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カンボジア視察3

2017-07-24 10:56:50 | Weblog

今回はアンコールワットです。

・アンコールワット(Wikipedia)

アンコール・ワット(英語: Angkor Wat)は、カンボジア北西部に位置するユネスコの世界遺産(文化遺産)である

アンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表するヒンドゥー教寺院建築。サンスクリット語でアンコールは王都、クメール語

でワットは寺院を意味する。大伽藍と美しい彫刻を特徴としクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の

象徴として描かれている。


12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として30年を超える歳月を費やし建立される。

1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られるが再発見され、アンチェン1世は1546年から

1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。孫のソター王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置

されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという。

1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マダレーナが西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残している。1632年(寛永9年)

、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した墨書には、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」

とあり、日本にもこの仏教寺院は知られていたことが伺える。1860年、寺院を訪れたフランス人のアンリ・ムーオの紹介によって西欧と世界

に広く知らされた。

1887年、カンボジアが仏領インドシナとされ、1907年にシャムからアンコール付近の領土を奪回すると、フランス極東学院が寺院の保存修復を行った。

1972年、カンボジア内戦によって極東学院はカンボジアを離れ、寺院はクメール・ルージュによって破壊された。この時に多くの奉納仏は首を撥ねられ

砕かれ、敷石にされたという。

1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、彼らはこの地に落ち延びて来た。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭

と言ってよく、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大

の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できた(現在は修復されている)。

だがこれが、遺跡自身には災いした。クメール・ルージュは共産主義勢力であり、祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けた。内戦で受けた

弾痕も、修復されつつあるが一部にはまだ残っている。


内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定された。

*西門側の陸橋は現在補修中で座布団のようなプラスティック?スポンジ的なものを連結した簡易橋(300mほど)で壕を渡る西大門に到着します。

美しい女神像があちこちに見られます。

森本右近太夫一房の墨書(1632年

第三回廊は一番高い所にありますが階段が急勾配(傾斜65度)でオリジナルの石段は手摺りもなく現在立ち入りが禁止されています。

反対側に勾配は変わりませんが簡易型の階段があり、それを使い登ります。帽子は付けてはダメ!手に物は持ってはダメ!と厳しくチェック

されます。年齢制限はありませんが65才以上はほとんど登らずに諦めるそうです。登りましたが結構厳しいものがありました。

高い所に登らなくても広い場所(境内は外周、東西1,500メートル、南北1,300メートル)を数時間ウロチョロせねばなりませんので体力

が必要ですね。

次回はプレループ遺跡夕陽鑑賞です。


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