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民主党監視塔☆学力低下と教育力の偏倚低迷(上) 

2009年09月12日 17時58分49秒 | 教育の話題

  
■はじめに - 学力低下論争の終焉
20世紀と21世紀を挟んで行なわれた「学力低下論争」が終焉を迎えてから5年以上の月日が経過しました。蓋し、その終焉には2002年早春に実施された全国一斉の学力テストの存在が大きい。すなわち、同年12月と翌5月に発表されたその結果、就中、

・社会と算数・数学の全学年での正答率の低下
・全教科に亘る「自分で出題の意味を考えるタイプの設問」での正答率低下

これらが確認された以上、「顕著な学力低下は生じていない」というそれまでの大本営発表的な文部科学省の主張が色あせたことは間違いなく、まして、この全国一斉テストの2-3ヵ月後には、所謂「ゆとり教育」の旗印の下、教科内容を3割減らし完全週5日制と総合的学習を導入した新しい学習指導要領が実施されたのですから、学力の低下は誰の目にも明らかになったということです。とにかく、実証データの「鉄の腕力」により1999年以来足かけ5年続いた不毛な論争に、少なくとも、社会的には決着がついたのです。

けれども、その終ったはずの学力低下論争が今次の「民主党-日教組」政権によってゾンビのように復活する、否、「子供達に学力差などありえないし、あってはならない」という戦後民主主義のカルト的な妄想が復活するのではないか。そのような左翼反動の蠢きを私は感じています。

ならば、日教組が歪めてきたこの国の教育の<風景>と日教組の歪んだ<擬似論理>を反芻すること。それは「民主党-日教組」政権下の左翼反動に拮抗する上で使える<地獄の黙示録>を我々に与えるかもしれない。これが、前稿に引き続き、2006年12月の教育基本法改正前の資料に基づき、2006年12月以前のこの国の教育を巡る<歪んだ風景>をスケッチする所以です。尚、「ゆとり教育路線」と「民主党-日教組」政権の危険性に関する私の基本的な考えについては本稿末尾に掲げた拙稿をご一読いただければ嬉しいです。


■学力低下論争はなぜ不毛だったのか?
なぜ学力低下論争は不毛だったと言えるのか? それは、学力低下の<事実>は明らかなのに、謂わば「挙証責任」のある側が証拠の提出を怠ってきたために続いてきた論争にすぎなかったからです。

「ゆとり教育」を掲げた2002年本格実施の学習指導要領、および、その前身たる(1991年教育課程審議会答申・1996年中央教育審議会答申に謳われた「新しい学力観」「生きる力」と連動した)「自ら学ぶ意欲と社会の変化に対応する能力の育成」「個性を生かす教育の充実」を組み込んだ1989年改訂の学習指導要領が1992年に本格実施されて以来、<子供達>と日常的に接している小学校から大学学部・大学院に至るほとんど総ての教育現場と、また、<子供達>を新しく労働力商品として迎え入れる就労現場の双方で、若者の学力低下現象は否定しようのない事実として認識されていた。而して、文部科学省と日教組・全教、そして、その応援団たる朝日新聞やプロ市民だけが「学力低下が生じている証拠はない」「そもそも学力とは何なのか」という主張と反問を繰り返してきていたのです。

しかし、教育と就労の現場の認識は、単なる印象論でも、あるいは、「最近の若いもんは!」式のどの時代にも見受けられる<年寄り>の感想でもなかった。それは、<子供達>に問題を解かせてみて課題を研究させてみて、あるいは、仕事をやらせてみるという、数年に亘り日常的に実施された<テスト>結果を踏まえた認識だった。而して、学校も職場も<子供達>のあまりのパフォーマンスの低さに困惑していたのです。そして、その低いパフォーマンスの症状が多くの<子供達>にどうやら共通しているらしいことも解っていた。すなわち、基礎学力の不足と「努力することこそ人生の真善美である」という世界観の欠如です。

これら現場から発信された学力低下の不安に対して、大東亜戦争後の日本の教育界を支配してきた戦後民主主義を信奉する勢力とそれらと協働しつつ文教行政のアンシャンレジュ-ムを形成してきた文部科学省(旧文部省)は、学力低下の有無を証明する証拠の提出を怠り、あろうことか、「本当の学力は学力テストの結果だけでは測れない」「本当の学力というものを定義することは難しい」等々、論争の本質とかけ離れた抗弁や反問を繰り返してきたのです。

けれども、分析哲学の定義論を持ち出すまでもなく、神ならぬ身の人間にとって到底定義も計測もできない「本当の学力」なるものなど誰も端から論じてはいなかった。すなわち、この社会のコンテクストの中で、学力低下論争とは、多くの<子供達>が大学・大学院教育を受けるためのミニマムの基礎学力を欠いていること、労働力商品としてほとんど使い物にならなくなっていることから提起された論争だったのでしょうから。而して、全国一斉の学力テストが明確に<子供達>の学力と学ぶ意欲の低下を示唆した段階で、少なくとも社会的には、学力低下論争には決着がついた(★)。と。そう言えるのだと私は思います。

★註:学力低下論争の経緯
戸瀬信之・西村和雄編『分数ができない大学生』(東洋経済新報社・1999年6月)を嚆矢とする学力低下論争は、ゆとり教育路線を掲げた2002年学習指導要領の実施の是非を睨みながら展開されました。そして、全国一斉の学力テスト「教育課程実施状況調査」が2002年1月-2月に実施され(全国の小学5年から中学3年まで約45万人を対象に実施)、その結果が同年12月13日と翌年5月12日に文部科学省から公表されるに及び実質上終焉しました。この論争経緯をフォローするには、苅谷剛彦『教育改革の幻想』(ちくま新書・2002年1月)、中央公論編集部・中井浩一編『論争・学力崩壊』(中公新書ラクレ・2001年3月)、市川伸一『学力低下論争』(ちくま新書・2002年8月)、中井浩一編『論争・学力崩壊2003』(中公新書ラクレ・2003年4月)、苅谷剛彦『なぜ教育論争は不毛なのか 学力論争を超えて』(中公新書ラクレ・2003年5月。特に、その第一部)が便利だと思います。



■学力低下に投影される日本社会 - 教育力の偏倚と低迷
学力低下の存否を巡る論争は終わった。けれど、論争が突きつけた学力低下の現実を踏まえる時、この社会が直面しているより解決が困難な課題もまた浮かび上がってきたのではないか。すなわち、教育力の偏倚と低迷です。

蓋し、家庭や地域という子供達を取り巻く環境が帯びる教育力の偏倚と低迷。これは、実は、学力低下論争(1999-2003年)の過程でも、例えば、苅谷剛彦さんが『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書・1995年6月)以来警鐘を鳴らし続けてきたポイントです。すなわち、学力の低下現象は、家庭や地域という子供達を包摂する環境に左右されるのではないか、ならば、学力低下は全国全階層で均一に生起しているのではなく、個々の家庭が属する地域と階層によって<斑模様>の呈をなしているのではないか、と(★)。

「小6正答率、世帯年収で差=学力テストの追加分析-文科省」(時事通信・2009年8月4日配信)などのニュースを目にすることもそう珍しくない現在、今ではもう常識の範疇に属する情報ですが、6年前、例えば、『サンデー毎日』(2003年6月8日号)に掲載された「親の事情が子供の将来を決める 学力低下で始まる「不平等社会」」にはこう書かれていました。

「首都圏における今年の私立中の受験率は過去最高を記録。小学6年生100人のうち14人が受験している計算となった。だが、これも今年がピークとなりそうだ。というのも、塾に通わせる家庭の割合が減少傾向を示しているからである。国民生活金融公庫総合研究所が今年の2月に集計した「学校外教育費用」の調査では、進学塾などの学校外教育を受講している高校生の割合は38.5%。前年度調査に比べて10.5ポイントも下がった。(中略)理由は言うまでもないだろう。「進学塾に通わせるには、年間100万円前後がかかる」(塾関係者)と言われている。泥沼の不況により、教育費の出費に耐えられなくなっている家庭が確実に増えているのである。つまり、単純に言えば、家庭も「優れた教育を受けさせることができるかどうか」を基準点に大きく二極分化しつつある」、
と。

また、苅谷剛彦さんのグループの調査によれば、中学校の通塾の子供達と非通塾の子供達の数学の平均得点差は100点満点で20点に達しようとしている(『論座』(朝日新聞・2002年7月号所収)、「苅谷剛彦教授グループの学力調査(下) 教育の階層差をいかに克服するか」36頁参照)。実際、東大生の親の年収が日本全体の大学生の親の年収に比べて遥かに高いことなどはもう30年以上前から週刊誌で報道されてきたこと。ならば、2009年の現在、教育を放棄した日教組教師が教育を破壊した「ゆとり教育」を進行させる中で学力が低下しているだけではなく、家庭の経済力を始め多様な要因によって決定される<家庭や地域の教育力>の偏倚が学力差を偏倚拡大させつつあることは自明なことではないか。と、そう私は考えています。

而して、多くの家庭が肌でそう感じているからこそ陰山英男『学力は家庭で伸びる』(小学館・2003年4月)という書籍が発売僅か1ヵ月余りで30万部も売れたのでしょう。苅谷『階層化日本と教育危機』によれば、子供達の学力は子供達を包摂する環境の教育力のパラメーターである。すなわち、子供達の学力低下は、親の学歴や職業や収入、居住する地域住民の学歴や職業や所得の分布と水準の関数である、と。このような状況こそ、教育力の偏倚と低迷の実相であり正体と私が考える所のものです。

★註:学力低下に投影される家庭と地域の教育力
学力低下が家庭と地域の教育力の差異によっていかに偏倚しているかという統計的な分析に関しては、『論座』(朝日新聞)の2002年6月号と7月号所収(後に、『調査報告「学力低下」の実態』(岩波ブックレット・2002年10月)に収録)「苅谷剛彦教授グループの学力調査(上) 「学力低下」の実態に迫る」、「苅谷剛彦教授グループの学力調査(下) 教育の階層差をいかに克服するか」を参照いただきたい。

而して、この註の論点全体については苅谷剛彦さんの著作の一読をお薦めします。就中、次の3冊。『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書・1995年6月)、『階層化日本と教育危機』(有信堂・2001年7月)、『教育と平等』(中公新書・2009年6月)。また、苅谷さんの問題意識の延長線上に、より洗練された数量社会学の手法を使い、現在のこの国の<教育と社会階層との関係>を苅谷さんとは対照的な図柄として見事に描写した吉川徹『学歴と格差・不平等-成熟する日本型学歴社会』(東京大学出版会・2006年9月)、『学歴分断社会』(ちくま新書・2009年3月)はこのイシューに関する必須文献ではないかと思います。苅谷さんと吉川さんの著書に関しては次の私の書評もご参照いただければと思います。


・書評☆苅谷剛彦「大衆教育社会のゆくえ」
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65244845.html

・書評☆吉川徹「学歴分断社会」
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65244869.html



<続く>






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