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立花隆の臨死体験
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野尻湖の山荘に居ると私は新聞を読まない。しかし、昨日は何故か手元に新聞があった。夕食後はテレビでも見ようかと番組欄に目を通したが、面白そうなものは何もなかった。いや、正確にいうと「どうせ面白くないだろう」と思うのが一つあった。
それで、テレビをやめて、メールチェックと返信のためにパソコンを開いた。しかし、「どれぐらい面白くないか、一応チェックしておこうか」と思い直して、テレビのスイッチを入れた。番組はもう始まっていた。
立花隆がNHKの特集番組で「臨死体験」について語るのは20年ぶりだそうだ。その間に何か進歩があっただろうか?という興味はあった。
私の批判は、ジャーナリスト立花氏は、「臨死体験」という言葉を使いながら、あたかも「死後の世界」を垣間見てきた人の体験を聞くような錯覚に人を誘う点で、そんなの「いかさま」ではないか、というものだ。ジャーナリストは、自分の使う言葉に対してストイックなまでに忠実でなければならない。そこに、誘導や、すり替えや、ごまかしがあってはならない。
「臨死体験」とは、「死」という厳粛な一線に限りなく近づいた人の「生の側」における体験のことであって、決してその一線を越えてその向こう側に踏み込んで、死後の世界を垣間見てきた人の体験ではない、ということをはっきりと断ってから話を進めるべきものである。
かつて立花隆の「臨死体験」がもてはやされた背景には、「死に限りなく近づいた人が生の側において体験すること」と、「死の一線を越えて彼岸=死後の世界=で体験したこと」を語ること、との区別を意図的に曖昧にして、あるいは読者が期待を込めて混同する余地が残るように誘導する作為がなかったかを問いたい。
朝日新聞のテレビ欄に踊る
NHKスペシャル
臨死体験の謎に迫る・
死ぬとき心はどうなるか
先端科学が挑む“死”
▽立花隆が徹底取材!
▽体外離脱を自ら検証
神秘体験生む脳の働き
という一連のキャッチフレーズは、確かに「死後の世界の見聞記」とは言っていない点で、嘘はない。しかし、死後人はどうなるのか、という人類普遍の関心、疑問をくすぐり、それにあたかも答えやヒントが得られるのではないかという期待を掻き立てる「未必の故意」を嗅ぎ分けるのは私一人だろうか。いま朝日新聞が袋叩きにあっているが、NHKの上のキャッチフレーズの中に、同じ意味の「未必の故意」は潜んでいないのだろうか。
「皆さん!気を付けてください、間違わないでください!今から話すことは、あくまでも人間が死に限りなく近づいたときどういうことになるかの体験、極限状態にある生の体験であって、死の一線を踏み越えて死後の世界を覗いてきて、同じ死の一線をまたいで再びこの生の世界に生還した人の体験談ではありません。」と最初に注意を促さなかったところに、私は「未必の故意」を感じ取り、ジャーナリスト立花の人気とNHKの姿勢を胡散臭く思ったものだった。
立花隆氏はいま74歳だというから、私と同じ1939年生まれだろうか。私と同じく短躯で肥満で、癌を患っているそうだ。今回の放送で、「ああ、彼もずいぶん謙虚になってきたな」という印象を受けた。テレビの中の彼はこの写真よりもう少し老けて見えた。
それにしても、人間の意識の世界まではいいが、心、精神、魂の領域を、相変わらず脳の生理や機能や電気的反応の中に捜そうとする手法には、進歩がないと思った。人間の心を語り、死後の存在を語りながら、マウスの脳みそに電極を差し込んで観察するなどは、まるで蝶を水の中に探し、魚を雲の上に求めるようなものではないか。その意味で、番組の内容に新しみはなかった。
NHKは彼を「哲学者」と持ち上げているが、それはNHKが「哲学」と「哲学者」のなんであるか理解していないことを告白したようなものだ。人間の魂、その不滅性、死後の世界、等々について語る分野は、「哲学」でもあるが、それは優れて「宗教」の領域であり、厳密には「神学」の世界の問題であることを忘れてはいけない。
それで、どんな反響になるか、無関心ではいられなかった。そこへ、私が尊敬している出版界の重鎮の女性社長さんだった方から、同番組について「立花隆、見始めてすぐにばからしくなってやめました。」というメールをいただいた。ご自身でNHKの番組を見て、そのあと私のブログを読んで、思わず漏らされた感想でした。私と同じ意見の方からのコンタクトに、励まされた次第です。
浮ついている心にブログ拝見致し、緊張感が走ります。
若く未来の夢をたくさん描いているであろう彼女に手術が成功しますように,、、、
T.A.