
我々は今、「瓜生黒川往還」 と「多摩よこやまの道」が交差する峠にいます。黒川駅からここまで約2.5キロ、徒歩30分といった所。而して、これから1キロほどは、麻生区と多摩市、町田市の県境を通る「多摩よこやまの道」に沿って黒川地区の西の縁を歩きます。歴史と自然が<炸裂>しますよ。
【地図画像】
・多摩線沿線散策Map(コバルトブルーの線が散策ルート)

http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap14a.JPG

瓜生黒川往還と多摩よこやまの道の交差点。「壱」の最後の画像を裏側から撮影したものです。今、我々は画面の中央左手から進んできました。本線の経路は鎌倉街道に向かう画面右手方向。而して、画面中央から奥に進む道は黒川地区散策の最短ルートです。最短ルートではありますが、黒川の里山と谷戸、黒川の自然は十分に満喫できます。但し、黒川を巡る歴史も堪能したいという向きは今から進む本線経路がお薦めです。
と、峠近く本線の道筋で見かけた説明版。早速、「歴史」が<炸裂>です。

■古代東海道と丸山城-相模の国府と武蔵の国府を結ぶ古代東海道
「かつて日本の古代にも、ローマの道のように、全国から都に集まる大道(道の最大幅12m)が七本あった」これは、近年の研究で判明しつつある成果です。飛鳥時代後半から平安時代初期にかけて、都と東国とを結んでいた古代東海道は江戸時代の道筋とは異なり、相模の国府と武蔵の国府を結び、多摩丘陵の町田市から多摩市付近を通っていました。
つまり、古代の東海道は我々が今いる辺りを通っていたらしいとのこと。よって、「壱」の末尾では「中世から近代初頭にかけて黒川地区は多摩丘陵を巡る交通の一つの結節点だった」と書きましたが、正確には、「古代から中世を経て近代初頭に至るまで黒川地区は多摩丘陵を巡る交通の一つの結節点だった」と言うべきだったということですね。
@@!
吃驚!
ウォーキングはロマンだにゃー♪
ちなみに、この「古代東海道と丸山城」の説明板を含め、これから幾つか紹介する説明板はすべて古街道研究家の宮田太郎先生が書かれたものです。この先も<歴史の炸裂>が期待できそうです。

「弐」の出発点の峠から徒歩150メートル(スキップしても兎跳びしても150メートル)、3分程で多摩よこやまの道は、都道18号線のバイパス(尾根幹線道路)と接します。上の画像は、尾根幹線道路脇の散策道の入口。ここからほんの2分も歩けば、散策道は「野花のアーチ」を突っ切り、また、黒川の里山に入ります。古代と現代が交差する不思議な5分間です。

下の画像は、道中で見かけた「防人見返りの峠」の碑。古代東海道、もしくは、その脇街道だったかもしれない、現在歩いている道筋にあるこの峠で、東国から九州に向かう防人達が最後に故郷の方角を振り返ったの、鴨。

赤駒を山野に放し捕りかにて
多摩の横山徒歩ゆか遣らむ
【万葉集・第20・4417番】
武蔵国の椋椅部荒虫が、防人に召集され、国府(現在の府中市)に集合するよう命ぜられ、至急出発しなければならなくなったときに妻の宇遅部黒女が詠んだ歌
召集されたとき、乗って行くはずだった赤駒(=騎乗用の雄馬)を
あいにく山の方へ放牧していたため
どこへ行ってしまったか探しても急には見付からず
多摩の横山を通って行くのに
とうとう徒立てで出発させることになってしまったわ
防人見返りの峠の碑の反対側には<現在>が広がっていました。東京都多摩市、すなわち、多摩ニュータウンの中心部の遠景です。

而して、
多摩ニュータウン中心部、小田急多摩センターの脇には、
我等キティラーの<聖地>、そう、
サンリオ・ピューロランドがあるのですよぉー!
防人見返りの峠から我等が<聖地>まで直線距離で2キロ足らず、
もう堪りません~!
ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿

・サンリオ・ピューロランド
http://www.puroland.co.jp/index.html

と、私情は捨てて先を急ぎます。これから「歴史噺」三連発。
第一弾がこれです。

■分倍河原合戦と県境の尾根
「梅松論」の記述やこの付近の伝説から、元弘三年(1333年)5月14日、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ分倍河原合戦の前夜、多摩川の北に陣取った新田義貞の大軍を迎え撃つべく鎌倉を出発した北条泰家軍二十万騎の大軍勢は、当時小山田庄(荘)内であったこの尾根の川崎市側に篝火を焚いて息を潜めて野営し、翌早朝から多摩川で大激戦に突入したと考えられます。
・参考地図画像

http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap14b.JPG
上の参考地図画像に記した上辺の「A」が分倍河原古戦場エリア。中程の「B」が北条軍が野営したとされる「今」我々がいる辺り。そして、「C」が、後の記事で説明しますが「早の道」 と呼ばれる鎌倉街道の脇街道と鎌倉街道との合流点と想定される地点です。実際、野営地点の「B」から「A」の分倍河原まで直線距離で5キロ足らず。そう考えれば、『梅松論』の記述は670年の時を超えてリアルに感じられます。尚、「鎌倉街道」 に関してはとりあえず下記を参照下さい。
・鎌倉街道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E8%A1%97%E9%81%93
http://www.asahi-net.or.jp/~AB9T-YMH/annai/pa1.html
http://www.asahi-net.or.jp/~AB9T-YMH/kamitumichi1/kamitumichi.html

続いて第二弾。これは宮田太郎先生の説明板の紹介だけでいいでしょうか。
■並列する謎の古街道跡
この近くの尾根筋には、数本の古道が並行する大規模な古道跡が藪の中に残されています。これは防人や朝廷の軍隊が往来した古代東海道跡なのか、あるいは鎌倉街道に属する中世の道跡なのか現在不明ですが・・・
б(≧◇≦)ノ ・・・なるほど!

最後。これも宮田太郎先生の説明板の紹介。
■大きく堀割った古街道跡
かつて地図のない時代の旅人や物資を運ぶ人たちは、自分の現在地や目的地の方向を知るため、また山賊・敵から身を守るために、なるべく尾根の高台を通りました。この後ろの山の中に、急坂をゆるやかにして同じ調子で楽に荷車や人馬が通行できるように道を堀割った工夫がみられます。
б(≧◇≦)ノ ・・・なるほど!

ということで先に進みます。大体、防人見返りの峠から10分余り歩いた頃。突然、我々の前に現れた光景が下の画像。
国士舘大学の多摩キャンパス。

そして、キャンパスから徒歩5分ほど先にはラクビー部のグラウンドがあります。ちなみに、キャンパスは東京都多摩市、グラウンドは東京都町田市。けれど、それらと小道一本隔てた東側(北側)は、我等が川崎市麻生区です。要は、ここも前回の連載記事で取り上げた玉川大学と同様、三つの自治体が鼎立する<激戦区>ということなのです。

本線の経路は国士舘大学のキャンパスに出た辺りで黒川エリアの中心部に向けて左折します。下がその入口。繰り返しになりますが、下の画像を撮影している地点は多摩市、画面に写っている道はもう麻生区、そして、画面から右手方向に30メートルも行けば町田市。正に、鼎立地帯ですよね。

里山の中の道をずんずん進みます。

と言っても、歩くこと10分足らず、黒川の谷戸エリアに帰還です。
万歳!
と、記念撮影もしちゃいました。ちなみに、Topの画像はここで撮影した谷戸の風情。そして、下の真ん中の画像。画面中央に写っている白いビルは国士舘大学の校舎なんですよ。



というところで、適度な長さなので次回に続きます(;・ω・;)。