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<アーカイブ>OECD諸国中最低水準の教育に対する日本の公財政支出は問題か

2016年05月06日 15時13分58秒 | 教育の話題
 
March 06, 2012 12:34:22
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教育に対する公財政支出の割合が日本は他の先進各国に比べて低い。教育に関心のある方の間では、このことは周知の事実でしょう。その負担が家計に圧し掛かっていることも。実際、子供1人が大学を卒業するまに要する教育費の高さが少子化要因の一つと推定する論者もおられるくらいですから。

その教育費は、衣服や給食費、文房具や楽器、乗り物遠足(懐かしい!)や修学旅行の費用等々、就学しなくとも発生すると看做すべき費用は別にしても、補助教材費や校外活動費等々を含め(統計の出ている2010年現在の価値で算出した場合)、すべて国公立の学校に進学したとしても優に750万円はかかる。その間、小中高大の16年間。家計の年所得が平均600万としても、実に、一人っ子の場合でも家計総所得の約7.81%(∵750÷(600×16)≒7.81%)、二人なら15.62%で三人なら23.43%に達する(数値に関しては下記URL参照)。

これに幼稚園の費用、交通費・参考書代・塾や予備校の費用、受験費用や受験の際の交通費・宿泊費、まして、地方から都会の大学に進ませるとすれば家賃・食費も漏れなくついてくる。そして、国公立ではなく(日教組や全教に所属する教育を放棄した教育者にはわが子は任せられないという親としての当然の思いから、)中学からは私立に進ませるとすると・・・。更には、シングルマザーやシングルファザーの家庭では・・・。主婦や主夫がパートに出ようにも近所にコンビニ1軒ない田舎だとしたら・・・。子供が人見知りが激しくて大学生になっても居酒屋やチラシ配りのアルバイト一つできないタイプの子供だとしたら・・・。

はい、(あくまでも全国民を平均した場合ですけれども、)学資ローンや奨学金を利用できない場合、普通の家庭では三人の子供を大学に進ませるのはほとんど不可能になる。蓋し、(もちろん、その「気前の良さ」が仇になって、2011年-2012年の現在、ローンを返せる見込みのない「大学/大学院は出たけれど」の、自分達を「the 99%」などと称する若者が問題になっているとはいえ、やはり、)アメリカのように学びたい子にはとことん学ばせられるような奨学金や民間のローン制度を充実させる必要があることは論を待たないでしょう。

それにしても、世界第3位の経済大国で人口を維持するに足る「合計特殊出生率」(1人の女性が生涯に産むと予想される子供の平均数)の範囲内の数の子供でさえ平均的な家庭が経済的要因から大学に進ませられないという状況は必ずしも健全とは言えないの、鴨。教育が国の国際競争力を維持向上させる鍵であり、社会秩序を安定さ鍵でもあることを想起すればなおさらそう感じないではないです。しかし、これらの認識から、教育に対する公財政支出の割合を増やすべきだという結論が「1対1」的に演繹できるでしょうか。結論から先に言えば、私達はそうは考えません。


・大学卒業までにかかるお金・費用
 http://allabout.co.jp/gm/gc/67843/

・結果の概要-平成20年度子どもの学習費調査
 http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa03/gakushuuhi/kekka/k_detail/1289326.htm

・平均所得
 http://rh-guide.com/money_db/archives/2005/08/580.html






◆教育に対する低い公財政支出は問題か?
教育に対する日本の公財政支出は先進国(OECD加盟国)の中でも最下位に近い(下記URL。就中、第3部教育費の「13 国内総生産(GDP)に対する学校教育費の比率」(p.40)および「一般政府総支出に対する公財政支出学校教育費の比率」(p.42)をご参照ください)。而して、リーマンショック後の景気低迷、および、高い家計への負担と併せて、2006年の教育基本法改正、そして、「高校無償化」や「子供手当」等々の現下の民主党政権によるばらまき施策への批判が高まるにともない、加之、橋下徹大阪市長からの教育改革の提言が出されたことと轍を一にして、教育への公財政支出を増やすべしとの主張をよく目にするようになりました。


・「教育指標の国際比較」(平成23(2011)年版)
 http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/data/kokusai/1302640.htm


けれども、「教育に対する公財政支出は先進国中でも最低に近い」ということは、しかし、本当に恥ずべきことでしょうか。結論から言えば、教育への公財政支出のGDP費比等の比較はそれほど意味はないと考えます。理由は以下の四個。


第一に、『「教育指標の国際比較」(平成23年版)について』で文部科学省も述べているように、もともと、教育に限らず日本の財政支出比率は低いこと。つまり、教育の部面に引きつけて言えば、(家庭という意味でも私学という意味でも)日本のように伝統的に教育を民間が担ってきた社会、かつ、藩校と寺子屋の普及によって遅くとも19世紀前半には高い就学率と教育水準を達成していた社会とそうでない社会を単純に比較してもそれほど意味はないということです。世界経済が混乱したリーマンショック以後の数値では、各国の経済情勢の非対称性が大きいので(統計分析において、その非対称性が無視できない「ノイズ」になると思いますので)、それ以前のものとしては最新の『「教育指標の国際比較」(平成18年版)について』の表4の説明から該当数値を引用しておきます。すなわち、


国内総生産に対する公財政支出学校教育費(国と地方が学校教育に支出した経費)の比率は、我が国が3.5パーセントであるのに対し、アメリカ合衆国5.3パーセント、イギリス5.0パーセント、フランス5.7パーセント、ドイツ4.4パーセント、韓国4.2パーセントとなっている(いずれも2002年)。

この要因としては、我が国の国内総生産に対する一般政府総支出(国と地方による公財政支出全体)の比率が低いこと、児童・生徒数の総人口に占める割合が小さいことや、就学前教育、後期中等教育及び高等教育において私立学校の比率が欧米諸国より高いことなどがあげられる。

高等教育への公財政支出の対国内総生産比は、日本0.4パーセント、アメリカ合衆国1.2パーセント、イギリス0.8パーセント、フランス1.0パーセント、ドイツ1.0パーセント、韓国0.3パーセントであり(いずれも2002年)、全OECD諸国と比べても我が国の数値は韓国に次いで2番目に低い。

この要因としては、前述のとおり公財政支出全体が小さいことのほか、我が国の高等教育が私学を中心に普及していることなどが考えられる。これを大学在学者に占める私立大学在学者の比率から見れば、日本が73.5パーセント(2005年)であるのに対し、アメリカ合衆国は35.6パーセント(2001年)であり、フランスやドイツでは私立が極めて少ない。また、イギリスの高等教育機関は、中世以来、大学が伝統的に国王勅許の形で設立されているため、形式面では私立に分類される場合もあるが、運営費の大半を公財政で負担しており、実質的に国立として機能している、と。


 






第二の理由。次に、(これは残念ながら「過去の財産」になりつつありますが)、(i)我が国では(ジニ係数の分析等とは別に)極貧層に対する公的資金投入の必要が比較的少ないこと、(ii)そもそも日本は、(上述の如く、少なくとも江戸中期以来、民間と地方の努力により、)階層を問わず国民の教育水準が高く公的資金で底上げすべき最底辺の学力水準がもともと高いこと。これらが教育に対する低い公財政支出の理由だと考えられることです。


第三番目の理由。それは、必ずしもすべての子供達が大学・短大に進学する必要も必然性もないことです。この点、欧米の諸先進国に比べても、ほぼ完全に「高校の義務教育化」をとっくに達成している我が国において、しかし、大学・短大の進学率が50%からはそうドラスティックに増加する気配がないことを見れば自明なことでしょう。

要は、学力や学歴で世過ぎ身過ぎしたいと希望する、かつ、その適性のある子供達には高等教育を受けさせればよく、そうでない子供達にはより早い段階から職業訓練を施してあげるべきなのです。別に、前者がエリートであり偉いわけではなく、それは適性に結晶する個性の差にすぎない。と、そう私は考えます(尚、この点に関しては下記拙稿を是非ご参照ください)。


・所得と学力の相関関係と因果関係が投影する<格差論>の傲岸不遜
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11183555784.html

・高校無償化の愚劣と蒙昧-朝鮮学校支援?
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11183922960.html

・書評☆吉川徹「学歴分断社会」(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148905265.html

 

四番目、最後の理由は(あくまでも仮説ですけれど)、教師に優秀な人材を調達するコストが諸外国に比べ低いことです。何をいいたいのか、それは、我が国ではまだまだ、「教師」が社会から受ける<尊敬>の度合いは(北欧諸国や韓国等を除けば)OECD加盟国の中でも高く、つまり、「所得」以外の高い社会的評価に惹かれて多くの有為の若者が教師を目指してきたということ。これは、例えば、ともにその両親が「公立小学校の教師」である日米の高校生が、自分の親の職業に対して感じている「誇らしさ」の度合いを尋ねて見れば誰しも容易に確認できる事柄であろうと思います。

蓋し、公と民の総体で見た場合にも、日本の教育制度のパフォーマンスは極めて高かったということになる。ならば、単純な公財政支出の比較から日本の公的な教育費負担が低いのは問題とは言えない。否、低い公財政支出によって(10数年前までは間違いなく)世界最高水準の学力を子供達に提供していたことは、公財政とはもともと税金なのですから、むしろ、日本の教育制度が優れていたことの証左でしょう。

所得と学力の相関関係と因果関係が投影する<格差論>の傲岸不遜
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/1019606a0d70130a3bf3d7017cae89cd

 




◆教育に対する公財政支出の増額は不要か?
この点も結論から先に書けば、私の主張は、公財政支出は、(甲)家計負担を軽減させること、他方、(乙)国際競争力向上と社会秩序の維持のための施策に絞って増額を行うべきであるというのもの。而して、この両者を具体的な政策に翻訳すれば次の通り。すなわち、


・教育への公財政支出は増やすべきだ
・教育への公財政支出はその方法と形態を下記に限定すべきだ
 ①家計への直接の、かつ、用途限定の「バウチャー」としての給付
 ②奨学金制度の充実
 ③民間の教育ローン制度への公的支援
 ④国家の国際競争力の向上のための施策に重点配分
 ⑤子供達の規範意識の涵養のための施策に重点配分
 ⑥間違っても、日教組や全教の組合員が巣食う学校現場にばら撒くようなことがあってはならない


最初に⑥について敷衍します。例えば、公的資金の投入用途としてしばしば人口に膾炙する「少人数クラスの導入」(=教師の増員)には私は疑問を感じています。なぜならば、「少人数クラス」は必ずしも普遍的によい仕組みではないと考えるからです。

例えば、Harvard大学のMBAでもLaw Schoolでも学生は80人近いクラスで学んでいる。しかも、それは、一斉授業の「講義形式」ではなく、所謂「ソークラテ-スメソッド」によるケーススタディを中心とした「討議形式」で運営されており、かつ、学生数とHarvard Business School やLaw Schoolが抱えている教授数の比率からはいつでもでも少人数クラスに移行できるのに、敢えてHarvardのそれらのプログラムではクラスを少人数にはしていないのです。畢竟、学生の能力開発を優先してそうしている。なぜか、それは、自分とは異なる個性との出会いと交流の中でのみ人間は自分の個性や主張や到達度を確認できるとHarvardは考えているからです。

しかし、この事例に対しては、「外国の大学院の事例は小中高の義務教育や普通教育を考える参考にはならないのではないか」という反論が寄せられる、鴨。その通りです。しかし、(生活指導、就中、所謂「いじめ」問題の防御や解決は別論として、加之、教師の負担感は別の位相の問題として、)一般的にもクラス人数と学力との間には有意の相関関係は認められていないのです(下記資料を参照下さい)。


・『国立教育政策研究所紀要』第131集(平成14年3月)「学級規模に関する調査研究」(←リンクキレ鴨)
 http://www.nier.go.jp/03_laboratory/kankou_kiyou.html


すなわち、「少人数クラスでなければ子供達一人ひとりに目が届かない」などは、日教組の駄目教師や朝日新聞等々のその応援団が己のスキルのなさを棚に上げて自分のシャビーなパフォーマンスの責任を行政に転嫁しているにすぎない。あるいは、「少人数クラス化=予算増額」に関しては/関しても、日教組と利害を共通する文部科学省の役人が流布する<都市伝説>の類にすぎない。と、そう私は思います。

実際、大阪の最も荒れた地域の一つにある、ある中学校を陸上で全国優勝の常連校にしたカリスマ教師、そして、現在は有為な教師の育成指導に献身しておられる天理大学の原田隆史先生は、

50人のクラスで教えられん教師は実は15人のクラスでも教えられない。彼等が少人数クラスを望むのは、少人数クラスの方が、問題のあるクラスの問題を隠蔽し易いからですよ。

と断言しておられた。蓋し、これは核心を突いた言葉ではないでしょうか。畢竟、少人数クラスの導入のために教師を増員するなどは、日教組・全教に公費でその仲間の駄目教師を供給するだけに終るに違いないのです。閑話休題。


 





上述の(甲)家計の教育費負担の妥当な軽減に関して言えば、例えば、(a1)達成可能、かつ、望ましい合計特殊出生率を2.4と置き、また、(a2)同一学齢における適正な大学・短大の進学率を55%と仮定して、更に、(b)平均の家計所得と個々人の平均的なライフスタイルから逆算して(要は、衣食住・老後のための資金、傷病に備える資金、余暇を楽しむ費用等々を引いた残余を)「適正な家計教育費負担」と看做せばよい。そうすれば、教育の諸制度を運営するために実際にかかるコストと我が国の全世帯の「適正な家計教育費負担」の合計金額との差が「適正な公的教育費負担」として定義できるだろうからです。

適正な公的教育費負担=
全教育セクターの維持管理コスト-全世帯の適正な家計教育費負担の総額

適正な家計教育費負担=
家計の総収入-望ましい合計特殊出生率/適正な大学・短大の進学率を加味した衣食住その他の費用

しかし、この計算(「机上の空論」とも言う?)は、(1)日本の社会が国際競争力を維持向上させることによって、今後も家計に所得を提供できること、(2)日本の安全保障が保たれ/日本が世界で健全な経済活動を展開するに十分な安定的な国際秩序が維持されて始めて成立するものです。そして、これらの前提には更に(3)安定した社会秩序が不可欠でもある。

而して、これら(1)~(3)が(乙)の根拠です。畢竟、適正な家計教育費負担なるものも適正な公的教育費負担なるものも、実は、日本国の生存と社会秩序の安定、そして、国際競争力が維持できて始めて意味を持つ、と。

蓋し、防衛と治安維持、科学技術開発のコストもまた限られた国家財政の分配において最優先のプライオリティーを持つ。而して、家計の教育費負担の軽減とともに教育行政が達成すべきもう一つの目的、国際競争力の向上と規範意識の涵養のための公財政支出は、国防と科学技術の開発に連動しなければ効率的ではない。そう私は考えます。


日本の子供達のために、共に闘わん。

 




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