☆1 「亜墨利加船、箱館来航」
安政元年(1854)、江戸幕府は200年以上続いた「鎖国」を廃止し日米和親条約を結びました。開港場に決定した箱館の調査のために艦隊を率いてやってきたペリー提督と、幕府から応接役を命じられた松前藩の家老がアメリカの軍艦上で対面しました。
☆2 「開港場での交流」
開港場となった箱館の町には、外国の水兵や船乗りが毎日のようにやって来ます。彼らは商店の品物をお土産として買求め、八百屋で買ったキュウリやなすを生でかじったり、木魚を叩きながら踊ったりする水兵もいたようです。
☆3 「北の大地を拓くー箱館奉行」
江戸幕府が箱館と蝦夷地を治めるために任命した箱館奉行は、開拓や産業の育成を目指すと同時に、箱館の防備強化も計画しました。蘭学者の武田斐三郎が、ヨーロッパの「城郭都市」をモデルに考案した新しい要塞の設計図を奉行に説明しています。
☆4 「幕末の高等教育ー箱館諸術調所」
箱館諸術調所には身分に関係なく入門できたため、日本各地から学問を志す若者が集まりました。教授である武田斐三郎は、オランダ語や航海学、測量、造船、化学などの専門的な技術と知識を熱心に教え、ここから近代日本の指導者達が育ちました。
☆5 「蝦夷地経営の拠点ー五稜郭築造」
安政4年(1857)、五稜郭の建設工事が始まりました。堀を造る工事や石垣を積む工事、お役所や役人の住む家を建てる工事などが行われ、日本の各地から専門の職人や多くの労働者が集まり、7年の歳月をかけて元治元年(1864)、一応完成しました。
函館山
☆6 「旧幕府脱走軍、蝦夷地上陸」
明治元年(1868)10月20日、箱館から45kmほど北にある鷲ノ木の海岸に、旧幕府脱走軍が上陸しました。吹雪と激しい荒波により上陸用のボートが転覆して多くの犠牲者を出しながらも、陸軍の部隊が箱館・五稜郭を目指して出発しました。
☆7 「五稜郭入場と箱館占領」
五稜郭に有る新政府の役所「箱館府」は、守備隊を派遣して箱館へ迫る脱走軍を攻撃しますが、戦いに慣れている脱走軍に蹴散らされてしまいました。脱走軍を率いる榎本武揚が、日の丸の旗を先頭に行進する部隊とともに五稜郭へ入城していきます。
☆8 「松前攻略・館城の戦い」
箱館を占領した脱走軍は松前藩に平和共存を提案しますが拒否されたため、陸軍を派遣して松前を占領しました。松前藩の砦であった館城も脱走軍の攻撃を受け、僧侶でありながら松前郡のリーダーである三上超順らの奮戦もむなしく攻め落とされました。
☆9 「旗艦開陽、江刺港に沈む」
松前を攻撃する陸軍を海から支援するために出撃した旧幕府軍の軍艦「開陽」は、冬の日本海の嵐により江刺の港で座礁してしまいました。陸軍を率いて江刺に到着した土方歳三が、荒波に砕かれていく「開陽」を見て言葉もなく立ち尽くしています。
☆10 「蝦夷全島平定、仮政権の樹立」
軍艦「開陽」を失いながらも松前藩を打ち破り、全蝦夷地を手にした旧幕府軍は、明治元年12月15日、箱館港で百一発の大砲を撃って勝利を祝いました。彼らは入札(選挙)によって、榎本武揚を総裁とする仮の政権を樹立しました。
函館山
☆11 「明治新政府軍、反撃開始」
明治2年(1869)3月、春の到来と同時に、明治新政府軍の大部隊が日本海側の乙部の海岸に上陸しました。旧幕府軍に対する反撃が開始されたのです。彼らは陸軍を3つに分けて、旧幕府軍の本拠地である箱館・五稜郭 へ向けて進撃を開始しました。
☆12 「一進一退の攻防」
箱館への最短ルートである江差山道では、旧幕府軍陸軍奉行並である土方歳三の率いる部隊が陣地を築いて新政府軍の大部隊を迎え撃ち、激しい銃撃戦で撃退しました。しかし新政府軍は、第二陣・第三陣の増援部隊を加えて五稜郭へ迫ります。
☆13 「箱館総攻撃」
明治2年(1869)5月11日、箱館と五稜郭を包囲した新政府軍は、遂に総攻撃を開始しました。箱館山裏側の絶壁を登って現れた新政府軍の奇襲部隊により箱館の町は占領されてしまいます。これを知った土方歳三は箱館の奪回に向かいますが、銃弾を受けて戦死しました。
☆14 「戦時下の赤十字精神」
新政府軍の一隊が、旧幕府軍の箱館病院にも突入しました。病院長であった高松凌雲は、けが人や病人の命を助けるために赤十字精神の大切さを訴えました。新政府軍も患者達を救うことを約束し、この後、高松凌雲を通して旧幕府軍に降伏を勧めます。
☆15 「五稜郭開城・終戦」
明治2年5月17日、榎本武揚ら旧幕府軍の幹部は新政府軍の陣地に出向いて、亀田八幡宮の神前で降伏を誓いました。翌日彼らは新政府軍に五稜郭を明け渡し、箱館戦争は終結しました。ここに幕末維新の動乱は終了し明治時代が動き出すのです。
☆16 「静穏」
箱館戦争の終了後、五稜郭の堀では、冬期間に天然氷の切り出しが行われ、明治4年には本州へ送られて「五稜郭氷」の名で売り出すほどの産業に育ちました。また大正3年には公園、昭和27年には特別史跡に指定され、激動の歴史を静かに伝えています。
土方歳三之像