フランク・ティルマン・ダーディン記者の1937年の南京事件に於ける記事は、よく読んでみると誤りもあるし、矛盾もある。
戦闘中の混乱による、情報なども見られる。メディア記者として当時の様子を知り得た情報の正否を確認しようとしたり、正確に情報を伝えようとする倫理観があるのかどうか疑ってしまう記事のようである。証言など得られた情報のチェックをせずにそのまま流しているかのようで、正しい情報と誤った情報が混在し正確な認識が困難な状態である。
これらダーディン記者が書いた記事をもって、南京虐殺が有ったという史料とするには、全く適正できないと考えられる。
つまり、この記者の記事を使って【南京虐殺があったという根拠にはならない】ということである。
以下に矛盾する点をあげてみた。
【矛盾する記事内容】
- 頑強な連隊がいくつか、月曜日(13日)になってもなお日本軍に抵抗していたが、防衛軍のほとんどが、逃走を続けた。何百人もが外国人に身を任せてきた。記者は脅えた兵隊たちから何十挺もの銃を押しつけられた。彼らは、近づいてくる日本軍に捕まらずにいるには、どうしたらよいのかを知りたがった。
- 中国軍の統制の悪さから、火曜日(14日)の昼になっても、まだ抵抗を続ける部隊がかなりあった。これらの多くが、日本軍にすでに包囲されていることも、また、勝てる見込みがないことも知らずに戦っていた。日本軍の戦車隊が整然とこれらを掃討していった(18日特電)
------ 以下の内容と矛盾 -------
- 多くが発見された場所で殺害されたが、なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は、水曜日(15日)の二、三時間の間に、三つの集団処刑を目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、100人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲がなされた虐殺であった。(18日特電)
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【当方考】
15日のダーディン記者の目撃情報は、13日、14日、15日における抵抗する部隊があった証拠であり、《交通部近くの防空壕で、100人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲がなされた》は、普通常識的に考えれば【処刑】でもなければ【虐殺】でもなく、限りなく戦闘による掃蕩とするのが正しいと考えられる。
- 南京で日本軍の虐殺が開始されてから、市は恐ろしい様相を呈してきた。負傷兵を治療する中国軍の施設は、悲劇的なまでに不足してきた。(18日特電)
------ 以下の内容と矛盾 -------
- 一週間前でさえ、しばしば路上で負傷者を見掛けた。ある者はびっこをひき、ある者ははいずりながら治療を求めていた。(18日特電)
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【当方考】
一週間前(特電18日の前であれば、11日となる、12日であっても日本軍占領前)であり、負傷兵を治療する支那軍施設が不足しているというのも病院関係者が避難しているので当然のことであり、日本軍の占領下による非道であるということはあまりにも矛盾がある。
- 大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。(18日無線)
- その死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。(19日無線)
- 市の南部および南西部から避難できなかった大勢の市民は殺害され、総計ではおそらく戦闘員の死亡総計と同数くらいにのぼるであろう。記者は日本軍が地域を掌握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた。(1月9日航空便)
------ 以下の内容と矛盾 -------
- 南京での中国軍の防衛作業の特徴は、相変わらず建物の全面的焼却である。南門近くの人口密集地区全体から住民が追い立てられて、市の安全区に送り込まれ、この小都市一つくらいの規模の地区が燃やされていた。同様に、下関駅近くのモデル新村一つが焼却された。(9日特電)
- 焼き払いのたいまつは南門周辺や下関でも使われた。(1月9日航空便)
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【当方考】
南門とは【中華門】の事であり、城壁の内外ともに人口密集エリアになっている。つまりエリアの人間が地区の焼却という清野作戦の為に追い立てられて安全区へ送られたと報道しているにもかかわらず。南部で日本が占領掃討戦中にあたかも虐殺を行ったかのような報道は矛盾の極み。
- 日本軍の好みの処刑方法は、塹壕の縁に10人ほどの兵隊を集め、銃撃すると、遺体は穴に転がり落ちるというものである。それからシャベルで土をかけると、遺体は埋まってしまうというわけだ。(18日 特電)
------ 以下の内容と矛盾 -------
- 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。(18日 特電)
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【当方考】
【日本軍の好みの処刑方法】と書きながら、乗船する際の【目撃の処刑方法】は、この手法をとっていない。では【好み】とは一体何なのか。バンドのみ特別な処刑方法であったのか。理解に苦しむ記事。