8月15日(日)
幸いにして東京までの交通回復。休みもらい、コミケへ。
東京駅からバスで。有明会場に、うなるほどの人間。
AKさんのスペースへ。AKさんの風貌、キリストみたい。にしかた公一氏がAKさんのスペースにいたのでちょっと話する。マンボウの本貰う。成宮観音FC発行成宮観音フォトCDをにしかた氏にねだる.。自分は担当ではない、と断られる。
永山薫さんにお会いする。「ぷちみるく1」に載せたマンガを誉めていただく。同じマンガを以前AKさんから「キャラが全然立っていない」と評され、その批評はまったくそのとおりだと思っていたので、永山薫さんに悲しい顔でありがとうございます、と応える。日々の接客業の反動で、自分の愛想が悪くなっていることを自覚。最近どうしているかと永山さんに聞かれたので、「日銭を稼ぐために肉体労働を」と応える。「マンガ描きなさいよ」と悲しげに言われる。
AKさんの手伝い。はじめ売り子する。手早く処理し、人だかりを解消させてしまう。おっと、これではまずい。IKさんと「あまり手早く処理するとせっかくの呼びこみの効果を減ずる」と確認。自分も呼びこみ要員になる。AKさん、初めて見るほどの真剣さで呼びこみをしている。「あじまる」さんも上手に呼びこみをしている。呼びこみを試みる。口がうまく回らないことを自覚。自分が、正直者のマインドセットになっていて、商人のマインドセットになっていないことに気づかされる。午後には商人のマインドセットに成功。弁が回るようになる。新刊が売りきれた後も列が消えず、むしろ一時膨れ上がる。呼びこみの重要さを確認。AKさんに女性ファンがかなりついてきていることも確認。
終了。「あじまる」さんと虎の穴へ発送しに行く。「あじまる」さんは自分と生活環境がよく似ているので、他の人にしたことのない愚痴を「あじまる」さんに垂れる。虎の穴の女性店員さん、サークル名を書いた用紙渡したら「AKさんですか? 私、AKさんの本、ずっと発注依頼していたんですよ」と、目をキラキラされながら訊ねられる。残念ながら別人です、と女性店員さんに応える。AKさんのもとへ行き、その話をする。ああ、自分で行けば良かった、とAKさんが嘆くのを楽しむ。
AKさんIKさんは車。池袋で合流しよう、と約束し、「あじまる」さんと彼のサークルの人々の引率をする。よさこい野郎さんと池袋で合流しよう、と、電話する。ゆりかもめに乗る。途中下車し、ホテルまで荷物運ぶほうがたぶん早いだろうという話に。実践。余計に時間食ってしまいました。「あじまる」さん、荷物を車に積む、とのこと。AKさんたちを待たせると悪いから、と、「あじまる」さんから携帯電話の番号伺い、「あじまる」と別行動。「あじまる」さんのサークルの人3人を引率。池袋につく。AKさんと合流。30分以上待ったとのこと。「あじまる」さんに電話。通じない。とりあえず移動。焼肉屋の席が空いていないので、他の人には喫茶店で待機してもらう。合流場所に再度向かう。よさこい野郎さんの連れ発見。よさこい野郎さんは「あじまる」さんを迎えに行っているとのこと。合流。携帯電話の番号、誤って教えられていたこと判明。焼肉を皆で食べる。
部屋へ。メールチェック。掲示板いくつか覗く。眠る時間なくなる。電車に乗る。田舎へ。
8月第二週
朝5時起床の生活。夜、ノートに一人記す。自分が何も知らないことに謙虚になれ。無知の証明を。私はけっこういい歳なのに未だにわからないこと知らないことがこの世に多すぎる。
第二次大戦て、誰が、なぜ、はじめたのだ? 聞き飽きている情報は1945年8月15日に終わった、ということ。8月7日に広島に原爆が落ちたということ。だが、誰がどうしてはじめたのだ?
連想する。安保闘争って、何だったのか?
連想する。原発って、どういうものなのか? 聞き飽きた情報はストロンチウム90などの放射性物質は人体に有害だということ、わかっているのは原発事故が起きたら極力埃を室内に持ちこまないようにし、ヨウ素(ヨード)で嗽(うがい)をすること。
連想する。国家って、何のためにあるのか? 国家と国土の違い、共同体と国家機構。
連想。大学って、なんのための機関なのだ? 行く必然がわからないまま私は受験し卒業した。私は酷く情報が制約された中にいたのだが、それは何によって制約されていたのか。そもそも学問は何のためにあるのか?
連想。エヴァに感じ、オタクに敷衍でき、現代人に共通すること、皮膚感覚での現実感は存在するが肉体感覚での現実感が欠落していること。「なぜ」のない社会。
連想。金のためにマンガを描くのは、自分にとっては虚しすぎる。読むのを待つ他者がいてこそ描こうという動機づけが成立する。〆切、依頼のない原稿は完成しない。作品は外的制約によって筆を止められるのであって、決して「完成」するものではない。
連想。少ない判断材料で考えると、誤った結論にたやすく陥る。材料を選択した結果少ないのではなく、偶然目の前にあった材料のみでの判断、オルテガが「大衆の反逆」でいうとこの「大衆」の思考。
連想。マンガは虚業だ。
連想。人に伝える前に、自分を納得させる言葉というのが必要だ。
連想。ペドファイルを自分がテーマにしていたのは、世の平均の人々に比べ、ずっと多くのことを自分はそれについて知っている、確信持って語れる、他者に語れるものがあると思っていたから。描けるものと描きたいものは、いつも異なる。「描きたいもの」はいつまでも描けない。
連想。自分がどんな世界にいるかも知らず、生き方を決められるはずがない。そこには虚勢と自虐しかない。現実感の欠落。
人から貰った「季刊・人間と教育22号」(旬報社)読了。
接客。疲労が溜まるのに、声だけは軽快そうに喋ろうとしている自分を観察。言葉に次第に心を込めることができなくなる。この自己観察は皮膚感覚の現実であり肉体感覚の現実ではない。パースのない奥行きのないぺらっとした現実だ。と感じる。
ある企画。今、自分がそれをしたら、自分は詐欺師になる、と思う。それに見合う何事も自分はしていない。
8月8日、疲れが溜まり、そのため却って眠れない。睡眠時間2時間。自分の今後について悶々と考える。AKさんに電話。AKさん不在。AKさんのコミケの人員の手配、とりあえずする。
8月9日、盗聴法強行採決、国旗国歌法案可決。ああ、通っちまった。
「国旗国歌法案、国民投票にかけたかったね」と妹に言う。
「みんなそう思ってるよ」と妹。そうだったのか。通さないようにするため、自分にはまだもっとできたことがあったはずだ、と、責任を感じる。長崎原爆投下の日。
8月10日、話する相手がほしいと思う。行動が消極的になる。激しい無力感に責められる。みいちゃんと話したいと思う。その衝動が自分の一方的な、手前勝手なものだとつくづく思う。だがみいちゃんと話をしないままみいちゃんのことを考えているのはもっと精神に不健康だ、と、暗い目をギラギラさせながら思う。二、三日のうちに一日休みくれと頼む。
8月11日、話し相手がいない、心を分かち合える誰もいない。物思いに耽る時間は、体動かしながらだが、腐るほどある。本を読む時間はない。
8月12日、休みもらう。みいちゃんの家に行く。家の回りを車で二回回った後、玄関から「すみません」と訊ねてみる。鍵が空けてあり、布団を干している。居間を覗く。みいちゃんは不在なようだ。あるいはみいちゃんは自室にいるのかもしれない。だがみいちゃん以外のみいちゃんの家族に会うのが億劫なので、みいちゃんの家を出る。車に乗る。未練たらしくもう一度みいちゃんの家の廻りを一周する。みいちゃんの祖母の姿を見かける。自分の精神の荒廃。車でうろうろする。誰にも会わず、帰宅。
冬コミは出よう、と思う。そのためには夏コミで申込書を買わないと、と考える。買ってもらって、送ってもらうか。時間が足りない。余計な労力を人に強いることになる。なら自分が行くほうが良い。オタクな人々と話しないと、崩れそうだ。AKさんに電話。コミケのチケット下さい、とねだる。AKさんから、身辺に色々あって大変だった、という話伺う。新刊は出せなかった、だから人員はそれほど必要ではない、と聞く。手配した人にごめんなさいの電話する。
8月13日、働く。大雨。稼げず。盆が近づき、客の質が低下していく。トイレからはみ出ている人糞を清掃。こうして一生他人の人糞を処理し続けるのだという、非力な感覚。
8月14日、働く。もっと大雨。ちっとも稼げず。東京への交通が断ち切られる。叔父と夜、話する。母がちとアレだということ、親戚は皆思っていたのだ、ということ、初めて知る。でもまあ、思うよね。叔父は知性に優れていた人だったが、自身の肉体の貧弱という劣等感を克服するのに随分と時間を食ってしまったのだな、と、叔父の話聞いて思う。人生の効率が宜しくない、と思う。
8月第一週
接客業する。肉体労働する。
夏の初めはあまり疲れる客は来ない。計画性を持って行楽を楽しみに来た、旅慣れた客が多い。トイレもあまり汚れない。辛いのは話をする相手がどこにもいないことだけだ。
「郵便的不安たち」読了。「存在論的、郵便的」チャレンジ。
接客しながら本を読むのはどうにも無理だ。うちの仕事も多少合理的になり、ムダに疲れることは以前よりは少ないが。
接客業は延々目の前の出来事を処理することだけを求められる。考えることは不用ばかりか害悪だ。目の前の人間に不快を覚えさせないことに労力を費やすことがここでは賢明なのだ。自分がどう感じどう考えているかは無意味なことだ。だが、それでも、自分の考えたこと、感じたことを伝えられる相手がいないことは、苦痛だ。伝える相手を持たない思考は脳内で空回りする。こうすればいいはずだ、こういうことを調べる必要がある、それをするためには自分に欠けている情報や知識はこれとこれだ、それを調べるためには。延々誰とも話することなく考えが空回る。やがて思考は煮詰まり、腐敗し、糸を引き始める。
調べる、という現実的な行動を今自分はとることはできないのだ。目の前の雑用を処理することだけが自分に求められていることだ。思考には延々保留のみ与えられる。傷のついたレコードのように、思考は同じところに戻り、回転する。この思考に回答を与えない限り次の思考はできない。だが回答は今は与えられない。自分以外の誰とも意見交換しないのでその思考には、正しい形すら与えられない。形すらなさないまま不完全なまま放置される。思考の衝動は擦切れる。思考することはムダだ、という感覚のみ強くなる。思考しても自分には何も現実的には出来ないのだという無力感を覚える。思考は足場ないまま空転し煮詰まり脳内の澱として溜まっていく。
「やりたいこと」は「できない」のだという感覚。それは錯覚なのだが、この錯覚以上に説得力持って自分に接するものはどこにもない。
接客業は内面の感情を表に出さないのが礼儀だ。かくて感情は干からび、感動を覚えない人格を形成していく。憧れる対象をどこにも持たず。
ノートに記す。大学へ行くことは、アッパークラスへのパスポートを得ることだったらしい。そのことに自分が気づいたのは随分と後のことだ。そして私はアッパークラスやハイカルチャーに自分が触れることができる可能性の説得力を感じる機会がなかった。それらへの憧れを抱ける材料は生活のどこにもなかった。なぜマンガ家に憧れたのだろう。マンガだけがこの生活の中で唯一触れることのできるカルチャーだった、だから、と、ノートに記す。ここ以外の現実がある、ということの説得力の希薄さ。
労働を終え、テレビを観てると、速水由紀子さんが出演している。「この人とこの間会ったんだ」口にした途端、あまりに自分のいる「現実」からその言葉が遠すぎ、自分の発言の嘘臭さに、自身脱力する。とうとう自分が妄想分裂症になってしまったかのような感覚。誰も認めないこと現実ではないことを現実であるかのように思い込んでしまった人間に自分がなってしまったという感覚。だから一時期、私は狂気を憧れたのだ、と、回想する。身の回りにある現実とは別な現実があることを信じられる心の強靭さに憧れたのだ。実際の狂気は強靭さの証明ではなく脆弱さの証明だが。
8月6日。私と同じ小中学校の、一学年下、父の同級生の息子である男が交通事故で死亡。名前を聞いても、顔も思い出せない。
8月7日。旅行慣れしていない人間からの、電話の応対に疲れる。繰り返し同じことを確認しなくてはならない。「一泊二日」 という言葉。「二日」というところにウエイトを置いて旅行業者が使うのは、少しでも日数が多いかのように客に感じさせるための、お得な感じを与えるための、トリックだ。宿泊施設の側は「一泊」なのか「二泊」なのか、そこだけが確認ポイントだ。「一泊」なら自動的に翌朝の午前中までが客の滞在時間になる。旅慣れない人間は、電話予約の際、「一泊」にウエイトを置かず、「二日」にウエイトを置く。トラブルの元だ。客の側は「一泊二日」と言っているつもりで延々「二日」と念押しする。宿泊施設の側はそれを「二泊」なのだと受け取る。延々繰り返される同じトラブル。
8月1日(日)
「ホーホケキョとなりの山田くん」観る。期待していなかった。面白かった。
今まで、高畑アニメは、主人公が愚かな行為をし、結果不幸な目にあっていた。今回「しげ」は実に賢明な行動をする。それは一方でギャグとなる。「たかし」はかつて月光仮面を憧れていた。感情移入する。切ない。月光仮面になれないのを嘆くともなく悲しんでいる、非力な「たかし」は自分だ。「しゃあないやないか」というメッセージが、「たかし」の実に「しゃあない」状況で、ギャグとして語られる。このメッセージの奥行きは高畑の正直なところだとして私は受け取る。好感。共感。最後、アニメスタッフによる下手糞な「ケセラセラ」の合唱が響くところで、じん、としてしまった。「となりの山田くん」は面白い。
劇場の後ろの席にやかましいガキがいた。推定9歳。大声で一人ごと言うなガキ。痛いオタクになるぞお前。なぜわしがガキに説教せにゃならんのだ。
田舎へ。
幸いにして東京までの交通回復。休みもらい、コミケへ。
東京駅からバスで。有明会場に、うなるほどの人間。
AKさんのスペースへ。AKさんの風貌、キリストみたい。にしかた公一氏がAKさんのスペースにいたのでちょっと話する。マンボウの本貰う。成宮観音FC発行成宮観音フォトCDをにしかた氏にねだる.。自分は担当ではない、と断られる。
永山薫さんにお会いする。「ぷちみるく1」に載せたマンガを誉めていただく。同じマンガを以前AKさんから「キャラが全然立っていない」と評され、その批評はまったくそのとおりだと思っていたので、永山薫さんに悲しい顔でありがとうございます、と応える。日々の接客業の反動で、自分の愛想が悪くなっていることを自覚。最近どうしているかと永山さんに聞かれたので、「日銭を稼ぐために肉体労働を」と応える。「マンガ描きなさいよ」と悲しげに言われる。
AKさんの手伝い。はじめ売り子する。手早く処理し、人だかりを解消させてしまう。おっと、これではまずい。IKさんと「あまり手早く処理するとせっかくの呼びこみの効果を減ずる」と確認。自分も呼びこみ要員になる。AKさん、初めて見るほどの真剣さで呼びこみをしている。「あじまる」さんも上手に呼びこみをしている。呼びこみを試みる。口がうまく回らないことを自覚。自分が、正直者のマインドセットになっていて、商人のマインドセットになっていないことに気づかされる。午後には商人のマインドセットに成功。弁が回るようになる。新刊が売りきれた後も列が消えず、むしろ一時膨れ上がる。呼びこみの重要さを確認。AKさんに女性ファンがかなりついてきていることも確認。
終了。「あじまる」さんと虎の穴へ発送しに行く。「あじまる」さんは自分と生活環境がよく似ているので、他の人にしたことのない愚痴を「あじまる」さんに垂れる。虎の穴の女性店員さん、サークル名を書いた用紙渡したら「AKさんですか? 私、AKさんの本、ずっと発注依頼していたんですよ」と、目をキラキラされながら訊ねられる。残念ながら別人です、と女性店員さんに応える。AKさんのもとへ行き、その話をする。ああ、自分で行けば良かった、とAKさんが嘆くのを楽しむ。
AKさんIKさんは車。池袋で合流しよう、と約束し、「あじまる」さんと彼のサークルの人々の引率をする。よさこい野郎さんと池袋で合流しよう、と、電話する。ゆりかもめに乗る。途中下車し、ホテルまで荷物運ぶほうがたぶん早いだろうという話に。実践。余計に時間食ってしまいました。「あじまる」さん、荷物を車に積む、とのこと。AKさんたちを待たせると悪いから、と、「あじまる」さんから携帯電話の番号伺い、「あじまる」と別行動。「あじまる」さんのサークルの人3人を引率。池袋につく。AKさんと合流。30分以上待ったとのこと。「あじまる」さんに電話。通じない。とりあえず移動。焼肉屋の席が空いていないので、他の人には喫茶店で待機してもらう。合流場所に再度向かう。よさこい野郎さんの連れ発見。よさこい野郎さんは「あじまる」さんを迎えに行っているとのこと。合流。携帯電話の番号、誤って教えられていたこと判明。焼肉を皆で食べる。
部屋へ。メールチェック。掲示板いくつか覗く。眠る時間なくなる。電車に乗る。田舎へ。
8月第二週
朝5時起床の生活。夜、ノートに一人記す。自分が何も知らないことに謙虚になれ。無知の証明を。私はけっこういい歳なのに未だにわからないこと知らないことがこの世に多すぎる。
第二次大戦て、誰が、なぜ、はじめたのだ? 聞き飽きている情報は1945年8月15日に終わった、ということ。8月7日に広島に原爆が落ちたということ。だが、誰がどうしてはじめたのだ?
連想する。安保闘争って、何だったのか?
連想する。原発って、どういうものなのか? 聞き飽きた情報はストロンチウム90などの放射性物質は人体に有害だということ、わかっているのは原発事故が起きたら極力埃を室内に持ちこまないようにし、ヨウ素(ヨード)で嗽(うがい)をすること。
連想する。国家って、何のためにあるのか? 国家と国土の違い、共同体と国家機構。
連想。大学って、なんのための機関なのだ? 行く必然がわからないまま私は受験し卒業した。私は酷く情報が制約された中にいたのだが、それは何によって制約されていたのか。そもそも学問は何のためにあるのか?
連想。エヴァに感じ、オタクに敷衍でき、現代人に共通すること、皮膚感覚での現実感は存在するが肉体感覚での現実感が欠落していること。「なぜ」のない社会。
連想。金のためにマンガを描くのは、自分にとっては虚しすぎる。読むのを待つ他者がいてこそ描こうという動機づけが成立する。〆切、依頼のない原稿は完成しない。作品は外的制約によって筆を止められるのであって、決して「完成」するものではない。
連想。少ない判断材料で考えると、誤った結論にたやすく陥る。材料を選択した結果少ないのではなく、偶然目の前にあった材料のみでの判断、オルテガが「大衆の反逆」でいうとこの「大衆」の思考。
連想。マンガは虚業だ。
連想。人に伝える前に、自分を納得させる言葉というのが必要だ。
連想。ペドファイルを自分がテーマにしていたのは、世の平均の人々に比べ、ずっと多くのことを自分はそれについて知っている、確信持って語れる、他者に語れるものがあると思っていたから。描けるものと描きたいものは、いつも異なる。「描きたいもの」はいつまでも描けない。
連想。自分がどんな世界にいるかも知らず、生き方を決められるはずがない。そこには虚勢と自虐しかない。現実感の欠落。
人から貰った「季刊・人間と教育22号」(旬報社)読了。
接客。疲労が溜まるのに、声だけは軽快そうに喋ろうとしている自分を観察。言葉に次第に心を込めることができなくなる。この自己観察は皮膚感覚の現実であり肉体感覚の現実ではない。パースのない奥行きのないぺらっとした現実だ。と感じる。
ある企画。今、自分がそれをしたら、自分は詐欺師になる、と思う。それに見合う何事も自分はしていない。
8月8日、疲れが溜まり、そのため却って眠れない。睡眠時間2時間。自分の今後について悶々と考える。AKさんに電話。AKさん不在。AKさんのコミケの人員の手配、とりあえずする。
8月9日、盗聴法強行採決、国旗国歌法案可決。ああ、通っちまった。
「国旗国歌法案、国民投票にかけたかったね」と妹に言う。
「みんなそう思ってるよ」と妹。そうだったのか。通さないようにするため、自分にはまだもっとできたことがあったはずだ、と、責任を感じる。長崎原爆投下の日。
8月10日、話する相手がほしいと思う。行動が消極的になる。激しい無力感に責められる。みいちゃんと話したいと思う。その衝動が自分の一方的な、手前勝手なものだとつくづく思う。だがみいちゃんと話をしないままみいちゃんのことを考えているのはもっと精神に不健康だ、と、暗い目をギラギラさせながら思う。二、三日のうちに一日休みくれと頼む。
8月11日、話し相手がいない、心を分かち合える誰もいない。物思いに耽る時間は、体動かしながらだが、腐るほどある。本を読む時間はない。
8月12日、休みもらう。みいちゃんの家に行く。家の回りを車で二回回った後、玄関から「すみません」と訊ねてみる。鍵が空けてあり、布団を干している。居間を覗く。みいちゃんは不在なようだ。あるいはみいちゃんは自室にいるのかもしれない。だがみいちゃん以外のみいちゃんの家族に会うのが億劫なので、みいちゃんの家を出る。車に乗る。未練たらしくもう一度みいちゃんの家の廻りを一周する。みいちゃんの祖母の姿を見かける。自分の精神の荒廃。車でうろうろする。誰にも会わず、帰宅。
冬コミは出よう、と思う。そのためには夏コミで申込書を買わないと、と考える。買ってもらって、送ってもらうか。時間が足りない。余計な労力を人に強いることになる。なら自分が行くほうが良い。オタクな人々と話しないと、崩れそうだ。AKさんに電話。コミケのチケット下さい、とねだる。AKさんから、身辺に色々あって大変だった、という話伺う。新刊は出せなかった、だから人員はそれほど必要ではない、と聞く。手配した人にごめんなさいの電話する。
8月13日、働く。大雨。稼げず。盆が近づき、客の質が低下していく。トイレからはみ出ている人糞を清掃。こうして一生他人の人糞を処理し続けるのだという、非力な感覚。
8月14日、働く。もっと大雨。ちっとも稼げず。東京への交通が断ち切られる。叔父と夜、話する。母がちとアレだということ、親戚は皆思っていたのだ、ということ、初めて知る。でもまあ、思うよね。叔父は知性に優れていた人だったが、自身の肉体の貧弱という劣等感を克服するのに随分と時間を食ってしまったのだな、と、叔父の話聞いて思う。人生の効率が宜しくない、と思う。
8月第一週
接客業する。肉体労働する。
夏の初めはあまり疲れる客は来ない。計画性を持って行楽を楽しみに来た、旅慣れた客が多い。トイレもあまり汚れない。辛いのは話をする相手がどこにもいないことだけだ。
「郵便的不安たち」読了。「存在論的、郵便的」チャレンジ。
接客しながら本を読むのはどうにも無理だ。うちの仕事も多少合理的になり、ムダに疲れることは以前よりは少ないが。
接客業は延々目の前の出来事を処理することだけを求められる。考えることは不用ばかりか害悪だ。目の前の人間に不快を覚えさせないことに労力を費やすことがここでは賢明なのだ。自分がどう感じどう考えているかは無意味なことだ。だが、それでも、自分の考えたこと、感じたことを伝えられる相手がいないことは、苦痛だ。伝える相手を持たない思考は脳内で空回りする。こうすればいいはずだ、こういうことを調べる必要がある、それをするためには自分に欠けている情報や知識はこれとこれだ、それを調べるためには。延々誰とも話することなく考えが空回る。やがて思考は煮詰まり、腐敗し、糸を引き始める。
調べる、という現実的な行動を今自分はとることはできないのだ。目の前の雑用を処理することだけが自分に求められていることだ。思考には延々保留のみ与えられる。傷のついたレコードのように、思考は同じところに戻り、回転する。この思考に回答を与えない限り次の思考はできない。だが回答は今は与えられない。自分以外の誰とも意見交換しないのでその思考には、正しい形すら与えられない。形すらなさないまま不完全なまま放置される。思考の衝動は擦切れる。思考することはムダだ、という感覚のみ強くなる。思考しても自分には何も現実的には出来ないのだという無力感を覚える。思考は足場ないまま空転し煮詰まり脳内の澱として溜まっていく。
「やりたいこと」は「できない」のだという感覚。それは錯覚なのだが、この錯覚以上に説得力持って自分に接するものはどこにもない。
接客業は内面の感情を表に出さないのが礼儀だ。かくて感情は干からび、感動を覚えない人格を形成していく。憧れる対象をどこにも持たず。
ノートに記す。大学へ行くことは、アッパークラスへのパスポートを得ることだったらしい。そのことに自分が気づいたのは随分と後のことだ。そして私はアッパークラスやハイカルチャーに自分が触れることができる可能性の説得力を感じる機会がなかった。それらへの憧れを抱ける材料は生活のどこにもなかった。なぜマンガ家に憧れたのだろう。マンガだけがこの生活の中で唯一触れることのできるカルチャーだった、だから、と、ノートに記す。ここ以外の現実がある、ということの説得力の希薄さ。
労働を終え、テレビを観てると、速水由紀子さんが出演している。「この人とこの間会ったんだ」口にした途端、あまりに自分のいる「現実」からその言葉が遠すぎ、自分の発言の嘘臭さに、自身脱力する。とうとう自分が妄想分裂症になってしまったかのような感覚。誰も認めないこと現実ではないことを現実であるかのように思い込んでしまった人間に自分がなってしまったという感覚。だから一時期、私は狂気を憧れたのだ、と、回想する。身の回りにある現実とは別な現実があることを信じられる心の強靭さに憧れたのだ。実際の狂気は強靭さの証明ではなく脆弱さの証明だが。
8月6日。私と同じ小中学校の、一学年下、父の同級生の息子である男が交通事故で死亡。名前を聞いても、顔も思い出せない。
8月7日。旅行慣れしていない人間からの、電話の応対に疲れる。繰り返し同じことを確認しなくてはならない。「一泊二日」 という言葉。「二日」というところにウエイトを置いて旅行業者が使うのは、少しでも日数が多いかのように客に感じさせるための、お得な感じを与えるための、トリックだ。宿泊施設の側は「一泊」なのか「二泊」なのか、そこだけが確認ポイントだ。「一泊」なら自動的に翌朝の午前中までが客の滞在時間になる。旅慣れない人間は、電話予約の際、「一泊」にウエイトを置かず、「二日」にウエイトを置く。トラブルの元だ。客の側は「一泊二日」と言っているつもりで延々「二日」と念押しする。宿泊施設の側はそれを「二泊」なのだと受け取る。延々繰り返される同じトラブル。
8月1日(日)
「ホーホケキョとなりの山田くん」観る。期待していなかった。面白かった。
今まで、高畑アニメは、主人公が愚かな行為をし、結果不幸な目にあっていた。今回「しげ」は実に賢明な行動をする。それは一方でギャグとなる。「たかし」はかつて月光仮面を憧れていた。感情移入する。切ない。月光仮面になれないのを嘆くともなく悲しんでいる、非力な「たかし」は自分だ。「しゃあないやないか」というメッセージが、「たかし」の実に「しゃあない」状況で、ギャグとして語られる。このメッセージの奥行きは高畑の正直なところだとして私は受け取る。好感。共感。最後、アニメスタッフによる下手糞な「ケセラセラ」の合唱が響くところで、じん、としてしまった。「となりの山田くん」は面白い。
劇場の後ろの席にやかましいガキがいた。推定9歳。大声で一人ごと言うなガキ。痛いオタクになるぞお前。なぜわしがガキに説教せにゃならんのだ。
田舎へ。