:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-1)

2013-01-02 11:37:42 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-1)

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 写真アルバム風のブログは、書く方も頭を使わずサラリと書ける分だけ、読むほうも軽く流せていい代わり、すぐ飽きも来るのでしょう。そのことは、続けるとたちまちアクセス数が伸びなくなるのでよくわかります。ミルクはこの辺にして、生えかけの乳歯に心地よい固さのビスケットは如何かなと思いまして、「ローマでの老老介護」のテーマは次回に先送りして、上のテーマといたしました。

 

3階にある私の居住空間には 同じサイズの窓が二つあります

一つは居間兼寝室の書き机の正面に もう一つはシャワー・トイレ・洗面台の小部屋にあります

窓の向こうの糸杉の木はまだあと5メートル以上も高かったのですが 植木屋さんが

私の目の高さでバッサリ切ってしまいました

お蔭で 晴れた日には 雪のアペニン山脈が途切れずに見渡せるようになりました

時たま手慰みに吹くフルートの聞き手は 私の同居人 ヒヤシンスと3個のミニカクくタスです


 

おしゃべりなスズメたちは 高いところがめっぽうお気に入りのようで

朝から 一日中 うるさいこと うるさいこと 糸杉を切った植木屋さんを恨んでいます

以前には5メートル上で チュンチュン シリシリ お喋りしていたのだろうのに


さてと、

 カトリック教会がプロテスタント化するという言い方は、お堅いカトリック信者さんの中には、ザラッと神経を逆なでされたような気分になる方もおられるかもしれませんが、そこはちょっと我慢して読んで下さい。

 ヨーロッパ中世末期16世紀(その頃も教会は時代の変化への適応が遅れて混迷していた)の宗教改革の結果、プロテスタント教会は独身司祭制度を撤廃し、ミサや告白(懺悔)などを中心に司祭が特権的に仕切ってきた諸々の儀式(秘跡)を廃して、聖書を専らの信仰のよりどころに、妻帯者牧師の説教を中心とした集会・礼拝と、個人的な祈りを通しての神との直接の交わりに信仰生活の重点を移しました。

 それから4‐5世紀、カトリック教会はプロテスタント教会への対抗上、独身司祭が執り行う7つの秘跡(儀式)に固執して教会を支えてきたのですが、近年この「儀式」をとり仕切る司祭不足の深刻化という現実に押されて、ミサや告白などのいわゆる「秘跡」を教会ごとに維持することが困難になってきました。

 それで、心ならずも教会の一部閉鎖を含む統廃合を進めるのですが、それでも司祭の絶対数の急速な減少に追いつかないとあって、司祭が来られない日曜日の「祭儀」を、既婚者の信徒の指導に委ねる聖書中心の礼拝にシフトし始めました。カトリック教会ではそれを新造語の「み言葉の祭儀」と呼びますが、その内容はプロテスタント教会の礼拝と変わるところがなく、むしろ説教に習熟し専門職化した牧師を持たない分だけ、より貧しい内容にとどまっているのが現状です。


二日前に花開き始めたヒヤシンス いま甘い香りを私の部屋に惜しみなく振りまいています


 また、プロテスタントの教会は1牧師1教会が原則なのに対して、カトリック教会の新しい「共同司牧方針」は、例えば、5-6か所の教会ごとにブロック化し、どの教会にも敢えて専住神父を置かず、2-3人の司祭のグループが共同で手分けして巡回し、ケアーする方針を導入しました。その結果、「共同責任体制」とは耳触りのいい言葉ですが、実質的には責任の所在が不明確な「無責任体制」に陥っています。これは、400年の経験から生まれたプロテスタント教会の安定した状態にはるかに劣る、混沌とした流動的で不安定な体制と言わざるを得ません。

 そう言えば、私が日本に帰国するときに住む信州・野尻湖の国際村(元来はプロテスタントの牧師村)の人口動態を見ていると、明治以来日本でいい活動をしてきたプロテスタント教会の中には、後継者不足と本国からの支援資金不足で、日本での宣教活動を断念して教団ごと撤退したプロテスタントの宗派もあるようです。背景理由はカトリックと同じ、世俗化と少子化でしょう。

 特に、カトリック教会では、社会の「世俗化」と、その波に呑み込まれたカトリック家庭の「少子化」の煽りを食って、第一世界では一家庭に男の子がいる可能性は平均で65パーセントにすぎないのが実情です。家督を継ぎ、親の老後を見る男の子がいる幸運な家庭の割合がここまで減ると、その貴重な子宝の男子を、終生独身の神父として神にささげようなどという奇特な考えが心に浮かぶほど信仰篤い親がほとんどいなくなるのも当たり前でしょう。また、子供にしても、家を棄て、親を棄てて、生涯を独身を守って自分を神に捧げようという発想法を持つ若者がめったにいなくなるのもこれまた自然の流れです。

 例えば、私が神戸のカトリックミッションスクール(男子校)を卒業したころ(つまり1950年代の終わりごろ)には、135人の同期卒業生の内、洗礼を受けたものは30人以上、神父への道を志したものは確か私を含めて4人(ひょっとして5人だったかな?)もいました。それが、その後僅か10年もしないうちに、キリスト教伝道の場としての「ミッションスクール」から、父兄の要望に押されて「一流大学受験予備校」へと路線を変更した結果、東大入学生の数が増えたのに反比例して、洗礼を受ける生徒数も、まして司祭職を志すものの数も、限りなくゼロに近づいたのは全く驚くに値しません。信仰の熱気に支えられていたミッションスクールが、「世俗化」の毒を食らって死んだ哀れな骸(むくろ)の姿です。

 その結果、司祭を養成する神学校にも閑古鳥が鳴き、新しい若い神父がほとんど育たなくなった中で、司祭たちの平均年齢は日々確実に上昇し、引退と死亡でその数も目に見えて減りつつあります。このままでは今の体制はあと10年と持たないでしょう。しかも、これは何も日本に限った現象ではなく、世界中同じで、ここローマも例外ではありません。教会のムードは沈滞し、宣教の熱意は冷め、親の無関心から子供たちに信仰は伝わらず、教会はこの2000年間かつて経験したことのない重大な危機に直面しています。

 かてて加えて、数の上でカトリック王国を誇っていたブラジルなどでは、極端な司祭不足と信仰教育の欠如のために、信者は程度の低い幼稚な信心がせいぜいで、その間隙をぬって、アメリカ発のプロテスタント系大衆伝道(いわゆるメガチャーチ)の波が襲いかかり、御利益を餌に、年間数百万人単位でカトリック信者を取り込んでいる始末です。これなども、ラディカルなカトリックのプロテスタント化に数えていいでしょう。

 全ては神聖なものに対する価値観を見失った社会の「世俗化」のなせるわざで、その世界的浸透と「グローバル化」は今なお止まるところを知りません。

 しかし、カトリック教会がプロテスタント化することは、単なる伝統とアイデンティティーの喪失以外の何ものでもなく、問題の本当の解決にはなりません。


    

鉢の直径5.5センチのミニカクタスは 私の部屋の大切な同居人たち


 幸い、教会は、いつの時代にも古い体制が新しい時代に適応できなくなって衰退に向かうとき、「聖霊」とカトリック教会が呼ぶ神の霊の働きによって、常に新しいカリスマが芽生え、時代の要請にこたえる形で教会を刷新してきました。12世紀のアシジのフランシスコによる刷新もそうでした。今の時代は、それ以上の規模の刷新が必要ではないでしょうか。

 今、教会には歴代の教皇様たちの熱い期待を担い、その手厚い保護のもとに、夫婦関係の有り方、家庭生活のあり方を根本から問い直し、時代の風潮に逆らって、信仰故に多くの困難と犠牲を受け入れながら子沢山の大家族を営み、司祭職を希望する多くの若者を輩出する革命的なカリスマが育ちつつあります。これこそ、明日の教会の希望の星ではないでしょうか。次回は、カトリック教会のプロテスタント化のもっと積極的な面に光を当てたいと思います。

(つづく)

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2 コメント

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Unknown (ジュリアテレジア)
2013-01-06 09:45:06
神父様。
プロテスタント化というのは信条のことではなくて、そういうことなんですね。召命はそのまま独身を意味しますから受諾は本当に難しい。強制できない。

自分が召命にこたえられるわけではなく、息子にも信仰を伝えていない私にできることがあるのでしょうか。
申し訳ないと思います。
Unknown (使徒ヨハネ)
2017-03-07 22:02:23
司祭の召命が少なくとも、聖モンフォールがいう聖母の使徒たちは確実にいると思う。
今は隠れてはいるが、きっとその時が来たら出てくると思う。
司祭たちは、召命の心配をするのではなく、自分たちの羊たちの霊魂の心配をしてほしいと願う。

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