カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

1999年3月1日から3月10日 マシウスの夜郎自大日記

2012年03月27日 00時44分54秒 | Weblog
3月10日(水)

風邪をGET。



3月9日(火) 「ガメラ」

「ガメラ3」観に新宿へ。気温6度。三寒四温。寒い。
「ガメラ3」は、「ガメラ1」(95年)の、98%くらいの出来。渋谷の破壊シーンはなかなか良かったけど、ショッキング映画としてもう三分の一歩踏み込んでくれれば、と思う。
私は「ガメラ1」は非常に良い作品だと評価している。「ガメラ1」で最も面白かったところの一つは、怪獣退治に自衛隊を派遣するために、議会で臨時立法するさまが描かれたところだ。
「ガメラ2」はあまり評価しない。「ガメラ2」は最高の自衛隊宣伝映画だと思う。そこが最も気に入らないところだ。前線部隊が賢明かつ懸命に行動するのを描くのはいい。だが、「踊る大捜査線」で描かれているとおり、日本のシステムでは、上層部の無能さのため現場に矛盾がしわ寄せされる。これは「そういう見方もあるね」という次元の話ではなく、日本が今直面している大問題であり大現象であり同時代的で切実な現実だと私は考える。この問題への視点を鋭くアホらしく描いたからこそ「踊る大捜査線」はヒットしているのだと思う。「ガメラ2」では登場する自衛隊関係者が皆賢明すぎた。「ガメラ2」は「怪獣映画とは、戦争映画のオマージュである」という想定の元描かれたそうだ。そのことはいい。だが「戦争」とはなんであるか、ということへの考察が浅かったと思う。自らの軍隊が皆そろって賢明な判断をする、という前提で架空の戦争映画を描くのは、あまりに手前勝手だ。都合が良すぎる。戦争は愚行の積み重なりであり、愚行のより少なかった側が勝つのだ。戦争体験を持つ世代が消えた後に、「戦争」というリアルに直面したさい、人はどう動くか、それが描かれなくてはなかなかった。「ガメラ2」ではそれがご都合主義に流れ、結果、私の中では駄作という判断になった。撮影に自衛隊の協力を仰ぐ以上、自衛隊を強く描かなくてはならない、という要請はあるだろう。だが、こんだけ自衛隊が強かったらガメラいらないじゃん。
「ガメラ3」ではある程度そのことが反省されている。自衛隊は国政の管理下にある。国政のほうは(映画撮影に協力いただいているわけでもないし)賢明な判断を常にするわけではない。そこがある程度描かれている。そこが何より評価できる。ガメラが人間の味方と言うより「地球の意志」である、という位置にシフトした結果、ギャオス(人間の敵)vsガメラ(地球の意志)vs自衛隊(日本、人間)という三つ巴の図式になった。これは今後「ガメラ」シリーズが仮に続くとしたら、望ましい期待をさせてくれる。ガメラは正義だが、人間は常に正義ではいられないからだ。もし続編が描かれることになったら、そういう続編であってほしい(こういう期待はたいがい裏切られる)。
ところで、話の構成要素の中で、行き場を失っていたものがいくつかあったように思う。
人間ドラマの中心は、前田愛と、物部少年と、イリスの三角関係に絞るべきだったんじゃないだろうか。ガメラと前田愛とイリスは、加害者になる意志はないが加害者になってしまう、という点で共通している。そこのところで物部少年がどう行動するか、望ましい生き方の一つのモデルが呈示されるべきだったと思う。そう考えると物部少年と中山忍(他の「ガメラ1」登場者か、手塚とおる・山咲千里でもいいけど)はもっと早い時点で接触していたほうがよかったかもしれない。中山忍は主役然としてとてもよかった。
安藤希(のぞみ)(物部少年の妹)が後半全く登場しなかったのは、個人的に残念。構成を考えると何故登場したのかよくわからない。ちょい役としては存在感がありすぎた。その意味もったいない。(前田愛が田舎で虐められているさまはとてもよかった)
ディグさんの意見では、手塚とおる・山咲千里はいらなかったんじゃないか、とのこと。オカルトな要素が浮いている、あるいはオカルトという素材自体が陳腐化している、という意見だ。そうかもしれない。ただ山咲千里の役は、日本国家をある側面で象徴している。その意味構成要素に加えていたのは制作者の判断として賢明だと思う。その素材が消化し切れていたかというと、いささか疑問があるけど、じゃあどう描く方法があるかとなると難しくて、あのくらいに留めておくのが一つの限界かも、と、私は考える。

レヴォから落選通知。
よさこい野郎さんとこにレヴォのとき委託させていただくお願いする。
コミティアから連絡。ティアズマガジンで「偽善者」取り上げてくださるそうな。ありがたや。

夜、ディグさんが来る。「ムトゥ」観る。観てる途中で体力尽きて寝る。



3月8日(月)

事務。コピー機修繕。



3月7日(日) 「未来の思想」

従姉が資格試験で私の下宿の近くまで来たが、私は留守中。私は間が悪い。何らかのもてなしをするべきだったのに。
雨。出発がだらだら遅れる。渋滞。

ディグさんとよさこい野郎さんとMDGさんと四人でお好み焼き食べる。こーわさんとはゲーセンでちらとだけお目にかかる。ガメラ観に行かれてたそうな。
ポップンミュージック、よさこい野郎さんから買う。

『未来の思想』(小松左京・著、中公新書、昭和42年)に、こんな文章があったので、メモしておく。
就学以前の幼児段階から、視聴覚媒体によって情報を吸収し、知能形成をおこなってきた子供たちは、学校で系統的にあたえられる知識についても、その理解の仕方がちがいはじめているのではないかという意見もあるのだ。論理的にあたえられる情報を、子供たちは自分でパターン的ないしイメージ的に再構成して理解している徴候が見られるという。教師の方が算術的にあたえる情報を、子供たちはトポロジックに理解し、把握しているといったらいいだろうか。あるいは、線的・言語的な情報を点的・感覚的に理解しているとでもいうべきか。これまでの論理的情報構成に習熟してきた身にとっては、いったいこれでいいのかという不安も起ってくる(後略)
その「子供」たちは、大人になり、二世を生んでいる。ここで紹介されている「意見」はその後発展したのだろうか? たしかに自分は線的・言語的思考に弱いようにも感じるのだけど。だからそういう思考を獲得しなくてはならないようにも感じる。
それと同時に、一世代、二世代前の人間と、自分たちとでは、理解・記憶の仕方が違っている、ということには、経験的に説得力を感じるところであり、同時に、恐怖を覚えるところだ。この小松左京氏の文は、情報と教育について書かれている章だ。就学以前に大量の情報に晒されることによって、教育の場で呈示される知識が、相対的に煤けた、なんら新鮮みのない、乾涸らびた情報でしかなくなっている、ということは、子どもの頃、うんざりするほど私はあった。学習には「動機付け」が必須なのだが、「動機付け」の重要な一つに、好奇心を刺激されること、未知のものへの憧れ、知ること、未知だったものを我がものとして獲得することへの純粋な喜びがあるのだが、いくつかの幸運な例を除き、教育現場は、その「動機付け」に失敗していると私は考える。子どもは過剰な情報に現実には晒されているのだが、「学校」はその現実に適応できていない。その齟齬は現場に苦しむものにはあまりに明らかなのだが、幸運にも苦しまずにすんだり、現文部大臣のように最も恵まれた現場を職場としていた者には、その事実が見えない。自分が気づかないことは存在しないことだ、目の前にあるというが私の目には見えない、それは私が目を瞑っているからなのだが、私は目を瞑っていることそのものに気づいていないから、それはないのと同じなのだ、という感性の持ち主によって、齟齬と軋みは増大していく。そしてときに、部分のみに着目する者によって、特定の情報を管理・遮断することによって、「健全化」を図ろうとするヒステリー現象が起きる。事実を無視し欺瞞する行為が、ヒステリー、精神の失調を招く。

高室弓生さんから、カンパのお米をいただく。



3月6日(土) 湖のこと

従弟が結婚。おめでとう。彼は一児の父に。
遠縁の、私より一歳年上のかたと少しだけ話する。なにごとかしようとするとき全ての人間を丸く収める方法というのはない、という話題。
従兄弟たちと親睦を深める。10年くらい田舎を空けていることを思い知る。



湖は今年は増水。ある水位を越えると、ワカサギがいなくなる。普通、「水増せば魚増す」と言われるが、その通念が通じない。ある水位以上になると、ワカサギ生息に適さない何か毒のようなものが湖に溶け出すのではないだろうか。漁協から地元の大学などに原因の調査依頼しているそうだけど、このあたりを科学的に調べてほしい、と、地元のかたの声。
ブラックバスは、日本中のあらゆる湖、沼、池に生息するようになったが、この魚は、ルアー業者が、夜間巨大なタンクいっぱいに積んで、無断放流したものだ。釣り具であるルアーが売れるようにだ。そのため日本の淡水の生態系は破壊された。この湖では、自然状態のワカサギは絶滅した。遠方から、ワカサギの稚魚や卵を輸入し、それを放流する。だがワカサギはなかなか住まない。地引き網漁をしていた漁師は、軒並み廃業を迫られた。

湖には、水鳥が多くいる。今は渡り鳥が最も多くいる季節だ。
今年はオシドリの姿が見えない。人に捕られたようだ。
白い鴨が、以前はたくさんこの湖に常住していた。突然変異種だったのではないかと思う。最後の一羽が、今年、車に轢かれて死んだ。
以前、どこから来たのか、ガチョウが一羽だけ湖に住んでいた。鴨たちの群のリーダーをしていた。数年前、腹が異様に膨れ、衰弱していた。獣医に見せた。餌だと思って釣り具のワームを呑み、それが内蔵を塞いだのだ。数日後、死んだ。ワームや釣り針を呑んで死ぬ水鳥は多い。
雁が常住している。なかなか数が増えない。近頃の釣り師は、腰以上まで水に入れる長靴を履いている。そして水辺に産み落とされた雁や鴨などの卵をいじり、壊す。
年に一度、ボランティアによって、水辺の枯れ草が刈り取られ、焼かれる。水鳥の卵も枯れ草と一緒に、移動され、壊される。
カラスばかり増えていく。カラスは肉食だ。カラスは水鳥の雛を襲い、食う。カラスは鳥類で最も知能が高い。めったなことでは人間に捕られない。

田舎では、ここ数ヶ月の間に、自殺が四人起きたそうだ。ガソリンを被り焼身自殺、包丁を握ったまま首吊り自殺、自動車の排ガスを車中に引き込んでの自殺。





3月5日(金) 「鎖国」

出かけようとしたとこで曽さんが帰宅したので、近所に開店したばかりで只今半額のステーキ屋さんで夕食一緒する。

移動時間利用して、『鎖国~日本の悲劇』(和辻哲郎・著、岩波文庫)読了。昭和25年の作品。
太平洋戦争敗北の原因を「科学的精神の欠如」「推理力による把握を重んじない」民族の性向によるものとする。「鎖国」「国を鎖(と)ざす行動」が何を意味するか、「世界的視圏の成立」と、「視圏拡大」の欲求を持たないこと・他の文化圏に関心を持たないことが何を生み、何を失うのか、という視点から、世界史を語る。
航海者ヘンリ王子、大航海時代、コルテスのメキシコ征服、ピサロのインカ征服、日本でのキリスト教布教から禁教に至る歴史、など、今まで興味はあったがほとんど知らなかった事柄について、コンパクトに綴られてあり興味深く読む。
織田信長が宣教師を優遇したのはヨーロッパ文明を求めたためだが、不幸にして信長の周囲の知識人は信長ほどには視圏拡大の要求を持たなかった。「先駆者としての信長という人物には、よほど見直さなければならない面がある」(下巻188p)と書かれている。
ところで、先駆者としての信長、という視点は現在では常識の部類だが、私の聞きかじりでは織田信長の評価は戦後になってから高まったそうだ。この本などが、その再評価のきっかけになったのかも。ちなみに、江戸時代での民衆が信長をどう評価していたかという知ったかぶりを書くと、まず徳川政権・家康への当てつけとして徳川以前に天下人となった豊臣秀吉に人気が集まった。織田信長は天下人になる前の秀吉の、仕えにくい短気な主人、という卑小な描かれかたをして、むしろ秀吉のライバル・敵役としての明智光秀の評価のほうが高かった、そうだ。以上、知ったかぶり。
宣教師たちは「秀吉は信長ほどに他人の意見を容れる力がない」と報告している。「信長は信仰の欲求を持たず、したがって宣教師の要求する第一の資格を欠いていたが、しかし未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い欲求を持っていた。それは権力欲の充足によって静まりうるものではなかった。秀吉には、そういう点がまるでなかった」
意外な印象を私は読んで感じた。だが説得力がある。キリスト教の禁教は秀吉によってはじめられた。世界から国を鎖ざす道はそのときはじまった。
「世界的視圏」他の文明への関心、これは異質な他者への関心と表裏にある。私たちはいまだ鎖国の心を引きずっているようだ。



3月4日(木) 「古代国語の音韻に就いて」

モデムが不調になって、繋がらなくなる。5時間ほど無駄に消耗。午後、tommiさんに連絡して、教えていただき、直る。
ポップンミュージック、よさこい野郎さんから借りる。

『古代国語の音韻に就いて』(橋本進吉・著、岩波文庫)読了。橋本進吉は音韻の変化を便宜的に三期に分けている。奈良朝までを第一期、平安から室町までを第二期、江戸時代から現代までを第三期。
「は」の発音は第一期(奈良朝)より前はpa、第一期にfaに変化し、第二期に語頭以外の「は」はwaに変化する。第三期に「は」faは、haに変化する。
古語の已然形と命令形は(万葉仮名の時代は)別音だった。
「が」ngaの鼻濁音はおそらく平安時代以降発生したもので、それ以前はgaのみ音としてあった。(この本には書いていないが、近年はまたgaのみになりつつあるように思う)
本を読んで連想したのだけど、海外などとの交流が絶えると、あまり唇を動かさない、くぐもった発音が増えるように思う。逆に、海外との交流が盛んになると、唇を動かす、明瞭な発音が増える(音も輸入されるし)ように感じる。現在は発音が明瞭の方向に変化している時期だと感じる。



3月3日(水) 「竜馬暗殺」、薬害エイズ和解三周年

「竜馬暗殺」(東和ビデオ)観る。学生時代、この映画での、中岡慎太郎と坂本竜馬の友情に憧れていた友人がいたこと思い出す。私は今回はじめて観る。映画としては面白いと思う。だが私はこういう友情に憧れない。竜馬はヒーローで、中岡はメガネ君だ。観客は中岡の中に自分と同じもの、純粋ゆえの狂信を見る。純粋とは現実に対処する能力の貧弱さを意味する(それは劇中にも語られている)。中岡より愚鈍な(中岡が評すに「理想がない」)陸援隊員を登場させることによって、中岡は愚鈍な陸援隊員(それは中岡の実像でもある)と、理想像である竜馬との間でふらつく。このふらつきが、観客の実像だ。
中岡は、竜馬(理想像)のように強くありたいが竜馬(理想像)には決してなれない、現実の人間だ。私の学生時代の友人が求めたのは、「(竜馬のような)自分の理想像を投影できる友人を持ち、(ときに彼の暗殺を企てることで)彼と対等の資格を持ち、(彼に許してもらうことで)彼に自分の全てを受け入れてもらう」という、とことん自分にとって都合のいい「友情」像だ。フィクションとして、いい作り方だと思う。だが、この「物語」を現実に無理矢理当てはめようとして、他者に理想像を投影し、それは身勝手な期待であるがゆえやがてその他者が理想像に合致しないという現実に接したさい裏切られたと感じ、ゆえなき憎悪をはじめるという、「狼くん」がたくさんたくさんいらっしゃることにたいがいうんざりしている私は、こういう幻想の「友情」に憧れは抱けない。
触発されて司馬遼の「竜馬が行く」文庫最終巻ぱらぱらとめくる。「竜馬が行く」の中の、後藤象二郎に接したときの近藤勇の姿が痛い。田舎者で功名心があって朴訥で純粋で、後付けで多少の学問を懸命に仕入れ、アホなりに政治を察知しようとして、敗北していく姿は他人事ではない。
「私が愛した少女」(ポニーキャニオン)観る。イタリア映画。ヒロインがいい。家庭を結ぶため子どもが(無自覚に)(心の)病を持ち続ける、というところは、同時代的だと思う。イタリアの精神病院は開放的なのだな、というとこにも感心。子どもは三界に家なし。午前6時。



午後6時から、「薬害エイズ和解三周年『家西悟議員と政治を語る集い』」参加させてもらう。エロマンガ家しているお陰でこういう機会を得た。人生塞翁が馬。

菅直人氏の講演。かつて日本には売血があった。現在、輸血用血液は献血によってまかなわれている。しかしながら血液製剤用の血液・脳死状態の臓器を、日本は海外に頼っている、これは身勝手なことである。売血が禁じられるきっかけは、ライシャワー大使が日本国内で暗殺未遂されたさい、輸血された血液によって肝炎に感染したことによる。といったことを知る。そのうちもっと詳しく勉強してみよう。取り急ぎメモのみ。
家西悟議員は、HIV原告団代表だったので、厚生行政に色々発言している。だが厚生行政はなかなか好転しない。問題の多くは、「天下り」の慣例にある。
高級官僚の「天下り」先の機関に対し、国家予算は必要をはるかに越えてばらまかれている。その予算と引き替えに、「天下り」先での元官僚の待遇・ポストが約束される。これが行政の大きな疾病となっている。かつて菅直人は「天下り」は多くある行政問題の内の一つだと考えていたが、現在は最も重要な問題だと考えるに至っている。薬害HIVはそういう背景の中で発生した。

レセプションのとき、エクパット関西の坪井さんがいらしていたので、お話しさせていただく。今日の午前中、「国際婦人年連絡会主催『子ども買春等禁止法』について各党に聞く会」に参加された。矯風会を中心とした50以上の婦人団体と、超党派の議員さんたちの対話。矯風会は「裸イコール悪」という前提があるので、「ポルノ」「買春」の定義などで意見が対立し、えだの幸男議員がずいぶんご苦労されたそうだ。

・・・本日の反省。名刺作っておこう。

知り合いと、都知事選について無駄話。
民主党が鳩山邦夫氏を推したのは、保守層の票を期待してのことだろう。国会内には保守的空気が強いため、国民・都民の実像よりも保守層を過剰に意識してしまうことになる。
明石氏をとくに推したのは公明党だそうだ。公明党の支持団体が、国連大使していた明石氏に以前から接触はかっていたそうだ。政党政治的には、公明党に好感を抱かない票は、明石氏以外に流れるだろう、と、予測される。知り合いの観測では、明石氏自身の人格能力はともかくとして、自民党という枠から出馬する以上、知事になったのちはその枠に縛られ、都政は停滞するだろう、とのこと。
桝添要一氏の考え支援している「市民運動」は、ガーディアンエンジェルズを指す。リベラリズムの敵だ。
・・・民主党は今回の都知事選、候補の立て方に失敗した、と、私は考える。保守浮動票の食い合いをしているが、本来民主党が期待するべき民主中道(センターレフト)の受け皿がないからだ。邦夫ちゃん以外の候補を立てることができたら、ほぼ間違いなく勝っていただろうに。と、思う。

家西悟議員の「集い」には、鳩山邦夫、鳩山由紀夫、えだの幸男、羽田孜、土井たか子、笹川たかし(自民党)など、さまざまな党の議員が参加していた。家西議員の仕事が政党政治的でなく、意義ある仕事をしているためだと思う。



3月2日(火) 悪魔みたいな、interest

設計士氏と打ち合わせ。私は少し風邪っぽい。
妙に電話多い。2月25日の日記で書いた、記憶錯誤していたかもと思っていたこと、錯誤でなかったことの確認に成功。尾城さんを煩わせてしまった。財政、好転。気を抜かず丁寧に生活立て直そう。
練馬方面から変わった仕事の依頼来る。

ディグさんと会話。ディグさんが言う。
「宮崎駿て、スタジオの他の人間にとっては悪魔みたいな人だと思うんですよ。まず、色んなことを知っている、そんなことまでということまで知っている、仕事の経験が長くて多い、今でもすごく仕事している、すごく努力家で、おまけにいつでも仕事場にいる、何を描いて持っていってもきっと何かしら言われる、(たぶん)決して誉めない、これは同じ仕事場に通う人間にとっては悪夢ですよ。『ER』の主人公の一人がそういうキャラなんですけどね。・・・決して人を誉めない、ってとこがひょっとしたらポイントかな」
面白い視点だと思う。ここにメモしておく。
ディグさんが「面白い」と感じる映画を、私なんかは観てるとつい眠ってしまったりする。
「本当にいい映画ってのは文学と同じで、観客の側に参加や緊張を求めるんですよ。映画を見慣れてないと、それに気づけなくて退屈とか眠いとか感じちゃうんでしょう」
そうなのだろう、映画に対する私の感性は幼稚だ。私は「ポルノ」しかわからない。
ちょうど桑原武夫『文学入門』(岩波新書)を私は読んだばかりだったので、ディグさん相手に、「面白さには二種類ある、とその本に書いてあった」、と、知ったかぶる。interestingとamusingの二種類だ。amusingでは読者は与えられた娯楽を消費するのみだ。interestingでは読者が能動的に作品に参加する、読者は緊張を求められる。「オタクな」という形容で軽蔑されるたぐいの作品はamusingだけで、interestingに欠ける。ポルノはamusingであり、芸術はinterestingだ。ヒット作はamusingとinterestingのバランスがいい.。
ディグさんが言う。「amusingのみで作られた作品は読者のinterestingを呼ばないから、結果、物足りなさを感じさせますね」
「ポルノ」はセックスを扱ったもののみを指すのではない。たとえば「巨大ロボット」はポルノだ。「こういう快楽をあなたに与えます」ということが明らかで露骨なものは、ポルノだ。安易なファンタジーもどき、安易なSFもどき、安易なホラーもどきはポルノなのだ。
あるものを「面白い」「好きだ」と感じるとき、「ポルノ」として好きなのか、interestingを覚えるのか、少なくとも作者であろうとする人間は分けて考える必要があると考える。
私たちはもっとamusingを会得しよう、とディグさんと話す。



3月1日(月)

非建設的に過ごす。
キャッチホンの設定してみる。

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