英語と書評 de 海馬之玄関

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【工事中記事】 山口真帆はウィトゲンシュタインであり渡辺麻友はカントだったの、鴨。

2019年04月27日 17時30分02秒 | 社会思想
 
渡辺麻友と山口真帆に感じる近さと、
それらと、よって、まゆゆまほほんとは違うものと
感じられるメンバーさんたちのこと。

例えば、

指原莉乃さんやわがやの贔屓の柏木由紀さん、
あるいは、同じく贔屓の松井玲奈さんとやつらは
何が違うのか? 贔屓のゆきりんとまゆゆまほほんの間に
横たわる、もう、もう絶望的なその「異質感」の泉源はなに・・・。
 

2019-04-25 20:44:02

アイドル界の偉人

https://ameblo.jp/sanfreccarp/entry-12456828108.html

 
この問いにこたえるための糸口(⬆)をゲットできた、鴨。
よって、平成の御代から令和の御代に移り行くこの数日で、
それを、漸次、呈示していきます。多分。
 
而して、
ポイントは、
 
>渡辺麻友はカントであり
>山口真帆はウィトゲンシュタインである
 
換言すれば、
 
>渡辺麻友は足利尊氏公であり
>山口真帆は織田信長である



 

・第二の中世の“今”考える「中世とは何か」-平清盛が先鞭をつけ足利尊氏が確立した日本

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9d7c2ea9ebeba54318879a0309dffdc0

 

・アイドルは科学者である・・・「渡辺麻友」は賢いのか可愛いのか、両方か?

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/1ae6adc4303ebd0c3c14aa40faa2a0e8


・NGT48 山口真帆さんスピーチ全文(+追記あり)

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/93685e5b75e685cfc8a36a0a2ad4e4a5

 

誕生日帽子【「工事中」の標識としての:関連独白】誕生日帽子

畢竟、「神が全知全能であるならば、なぜ、この世にはかくも多くの悲惨と不正が存在するのか」、実は、この問は、ライプニッツが<弁神論>として定式化したキリスト教神学の初歩的な論点なのですが、ライプニッツ(1646-1716)どころか、遅くともマルクス帝(121-180)以来この問が、信仰者にとっては初歩的であると同時に本質的なものであり、よって、繰り返し繰り返し問われてきたことは、マルクス・アウレリウス『自省録』を紐解くまでもなく周知のことだろうと思います。蓋し、キリスト教の組織神学において<弁神論>とは、将棋における<相矢倉定跡>の如きものと言ってもそう大きな間違いではないと思います。




しかし、哲学的にはこの問題は解決している。すなわち、人間存在にとってこの問は解答不能であり、その意味で無意味な問である、と。形而上学の成立の不可能さを論じた、カント『純粋理性批判』(1781)の先験的弁証論、就中、アンチノミー表での論証がその明確な解答。而して、諸学に方法論的基礎を提供するという意味では現在の唯一の哲学たる分析哲学と現象学もこのカントの地平を継承しています。例えば、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1921)の中でこう述べている。尚、英訳はC.K. Ogden、和訳はKABUの訳です。

The world is all that is the case.(1)   
The world is the totality of facts, not of things.(1.1)

Whatis the case, a fact, is the existence of states of affairs. (2)
A logical picture of facts is a thought.(3)

The limits of my language mean the limits of my world.(5.6) 
The world and life are one.(5.621) 
I am my world. (The microcosm.) (5.63)
The subject does not belong to the world; rather, it is a limit of the world.(5.632) 

Where in the world is a metaphysical subject to be found?
You will say that this is exactly like the case of the eye and the visual field. 
But you really do not see the eye.
And nothing in the visual field allows you to infer that it is seen by an eye.(5.633) 

How things are in the world is a matter of complete indifference for what is higher. 
God does not reveal himself in the world.(6.432) 
The facts all contribute only to setting the problem, not to its solution.(6.4321) 
It is not how things are in the world that is mystical, but that it exists.(6.44) 

What we cannot speak about we must pass over in silence.(7)    


世界は、成立していることがらの全体である(1)   
世界は、事実が寄せ集まった総体であって、物の寄せ集めの全体ではない(1.1)

事実、すなわち、世界から与えられている与件としての事実とは、
人間が表象・弁別・思念可能な諸々の事態が現存しているということに他ならない(2)
与件たる事実の論理的な映像が思考である(3)

私の言語の限界が世界の限界である(5.6) 
世界と生とは同一のものである(5.621) 
私とは私の世界である (畢竟、私とはミクロコスモスに他ならない) (5.63)
主体は世界に属さない、それは世界の限界なのだ(5.632) 

世界のどこに形而上学的な主体が見出されるというのか?
眼と視野の関係と全くパラレルな関係がそこにあると考える向きもあろう。
しかし、その論者とて自分の眼を実際に見ているわけではない。
而して、視野に広がるどんな物事からも、
それらが眼によって見られていることを推論することはできない。(5.633) 

神にとっては、世界がいかにあるか、世界がどのような事実や事態で編み上げられているかなどは
全くどうでもよい非本質的なことである。神はこの世界の中にその姿を現すことはない(6.432) 
而して、事実は問題を課すのみであり、解答を与えるものではない(6.4321) 
世界がいかにあるかということが神秘なのではなく、
世界が存在しているということそのものが神秘なのだ(6.44) 

語りえぬものについては、人は沈黙せねばならない(7)    


語りえぬものについては沈黙せねばばらない。ならば、「神が全知全能であれば、なぜこの世には不条理と悲惨が満ちているのか」という問を巡っては、「有限なる人間が全知全能の神の意志を理解することなどできはしない」という哲学からの解答を拠点とするしかないのです。而して、「世界がどのように存在するかではなく、世界が存在していること自体」に神慮を読み取り神の愛を称賛するのみである。畢竟、この世の不条理、悲惨や不正に対しては、信仰ではなく、社会思想と政治的の行動で対処するのみだ、と。

これが、この問題をライプニッツが<弁神論>として、哲学史における<相矢倉戦パターン>として定式化して以降、カントとそれを引き継ぐ現象学と分析哲学から導かれる解答である。と、そう私は考えています。蓋し、「カエサルのものはカエサルに返せ、神のものは神に返せ」(マルコ・12章17節)の箴言が<弁神論>の正解であるとも。

 

 

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