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国家が先か憲法が先か☆保守主義から見た「法の支配」(下)

2010年05月10日 06時35分50秒 | 日々感じたこととか



■憲法の概念と国家の概念
繰り返しますが、蓋し、「巨人軍の4番バッターと横綱はどちらが強いか」という質問にあまり意味がないように、「領土・国民・主権」を外延とする「国家」と(まして、富士山や芸者、メイドカフェやアニメを外延に加えた「日本国」のイメージと)法体系たる<憲法>を比べることにそう大した意味はないでしょう。ならば、本稿の「卵と鶏」問題の帰趨は、あくまでも<憲法=法体系としての国家>の内部構造の分析によって究明する他ない。

では、<憲法=国家>の内部構造を如何に措定するか。

ポイントは、(a)<憲法>と言い<国家>と言ってもそれが<法>である以上、それは単なる個人の主観を超えた間主観性を帯びたものということ。而して、(b)それが<憲法>であり<国家>であるためには、「法の妥当性:その法体系に従うのが当然であるという国民の法意識」、および、「法の実効性:その法体系に実際ほとんどの当該の社会のメンバーが従っている事実」が客観的に観察されること、すなわち、(法体系を構成する個々の法規条項には「盲腸」「機能不全」の徴候が見られるとしても)法体系全体としては法的の効力が社会学的に確認できること。    

これがその内部構造を究明分析されるべき<憲法=国家>が備えていなければならない性質ということです。蓋し、「誰しも自分が守りたいルールを「法」と呼ぶ」というリアリズム法学的の冷笑が相応しい憲法無効論の妄想に例を取れば、


控えめに言っても日本国民の99.99%が明治憲法を<憲法>とは考えていない、また、例えば、憲法規範の主要な内容である行政・立法・司法の三機関の構成も権限も活動のルールにおいても明治憲法のどの条項も法の妥当性も実効性も社会学的に確認できない、すなわち、法の妥当性と法の実効性の双方が明治憲法には欠如しており、畢竟、明治憲法は法としての効力を保持していないこと。    


このことを鑑みれば、「明治憲法=旧憲法」はその内部構造を究明分析されるに値する<憲法=国家>ではないことは自明ではないでしょうか。尚、憲法無効論の荒唐無稽さに関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・憲法無効論の破綻とその政治的な利用価値(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11396110559.html



畢竟、憲法典だけが<憲法>ではない。<憲法>とは(ⅰ)法典としての「憲法典」に限定されるのではなく、(ⅱ)憲法の概念、(ⅲ)「憲法の本性=憲法の事物の本性」、そして、(ⅳ)憲法慣習によって構成されている法体系と考えるべきなのだと思います。而して、(ⅰ)~(ⅳ)とも、「論理的-歴史的」な認識であり最終的には国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が確定するもので、それらは単にある個人が自己の願望を吐露したものではない。そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないのですから。   

蓋し、<憲法=国家>の内容をこう措定するとき、その内部には、伝統と慣習の蓄積の中で国民の法的確信が紡ぎだし編み上げた規範が含まれることになる。而して、立憲主義が「憲法は国家を縛る箍である」と主張する前提には論理的に「国家が憲法に先んじる経緯」が横たわっていると言える。なぜならば、存在しない国家を縛ることなど論理的に不可能なはずですから。他方、いかにそこに伝統が蓄積されていようとも、国民の法的確信が憑依していない事態は因習にすぎずそれは憲法慣習ではない。新カント派の方法二元論を持ち出すまでもなく、事実から価値を演繹することも、事実から価値を根拠づけることも不可能なのですから。

では、<憲法=国家>としての憲法慣習とはいかなるものか。これが「卵と鶏」の帰趨を決するものではないかと思います。尚、本項の内容に関しては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/17985ab5a79e9e0e027b764c54620caf

・女系天皇は憲法違反か
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3ab276729a79704d3dbe964193ad5261

・法とは何か☆機能英文法としての憲法学
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ec8d2b6eb9c0a98322ae93ae0f3b7f48





■法の支配の意味
所謂「法の支配」について東京大学の長谷部恭男氏はこう述べている。曰く、「法の支配について多くの人々が一致しうる点があるとすれば、それはこの概念が人によってさまざまな意味で用いられていることであろう」(『比較不能な価値の迷路』(東京大学出版会)p.149)、と。至言だと思います。芦部信喜・伊藤正己・Dicey等の諸家の理路を紐解き私なりにこの原理の意味を整理しておけば概略次の通り、

(甲)法の支配の内容-日本
(1)憲法の最高法規性の観念
(2)不可侵の個人の人権の観念
(3)法の内容・法の手続の公正さを要求する適正手続の希求
(4)国家権力の恣意的な運用を防ぐ司法の役割への期待   


ポイントは、このような法の支配の要求を可能にする「法」は単に手続き的正当さだけではなく、内容的にも正当なものでなければならないという主張が、12世紀のH.Bractonや13世紀の「マグナカルタ」(1215年)から17世紀のEdward Coke、そして、18世紀のBlackstoneと19世紀のDiceyに至るまで英米の法思想には脈々と流れていたこと。而して、その「正しい法」の概念は、「法は発明され創られるものではなく発見されるもの」だというコモン・ローを貫く法の観念に基礎づけられていたことかもしれません。

要は、「人治ではなく法治」を求める法思想としては、所謂「法治主義-法治国家」と法の支配はパラレルではある。しかし、後者は(「悪法も法なり」とする)前者と違い(3)内容面でも手続面でも適正さを法の内容と運用に求める点で異なる、と。多くの憲法の教科書にはこのように書かれているのではないでしょうか。

尚、「コモン・ロー」という言葉も多義的。大雑把に数えても、①大陸法に対する英米法という意味、②英米法の内部でも宗教裁判所で適用された教会法に対する世俗の法という意味、③世俗の法の中でも大法官裁判所で適用された衡平法に対して王座裁判所等の通常の裁判所で適用された法という、重層的な意味を「コモン・ロー」は帯びています。

而して、1873年にすべての裁判所が通常の裁判所系統に統合される以前の③の語義に限定するとしても、(α)「法は発明され創られるものではなく発見されるもの」という事実は歴史上存在したことはなく、また、(β)名誉革命(1688年)を契機として国会主権の原則が成立したこと、そして、(γ)19世紀末から20世紀初頭に始まる「福祉国家化-行政権の肥大化」にともなう膨大な行政法の制定によって英国においても「法の支配≒裁判所によって発見された法の優位性の主張」は、少なくとも、英国憲法のルールではなくなったと解するべきなのです。   

蓋し、英米の法の支配の終焉を踏まえるならば、(英米とドイツ・フランスとのその沿革の違いを除き、よって、中味の面での法の正しさの根拠が伝統か論理かの差を捨象するとき)合法的に権力を奪取して行使したナチズムへの反省から、(2)(3)基本的人権の尊重を憲法価値として組み込み、(1)(4)裁判所による憲法保障制度を導入した「法治主義-法治国家」を「実質的法治国家」と呼び、法の支配とほぼ同一視する現在の憲法学の通説から逆算すれば、現在の法の支配の内容は(1)~(4)に収斂すると考えても満更間違いではないと思います。

畢竟、「法の支配は、法思想・憲法思想の問題、すなわち、法や憲法をどう見るか/どう見たいかという問題(out look upon law and constitution)にすぎず、それは、経験的な法規範の内容理解とは直接の関係はない」のです。蓋し、「自然法の存在には疑義があるとしても、自然法思想が存在したことは確実」なのと同様、法の支配に具体的内容は乏しいとしても、法の支配の観念が存在してきたことは否定できないということです。法の支配をこのように理解する立場からは、「理性的な人々の行動を規制するために法が備えるべき性質」(長谷部, ibid)という意味に限定し、(就中、ハードケースにおいてそれを確定することが不可能な)「正しい内容を法に求める法原理」という過重な期待を放棄して、

(乙)法の支配の内容-世界
「独立の裁判所のコントロール」を前提にして「国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することによって国民の自由を保障しようとする理念」(『憲法』(新世社)p.21)
    

と法の支配を捉える見方が英米も含め世界の現在の通説であろうと思います。





■保守主義と法の支配の交錯
前項で紹介した法の支配の意味を踏まえるならば、憲法の事物の本性として<憲法>の一部である法の支配の原理は、<憲法=国家>の内容としては適正手続き(due process of law)に収斂することになり、具体的な規範の内容を提供するものではないと思います。

而して、世の保守主義を掲げる論者の中には、「法は発明され創られるものではなく発見されるものという法の観念」という1世紀前の英米の法の支配理解を根拠にして、憲法典ではない憲法慣習を憲法の内容と主張する向きもあるようです。けれども、その英米の1世紀前の法の支配の観念は、前項でも記した如く、実は、「裁判所によって発見された法の優位性の主張」であり、有権解釈者でもない論者が「自分が守りたいルールを「法」と呼ぶ」ことを正当化するロジックではないのです(尚、私の考える言葉の正確な意味での英米流の保守主義の内容に関しては下記拙稿をご参照ください)。

・保守主義の憲法観
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/18b7d4f888aed60fa00309c88637f9a3

・保守主義の再定義(上)~(下)
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/141a2a029b8c6bb344188d543d593ee2



さて、法の支配を巡る帰結から、「国家が先か憲法が先か」はどう答えることができるか。蓋し、due process of law として法の支配の原理を捉える場合、その核心は、

・正しい法の内容を一義的に定めうるとする教条の否定
・慣習と伝統に裏打ちされた手続的正義への信頼    


に収斂すると思います。すなわち、価値相対主義と実存主義の顕揚です。こう捉えることが満更我田引水の類ではないとすれば、法の支配は保守主義と相補的と言える。他方、自己の単なる願望を「発見されるべき法」と詐称する憲法無効論の論者等は法の支配の対極にあると言うべきでしょう。

而して、(イ)<法体系としての国家>が憲法典を超える民族の実存の規範的記述とすれば、<国家>には憲法典の諸条項に優先する規範が含まれており、また、(ロ)<憲法>の規範意味を確定する国民の法意識の実存が<国家>に他ならない以上、憲法典の認識に<国家>が先行することも明らかではなかろうか。ならば、「卵と鶏」問題の解答は「国家」である。と、そう私は考えています。



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