、ここに自身へ課題をつきつけておこう。午前4時30分。

午後3時ころ、ネーム、どうにかなりました。対等な権利が対立する、という線は、未熟ながら、どうにかなったような。
構想段階で考えていたプロローグとエピローグはページ数の関係上、カット。「狼くん」のネームも、半分くらいに絞る。それが良かったかどうか分からないけど、そうしなければ24ページくらいになってしまう。まあ、よかったのだとしておきませう。
導入は以前別なマンガに考えていたシーンを流用。鳥獣戯画なとこと、バイオレンスなとこが、調和できてると良いけど。
編集さんは「面白い」と言ってくださった。ありがたいありがたい。「喧嘩売りまくってますねえ」とも言われる。誰にも喧嘩売っているつもりはないんですけど。びくびく。そりゃ、たしかに粗筋を、友達が遊びに来てたとき教えたら「ショックだ・・・そんなふうに思われてたなんて」と言われたけど。君がモデルなわけじゃないからね。ネームに直したらどこが「ショック」を与えた部分かたぶん誰にもわかんなくなってるから、この裏話も無意味なんですが。ネームに直した時点でそれが不鮮明になってしまうところが、私の技術の未熟。

曽くんが新宿蔦屋の会員になりたがっていたので、新宿へ。『ウテナ』3本借りる。曽くんは色々と4本ほど。寺山修司のビデオのパッケージ、花輪和一が描いているもの、これ、町田ひらく氏の絵とあい通づるものを感じる。町田氏の映像関係の引き出しは膨大だが、たぶんこの辺も大きな位置を占めているはずだな、と、勘ぐる。そう遠くないうちに私もクリアしておかなくては。などと思う。思うだけで今回は借りない。

曽くんにおごってもらってタイ料理を。「手塚治虫の『ブラック・ジャック』は勉強になる」と曽くんが言う。「どうすれば短く話をまとめられるか、あれを読んでわかった。言いたいことは、一つの話に一つだけ。言いたいことを言ったら、すぐマンガを終わらせる。余計なことは描かない」 ほう、私はそういう目で読んだことはなかった。曽くんの話は勉強になる。ここにメモしておく。
某市民団体に貸した台車が帰ってこないので重量が憂鬱だが、おまんまのために同人誌発送しておこう。午後10時30分。



1月10日(日) レヴォ申し込み、「トモダチ」

目の前のことばかり考えていると、いくつも大事なことをとりこぼす。
>目の前のこと一つずつ片づけていかないと何ごとも終わるものではない。と、自分を欺瞞して目の前の仕事以外のことは極力忘れていたりする。これを普通「だらしない」とか「スケジュール管理ができていない」と言う。
と、さっき(1月9日の)日記で書いた。まったく、私はだらしない。レヴォの申し込みを、私、忘れてました。レヴォの申し込みチラシをコミケのときちゃんと保管してなかったこと気づく。何回目だ俺。学習能力ないのか。
同人活動は、正直言って、続けたいという気持ちと続けたくないという気持ちが、常に相半ばする。それで失念するのかなあ。昔、北のりゆきから、「同人誌に対する真剣さが足りない」と怒られたものです。
申し込みチラシを求めて数人に電話する。一人(漫画家)は寝ていた。ごめん。一人(自由業)は全く私のちからになってくれようという意志がない。いや、まあ、こっちの勝手な期待なんですが。彼がそういう人だということはよく知っていたんですが。こっちが向こうの無理難題にしょっちゅうつきあい応えているからといって、向こうが私の無理難題につきあってくれる保障はない。そういうたぐいの人情は彼にはない。敏感であると同時に鈍感だという点で、彼と私は同じ穴のムジナなのだ。しかし私の言っていることは無理難題か? 申込用紙のファックスすらくれんとは。つくづく友達甲斐のないやつ。まあいい。彼と私では「友達」の定義も違うのだ。力になってくれそうな人間を頭の中で検索する。力になってもらえるほど誰かの力になった記憶はない。原稿がうまくいっていないときは気が弱くなる。
暗鬱たる気分になりながら、夜分なので申し訳ないと思いつつ、勤め人であるよさこい野郎さんに電話する。幸い、起きていらした。レヴォ当日の委託をお願いしたら快諾してくださった。ありがたい。「けどチラシあまってますよ」それならもっと話が早い。助かった。互いに直面している、同人活動のうえで滞ってしまっている作業について若干話する。非常に読者に申し訳ないことをしている。読者さん、ごめんなさい。
「新人くん」という漫画家を知らないか?、と、よさこいさんから訊ねられる。知らない。O氏(漫画家・仮名)の知人らしいと、よさこいさんが説明する。O氏のとこにも冬コミに挨拶行けなかったこと思い出す。「すごく面白いんですよ」よさこい野郎さんのマンガを見る目は信用が置ける。この作者名は記憶しておくべきなんだろう。ムッシュ・ロリータさんが同人活動やめたことをO氏がひどく残念がっていた、という話をよさこいさんから聞く。よさこい野郎さんも、ここ一年くらい、ムッシュさんの話題をひとからされることが辛かった。色々あって、それゆえの「ないちち同好会」解散だった。よさこい野郎さんの新サークル名は「野良犬」。「自分の楽しみのためだけの、売れない本を作る」とおっしゃった。それで良いと私も思う。1月10日、午前3時。

「トモダチ」は今描いているマンガのキーワード。粗筋はきれいにまとまったのだが、実際展開させるとなるとキャラがうまく動かない。そうかこういう描写、俺は苦手なんだな、と、改めて思う。
苦手意識克服のために強迫的に苦手なものにこだわる人ってのはけっこういて、高所恐怖症のスチュワーデス、血を見るのが怖くて怖くてしょうがない看護婦さん、といった例は、夏目房の助『学問』にたくさん描かれている。身近見渡しても、たとえば、もりしげくんなんかも、残虐が「好き」なわけではない。残虐にこだわらずにいられないのだ、彼は。
かといって、それを言い訳に、楽なものばかり描いて良いわけではないだろう。たぶん。いいのかもしれないけど。もうちょっと試行錯誤するべきですね、私は。1月10日、午前5時40分。



1999年1月9日(土) 日記の想い出、お仕事、高室弓生さん

せっかく来ていただいてもなにも新しい書き込みがない、というのは来ていただいたかたに申し訳ない。ということで、不定期に日記をアップしよ思います。BBSにばかり書いているのも精神的に不健康ですし。・・・「会議室」とは名ばかりな俺様状態。だから、というのもあってサークル名とHP名変えたんですが。
日記つける習慣は、中一の時から、だいたい5,6年続け、その後、学生時代にはぽつぽつと不定期に大学ノートに書き、その後ネタ帳が日記代わりになったりして、現在に至る。つーか、現在は書いてませんでした。日記つけてると私の場合、強迫神経症気味になって、精神衛生上よろしくない。と、感じてきたのですね。
マンガが曲がりなりにも「お仕事」になってからは、書くことそのものが金になりますので、うおー、くそー、物言いたいー、ケチつけたいー、という衝動をお仕事のために大事にけちくさくとっておいたりするようになったので、なおさらだったりします。
中一の頃つけていた日記には、1999年7月までのカウントダウンが毎日書いてあったりして(爆笑)。なんと鬱陶しいガキだったのだ俺は。今でも鬱陶しい性格は変わりませんけど。しかしながら新サークル名の「アンゴルモア」でweb検索してみたら、うじゃうじゃ出てきて。魔術的未来予測に耽るというのは、自己を軸にすることのできない、悪しき他力本願だな、と、今更思ったりする。(良い他力本願もある。それは別の話)
現在、お仕事二つ抱えてたりします。ひとつはコアマガジン。コアマガジンさんごめんなさい。マンガ描くコツを同人誌『偽善者』描いたときつかんだような気がしたのですが、というか「お話」の作り方はちょっとだけわかってきたのかもしれないんですが、演出については自分はまだ全然分かってないんだ、ということを思い知らされてます。
もう一つのお仕事は、マンガと全然関係ないんだけど、もう一月近く前に頼まれてまして、ちゃっちゃかとすませるべきなんだけど。知り合いのお店屋さんのポップ描くこと頼まれてたりする。「なんやそれ?」、と、読まれるかたは思うかも知れませんが、私も年がら年中変態なこととか危ないこととか政治活動とかしてるわけではないです。それなりに日常生活があって、日常生活のしがらみだのとかささやかな日常を構築する努力とかしてたりもするんですね。このポップ描きはその一環。
とはいえ、ささやかな日常を破壊してしまいたい衝動がふつふつたぎったり、どかんと身を滅ぼしたくなる衝動がおそったりしょっちゅうしまして、そういう衝動を吟味したり自分の中で再演したりしながらもの描いたりしてるんですが。そんな舞台裏なんてどうでもいいわな。てゆーか開帳しようとしてどーする。内面の動きをつらつら書き始めると、自意識過剰になるし、誇大妄想になるし、だいたい、客観的に見てそんな生意気なこと他人様に書けるほどの何事も私はまだしていないわけだし。
あ。それとは別な仕事思い出してしまった。目の前のこと一つずつ片づけていかないと何ごとも終わるものではない。と、自分を欺瞞して目の前の仕事以外のことは極力忘れていたりする。これを普通「だらしない」とか「スケジュール管理ができていない」と言う。仕事の話題書いていると強迫神経症になって結局なにもできなくなるからこの辺で切り上げよう。
知り合いの高室弓生(たかむろ・きみ)さんという漫画家さんから郵便物いただく。高室さんとはマンボウの関係で知り合った。女の子みたいな名前だけどオッサンである。ワイルドでかっこいいオッサン。潮(うしお)出版「トムプラス」で『ニタイとキナナ』という縄文時代ホームコメディ描かれている。ほんとは『縄文物語』といったタイトルにしたかったそうだけど、そういうタイトルのマンガを他の出版社ですでに描いたのでそういうわけにいかなくなったのだそうだ。タイトルはマンガの命の一つだけど、こういうあたり、運が人生を支配するときがある。奥さんもマンガ家。『綿の国星』のちび猫のような美人。
高室さんは、高校生の頃、利き腕を骨折して、現在は利き腕でないほうの手でマンガを描いている。自分にその真似ができるだろうか? 高室さんの高校の近くに縄文時代の遺跡があって、縄文人の遺骨のなかに、骨折治療がしっかりとなされているものがあるのを見て、以来縄文に関心を持つようになったのだそうです。
手紙によると、高室さんの昔のコミックス古本屋で見かけたので確保したのち保護して送るつもりだったが、「妖怪さきこうた」に化かされて古本屋から消えてしまった、とのことです。「妖怪さきこうた」はフィギュア系のかたに伝わる妖怪だそうです。名前の由来はなんなんだろ?
現在、曽くんはアシの泊まり込み中。
さて、私も仕事に戻ります。1999年、1月9日、午後7時。

2000年1月1日~1月15日

2011年12月18日 01時16分01秒 | Weblog
 1月15日(土)

 ディグさんから電話。『ジャンヌ・ダルク』観に行くとのこと。どうしようか悩む。一緒に行くことにする。nutsさん、ご免なさい。
 いつきこうすけさん交え、三人で観る。感想。うーん、いまいち。
 ディグさんの部屋に三人で行く。私は眠くなり、コタツで居眠りする。目覚める。二人が寝る準備している。二人と別れ、自分の部屋へ戻る。

 1月14日(金)

 3月17日ロフトプラスワンで開催予定のイベント『セックスについて色々考える』の件で、渋谷へ。OKさん、宮台真司さん、フリーライター二本松泰子さん、南智子さん、ゲイ雑誌『ファビュラス』編集長長谷川さんほかとお会いする。二本松泰子さんから、児童虐待の興味深い話を伺う。鍋をつつく。
 新宿2丁目にある、長谷川さんの経営するクラブ「エース」へ行く。ふむなるほど、クラブというのはこういうところか、と、観察する。こういうところに来るならもっとお洒落してくれば良かった、と、後悔する。OKさんが「踊りましょう」と言う。初めは躊躇した。上着と荷物をロッカーにしまい、ステップの上手な人のステップを真似る。うまくいかない。よほどぶざまな動きしていたらしい。「最初は体動かしているだけで良いんですよ」OKさんが言う。そのうち感覚が掴めてくる。なんだ他の人もそれほど上手じゃないじゃん、と、度胸が出てくる。よーし、これでもうクラブも恐くないぞ。
 ショータイム。ミズキキョーカという人のストリップ。演劇やダンスの基礎をしているだろう動きが観ていて心地いい。なるほどストリップとはこういうものか、と、思う。ほか、ゲイの方々のショー。先ほどのストリップの方と違い、基礎がないので、私は観ていてもあまり楽しめず。三輪明弘の音楽に合わせての、くちパク。そのほか。2回目のショーで、長谷川さんのお話を聞く。コンドームなしのアナルセックスを「たねつけ」と呼んでいる、という話、『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)の朗読など。
 もていさんとマクドへ。セックスのオリエンテーションについて、お話伺う。政治的な話を、こちらが一方的に話す。

 1月13日(木)

 無為に過ごす。

 1月12日(水)

 雨で寒かった。足立真一さんから、『ジャンヌ・ダルク』観に行くのやめるという電話。nutsさん、松代さんにその連絡。

 1月11日(火)

 以下、宮台真司氏の講義のメモ。講義はあと3回くらいだそうだ。この回は内容が充実していて面白かった。(以下のメモには、鎌やんによる勘違いがあるかもしれない)
 社会学

 性について

 社会学における「性」は、性別論、性別論を土台とした性規範論がある。

 性別論

 自然的性別 sex;アナログなもの
 社会的性別 gender;デジタルなもの

 性の問題は、死の問題に似ている。
 自然的死は、どの時点をもって死とするか特定できない。肉体は徐々に死ぬ。
 社会においては、死はデジタルなものとされる。ある時点をもって死として特定する。かつては心臓停止を瞳孔拡大を含む3つの条件をもって死として特定した。脳死概念が生まれたことにより、脳幹機能停止をもって死と特定するようになった。だがこれについては議論が絶えない。

 遺伝子的性別には、XX、XY、XXY、XYYなどある。

 Y遺伝子により、精巣部分のミュラー管とウォルフ管のいずれが発達するかが決まる。ミュラー管なら女性、ウォルフ管なら男性になる。性腺の分化、ホルモンバランスの違いが生じる。内性器の分化が生じる。第二次性徴の分化が生じる。

 自然的性別には、常に半陰陽がある。アナログだ。社会的性別はデジタルだ。男性か女性か言語を用いて性別判定する。恣意性が生じる。死亡判定に議論があるように性別判定にも議論がある。

 3歳前後は言語習得の臨界点だ。3歳前後に人間は性別自意識・性別アイデンティティを持ち始める。性別は、単なるカテゴリ・ラベルではない。半陰陽の子どもを男女判定を保留したまま育てると、言語習得が遅れる。

 言語は世界に名前を与える、世界を解釈する行為だ。ピアジェ心理学では潜在的行為可能性と呼ぶ。コップ、水、といった言葉は、水を飲むという行為との相関で習得する。(ハイデガーの「存在」の問題)行為には、性別役割による区別が大きな位置を占める。性別アイデンティティの決まらないまま、曖昧なままだと、行為の区別の習得が困難となる。

 ジョン・マネーが『性の署名』で行なった、追跡調査の話。
 半陰陽は遺伝子的には男子だ。半陰陽の双子を、親の希望で片方を男子、片方を女子として性別判定した。その性別判定に従ってそのとおり育っていったそうだ。性別には恣意性がある。

 自然的社会的性別・身体的性別では男性だが、自分を女性だと感じる人がいる。女性型外部生殖器を手術でつけることにより、本人の望む性に、60年代後半からは日本でも手術により性転換ができるようになった。日本では法律上、戸籍の性は変えることはできないが。女性から男性への手術は技術的に難しかった。ここ10年ほどで先進国でできるようになった。

 以上の話には制限条件がある。

 ジョン・マネーが追跡調査した双子は20歳のとき神経症になった。どこまでが恣意的なのか、という条件である。

 性の分化

 �;遺伝子的性別…染色体による性別
 �;性腺による性別…ウォルフ管、ミュラー管
 �;内性器による性別…子宮、卵管、精嚢、前立腺
 �;外性器による性別
 �;第二次性徴、身体的性別

 �から�までは、胎内である。�は�の情報による。�、�、�は�の情報による。Y染色体がない・Y染色体の指令が伝達されないと、ウォルフ管が衰退する。Y染色体からの指令があれば、ウォルフ管は衰退しない。�からの情報は、男性ホルモン(アンドロゲン)のバランスの情報だ。アンドロゲン受容体に問題があると、性分化の失敗が起きる。

 「アダム原則」というものがある。全ての性別を持つ動物においては、メス型が基本だ。オス型は分化した発生形態だ。(イヴがアダムの肋骨より生まれたことに因むが、イヴからアダムが生まれたと言う方が正しい。だから本来はイヴ原則と言うべきかもしれない)

 性分化の失敗は、メスがオスに変わる過程で起きる。
 受精のとき、男女の比率は、女100:男140
 出産のとき、男女の比率は、女100:男105
 男は多く自然流産する。メスからオスへの性分化の失敗が起きる。
 ハーレムを作る動物以外では、動物は一般にメスのほうが大きい。

 性腺のホルモンバランスと脳の働きには相関関係がある。男性ホルモンは空間感覚を司る。脳の空間野(くうかんや)が発達する。オスは狩猟の役割を負った。狩猟をするためには空間感覚が重要だ。空間感覚が弱いと、言語能力(言語野)が発達する。女性は言語野が発達している。

 性医療の発達した社会では、性別は医療操作の対象だ。性別アイデンティティと社会認知がずれることがある。それに起因する不安は治療可能だ。

 性規範論

 死とのアナロジーから。死と生は社会的にはデジタルに分ける。生きている人間に期待することと死人に期待することは違うからだ。
 同様に、男性に期待することと、女性に期待することを分けるのを、性別役割分業と言う。今までは性別役割分業で、社会は来た。
 性規範論には、性愛論、猥褻論などがある。

 性愛論

 高等でない動物は、遺伝的性別に書きこまれたプログラムに従って行動する(生得的プログラム)。
 高等になるほど、「学習」によって決まる(習得的プログラム)。ここには恣意性が生じる。時代・文化で変わる。大脳生理学的には、脳の新皮質に書き込まれたものだ。

 異常性愛は、妥当とされた習得プログラム以外のものを習得することだ。対象異常と行為異常がある。
 A;対象異常…性愛行為の対象が妥当でないもの。死体姦、幼児姦など。
 B;行為異常…サディズム、マゾヒズムなど。
 社会は行為と対象を指定する。

 社会は対象異常から行為異常へ切り替える歴史を持つ。
 ロリコンを例にする。ロリコンは第二次性徴以前の子どもを性対象とするものと、以後の青少年を性対象とするものに分れる。近代以前は性的に隔離されるべきという青少年という概念はなかった。

 フロイト派が本能と衝動の区別を提唱した。これは重要だ。本能は生得的プログラムだ。性衝動は本能に含まれる。エネルギーだ。衝動はエネルギーを外に出す方法を決めていない。対象は決まっていない。特定のものを対象とするフェティッシュ、フェティシズムはこれによる。

 対象異常から行為異常へ切り替える歴史に話を戻す。
 レヴィ・ストロースは、基本構造を、親族構造とした。
 性愛行為の妥当性は、親族構造で決められている。
 多くの社会では平行イトコ(母の姉妹の子、父の兄弟の子)を禁止し、交叉イトコ(母の兄弟の子、父の姉妹の子)との婚姻を推奨する。
 半族(部族の半分)を性的に禁ずる、あるいは部族をもっと多く分け、特定部族との婚姻を認める、あるいはインセストタブー。 

 なぜ正しい性愛行為と正しくない性愛行為があるのか。
 親族原理では、婚姻と親子関係が社会を構成している。
 遺産相続、あるいは誰かがその部族で期待される役割を担えないとき誰がその役割を代わってするのか、を、決定しなくてはならない。
 親子関係を指定する。
 親族原理を壊さないよう、子どもが生まれる可能性のある行為をする相手を、性的行為をする相手を(未開社会では性的行為と出産の関係が不明瞭だったので)、指定する。

 中世に、社会は鱗的社会(ほぼ同じ力を持った複数の部族からなる社会)から、階層社会へ変わる。
 階層社会では、たいがい、婚姻は同階層社会に求められた。

 近代では、階層的性愛関係から、自由恋愛結婚へ変わった。自由恋愛結婚はどういう規則に基づくか?

 恋愛概念romantic loveは、ヨーロッパ1800年代後半から、日本では明治20年以降始まった。
 ルージュモンの説では、romantic loveは12世紀トルバドール吟遊詩人の歌をルーツとする。

 愛の対象は(身分の高い既婚者の)貴婦人、愛の主体は(貴婦人より位の低い)騎士だ。この関係は、キリスト教の神への献身的愛がスライドしたものだ。貴婦人に神を想定した。【理想化の段階】

 のち、宮廷恋愛に移行した。結婚は階層的に行なわれる。恋愛はセックスに至らない。恋愛は貴族の作法だ。

 これも17世紀後半18世紀には、恋愛対象が変わる。女性は理想的美徳を必ずしも持つものではない、となる。にもかかわらず、盲目的な恋愛をする、ストーカー的情熱が現れた。romanticは、主観的だ。【逆説化】

 romantic loveは小説により、庶民化する。【自己言及化】 フランス革命の頃には、小説の中で恋愛の作法を学んだ。(フローベール『ボヴァリー夫人』など)
 romantic love は、近代学校制度と同じくらいしか歴史を持っていない。

 動物行動学者デズモンド・モリス(『マンウォッチング』)は恋愛の手順を8段階に分けた。いかにセックスに至るか、時間と手順が重要となる。この手順を飛び越えることを、逸脱とする。対象規制から、行為規制へ。手順の問題となる。

 90年代のゲイ・コミュニケーションには「ハッテン場」がある。出会いの場所だ。その意味、ノンケのテレクラに似ている。ゲイは比較的性的パートナーの出入りが激しい。「ハッテン場」での出会いには、「その気があるだろう」という前提がある。そのため、関係の希薄さに悩むことになる。

 手順を踏むと、時間がかかる。関係の履歴が生まれる。欲求充足が手順によって引延ばされる。関わりが引延ばされる。それによって「関係」が生まれる。手順をすっとばすと、「関係」ができにくい。

 近代社会では、「正しい手順による性愛」これを「自由恋愛」と呼ぶ。

 社会学は、ニヒリズムの徹底である。

 以上、メモ。
 以下、自習。

 ピアジェ Jean Piaget 1896~1980 スイスの発達心理学者。人間の認識の発生過程を構造的に究明する【発生的認識論】を創始。初期;子どもがおかす間違い方の中に子どもの思考の特徴あ表れてくることに着目。子どもたちとの言葉による問答から子ども特有の論理世界観を明らかにする『子どもにおける言語と思考』(1923)子どもの自己中心性を重要な概念として取り出し、そこからの【脱中心化】を発達の要として重視。 その後3人子どもの父となる。新生児の段階から克明に観察。言葉以前の感覚運動段階に知的活動行動が始まっていることを見いだし、その発生を観察例に基づき理論化『子どもにおける知能の誕生』(1936)『知能の心理学』(1947)『発生的認識論序説』(1947)[ 岩波哲学・思想事典より]

 レヴィ・ストロースClaude Gustave Levi-Strauss 1908~ 構造主義の創唱者。フランスの人類学者。1962年構造主義ブームを巻き起こす『野生の思考』刊行。194-71年『神話論理学』刊行。
 1949年『親族の基本構造』刊行。イトコ婚の制度を例に、近親婚(近親姦)の禁忌が親族集団間の互酬的な女性の交換を促す規範とする視点を提示。イトコは、平行イトコ(父の兄弟の子、母の姉妹の子)と、交叉イトコ(父の姉妹の子、母の兄弟の子)に分れるが、男から見て交叉イトコとの結婚、特に母方交叉イトコ婚を理想的とする社会は多いが、平行イトコとの結婚は禁止される。その謎を、平行イトコ婚は姉妹との結婚と同じく他集団との交換にならないが、交叉イトコ婚は集団間の女性の交換となるからだと解き、別々とされていた事象が女性の互酬的交換という同一の構造の現れであることを示して、構造人類学の最初の成果となった。[ 岩波哲学・思想事典より]

ウォルフ管、ミュラー管;哺乳類では、発生上、雌性が性の基本型となっている。つまり、最初は雌の生殖器ができ、性分化がそのまますすめば雌となる。雄へと分化させる力がはたらけば、精巣がつくられて雄となる。つまり、雌から雄がつくられるのである。雄へと分化させる力は、Y染色体、精巣決定遺伝子などが知られている。精巣ができると、テストステロンという男性ホルモンが分泌され、ウォルフ管(のちに精管となる)の発達を刺激する。のちには、脳下垂体から放出される生殖腺刺激ホルモンとともに、精子の発達を刺激する。
雌の胚にある雌性生殖管の前身であるミュラー管は、ホルモン刺激物質なしで自然に分化するようである。雌の性であることがはっきりときまってから、子宮と胎盤で生産されるエストラジオール(女性ホルモンの一種)が、雌の生殖管の発達と機能に主要な役割をはたす。"性(生物)" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

男性ホルモン Male Sex Hormone アンドロゲンともいい、男性の生殖器から分泌されるホルモン。二次性徴をうながす。男性の二次性徴をうながすのが男性ホルモンである。おもに精巣(睾丸)でつくられる。精巣から分泌された男性ホルモンは、血液にまじって全身を循環したのち、尿や便にまじって排泄(はいせつ)される。精巣でつくられるおもな男性ホルモンは、テストステロンとアンドロステロンである。"男性ホルモン" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

ピアジェ、ルージュモン、デズモンド・モリスについてはweb catで検索されたし。

 以上、自習。
 この日のゼミも、内容が濃かった。私の好きな題材で、発表者の高久さんも素晴らしく優秀だった。ところが残念なことに私は前日眠りそこなっていて、ゼミの講義の間、いくたびも居眠りをしてしまった。ひどくもったいないことをした。大失敗だ。高久さん、宮台先生、ごめんなさい。(まだ続くがとり急ぎここまでアップ)

 1月10日(月)成人の日

 新なんか党のMUMEIさんの主催で、新年会。豊川稲理さん、重さん、日本エロマンガ党のA・浪漫・我慢さん、きょーじゅさんとお会いする。マルコムXさんには会えず。
 上野クリニックでは包茎手術しないほうがいいという話や、ちんちん伸ばす手術はどういうやり方するのかとか、脂肪吸引手術するとどうなるかとか、豊胸手術すると乳がどうなってしまうかとか、男はちんちんに真珠入れたがるがそんなもの喜ぶ女はどこにもいないがソープのお嬢さんがたはお愛想にそれを褒めるが単に痛いだけだそんなもの、とか、面白い話伺う。
 MUMEIさん、豊川稲理さん、きょーじゅさんでカラオケ行く。

 1月9日(日)

 無為に過ごす。
 自分という存在の加害者性に悶々とする。
 竜の資料探す。

 1月7日(金)、1月8日(土)

 悪人

 夜になってもぞもぞと起きだす、という生活リズムになっている。これでは銭湯に行けない。
 ディグさんがプレイステーションを返しに来る。
 ディグさんが珍しく自身の画力について愚痴る。メインカルチャーの壁は厚い、5歳の時から英才教育受けてきた人々とまともに戦わなくてはならない、と、ディグさんがこぼす。
 ディグさんや足立真一さんが彼ら自身に要求している絵のレベルの話は、標高が高すぎて私は良き話し相手になれないが、ディグさんの抱える課題とは別な側面で同様のことを私は感じているので、その意味で共感する。
 判っている人には判る、という姿勢は、救われている人だけが救われる、ということと同じではないか、みたいな話をする。
 「悪人が歴史を作る、と、宮崎駿が言っていたのが、判ってきた」とディグさんが言う。マンガ版ナウシカのラストで、地球を浄化し新しい人間の世界にすることをナウシカが拒み、地球の未来をナウシカがただ一人で決め、破壊し、自分一人の胸のうちに秘めたこと、これは悪だろう、とディグさんが言う。ふんふんと私は話を聞きつづける。
 「『もののけ姫』のエボシ御前が、自分の国の民に朝廷のこととか教えないのと同じですよね」
 そんなシーンあったっけ? とディグさんに訊く。ジコ坊から朝廷の手紙を受け取ったエボシが、それを村娘に見せ、意味の判らない村娘をきょとんとさせることで、朝廷の権威をエボシが内心嘲笑するシーンをディグさんが私に説明する。ああ、あったあった。
 宮崎駿の中での「悪人」の解釈がそういうものへ熟成したのは面白い、と、私はディグさんに言う。宮崎駿は悪人を描くのが上手な作家じゃなかった。『コナン』のレプカは、独裁者だが、一人で何もかもしようとドタバタと懸命なので、視聴者からは愛嬌ある人に映ってしまった。
 映画のため多くのスタッフの時間と労力を搾り取っていることに、宮崎駿は時折良心の呵責を覚えるのだろう、と、想像する。宮崎駿は、そういう自分を「悪人」だなあ、と感じるのだろう、と、ディグさんと話す。マンガの連載するのですら、何人かのアシスタントの人生を使い潰さないとできない。「悪人」でなければことを成し遂げられない、とは私も思う。
 「こういうものを私は見た、知った、それを皆に教え伝え、どうするべきかナウシカが皆と評議する、という選択だってありえたわけですよね」とディグさんが言う。
 「一人で全てを抱え込むほうが英雄的に描きやすく、まとめやすくはあると思うけど…たしかに、独善だね。宮崎駿自身のワンマンさのあらわれだろうね。そこが宮崎駿の限界なんだろうね」
 「今までナウシカは最高に完成された作品だと思っていたが、どこが突破口か見えてきた」とディグさんが言う。いい突破口だと鎌やんは思う。
 ディグさん、プレイステーションを再び借りて、帰る。

 

 無意識の癖

 田舎で以前、妹から聞いたことを思い出した。ここに書く。
 妹2号は昨年仕事を変えた。妹2号と同期に入った男性社員がいる。学歴や資格経歴は、同期男性社員のほうが、妹2号より遥かに上だ。実際に働いてみると、妹2号は有能で、男性社員は無能だった。
 同期で、年齢が近いので、職場の人々は気を利かせて、妹2号とその男性社員をよく一緒にさせる。それが堪らなく苦痛だ、と、妹2号がこぼす。
 その男性社員は、人前でしょっちゅう、ズボンの上から自分のきんたまをいじっている、と、妹2号が吐き捨てるように言う。そんなものを見せられると、一日中気分が悪い。同じ空気を吸っていたくない。
 私はその話を聞いて、妹2号に想像を述べた。その男、勉強ばかりしていて、部屋にばかり篭っていて、オナニーぐせがついたんだろうなあ。
 妹2号は私に憤慨して言う。どんなに学歴があっても、もし仮に仕事ができたとしても、人前できんたまをいじっているような男は最低だ。
 まったくそうだ、と、急いで妹2号に同意した。
 以来、人前できんたまを自分はいじっていないか、私はとても不安だ。

 

 「幸せになれるよ」

 正月、実家に帰ったとき、高校時代の友人からえらい久しぶりに電話があった。私の高校の同級生たちは、私の中学までの同級生と違い、それなりに知性と余裕のある人々だったので、校内に虐めはなかったが、この友人は人格タイプとして典型的虐められっ子だった。だから私の友人だった。
 久しぶりに会おう、という誘いの電話だった。彼の口調は、ほんの少し話を聞いているだけでこちらがムズムズしてくるほど、典型的虐められっ子口調だ。なぜ突然電話をしてきたのか私には判らなかった。「ひょっとして宗教の勧誘?」と私は訊ねた。彼は「まさか、違うよ」と否定した。日曜日に会おう、という話になった。
 土曜に、その友人から翌日の件で電話が来た。話をした。
 景気が悪くて、仕事がない、という話を彼はした。同情を私は示した。彼は話を続けた。つらいことが多くて、色々考えて、某宗教団体に入った。とてもいい宗教だ、それを薦めたい、と彼は言った。幸せになれるよ、と、彼は言った。
 君の客観状況が少しも幸せではないではないか、と、言いたかったがさすがにその言葉を飲み込んだ。不幸だから信仰を必要としたことは全く責められることではない。だが、勧誘となると話が違う。飲みこまないほうが良かったかもしれない。
 彼のほかにそこの信者を私は知っている。その人も不幸だった。信心した後は、客観的にはいっそう不幸が続いた。宗教は人の社会貢献欲求を充たす。その人にとって、心の支えがあることは良いことだと思う。だがその人は宗教宗派の選択を誤ったと私はずっと思っている。人の弱みにつけこんでいる、と、私はその宗教団体を評価している。
 君がそれを信仰することを私は否定しないが、金のかかる宗教は信じるに値しないというのが私の持論だ、と、彼に伝えた。会おうという約束をキャンセルした。

 

 『キリンヤガ』

 公立図書館へ行った。『キリンヤガ』(マイク・レズニック著、早川文庫)借りる。
 読了。「SFというジャンルにとどまらず、すべての本好きに読んでもらいたい作品」と訳者が言ったのは誇張ではないと思う。ユートピア物語は常にアンチユートピア物語になる。レズニックはそのことに実に自覚的だと思う。

 未来の物語だ。西洋化してしまったケニアを捨て、主人公コリバが、キクユ族のためのユートピア小惑星「キリンヤガ」に渡る。「キリンヤガ」を西洋文明に「汚染」されることから守るため、キクユ族の伝統を伝える祈祷師として、コリバは孤独な闘いをする。

 『空にふれた少女』は、『キリンヤガ』連作の中でも、著者レズニックが最も好んでいる話だそうだ。「古き良き共同体で暮らすには聡明すぎた少女カマリの悲劇」と裏表紙で要約されている。『キリンヤガ』全編は、この中篇の変奏曲だと鎌やんは思う。
 『キリンヤガ』にはいくつも寓話が登場する。ダチョウになろうとしたモズの寓話を、祈祷師コリバが子供たちに語る。
 寓話を聞いた後、少女カマリが言う。「ダチョウになりたいと願うのと、ダチョウが知っていることを願うのは別なことよ。モズがなにかを知りたいと願ったのはまちがいじゃないわ。ダチョウになれると思ったのがまちがいだったのよ」
 これにコリバが応える。「ちがう。モズはダチョウの知っていることを知ったとたん、自分がモズだということを忘れてしまった」
 作中では、ダチョウは西洋文明人を、モズは少女カマリとキクユ族を指す。
 だが、著者レズニックはこの寓話に暗に別な寓意も与えていると鎌やんは思う。
 ダチョウは(過去の)キクユ族、「ダチョウの知っていること」はキクユ族の伝統社会、モズは「ヨーロッパとアメリカで学位を収めた」コリバを指している。寓話を語っているコリバはそのことに気づいていない。だがレズニックはそれを意識していると鎌やんは思う。読者はそれを受けとってほしいと鎌やんは思う。
 西洋文明に触れた者はみな汚染され、黒いヨーロッパ人になる。コリバはそう主張する。だからコリバは防波堤になろうとする。コリバはなぜそれを主張できるか。ヨーロッパとアメリカをコリバが見てきたからだ。コリバは自分を最も純粋なキクユ族だと信じている。だが、コリバは、純粋なキクユ族になりたいと願う黒いヨーロッパ人、裏返しの黒いヨーロッパ人でしかないのだ。悲劇は全てそこから生まれている。
 ユートピア「キリンヤガ」は、過去に実在したキクユ族の伝統社会ではない。ユートピア「キリンヤガ」ではキクユ族の言葉ではなく、スワヒリ語が用いられている。このことは控えめに書かれている。だが著者が込めている寓意としては重要なところだ。
 著者レズニックは、少女カマリたち、コリバにとってのユートピアに苦しめられる、コリバの対立者たちに共感している。共感の筆致は控えめだ。コリバの一人称であるがゆえなのだが、むしろ読者はコリバと一体化し、物語を読み進める。読者はそのことにストレスも覚えないし、コリバを異常だとも感じない。コリバは善人だ。コリバは物語の中で最も知性と知識を持った人物だ。同時にコリバは、救いようのない父権主義者・人種差別主義者・国粋主義者・鎖国論者・衆愚政治家・狂信者だ。著者レズニックが小説家として有能で上手いのは、にもかかわらず、読者を、狂信者コリバにも(コリバの対立者と)等しく優しい視線を注がせることに、見事に成功しているところだ。
 『キリンヤガ』をいたずらに短絡して政治的に読むのは危険だ、という意見は正しいと思う。狂信者であるコリバと著者レズニックを同一視したら、誤読しかできないからだ。だが、メタレベルでの政治的意図は著者レズニックにはもちろんあると思う。

 鎌やん的には、K・V・ウォルフレンの日本論との呼応を感じながら『キリンヤガ』を読んだ。『人間を幸福にしない日本というシステム』でウォルフレンは言っている。…私(ウォルフレン)には「西欧中心的」という言葉の意味がよくわからない。たしかに私の育った文化は西欧文化と呼びうるし、その育ちが、私の考え方の形成に大きく影響したのも間違いない。そして、その影響のいくつかの側面に私自身が気づいていない可能性があることも認めよう。しかし、私が政治・経済のリアリティについて書くとき、私は、人類の共有財産の一部である概念体系(ランゲージ)を使っていると信じている。
 …日本人技師が計算で代数を使ったら、それはアラブ中心的活動をしたことになるのか? 代数学はアラビアで発達したものだが、それを使う技師をイスラム主義者と呼ぶのはばかげている。フランスのグラフィック・アーティストが木版画の技術を応用したら日本主義者なのか?

 日本にあまたいる少女カマリ、少年ンデミたちの未来が、明るいものとなりますように。

 

 と、それはそれとして。

 鎌やんのHPは3年目、鎌やんのweb日記は2年目になりました。つくづく、昨年は何もしなかったなあ、と、思う。

 1月6日(木)

 体調崩す。

 1月5日(水)

 昼に就寝。夜、ディグさんからの電話で目を覚ます。駅で待ち合わせ、『シックス・センス』観に行く。
 「鎌やんさん、全然この映画の前情報知らないですよね」とディグさんが言う。
 「うん、知らない」
 「映画は変に前情報ないほうがいいですよね。そう言えば、この映画、あまり前情報ないんですよね。そのわりに、興業成績いいですよね」とディグさんが言う。
 観る。
 観終わって、なるほど、観た者が語れなくなるわけがわかった。良質な短編小説のような映画だ。
 隣にいる人とまったく言葉も心も通じない、という現代人の孤独を、オカルトと心理学という似ているようでまるっきり逆のものを題材に、良質に描いている。他者と言葉が伝わらないのは、自分が何者なのか判っていないから、という、そういう話なのじゃないかな、と、ディグさんに言う。
 監督はインド人だそうだ。いい意味でインド的な着想なのかなあ、と、ディグさんに言う。たしか小松左京が言っていたと思うけど、宗教的哲学的思考法は、インドを境に西と東に別れる。西は直線的で、東は円環的だ。仏教はその境界面に生まれ、西に向けて東の思考法を説明したのが仏教だ、とか、ディグさんに雑学開帳する。

 『今、そこにある僕』借りよう思い、貸しビデオ屋さんへ。ない。『アインシュタインの脳』他数本ディグさんが借りる。ディグさんの部屋へ行き、観る。

 『アインシュタインの脳』BBC制作。ディグさんのお気に入りの映画。終始暗い画面。画面を支配する、杉元助教授のふんぐー、ふんぐー、という鼻息。誰彼構わず「アインシュタインの脳を私は探しています。あなたはアインシュタインの脳がどこにあるか知りませんか」とヘタクソな英語で質問する杉元助教授に、通訳の女性が表情を凍らせる。登場する人登場する人、みな善人というかヒマな人たちというか寂しい人というか。切なさ目一杯。二人でヒヒヒと押し殺した笑いをしながら楽しむ。メタレベルでブラックユーモアな、ドキュメンタリー。

 『ホームワーク』イランの小学生を撮影したドキュメント映画。ディグさんは楽しんだそうだが、私は観ているうちに眠りこける。

 『ライフ・イズ・ビューティフル』イタリア映画。98年制作。カンヌ、アカデミー賞受賞。観る。前半一時間、クレイジーキャッツだなあ、と思いながら観る。後半一時間、えらい展開になる。観終わったあと、しばらく二人で沈黙する。「凄い映画だなあ」と二人で言う。
 チャップリンのようなコメディを現代的にやっているところが凄い、というのがディグさんの感想。
 私の感想。私は子供のころコメディが嫌いだった。ギャグは好きだった。ギャグは破壊的だと思っていたからだ。コメディは安全圏の中で楽しんでいるにすぎない、と、思っていた。この映画は前半はコメディだ。そのまま後半の過酷な状況に移り、コメディを続けている、その、ひりひりとした感覚が、凄い。どうやって話を終わらせるつもりなのだろう、と、観ながら思った。納得のいくラストだった。
 「『アンダー・グラウンド』もそうだったけど、自分の国の政治的歴史をきっちり見据えそれをコメディにするというのは、凄いよな」
 この映画を紹介してくれたディグさんに感謝して、自分の部屋に帰る。 

 1月4日(火)

 寝て過ごす。夜、ディグさんから電話。ディグさん来室。12月25日の日記をチェックしてもらう。アストル・ピアソラはブラジル出身ではなくアルゼンチン出身です、と、ディグさんが指摘。ブラジル出身はアート・リンゼイだそうな。ディグさんの評判を落とさないよう修正する。

 単行本作る上で面白いアイデアないか、と、ディグさんに訊く。今のところ、岩波新書みたいな装丁にしたいと思っているんだけど、と、私が言う。
 「それではあたりまえすぎるでしょう」と、ディグさんが言う。ほうほう、と、私は聞く。
 「どうせなら東浩紀さんの『存在論的・郵便的』みたいな装丁にしたほうがいい」と、ディグさんが言う。わ。さすが、センスが服来て歩いているディグさんだ。素晴らしいセンスだ。射程の長いセンスだ。けれど売れませんそれでは絶対に、ええ。
 「お客さんにジャケット買いさせないといけないんだ」と、ディグさんに言う。
 「写真を使ったらどうだろう」とディグさんが提案する。「ロリータエロ写真を流用しても、絶対版権とか主張されることないじゃないですか」とディグさんの提案。それはいかがわしくていいアイデアだ。問題は流通がきっと嫌がる、ということだ。…上手いやりかたを考えてみよう。
 「いっそのこと、デザイナーズ・リパブリックに装丁を依頼してみたらどうですか、ダメ元で訊くだけ訊くのはいいんじゃないですか」と、ディグさんが言う。わお。ディグさんらしい。それはディグさんのコミックスが出たときにしたほうがいいと思うぞ。

 明日『シックス・センス』見に行こう、という話になる。

 1月3日(月)

 前日同様、朝、店番する。店の中、掃除が行き届いていないことに気づく。パートを頼むのをケチるのはやめよう、と、母に提言する。提言は虚しい。自分で営業しない限り根本的解決にならない。雇用関係と血族関係が区別できないのは私にとって絶望的な状況になる。

 新聞読む。選挙の候補者リスト見る。知っている政治家が何人かできたので、それなりに読むことができるようになる。えだの幸男さん、民主党の公認を得ることに成功したようだ。よかったよかった。自分が住民票置いているとこには民主党の候補立たないのね、とか思う。
 えらい体調悪くなる。昼寝する。親戚が挨拶に来る。ここにいるのは邪魔だと妹1号が言うので、部屋へ行く。
 午後7時起きる。夕食食べる。東京へ帰ることにする。妹2号に駅まで送ってもらう。
 時間と精神力を、ムダに消費した。

 1月2日(日)

 (前日より)『おねぷ』から帰宅する。TVで、『朝生』している。えだの幸男さんが出ているので、番組終了まで観る。寝ようかと思ったが、開店時刻なので、そのまま店番する。

 猟犬のうち最も高齢の雌犬が、昨夜から寒さと老齢で体調悪く、店内に置かれていることに気づく。その時まで、この犬がそれほど老いていることに私は気づいていなかった。犬はどこかしら、少年的な動物だ。日が昇ってから、老犬を店外の屋根のあるところへ連れて行く。老犬はまともに歩けない。昨夜よりはだいぶ老犬の調子がいいのだそうだ。父が獣医に連絡。老犬を入院させる。人間で言う中風だとのこと。

 昼寝する。
 妹2号、箱根駅伝の応援より帰還。母方の祖母のところへ兄妹で向かう。母方の祖母の家も、接客業で、客が宴会中だった。伯父伯母従妹の顔を見る。陽気な笑顔で私たちを迎える。疲労している。
 祖母のところへ兄妹三人で来たのは何年ぶりか思い出せない。いざ祖母の顔を見ても、話題が見つからない。妹2号が素晴らしく優れている社交力で祖母と色々話する。退出する。

 母が家族でトランプをしたがっている、と、妹たちが言う。それを買いにそのまま車でコンビニへ。2軒回る。いずれも売り切れ。人生ゲームを買う。帰宅。人生ゲームする、という雰囲気にならない。殺伐とした空気になる。私と母の罵り合いになる。母が言う。見合いの仲介を頼んだ人に、お前は私の悪口を言っただろう、なんて恥ずかしいことをするんだ、そのせいで最近はその人がまともに話を聞いてくれない、と私をなじる。母はその人に嘘ばかり言っているではないか、それを訂正して何が悪い、と私は反駁する。その他、妹たちも口論に加わり、不毛な口論が続く。客が勝手口から侵入したので中断。

 就寝しようとする。眠れない。手荷物から創作ノートを探す。ない。別なノートに日記をつける。

 2000年1月1日(土)

 夕方まで寝る。妹1号帰省。妹1号に複数回起こされる。そのことを起床後なじられる。

 母が建築についてバカな主張を始める。その提案を拒否する。
 見合いしろとか早く東京の仕事辞めて実家に戻ってこいとか母が言う。戻って来たら毎月これだけの給金を払う、と母が提示する。私は実家の経済を把握できていない。実家にいるとき覚える無力感はそれにも起因する。以前自力で算出した年間の実家の経済規模から考えると、母の提示金額は小額すぎる。マンガで同じ金額を稼ぐには、と計算する。少しも難しくない。マンガで稼ぐほうが精神的に楽だし張り合いがある、と、母に述べる。
 私が年間どれだけ稼げば母は納得がいくのか数字を挙げてくれ、と私が言う。そういう問題ではない、と、母が言う。もちろんそういう問題ではないことは私もよく判っている。母の言う意味とは別だが。
 今私の稼ぎが良くないのは二年前に母が病気で倒れ、いつでも実家に戻れるよう仕事を絞ったからだ、と私は言う。弱みを見つけたとばかりに、いつまた再発するか判らない、と、母が同情買いを試みる。
 資産の算定について父に質問する。相続税という概念を父母は飲み込めない。近代経済の概念を父母は全く持たないので、そのことは予想できたことだ。父母抜きで算定始めるつもりだった、と、父母に言う。母が色々錯乱したことを言うが、父は幾つか建設的な情報を出す。

 妹二人と、村の話をする。私の村は、ごく最近まで、村の北方と西方とでは方言が違っていた。それほど人間が動かなかったのだ。近親交配ばかりで、村ごとに顔の特徴がある、という話。

 妹二人、『おねぷ』の生中継観に行く、とのこと。付いて行く。『おねぷ』の行列らしきもの発見。それに加わる。
 列はギャル風の若い女性ばかりで、みなスカート履いている。原田泰造に投げられるために遠くから来たのだろうなあ、と妹たちと話す。テレビスタッフが何か説明している。「ええ~」と下卑た声を女の子達が挙げる。私たちの目の前に並んでいる人が、スカート履いた男性であることに妹1号が気づき、喜ぶ。
 タレントによって客層がはっきり違う、という話を妹1号が私にする。ウルフルズの客層は年齢幅が広く、前向きな良い子が多い、と妹1号が言う。妹1号はウルフルズのファンだ。学校の勉強ばかりしていて現実的対処能力のない青白い同僚にウンザリして、さわやかガテン系が好みのタイプになったようだ。ビジュアル系のファン層は、キメている人もいるけど、たまに凄い人もいる、仮装行列だ、とも妹1号が言う。ちなみに妹2号はビジュアル系が好みなようだ。
 なるほど、自己像を投影しやすいタレントを客が選ぶので、そういう関係になるんだね、という話を妹1号とする。
 妹二人は運良く特等席へ。私は外縁から撮影を見る。私は歓声上げすぎて頭痛する。「そんなに大声出したの?」とあとで妹たちから訊かれる。ああいうときは思いきり騒いだほうが楽しいでしょ、と妹たちに言う。
 特等席で妹たちの隣にいた女の子達は大阪から来ていたそうだ。今夜は野宿すると言っていたそうだ。「寝たら凍死するから、寝ないように頑張って」と言っていたそうだ。
 326のグッズを妹たちは購入。「326のどこがいいの?」と訊く。「自分がゼロならどうしようもない」というセリフがわりとお気に入りだ、と、妹2号が言う。絶望を前提とした前向きさに共感しているのかな、と想像する。

 母方の祖母にいつ空気清浄機を渡そうか、と、3人で相談する。1月2日の夜、妹2号が箱根から帰ってきてからにしよう、と、まとまる。

 田舎の夜はひどく寒い。小中学生時新聞配達していたことなど話す。田舎の冬は、切ない寒さだ、と、妹1号が言う。寒さは肉体に厳しい。寒さは攻撃的だ。田舎の暖房設備は貧弱だ。
 母は愛情表現のできない人で、寛ぐこと、安らぐことに道徳的羞恥心があるのだ、だから家族を寛がせないよう母は行動するのだ、と、妹たちが言う。妹たちにとって母は同性なので、母の底を見透かし許しているところが妹たちにはある。私の母への態度に比べると、妹たちは母に対し同情的で共感的だ。そのぶん妹たちは私に対し軽蔑と嫌悪を持っている。問題は妹たちの側にではなく、私の側にある。私は愛情と欲情の区別がしっかりできていないよな、と、思う。