【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その18

2020年04月01日 14時31分46秒 | 1937年 南京攻略...

 

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【2[堀越文男(=偽名)]陣中日記】

P.57
2[堀越文男]陣中日記

所属:歩兵第65聯隊>本部通信班(有線分隊長)・編成
階級:伍長

10月03日 虬江碼頭に上陸。見る限りの建築物全て破壊されて無惨。西の前方に砲声が続いている。
        ここから上陸したのは7師団だと聞く。戦闘は有利に展開と聞くが前進は容易ではないらしい。
        着港前に草の中の腐敗した支那兵の遺体がある。臭いが酷い。
        日本軍人の戦死場所があり、板杭に名を書き花を供える。虬江碼頭の戦いに脱帽し敬礼する。
        上海市外へ2里(約8m)行軍。午後9時上海着。日本人経営の紡績工場に宿営。

10月04日 午前4時急な起床。朝食準備後少し仮眠をとる。朝食後の午後8時30分。
        第123班整列の上、大隊並びに旅団司令部への連絡に任命される。現在地上海楊樹浦大康紗廠。
        午後酒保でビール(20銭)、サイダー(13銭)などを購入。市外で戦友に会う。

10月05日 午後8時整列時、敵機襲来。探照灯交錯して、高射砲音は凄まじい。両角部隊月浦鎮に行軍。
        途中の永安宿営の兵に聞くと昨日までの戦闘で1大隊200名の内は50名は戦死との事。

10月06日 午前7時、濾水車(*2)を運搬。重い為応援を頼む。道程は遠く、支援の予備班は午後4時に戻る。
        帰家宅東方に至。鹵獲された支那人の女性と子供が銃殺となる。惨い事でこれが戦争と思う。

10月07日 雨。幕舎雨漏りで、寒い。夜毎に寒くなる。道路も五寸(15cm)の泥濘となる。
10月08日 雨。濾水機を使って川から水を濾過して、米を研いで飯を炊く。
        その川を流れる支那人女性の遺体を見つける。戦争と思う。午後2時より徴発。
        泥濘に軍靴が没する中をめぐる。支那人家屋を物色し、支那人男女及び子供が、
        僅かにの1箇所毎に残留しているのを確認。の稲が刈られることなく腐っていく。
        感傷に浸る。

10月09日 遠近に砲音がする。三度の食事の使役。明け方雨が激しく降る。砲声鳴り止まず。
        電話があり李家綱の師団との連絡。

10月10日 雨。頭痛。少々休養。午後5時第1大隊増加の命が下る。夜砲声・機関銃の猛射音が近くに
        聞こえて来る。歩兵伍長に任命される。連隊は145名となる。雨が上がり、露営は5日になる。

10月11日 朝、聯隊長及び幹部へ任官の挨拶に行く。伍長になるも身なりと行動は変わらない。
        上等兵に昇格したときほどの喜びはない。

10月12日 曇。午前8時15分、帰家宅発。道泥濘難路。午後0時頃蔡寧宅北方の墓地着。墓地に露営。
        電話は現在地より、陳家宅の師団参謀の間を配線設置する。午後4時終了。周囲は綿畑。
        偶に附近に迫撃砲弾が落下する。

10月13日 朝冷えで、幕舎の外に出て火を焚こうとするが、何も無く竹の葉を何とか詰めて火を焚く。
        遠くに法幣の観測所があり気球が昇るのを見る。友軍飛行機が露営地に通信筒(*3)を落下させる。
        午後2時20分師団司令部に班長と共に行く、張家角より陳家宅に至電話線敷設は極めて困難。
        負傷者を多く出しながらも第1有線班が架設は適切。午後3時出発。
        途中のクリークに沿った塹壕の中に支那兵の多数の遺体を見る。山田部隊の第1大隊の死傷者は
        6名と7時頃電話がある。夜になり迫撃砲攻撃が激しくなる。

10月14日 朝は寒く、昼は暖かい。昼近くに幕舎内に青大将(へび)が出て大騒ぎとなる。
        午後少し通信演習。戦友の戦死を知る。午後5時40分、第4班は王家橋の第103旅団と櫓網湾の
        第65連隊の第1大隊の電話線の構築の命を受け、午後6時20分発。駄馬馭兵を含め9名で、
        劉家行十字路より弾丸が耳をかすめる中で西進。道を間違え敵中へ突入しそうになり引き返す。
        偵察を出し、8時50分目的地の第103旅団へ到着し、9時15分より構築開始。
        敵弾の中完全埋設を完成し、午後10時50分第1大隊に戻る。大隊長よりパンを賜る。
        旅団に戻り午後12時に出発。陳家宅に宿営。

10月15日 蔡寧宅第65本部へ7時50分帰着。大隊長より両角隊長に対する伝言を伝える。
        【部下を多く死なせて陳謝致します。今後戦法を変えて努力いたします云々】と。午前中休養。
        午後より掩壕構築の演習。夜は同課目の夜間演習。

10月16日 午後2時30分、師団長より第65連隊へ連隊の大1個大隊に前線へ展開命令。午後5時30分発。
        兵は旅団司令部の王家橋に集結との命令を受ける。5時半電話撤収。午後9時頃着。
        本日より通信班となり郵便取り扱いとなる。

10月17日 家屋中だが迫撃砲弾落下し危険、、午前3時に追撃戦闘の準備。敵夜襲があり、
        前後に凄い量の迫撃砲が撃ちこまれる。電話故障で寝られず。第一線は損害無し。
        第9中隊が三家村附近の敵を撃退。午後11時30分。敵弾激しく継続的に撃ちこまれる。

10月18日 晴。第1大隊方面の断線が度々あり、午前9時頃、第4有線班の後退の班が負傷する。
        午後4時過ぎ、決死隊で架線を再度引き電話が通じる。夜12時近く又断線。
        午前3時5分、第4班出動し直す。

10月19日 戦友の遺体が運び込まれる。涙が流れる。午前9時20分、1名負傷。又申し訳なく涙が出る。
10月20日 昨夜12時頃第1大隊断線。明朝まで補修を試みるが、敵弾丸の火勢強く不可能。
        架線大量に損壊し電話故障。明け方迫撃弾附近に落下し、誰か2、3名負傷。
        午後7時に架線通じ、午後2時より再び断線。修復に出発。午後1時5分に1名負傷し、
        1名戦死を知る。入隊より寝食を共にした戦友である。我慢しても涙が出る。
        迫撃砲の落下が止むと故郷を思い出す。

10月21日 昨夜より第1大隊方面断線。架線する為に泥濘の中を前身泥だらけに成ながら再構築する。
        下痢の為、午後休養。

10月22日 戦友1名負傷。下痢。休養。正午を期して師団からの反撃で砲声が盛ん。昨夜の敵砲撃激しく、
        砲兵隊の幕舎が被弾。第12中隊2名戦死、第2大隊正面に夜襲有り、
        敵を引き付けて猛射をあびせて撃退したらしい。第2大隊は第1大隊と後退となる。
        しかし第1大隊残余人員僅かに60人余りとなる。電話線に問題が無く穏やか。

10月24日 迫撃砲弾諸処に落下して、戦傷者が出る。戦友1名負傷。迫撃砲夜に入り益々激しくなる。
10月25日 晴。朝寒い。日中は暑いが夜半に寒さが増す。補充員到着5名増加。迫撃砲以前落下。
10月26日 午前、補充部隊の第5中隊に郷里の知人を見つける。
10月27日 温かい日が続く。午後4時、補充兵を加え反撃。
        郷里の知人に葉書を書く、郷里からの頼りを毎日待つ身。

10月28日 晴。午後の手紙と『耕人』(*4)に応募した『白い沼』が入選に。だた鍵山氏の講評は老朽とある。
        夜兄からの手紙が届く。

10月29日 今日、連隊は全滅を覚悟の総突撃となる。未明より第1銭の塹壕へ前身。
        三家村東北方の地点で一夜を明かす。迫撃砲は各所に落下。友軍機による爆撃。雨降り出す。

10月30日 連隊は第104連隊と交代の為、王家橋に9時撤収し後退。午後1時着。副官の小畠哲二郎少佐戦死。
10月31日 雨。休養。夕方上海へ電池を取りに行く。小唄を入れた戦時小説4点ばかり書き、
        『耕人』に送ろうと思う。

11月01日 戦死者2名が荼毘に附される。午後5時王家橋発。通信機材の配線の損壊が使用出来ない程酷い。
        野戦局も移動。劉家行は南進すれば上海、北進すれば羅店鎭という交差点。
        明日第11師団と夜警の交替をする。第4班の5名出発。

11月02日 8時半整列。第11師団と交代。羅店鎭との中間地区の斉家村に聯隊本部が置かれる。
        金家店第3大隊、蘇家宅第1大隊、白沼第2大隊配備。

11月03日 明治節。劉家行で聯隊長音頭で万歳三唱。雨止み、午後1時頃悪路をようやく斉家村に着。
        敵前を各大隊へ配線を架設。

11月04日 午後2時半、迫撃砲が各所に落下し、小銃弾耳をかすめる中第1大隊連絡へ。
        守備隊2日目、斉家村へ戻る。戦友3名の尽力で毎日の食事が旨い。

11月05日 曇。午後手紙が来る。これに勝る楽しみはない。小銃弾耳をかすめる中第1大隊へ連絡へ行く。
        鍵山氏からの手紙に『耕人 11月号』を送るとの事。

11月06日 昨夜第3大隊方面に夜襲。200名を殺害、7名鹵獲聯隊本部へ連行される。
        戦友の2名が捕虜を斬首で殺害。

11月07日 雨。掩壕を掘る。水が湧出して役に立たない。
11月08日 晴。昨夜第3大隊方面に夜襲。夜葉書を書く。金家店第3大隊方面で銃声がする。
11月09日 晴。姉より手紙。連れて来られた捕虜を戦友が斬殺。夜近くに女性2名、子供1名が鹵獲されて、
        この3名も刺殺。夜食後戦友の買ってきたサイダーと蜜柑に舌鼓打つ。
        戦地の夜での楽しみというもの。

11月10日 午前9時、旅団へ兵器修理の為出発。午後4時内地より手紙が来る。
        押し花が添えられた郷里の二本松の女学校の慰問の手紙である。

11月11日 晴。昨夜午後9時30分招集。壕の掘削と警戒態勢。第2大隊方面の白沼で夜襲。
        通信班の新聞記事を書く。

11月12日 午前1時頃、第13師団羅店鎭北方へ前進の命が下り、午後1時前に出発。
        羅店鎭北方で友軍機による誤爆有り。暗く難路の夜間行軍で江楊家鎭着。宿営。

11月13日 午前6時聯隊本部出発。午後10時各班の撤収を見届けて出発。昨日同様今日も知人に出会う。
        連隊に追いつかず、某地の支那人家屋に宿営。支那人が快く接待してくれた。領事官の人物と同宿。

11月14日 午前7時発。夕方新道に出て路傍の寺院で宿営。領事官の室井氏も同宿。
11月15日 部隊に追求できず、支塘鎮を過ぎ、某所に宿営。
11月16日 午前10時30分、梅李鎭に第5有線班に合流。全員元気である。膝まで没する泥濘での行軍。
        午後6時頃1を見つけ宿営。3名で徴発に鴨、鶏の8羽、豚1匹と油と砂糖。

11月17日 午前6時過ぎ発。午前11時休憩中に連絡で聯隊本部の位置を確認。午後3時に本部に合流。
        本部の幕舎の家屋に宿営する所が無く、藁荷の下で寝所を作る。小銃弾が飛んでくる。
        前方に敵トーチカがあり頑強に抵抗している。夜雨。雨漏り。

11月18日 朝雨が止む。銃弾間近に耳をかすめる。午後1時聯隊本部前身中に右方面からの攻撃を受け、
        前進一旦中止。午後2時再び進撃開始をし傍街の中に侵入。側射を受け危険。雨降り出す。
        架線の配線が無く伝令となる事を覚悟で就寝。

11月19日 午前6時発の予定が、敵頑強で戦線膠着。滞在儘。午後追求部隊が到着、配線到着し、
        直ちに第2有線班で旅団司令部へ延伸架設。1名負傷。

11月20日 午前3時、謝家橋鎭発。暗闇の中泥濘の新設道路を行軍。昨夜まで頑強に抵抗した敵軍は退却し、
        散発的に敗残兵との交戦がある。謝家橋鎭の西方約2里半(約6km)地点着。午前8時25分頃、
        某で誠意兵を派遣し、初めて斬首。
        作法通りに行い冷静で落ち着いて行った自分に自信に驚く。西徐野に宿営。
        敵軍ほぼ退却し、鹵獲した敗残兵は使役させる者を残し、銃殺、斬首する。
        怒りの感情も無く、血しぶきを見ても心平静で、パニックを起こす事はない。戦場心理によるものか。

11月21日 雨。霧雨。寒い。南国着。
11月22日 晴。滞在儘。徴発。クリークにある支那人の船を止めて全て調べ、対岸に渡る。そこでも徴発を行い、
        帰営する。第1銭では敵2,000名程で頑強に抵抗中。旅団、前衛、第3大隊間に電話線架設。
        青空に故郷を思い出す。南国は家は汚く路面は悪い。

11月23日 南国午前6時発。西進。午前8時寺院に聯隊本部着。午前8時30分第10中隊方面地形に偵察。
        午前9時40分、第10中隊より敵情を報告を受け帰営。行軍。長経鎭の手前に午後3時30分着。
        夜風邪の症状が出る。敵頑強。無錫の一を占拠したと聞く。

11月24日 午前8時発。長経鎭に着。大きな街である。両角部隊は挺身隊の任を解かれて師団の予備隊に回る。
        休養。聯隊長より師団長よりのお褒めの言葉が伝えられる。午後4時45分、軍旗奉拝。
        皆涙を流す。長経鎭へ戻り宿営。支那人家屋では上等の家で就寝。

11月25日 午前7時発。西進して師団と合流。初司も。午前11時を始めに連絡将校に同行し2度師団間を
        往復する。第5中隊に戦死者が出たとの事で、知人の無事を祈る。

11月26日 午前11時30分発。午後4時過ぎ、祝塘鎮の宿舎に着く。夜刀の手入れ。
        【日本刀よきかかな日本刀! 人をきりたるあと歴然たり、心すむ如し】。
        夜チャンチウを飲み気勢を上げる。

11月27日 午前7時半発。午後4時王家村着。白い濁り酒を飲む。風邪で喉が痛む。
11月28日 午前7時30分発。西進。午前9時50分、青陽鎭着。江陰城への道路には野戦砲などの部隊が前進。
        午後4時頃南閘鎭の南方の塗鎭に宿営。夜戦闘激しさを増し、午後11時15分、1名戦傷。

11月29日 部隊出発、配線撤収の為9名と残り作業。前面の高地より敵より射撃を受ける。
        終了後、南閘鎭に入り宿営。衛生隊の知人に出逢う。

11月30日 午前6時頃、敵銃撃猛射を受ける。1個分隊を編成し、率いて本部の警備に付く。
        南閘鎭東部の高地を占拠。聯隊本部前進開始、敵退却。横塘鎮の南方小で猛射を受ける。
        夜となり露営。

12月01日 晴。午前8時30分発。江陰城西方の市外に侵入、被弾で軍旗小隊1名負傷。
        東京日日新聞社の石井記者に原稿を書いて渡す。前線は激戦。午後2時20分、
        両角部隊江陰城一番乗りを達成。西門に日章旗が翻る。第3大隊平大隊の殊勲。

12月02日 第3大隊により午前9時30分西門を工兵隊により破壊し入城。連隊主力は午前10時入城。
        第2大隊は吊鐘山占拠。連隊は吊鐘山に集結。軍旗奉拝。江陰城占拠。万歳三唱。
        新聞社の写真班により撮影。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 連隊本部は移動。侍従武官差遣さされ栄誉を受ける。小行李(*5)部隊等着。
12月04日 各部隊へ電話架設。日課の定例が伝達される。
        起床午前7時、点呼7時10分、朝食8時、会報診断10時、中食正午、夕食午後5時、夕刻点呼7時。

12月05日 晴。休養。4名で砲台見学。惨状より揚子江を望む。望郷念。
12月06日 午前8時、吊鐘山南麓で聖旨。午後出発準備。夜手紙を出す。
        小包みを受け取り上海へ不要機材を送り返す。昼頃無電で、南京陥落の報を受け、
        各場所で万歳の歓声が上がる。

12月07日 常州より鎭江へ向け行軍開始。江陰城正門より四叉路に至。行軍7里半(約30km)で本道側の
        一に宿営。夜第101師団により鎭江陥落と聞く。

12月08日 午前7時、尨窟鎭発。午前9時半常州着。夏野鎭午後5時着、午後9時30分、石橋湾着。
        昨日鎭江は午後3時陥落とのこと。

12月09日 午後8時発。殿となり落伍者を補足して同行する。牛に載って行軍。午後6時20分、本部に合流。
12月10日 午前8時発。鎭江に午後4時半頃着。大きな市街。宿舎は二階建ての洋館でよい。
        蓄音機、オルガンなど物資豊富。電灯も付き上陸後初めての宿舎。

12月11日 午前11時発。炭渚鎭まで旅団から電線架設する。丘の上の炭渚鎭蚕種製造場に宿営。
12月12日 午前7時起床。竹林の上空が明るくなる。桑畑の葉は枯れている。午後5時発。
        師団は南京攻略へ行軍開始。午後10時倉頭鎭に大休止。

12月13日 棲霞山に於いて第5有線班は分午村への電話架設。南京攻略戦は有利に展開で、
        3個師団城内進入し敵を掃討中と友軍機による通信。旅団司令部は前方へ移動する。
        残敵との交戦ある。

12月14日 未明、敵支那軍の工兵大尉を鹵獲。聯隊本部午前5時発。午後1時40分、敗残兵1名銃殺
        第1大隊は1万4千余人の捕虜を路上に監視。午後4時、南京城壁1km手前で支那軍大尉を斬殺
        午後6時40分頃、聯隊本部が到着する。

12月15日 午前9時朝食。午前10頃より徴発。何も無し。唐詩三百種の書籍1冊を持ち帰る。
        揚子江岸に捕虜の銃殺を見聞。30、40名毎に行う。

12月16日 東京日日新聞社の記者からの托便で知人からの手紙を貰う。
12月17日 午前8時、南京城へ向け発。午前9時30分、和平門より入城。入城式参加。
        午後2時20分国民政府楼上に国旗掲揚を見る。万歳三唱。軍事郵便局で葉書を出す。

12月18日 通信班数名と下関へ通じる線路を偵察。乗馬と自転車、徒歩。
        碇泊司令部に電話の架線を敷設する目的。

12月19日 連隊は揚子江を渡河し冬営の為、明日20日出発予定。
        南京城内で木炭製造の為のノコギリと斧の調達の命を受け、10名で南京城内へ。
        難民区で難民の売る平たいパンのような物と天ぷらを買って食べる。
        南方へ進み、良さそうな建物があり入ると炒飯を馳走してもらうもてなしを受ける。
        もの凄く美味しい。午後2時自動車で帰営。

12月20日 午後9時発。電話配線を徴発。聯隊本部は既に渡河。午後2時、浦口鎭着。煙草一箱400円もする。


 

【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、当初からの参戦組で、電話架設部隊であり司令部に出入りし、情報に接し安かった人物と言う事も判る。通常戦闘や鹵獲した敵兵の殺害などをこなしている。《A》の前日の江陰城を陥落後は、大きな激戦も無く、軽微な敗残兵との交戦に変化している。
この人物の記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
留意点としては、どうも【小説家・詩人】が志望だったようで、『耕人』という雑誌に自作を投稿したりしている。その為か文学的表現や若干誇張があると思われる様な記述がある。後の小説・詩の題材にと考えて居られて居るようにも感じられ、臨場感を伝える為の【弾が耳をかすめる】が好きなフレーズだったようである。実際に激戦だったので事実ではあったとは考える。12月6日には【南京陥落】という【誤情報】が伝わっているなど、【正確な情報】が伝わるのが難しい状況だったかが判る。
10月6日に支那人の女性と子供が銃殺となっているが、【理由】が不明確な為、どういう状況か判らない。10月8日にも支那人女性の遺体を見つけている。同日、見つけた支那人男女および子供を殺害したと言う事は書かれてないことか等を考えると、6日の銃殺には【理由】があるとも考えられる。11月6日には7名を斬首で殺害、11月9日も女性2名と子供1名が刺殺されている。これを不当な行為というには、国際法の知識やもっと詳しい情報が必要になるのは言うまでもない。この人物も11月20日には初めて鹵獲した敗残兵を斬首している。その他には荷役以外には銃・斬首で殺害している。この時平静だったとしているが、人を殺傷して平静でいられる訳もなく虚勢と文学的脚色だろうと想像する。12月14日の未明に鹵獲した敵支那軍工兵部隊大尉の斬首は、他の1万4千を捕虜としているにも拘わらず処刑したのは問題があるのではないかと考える。想像では大尉からの【助命】の拒否があったとも言えるが、情報不足では何と言えないが【問題】はあると考える。
なお、幕府山に関しては、17日は、司令部に居るにもかかわらず何事にも触れていないし、16日の火災にも触れていないし、魚雷衛近くでの殺害の件は、30〜40名毎の銃殺で有ることを【目撃】としている点である。この殺害方法であるならば、他の日記からも考えると【300〜400名】ぐらいしか処刑できなかったのではないかとも考えられる。興味深い記述である。
12月19日の城内への調達の際には、城内南方での建物での炒飯のもてなしは支那人によるものと考えられ、城内南方面でも【宣教師】たちが【流布】した城内の様子とは趣を異にしている。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*7)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この堀越という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*8)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。ハーバード学派などの様な【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この日記では、棲霞山近辺で電話線架設と交戦があったことを12月13日に記述しているが、特に大きな交戦があったことも、大規模徴発を行ったという記述がない。BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)濾過ポンプ機材を搭載した荷車の事か?
(*3)通信筒 wiki 【Link】
(*4)『耕人』 【Link】
(*6)小行李 銃弾などの補充物資の事。【Link】
(*7)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*8)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】



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