2011年3月11日の東日本大震災の被災者の方のブログには、全国からの支援を「善意」と捉えて感謝の言葉を書いてあるものも見受けられます。もちろん、取り敢えず、何かの直接的な強制もなく募金をしたり、震災地救助・支援に向けた国の巨額の予算出動に対して反対する声がほぼ皆無であることを「善意」と呼ぶことは間違いではないし、それらをそう記しておられることはその方の人間性の高貴さの証左であることも明らかでしょう。けれども、私は些かこの「善意」規定には疑義があります。誤解なきように、善意に疑義があるのではなく「善意規定」に些か疑義がある。
蓋し、それらの募金等々は「善意」でもあるでしょうが、「善意」だけではないのではないでしょうか。
「偽善」か? 否、「偽善」もあるでしょうが、「行動しない善意」より「行動する偽善」が10万倍とは謂わないが、9万9999倍は尊い。そして、「渡る世間は鬼はなし」ではないかもしれないが「鬼ばかり」でもないでしょう。カントが厳しく指摘している通り、「打算-偽善」を動機とする行為は道徳的に無価値ではあるが、「定言命令に従う行為-義務感をのみ動機とする行為」が同時に「打算-偽善」とも整合的であったとしてもその行為の道徳的価値は毫も棄損されないのでしょうから。
私は何が言いたいのか?
すなわち、
①自然災害には国家といえども逆らえない
②自然災害に関しては、よって、被災地を非被災地がその生活再建体制が整うまでバックアップするしかない
③そうしなければ、日本の国力自体が衰退する。だって、東北は日本の一部、否、日本の精神の中心地の一つなのだから
④要は、少し長い時間軸を取れば「困ったときはお互い様」がマナーでありルールであり、国の政策の根幹
⑤よって、自由主義・資本主義、個人主義・責任主義を根幹とするこの社会では、もの凄く酷な言い方になりますが、天災は文字通り「不運」と割り切って被災地に自助努力は尽していただくしかない
⑥しかし、非被災地の国民が被災地の国民を救助・支援するのは「善意」というだけではなく、当然の義務である。それは、道徳的な義務というだけではなく、極論すれば、近代の「主権国家=国民国家」の事物の本性、よって、実質的意味の憲法の概念からも演繹可能な法的義務でさえある
⑦このことは、形式的意味の憲法に定める「生存権」とは無関係ではないが全くの別物であり、(国を頼るのではなく)「不運」を自分で引き受けざるを得ないという厳しい「自己責任の原則」の裏面としての保守主義的な憲法論の帰結でもある。実際、「自己責任の国=アメリカ」でも災害に対する国と世論の基軸は以上の線とほぼパラレルなのですから
と、そう私は考えています。
また、「被災地間格差」について一言。
()誰もが上記の「善意=義務」を被災者に平等に尽すことはできない
()これは、お金にせよ時間にせよ、「善意=義務」に拠出できる元手が有限だからというのではない。誰しも「より親しい人や地域」と、よって、「より親しくない人や地域」の区別があるのは当然だから
()而して、その親しさの同心円状の連続する広がりの構図の中で、「親しさ」の中心点に行くほど「善意=義務」を手厚く尽したくなるのも当然だから(よって、私の場合、昔、仕事でお世話になった岩手県盛岡市や青森県八戸市の知人の安否が判明した段階で、最も親しい「被災地=被災者」たる福島県南相馬市&浪江町(本ブログでは「アイアン地方」と呼びます)に専ら関心が向いていることは否定しませんし、そのことについてはなんら変更する理由を見出しえません)。ちなみに、アイアン地方が大震災直後から「福島原発問題」の中心地の一つになってしまったことは偶然です
()ことほど左様に、誰もが、自分の「同心円」に従い「善意=義務」を果たせばよい、と。
そして、なにより、普通名詞の「被災地」という被災地はこの世に存在しない。存在するのは「福島の南相馬市」であり「石巻市」であり「いわき市」であり・・・・と、個別の被災地しかない。だから、被災者も支援者も、「福島」なり「岩手」なりを俎上に載せることで(一般的な)<被災地>の窮状とその支援の不備、あるいは、自衛隊の隊員の皆さんの献身的な支援活動への感謝について話すしかないのだと思います。ヒュームが説いた如く、「個物に一般的な意味」を含ませて用いるしか、我々は、現前の状況を他者に対して語りえないのでしょうから。
しかし、上記の()~()のことは、<私>の「善意=義務」の配分指針についてのことであり、国の配分指針はそれとは自ずと異なるべきことも明らかでしょう。而して、国はその「善意=義務」をどのような指針に従い配分すべきなのか、蓋し、ビジネスジャッジメントと同様、それは簡単に言えば、次の二つの基準に従い決定されるべきではないでしょうか
(甲)取り返しのつかない被害の価値と被害防止の緊急性
(乙)日本の国力の維持にとっての支援の重大性
この二つの軸の作るx-y平面のどの点にその「被災地内-被災地」が位置づけられるか、と。要は、その点までの原点からのスカラー量としての線分の距離に従い判断されるしかない。而して、「人命」が地球より重いのかどうか、「地域コミュニティーの一体感や伝統」の維持が究極の価値なのか等々、(甲)(乙)の「価値」や「重大性」の決定自体が更に別の価値体系を持ち出さなければ決められないことではあるでしょうが、少なくとも、最も弱い立場の被災地や被災者の方に最大限の優先順位が与えられるべきことも(パラドキシカルではなく)自明であろうと思います。
なぜならば、マスメディアもブログも報じないような(否、震災後3週間近く経過するというのに、電気も電波も届かない。よって、情報を得ることも、まして、発信することなど全くできない地域も稀ではない!)「見捨てられた被災地」をも救助・支援してこそ、(個々の<私>が個々の「善意と義務の同心円」に従い行動するのが当然であることの裏面として、そんな<私>の行動の集積の不備を補うのが国の本業であってみれば)国家権力の正当性と正統性は維持でき、かつ、そのような国家権力のみがこの社会統合を保つことができるでしょうから。そして、この点に関しては下記拙稿を参照していただきたいのですけれども、この日本社会の社会統合の維持こそ国の最優先かつ最重要なタスクでしょうから。ならば、「最後のカナリア」が死ぬ前に、その「鳴くことさえできないでいるカナリア」こそ国は救え、と。そう私は考えています。
・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上) ~(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html
しかし、それにしても・・・。大震災関連で政局の話は意図的に避けてきている私にしても、現下の政府の頼りなさには慄然を通り越して唖然としてしまう。蓋し、「日本人が日本の存続を願うなら、日本はアメリカの51番目の州に一刻も早く格上げしてもらうべきだ」という私の常套する「パラドックス」が、パラドックスではなくなりかねない肌寒さを覚えます。
思考実験のためのこの「アメリカの51番目の州としての日本」という補助線が(要は、それを目にして「馬鹿な!」と誰も第一感では思う主張ながら、いざ、憲法論的にも国際法的にも社会思想的にもそれを論破しようとすれば実はそう簡単ではないというところが味噌だったはずのこのパラドックスが)論理の「お遊び空間」を超えて現実的な<正解>になりかねない現状。
関東大震災(1923年)を明確な境にして日本は別の国なったとは人口に膾炙している認識ですが、少なくとも、政治的な勢力図と誰が権力を掌中にするのかを決める実質的なルールに関しては、私は東日本大震災を境として日本は別な社会にならざるを得ないと確信しています。現下の民主党政権、そして、予定調和的な業務遂行しかできない行政組織が自然災害対応という究極の予測不可能性を前に機能不全に陥っている光景を見るにつけそう確信します。
いやー、それにしても、凄いね。(左右のイデオロギーではなく、能力的に)そこまで酷かったか民主党政権と日本のマスメディア、です。ならば、頼りになるのは国民自身と自衛隊のみなの、鴨。冗談抜きにそう思えてきます。
而して、
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!