英語と書評 de 海馬之玄関

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イスラム女性からベールと尊厳を奪う傲岸不遜なフランスの詭弁(下)

2010年06月01日 11時16分15秒 | 日々感じたこととか



First, the freedom to dress the way one wants is not what’s at stake here. Our debate is not about a type of attire or the Islamic head scarf that covers the hair and forehead. The latter is obviously allowed in France. The ban would apply to the full-body veil known as the burqa or niqab. This is not an article of clothing — it is a mask, a mask worn at all times, making identification or participation in economic and social life virtually impossible.


第一に、自分が好きな仕方で衣服を着る自由がブルカ禁止の法規定によって危うくなることはないのである。我々の主張は衣服の種類に着目したものではないということだ。すなわち、髪や額を覆うイスラーム風の頭巾について我々法案推進派は問題にしていない。それらイスラーム風のスカーフがフランスで認められることは当然である。而して、我々が立法を目指している禁止規定は、全身を覆うタイプのブルカやニカブと呼ばれているベールに対してのみ適用される。要は、この禁止規定は衣類に対するものではなく仮面に関するもの。常時着用されている仮面、経済活動や社会活動における本人確認や参加を事実上不可能にする仮面に対する禁止規定なのである。

【「自分が好きな仕方で衣服を着る自由がブルカ禁止の法規定によって危うくなることはない」と述べておきながら、「全身を覆うタイプではないイスラーム風の衣服∈衣服」「ブルカ∉衣服」「ブルカ=仮面」という理路で、明らかに衣服であるブルカ(「ブルカ∈衣服」)を「自分が好きな仕方で衣服を着る自由」の対象から外すこの論理は詭弁以外の何ものでもない。実際、この寄稿の冒頭には自分で「イスラームのブルカやニカブのように顔を覆う衣服」と記しているのだから、その理路は憲法無効論なみの痛々しさである。と、そう私は考えているが、訳文はテクストに従った】   


This face covering poses a serious safety problem at a time when security cameras play an important role in the protection of public order. An armed robbery recently committed in the Paris suburbs by criminals dressed in burqas provided an unfortunate confirmation of this fact. As a mayor, I cannot guarantee the protection of the residents for whom I am responsible if masked people are allowed to run about.

The visibility of the face in the public sphere has always been a public safety requirement. It was so obvious that until now it did not need to be enshrined in law. But the increase in women wearing the niqab, like that of the ski mask favored by criminals, changes that. We must therefore adjust our law, without waiting for the phenomenon to spread.


ブルカやニカブによって顔が覆われている事態は、監視カメラが公の秩序維持に重要な役割を果たしている現在においては、治安面での深刻な問題を引き起こしている。而して、最近、パリの郊外でブルカを着用した犯人による強盗事件が発生したことは、上で述べたブルカやニカブの社会の安全面で孕む問題性をそれによって再確認せざるを得なかった不幸な事例といえるだろう。仮面を着用した人々が我がもの顔に街を歩くことが許されている限り、一人の市長として、その安全について私が責任を負っている住民を犯罪から守ることに関して、私は責任を全うすることはできない。

公の場所で顔が識別できるということは社会の安全確保の点で今までも常に必要とされてきたことなのだ。而して、このことは今まであまりにも当然のことだったので法の形式で確認される必要もなかったのである。しかし、スキー用マスクのように犯罪者に好都合なニカブを着用する女性が増えたことで状況は変わった。これらの状況の変化を鑑みて、ニカブ着用の女性が更に増えるまで待つことなく、我々は法の方を変えなければならないのだ。  





The permanent concealment of the face also raises the question of social interactions in our democracies. In the United States, there are very few limits on individual freedom, as exemplified by the guarantees of the First Amendment. In France, too, we are passionately attached to liberty.

【第二に、】恒常的に顔を隠すことは我々が採用している民主主義体制における社会的な交流という点でも疑問なのだ。アメリカでは、アメリカ合衆国憲法修正1条に例示されているように個人の自由の制限は必要最小限のものである。而して、その事情はフランスにおいても同様であり、我々フランス人は自由を熱烈に支持している。

【資料:アメリカ合衆国憲法修正第1条】 
連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。    




But we also reaffirm our citizens’ equality and fraternity. These values are the three inseparable components of our national motto. We are therefore constantly striving to achieve a delicate balance. Individual liberty is vital, but individuals, like communities, must accept compromises that are indispensable to living together, in the name of certain principles that are essential to the common good.


しかし、我々は市民間の平等と友愛をも断乎支持するものでもある。これら、自由・平等・友愛の三個の価値は互いに切り離すことのできないフランスの国是なのだ。而して、我々は常に同時にこれら三者間の微妙な均衡を維持することに心を砕いてきた。蓋し、個人の自由は重要である。けれども、個人は、社会的な共同体【=世間】と同様、公共の福祉の実現に必須な諸々の原理に敬意を表して、他者と共に暮らしていくのに必要不可欠な妥協を受け入れなければならないのではなかろうか。    




Let’s take one example: The fact that people are prohibited from strolling down Fifth Avenue in the nude does not constitute an attack on the fundamental rights of nudists. Likewise, wearing headgear that fully covers the face does not constitute a fundamental liberty. To the contrary, it is an insurmountable obstacle to the affirmation of a political community that unites citizens without regard to differences in sex, origin or religious faith. How can you establish a relationship with a person who, by hiding a smile or a glance — those universal signs of our common humanity — refuses to exist in the eyes of others?


一つの例を考えていただきたい。すなわち、【ニューヨークはマンハッタンの】5番街を真っ裸でうろつくことは禁止されているが、それをヌーディストの基本的人権の侵害と考える人はそう多くないだろう。ことほど左様に、顔を全面的に隠すような被りものを頭部に着用することは基本的人権が保障する自由ではない。否、そのような行為【it=wearing headgear】は、男女の性・門地・信仰している宗教の違いにかかわらずその社会を構成するすべての市民を結びつけている政治的な社会関係に肯定的な価値を見出す立場とは金輪際両立しない障害なのである。蓋し、人類に共通の普遍的な意志表示のための記号である微笑や目配せといった所作を隠している、よって、他者の視線の中にあることを拒否する人々とどうやって人間関係を取り結べると言うのか。そういうことは不可能なのではなかろうか。

【(甲)それが個人の趣味であれ信仰の営みであれ、外面的行為を制限する点で「真っ裸で公道を歩くことの禁止」と「ブルカを着用することの禁止」の間に確かに差はない。しかし、両者は保護法益、すなわち、当該の法の禁止規定が実現を目指す利益を異にしている。而して、前者は社会の性秩序維持や公共空間の混乱防止が保護法益であり、後者はブルカやニカブの禁止が犯罪予防に必要という点を鑑みれば、「合憲性判定基準」においても「審査基準」からもその禁止の合理性の度合について両者には別物と言って良い差がある。また、(乙)政治社会に参加しない選択をすることも立派な「政治的主張」であり、そのような主張を否定する民主主義理解は立憲主義の憲法が到底認めないものである。よって、これらの主張も詭弁以外の何ものでもない。ただし、訳はテクストに従った】  




Finally, in both France and the United States, we recognize that individual liberties cannot exist without individual responsibilities. This acknowledgment is the basis of all our political rights. We are free as long as we are responsible individuals who can be held accountable for our actions before our peers. But the niqab and burqa represent a refusal to exist as a person in the eyes of others. The person who wears one is no longer identifiable; she is a shadow among others, lacking individuality, avoiding responsibility.

From this standpoint, banning the veil in the street is aimed at no particular religion and stigmatizes no particular community. Indeed, French Muslim leaders have noted that the Koran does not instruct women to cover their faces, while in Tunisia and Turkey, it is forbidden in public buildings; it is even prohibited during the pilgrimage to Mecca. Muslims are the first to suffer from the confusions engendered by this practice, which is a blow against the dignity of women.

Through a legal ban, French parliamentarians want to uphold a principle that should apply to all: the visibility of the face in the public sphere, which is essential to our security and is a condition for living together. A few extremists are contesting this obvious fact by using our democratic liberties as an instrument against democracy. We have to tell them no.


最後に私が言いたいことは、フランスでもアメリカでも、個人の自由と個人の責任は表裏一体のものと考えられているということだ。この自由理解こそすべての政治的権利の要ではなかろうか。蓋し、他の市民に対して自分の行為の意味や意図を説明できる限りにおいて我々は自由なのである。而して、ニカブやブルカは他の市民の視線から自己を隔離することそのものではないか。なぜならば、ニカブやブルカを身にまとっている人は彼女が誰であるかを最早特定することはできず、すなわち、彼女は個性を喪失し責任を放棄した、他の市民にとっては蔭のような存在でしかないのだから。

この観点から言えば、街頭でのベール着用の禁止は特定の宗教を狙い撃ちにするものではなく、ある特定の信仰や民族の共同体に汚名を着せるものでもない。実際、フランスのイスラーム指導者は、『コーラン』には女性は顔を覆うべきだなどとは書いていないと指摘している。また、チュニジアやトルコでは公共の建物の中では顔を隠すことは禁止されている【to cover their faces is forbidden】。更に、メッカ巡礼においてもその事情は同様なのだ。而して、女性の尊厳の侵害でもあるこの習慣が引き起こした上記の如き混乱に最も悩んでいるのはむしろモスリムの人々なのである。

法による禁止措置によって、フランスの国会議員は、すべての国民に適用される一つの原理を顕揚したいと考えている。すなわち、公の場所では顔は見えなければならないという原則だ。畢竟、それは、社会の安心と安全に欠くことのできないものであり、また、市民がこのフランス社会で共に暮らしていくための条件なのである。この明々白々たる原理を批判する過激派も確かに幾らか存在している。而して、彼等過激派は我々の民主主義的な自由を道具に使って民主主義そのものを攻撃しているのだ。蓋し、しかし、我々は彼等に対してそのような論法や主張は成り立たないと言わざるを得ないのである。   




 

【追記資料】

表現と冒とく―境界を越える想像力を

2015年1月19日02時02分

朝日新聞


 ある人々による風刺表現が、別の人々に侮辱と受けとめられる。その反応が多数の殺害という最悪の形になったのが、フランスの週刊紙が載せたイスラム教預言者の風刺画だった。
 「絵の問題でなぜ殺人まで」と思う人は少なくないだろう。一方、多くのイスラム教徒にとっては激しい冒瀆(ぼうとく)だった。
 どんな理由があれ、表現に暴力で対抗するのは許されない。
 ただ、表現の自由と、個人の信仰や規範との対立を、どう調整するかは難しい問題だ。
 民主主義の歩みを振りかえれば、政治権力を対象にした表現の自由は決して制限されてはならないのは明らかだ。批判や風刺にも、最大限の自由が保障されねばならない。
 だが、どんな場合でも無制限というわけではない。無分別な表現は、個人や集団、民族などの名誉や尊厳を傷つける「暴力」にもなりえる。
 どこまでが自由で、どこからが侮辱か、その線引きは一様ではない。時代や社会によっても変わりうる問題だ。どの場合であれ忘れてならないのは、自由の行使には、節度と思慮が伴わねばならないということだ。
 ある集団や民族に属していることを理由に存在意義を根本から否定したり、憎しみをあおったりする言動は、自由の名で守られるべきものではない。
 自分にとっては当たり前に思える常識や正義が、他者にとっては必ずしもそうではないという想像力。それがあっての表現の自由である。
 グローバル化が進み、インターネットが世界を覆ういま、あらゆる表現は国境や、文化圏、宗教圏をかるがる越える。
 表現者が意図した「宛先」の枠内では問題のない内容でも、「宛先」の外では不穏当と感じられることが起こりやすい。欧州の新聞が自分の読者向けに載せた表現が、遠い中東の人々の感情を揺り動かすと同様に、日本の国内向けの言葉や表現も、瞬く間に国外を駆けめぐる。
 多種多彩な文化や歴史が共存している世界の一員として、自由に伴うべき思慮の領域を、広く深く持たねばならないのが、いまの時代の要請であろう。
 ある表現について、他者が違和感や反論を抱けば、それを表現し返す双方向性の手段が開かれるべきだ。報道機関を含め、表現者はいつも謙虚に耳を澄ます姿勢が欠かせない。
 この表現が他者の心にどう映るか。たとえリスクがあっても表現する意義は何か。簡単ではないが、想像力を不断にめぐらす努力を続けていくしかない。


朝日新聞さん、で、どうするの?




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2 コメント

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こんばんわーー^^ (ハリウッド@ちょっといい感じ)
2010-07-17 19:03:34
ちょっといろいろと記事をよませてもらいました^^

ありがとうございますーー^^

偶然でしたが、暇な時にでもまたこれたらと思います^^

では、失礼します、
勉強になりました。 (くろねこ)
2010-07-31 14:44:25
フランスでイスラム教徒のベール禁止法案が可決されたという記事を見て
気になったので、検索してこのページに来ました。
とても勉強になりました。

宗教のこと、移民が多いフランスのこと、
日本にいるだけでは分からないことも多いですが、
やはりこのような議論が堂々とまかり通っていることには疑問を感じます。

宗教や人種の違いのために不幸な人たちが増えることは悲しいことです。
そしてそれを国家が法で推し進めるのはとても危険なことだと思います。

勉強になりました。ありがとうございました

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