エリザベス・ロフタス【記憶が語るフィクション】

2020年04月07日 22時26分33秒 | 日記

エリザベス・ロフタス【記憶が語るフィクション】

******* https://youtu.be/PB2OegI6wvI *******

 

字幕で【日本語】にすると、自動翻訳ではない翻訳者の方が約されたテキストが出ます。
是非、是非ご覧頂けますよう何とぞお願い申し上げます。

是非とも、皆様には、このエリザベス・ロフタス女史の【講演動画】を見て頂きたいものです。
直接映像とは関係が無いのですが、戦後の日本の近代史において、【オーラルヒストリー】を使った悪質な【偽記憶】による教育・宣伝されてきた経緯があるからです。
典型的な例は、言うまでもありませんが、南京事件従軍慰安婦を含めた日本軍のWW2などの戦史であると考えます。
【加害史観】では【記憶】からの【証言】又は【回想】が【主流】であり、被害者を装う中国や朝鮮半島の人物の戦後の【証言】が【信用】されて件でされ続けてきました。全く関係の無い【差別】などという【ポリコレ】と結びつけられて、【疑いを持つことも】【悪い】とされるような、状況であると考えます。
【歴史修正主義】などとレッテルを貼りつけて【研究】を後退させるよりも、【学際的】に他の分野の【研究】も考慮しつつ、見直すことこそ【学問的研究】【科学】と呼べるのではないかと考えます。

【記憶】はアテにはなりませんし、インタビュアーの質問によっては、【記憶】は変わると言う事も判っています。これは【心理実見】を通した【科学】であって、【加害史観】などという【政治的目的意識】とは全く異なる【科学】です。
日常生活で、報道機関やその他身近な方からの情報次第によっては【現実】や【事実】とは異なった【認識】を持つと言うことにもほかなりません。

最近では、IPS細胞研究の山中伸弥教授が、その提言の中で、中華人民共和国のプロパガンダに乗って居られますが、列車事故で犠牲者の生死も判らぬまま埋めようとしたり、ウイグルでの収容所などの【文化】を持つ国家体制と言う事や、そもそも放置して世界に拡散させたのは何処の何奴だ【中華人民共和国】ではないかと言うことを思い出して頂けたら良かったと心から思う次第です。


南京事件FQAのための小野賢二収集日記の分析まとめ

2020年04月07日 10時50分40秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】

この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
手初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。
書籍に掲載の人物の内容を要約しつつ、分析を試みてみた結果としては、

【一般人】が【中規模】【小規模】で【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、
一切記述にないのは言う迄もない。

今回の目的は、【幕府山】という【ケース】ではなく、あくまでも笠原十九司先生の【定義】の【12月3日、4日ぐらい】からの【期間・エリア】で、【南京城外】又は【南京郊外】に【大量の非戦闘員が居たのか】という点を明らかにするつもりで、中国側の主張での揚子江沿いでの犠牲者数の主張を次に列記すると、

燕子磯(12月中)5万余人
幕府山・草鞋峡(12月13日)5万7千余人
魚雷衛・宝塔橋街(12月15日夜)3万9千余人
煤炭碼頭(12月17日)3千余人
下関電灯廠43名(蒋介石軍空爆の2名を省く)
合計約15万を越える数値。

なお、紅卍字会の埋葬記録の下関周辺の数値は、2万4千余名である。

上の数値を念頭に置いて揚子江沿いを進軍した第13師団の日記としている資料から調べてみた。南京事件FQAサイトの【主張】であるため、【城外】にこそ【中・小規模】ながらも【殺害】があり、総計すると【大人数】の【殺害】があったと【立証】出来うるような【史料】を探したわけであるが、小野賢二氏の収集した日記類に目を通した所、人は数ヶ所で、確かに鎭江の附近で、街に戻ろうとする農夫や、寺院らしき所に避難していた200〜300程度の避難民、場所は不明だが悲惨な避難民の状況を目撃したり、部隊に雇われて荷役をこなす支那人達の姿はあるが、各に入って、【幕府山】を除いて【民】を【殲滅】を【詳述】している人物は居無い。確かに上海周辺、江陰城周辺での戦闘経過で【非戦闘員】らしき【男女】や【子供】や【殺害】や【遺体】を記している人物も居るには居るが、乳児の母親を戦闘行為以外で殺傷したり、ましてや乳児を戦闘行為以外で殺傷したりしたという記述は存在しない。
行軍中で鹵獲した敵兵を戦闘継続中に【斬首】という【処刑】方法が、現代から見れば【適切】であったかどうかは、不明であるが【戦闘行為】に於いて、【処刑方法】に【刀剣使用】が【不可】ではない以上は、当時の兵卒個人の武威を見せたいという欲求からの虚栄心の表れであるとしても、賢いとは到底言えないが【適切範囲】と言えるとは考えられる。当然の事ながらBBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。
この人物は、当時の一次史料として、ドイツの外交文書(*2)に見られるのだが、何故かジョン・マギー牧師(南京国際赤十字委員会委員長・南京安全区国際委員会委員)に陳情した中国人側の主張がある。
内容的には、龍潭鎭・東陽鎮から中山門までの約30kmにある全部落の被害報告で、全部落としながらも何故か8だけしか記名されていない不思議な陳述書である。

梅牡村   3名
胡郷村   25名
華蘇村    5名
夏方興村  3名
夏三耀村  3名
陳康村    5名
高塞村    3名
西山鎭    2名

合計49名である。

戦闘がほぼ終了した1938年1月15日以降の殺害もちらほらあるが、約30km間の数が8だけとは思えないし、【非道な日本軍】による【殺害】を証明する割りには、人数がかなり少ないようである。基本的に場所が不明であり位置が特定されているのか不明で、犯行を行った日本軍部隊も不明で、その【根拠】と成り得る【資料】を残しているかというと、全く存在していない。これは検証しようにも検証のしよう無いことを主張して一方的に日本軍の行為としていることに外ならない。この龍潭鎭・東陽陳は第65連隊の進軍ルートに沿っているが、南京陥落後の22日迄は揚子江を渡河して徐州の椒全鎭警備の任に就いているので無関係なのは明らかである。
各日記の所でも書いたが、結論的には、第65連隊の揚子江沿いのルートに於ける部隊の行動に於いてみられる【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。【中小規模】が具体的数値がどれくらいなのか判らないが、数百名が各に存在するとも【数百名を殺害】したとも書いていない。
ドイツ外交官文書は、鎭江以降であり、日記中の行軍では、【敵意】よりも寧ろ【親和的な態度】であり、日本軍側も割りと良い賃金で荷役などとして雇用などして、地元経済の復興に一役買っている。徴発に於いては、住民不在のエリアでの物資調達以外は、購入であったようであり。【略奪】をしてさらに【殺害】をしたという行為が書かれているわけではない。無人エリアでの無人なのを良いことに【泥棒】という感じであろうか。これも日本軍の防衛戦ではなく、積極的敵地エリアでの糧秣の配送方法と携帯糧秣の品質の悪さから来るものであることは明白である。軍事遂行に於ける【責任】と言えばそこに在るとは考える。
第65連隊と第104連隊を率いた山田栴二旅団長の日記には、南京戦後揚子江を渡河後、暫く余裕が出来たことで少しふり返って、軍の状況を書いている所があり、①予後備兵のだらしなさなどは、急ごしらえの招集で訓練等々も余裕がなかっただけの事であり、②徴発の問題等は、給養物資の配送の実務面(連絡が取れない=>通信機材の性能と量、路面の状況で進捗難航=>運搬方法の未熟、軍用車両などの不足、食糧面=>レーションの品質)の問題やそれに伴う逼迫によるもので、それの問題提起と考えられる。これは何を表しているかというのは、【計画的軍事行動】ではなく【無計画・偶発的軍事行動】で、【侵略史観】で言う所の全く異なる事を表している。それ故に山田旅団長が、兵にそれを押しつけて居るわけではないと考える。12月15日の記述で、【皆殺セトノコトナリ】とあるが、直ぐに続けて【各隊食糧ナク困却ス】とあるので、命令を受けたと言うよりも【待機】又は【自分たちで何とかせよ】の【指示】で在ったのではと考えられる。第3大隊の第3小隊長の【天野少尉】が得た鹵獲中の【捕虜達】の代表者からの【嘆願書】が山田旅団長や両角聯隊長に手渡っていたのか、両者の日記や回想録には存在しないが、実見ないしは情報を認知していたら【処刑】というような【非情手段】がとれるとは考えにくい。
話が逸れてしまったが、【幕府山】は、第65聯隊長の両角大佐の【一般人】が居たので【解放】という話もあるが、【解放】という【作業】が行われた様には第1大隊にも書かれていないし、その他の部隊員の記述も見られない。後で書くが【回想】自体がそもそも【史料価値】が低い物と考えられるので【蓋然性】は低いと考えられる。斎藤次郎の日記による【雑多な服装】で【兵士】とは思われぬ様な【姿】は、【捕虜】ととして【資格無き】とも考えられるが、アサヒグラフの画像を見る限りでは、【徽章未着用】とまではいかない感じである。そして飽く迄この【画像】からだけだが、【一般人】の存在は考えられない。
今回は、幕府山がテーマではないので、この辺ぐらいにする。
1937年の南京攻略戦前後の南京事件の【殺害場所】として、【主舞台】として【城外】とされている。問題としては、①【降伏した捕虜】の【処刑】と、【非戦闘員】である②【城内から連行された非戦闘員】および③【城外での居住者】の【処刑】および【殺害】の3パターンが上げられる。
①は主に下関エリアや江東門、漢中門、太平門、雨花門、草鞋峡の魚雷営、幕府山が主でほぼ【戦闘員】と考えられる。②は、城内での安全区へ逃げこんだ【便衣】となり【民間人】にまぎれて混んだ状態の【兵士】の【選別】での【非戦闘員】を誤って【選別】してし【処刑】した事が【問題】かどうかだが、当時の【安全区】は14日の段階で、域内からの攻撃があり中立性はなく、そもそも中立地帯として日本軍は尊重しただけで【認めていた】訳ではない場所である。【便衣】は、【民間人】との区別が無くなる為、【非人道行為】で【陸戦法規違反】である。故に強行規範的に日本軍の【安全】・【治安回復】のために、【民間人】が【犠牲】になったとしても、当時の軍事的な考え方では、少々強引な【選別】は許容範囲と考えられる。
ただし、下関エリアへ連行された鹵獲された敗残兵とみなされた者が、【全て処刑】されたという記録は明確ではない。紅卍字会の12月28日水葬にしたという下関江辺推下江内(下関には江辺駅があるが、その周辺かどうか不明。)での約6千名がそれという確証はない。それより以前に水葬にされたのが碇泊部の梶谷健郎日記に見られるような16日、17日の合計4千名程の【夜】の処刑、数日後の戦場掃除があるが1千とあり、残りの3千は勝手に流れたとでも言うのであろうか。4千名というのも個人の曖昧な数値で、正確にカウントされた数値では無い。そもそも13日に到達した33連隊によって下関周辺の揚子江沿いで掃蕩されて揚子江に遺棄された水中の支那兵の遺体はどこへ行ったというのか不明である。
そもそも【選別】された内に【兵卒】も居たことは間違えなく、そもそも【学生】や【女性】、【子供】が【戦闘員】として存在する中、上海で敗戦後の兵卒が不足する中の籠城戦の南京で【兵卒適齢期】の【男子】が【非戦闘員】として、しかも【避難民】として【存在】する事が、許されていたかということには疑問の余地がある。
また、ラーベの日記には、支那軍軍には【避難民】を【人間の盾】(*3)にする意図を表したことに怒りを表明した記述もある。この記述から、蒋介石や中国軍にとって、【国民保護】【住民保護】という意識は全く無いことがわかる。
今回の検証は、③が廠目的で今回の史料の【期間・エリア】からは、【中・小規模】の数量の【民間人】の【記述】は存在しなかったし、【殺害】したという記録も無かった。
基本的に【記憶】による【回想記】や【証言】などの【資料】は、【記憶】というが【時間の経過】と共に【忘却】するものであると言う事と、【後日】に【書き換え】や【追加】が起こってしまうということは、【目撃証言】や【記憶】からの【冤罪】を防ぐことを目的とした米国の研究者(エリザベス・ロフタス教授)グループなどの研究からも明らかであり、又米国のあるプロジェクトの研究で、【冤罪】が後にDNA鑑定【精度向上】などで【無罪】が確定した300名の人物を対象にした調査で、4分の3が【有罪判決】の【決定の主要因】が【誤った目撃証言】によるものだったという研究結果(*4)がある。つまり225名の人物が【虚偽の目撃証言】で【冤罪】となったと言う事になる。


(出典:ロフタス女史の講演会からの映像より)

この様に【回想】からの【記録物】は、【蓋然性】の高・低からは、低い物と考えるので、両角大佐の回想に於ける非戦闘員が交じっていた、【解放】した等という【回想】は【価値が低い】と考える。と同時に、中国側の【史料】と称するものは、ほぼ蒋介石国民党との内戦に勝利した中華人民共和国による収集した1949年以降のものであり、1937年の南京陥落後直後ですら【現場検証】等の【証拠】を抑える【残されていない】し、後の蒋介石と毛沢東共産党との戦争被害や文革などを経て当時の南京戦体験者がどれぐらい生存したのかや南京から離散したかも不明であり、少なくとも10年以上も経過していることを考えれば、詳細を知る方も日々の生活の立て直しなどを考慮すれば、【記憶】は薄れるものと考えられる。1970年代の朝日新聞の本多勝一氏の取材内容のように【共産主義】のイデオロギーからの【政治的】名【抗日史観】が十分【入っている】ことを【考慮】すれば、当然ながら、中国側の【史料】が【客観的】【科学的】【学術的】であると言い難く、これも又全く【価値が極めて低い】と言える
では、それ以前の東京裁判資料はどうかというと、中国側の証言者などの証言内容と実地による見聞が、弁護側による検証作業もないまま、つまり【公平性】を担保せずに【裁判官】が【恣意的】に【有罪】にした事は明らかなので、これも【立証】のための【史料】としては【価値が低い】と考える。

東京裁判で、李滌生という人物の出した供述書では、北京路にて付近居住住民50〜60名を査問工作として集め住居の二階から見える【虎踞関】で全て殺害とあるが、図2から北京路(ピンク系の色の線)を北平路と考えると陰陽営の北側を東西に延びる路面ととらえると、図1の様に【寧海路】と交叉する。当時寧海路では、16師団の佐々木支隊による【安居証の登録】が行われていて、多くの支那人が【寧海路】に溢れていたのは、東宝の記録ニュース映画『南京』(ホワイトプロパガンダではあるが)(*5)に見られる【良民証】を得る為に集まった多くの列を成す人々をみれば、その中を日本軍が住民を引き連れて歩いて行った等と言うことはあり得ず、又李滌生の自宅の2階から【虎踞関】が見えるのかの検証資料も残されていない。こういう風に当時の裁判が、公正ではないという事を示している一例である。


図1


図2


(寧海路に並ぶ支那人男性 出典:東宝ニュース映画『南京』)

又近代史を見る際には、【戦時宣伝】という物を抜きにしては語れない。敵対国及び他国との交渉で道徳的に相手の上に立ちを有利に進めたりする目的で使われる。戦時中は同盟国を増やす目的、例えばWW1では、イギリスはアメリカを戦場に引き出すことに成功し、支那事変ではソ連と中国が米国のみならず英国やその他欧州の国々までも対日戦に引っ張り込んでWW2を惹き起こしたことは有名な事例である。又、WW1では、ドイツは英・仏の宣伝ビラによって皇帝政権と戦場の兵士の間の離間に成功し、ドイツ軍有利な戦況をひっくり返した例もある。
また、日記というものは、本来他人に見せる為のものでもなく、表現も主観が入らざるを得ない。客観的に見ているつもりでも、表現する段階で、他者を意識したものでは無く【伝える目的】ではないので、【真実】と言うよりも、いい加減な表現になることは避けられないと考えられるので読む際は考慮が必要である。

いつもの通り余談が増えてしまった。まだ考察の途中であり、他の軍の経路からの考察も控えている。
今回はこの辺にするとしよう。


雨で泥濘化した難路に、行軍難航の様子。

(出典:アサヒグラフ 第29巻第18号 昭和12年11月3日 P.16〜17)

 


【当方ブログの小野賢二収集日記類の分析記事】


1[斎藤次郎]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/fe316137662c2b70a3211d40bc16ffb1


2[堀越文男]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/bc9209e520cd38bbc825eef1a107abeb


3[遠藤重太郎]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/72d83349fdfe6bab040200b2e69dc429

4[伊藤喜八]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/cfc4f88e4de2c1af61259aff7436b24c

5[中野政夫]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/fe6253ff4966e27103a951a88c1bbb90

6[宮本省吾]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/98d5c2d3ee755dac6ee5cf108da8ca5e

7[杉内俊雄]陣中日誌
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/baf8e93094ca9f6a30bd1bd67f40fd55

8[柳沼和也]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/af27c2c7c0358e4fac7ecb05c49e3470

9[新妻富雄]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/45a9da358d509af890e037e8b791dad0

10 大寺隆 陣中日記録
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/8e5e273c98c6552e90fa6c4ca34c53ea

11 [遠藤高明]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/de478e193b484d5068ca97c2e3d55d14

12 [本間正勝]戦斗日誌
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/9b4938d4929956a1dd3221b74a10d371

13 天野三郎軍事郵便(手紙)
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/179021a45b53b6a7d49536b20c55b9f8

14 [大内利己]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/4d1e44e8cd0922bfd2e2379bc32f9cf7

15 [高橋光夫]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/a362c5942803a166795b5b29191d2607

16 [菅野嘉雄]陣中メモ
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/089a06e5321bb30cdc7d43e44864fb8b

17 [近藤栄四郎]出征日誌
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/a4bb71cf3be79434a017c7680b202343

18 [黒須忠信]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/c3524ce167331797cf7a9f2713cad961

19 [目黒福治]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/993bf008fa257c360b1f3cc25f8ca637

1937年の南京攻略戦前後と【歴史修正主義】
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/79cbc4a5d6b5a427e306ce6a6b287e4a

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)石田勇治、笠原十九司、吉田 裕共著『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 大月書店 2001年3月 P.196〜204 【Link】
(*3)ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴイッケルト編集、平野卿子翻訳『南京の真実』 講談社文庫 2000年9月13日 P.83〜85 【Link】
(*4)エリザベス・ロフタス:記憶が語るフィクション 【Link】
(*5)東宝ニュース映画 『南京』 時間1:36:00  【Link】