:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ アジアのための「レデンプトーリス・マーテル」神学院の「誤解」を解く(その-2)

2019-03-12 00:05:00 | ★ 新求道共同体

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アジアのための「レデンプトーリス・マーテル」神学院

の「誤解」を解く(その-2

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私はあるシスターから「福音宣教省長官のフィローニ枢機卿はネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者として良く知られている」と言われるが、あなたはどう思われるか、と聞かれた。

そこで私は答えた。私はフィローニ枢機卿に何度かお会いして、その人柄に接することができたが、それらの体験から言うと、私は必ずしも彼がネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者だとは思っていない。

フランシスコ教皇と話すフィローニ枢機卿

2008年6月27日付け、バチカン公文書番号が付された書簡で、当時の国務省長官ベルトーネ・タルチジオ枢機卿は次のように述べておられる。

1.      高松の「レデンプトーリス・マーテル」神学院は、教区立の神学院としては閉鎖されますが、この神学院に対する教皇様の父性的配慮を明らかにし、将来この神学院が日本の教会の福音宣教活動に貢献することができるようにとの期待を込めて、その構成員全員をローマの「レデンプトーリス・マーテル」神学院に「同居」するかたちで移転させます。(注:その一環として私もローマに移り住むことになった。) 

(2.3.省略)

4. ローマの「レデンプトーリス・マーテル」神学院に同居するこの神学院は、「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」と呼ばれ、平山元大分司教様を院長に任命することを通して、日本の教会との絆を維持します。(注:私はその平山司教の秘書として彼の手足耳口の奉仕をした。)

(以下省略)

当時、フィローニ枢機卿は国務長官ベルトーネ枢機卿のもとで働いていたから当然この文書の作成にも関わられたわけだが、その後フィローニ枢機卿は福音宣教省の長官となり、日本を含む世界の宣教地の教皇に次ぐ最高の責任者の要職に就かれた。したがって、今や、高松の神学校の経緯の最初から今までのすべてに関り、全てを知っている唯一のバチカン高官と言うことができる。

先のベルトーネ枢機卿の書簡は、高松の神学校のローマへの移転をあくまでも一時的な措置と位置付け、近い将来日本に戻すことを当然の前提とするものであったが、フィローニ枢機卿はバチカンの能吏として、決定されたことは私見を交えず誠実に実行する人ではあるが、リスクを取ってまで自身の意思で行動するタイプの人ではない。

早く日本に帰してほしいという思いから、日本に受け皿を買って出る司教様が現れないのなら、いっそのこと「教皇庁立」の形で帰してくれてはどうかと言う要望に対しても、そのような話な「全く前例がない」ので検討の対象になり得ない、と言う返答しか返ってこなかった。そして、彼がその案を決して上に上げなかったことは想像に難くない。彼の上司と言えば、ベネディクト16世教皇が一人いるだけだが、その老齢の教皇は相応しいタイミングで下から提案が上がってくるのを待つ姿勢を取ったため、ローマに置かれた「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」にはその後10年間、全く進展がなかった。

それが突然、一昨年9月のフィローニ枢機卿の訪日となり、ローマに帰る最後の日の午前に、日本の司教様たちの前で神学校を日本に帰すバチカン側の意向をかなりはっきりと伝えられたと聞いている。私たちにとって、それはまさに晴天の霹靂だった。「前例のないあり得ないこと」として黙殺し続けてきた彼が、自分の判断で「教皇庁立」として日本に戻すなどと言うことは太陽が西から昇っても絶対にあり得ない。だから、彼が「教皇庁立」の案を携えて訪日した背景には、新教皇フランシスコの英断があったとしか考えられない。

教皇フランシスコはバチカンの官僚機構とは無縁の地球の南半球から彗星のように現れた人だ。トランプ大統領と比べるのは不遜の極みだが、共通するところは、旧弊に囚われず自分の創意で決断し、自分から行動に打って出るのを妨げる何の縛りもないと言う点ではないかと思われる。バチカン官僚出身でない彼は自由に物事を決められる。

前教皇から引き継いだ諸懸案を処理していくうちに、ローマで宙に浮いていた日本のレデンプトーリス・マーテル神学院のことが彼の目にとまったのだろう。事実関係の聴取の上、ご自身で即決されたのではないだろうか。

思い返せば、レデンプトーリス・マーテル神学院の第1号をローマ教区立の「宣教神学院」として設立されたのは、聖教皇ヨハネパウロ2世だった。それは預言的だった。その姉妹校はこの30年間に世界に120校以上を数えるが、思い返せば聖教皇の励ましを受けて故深堀司教が1990年に高松に開設したそれは最初期の第7番目だった。いま世界の主要な国でその姉妹校が無いのは日本ぐらいのものだ。

この度、唯一の直属上司であるフランシスコ教皇が責任を取って決断したとあれば、今まで「あり得ない」として自分では否定し続けてきた案であっても、忠実に、最も効果的に実施するのがバチカンの能吏、フィローニ枢機卿の真骨頂だ。

ネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者の枢機卿が、贔屓の引き倒しで職権にものを言わせて「教皇庁立」をでっち上げ、元高松の神学校を強引に東京に持ってきたと言わんばかりのシナリオは、東京にアジアのための宣教の拠点を設置するという第3千年紀の未来を見据えたカトリック教会の画期的な基本計画を一官僚の個人プレーの産物として無理やりに矮小化しようとするものとしては週刊誌的な面白さのあるストーリーかもしれないが、事実からは全くかけ離れた空物語りとしか私には思えない。

現に、先に東京大司教区から出された文書に引用されている福音宣教省長官からの書簡の一節によれば、「福音宣教省はアジアにおける福音宣教の重要性を説く歴代教皇の示唆に学び、同神学院の設立を決定された」とある。つまり、この度の決定はネオカテクメナートの熱烈な信奉者フィローニ枢機卿自身の個人的思い付きではなく、聖教皇ヨハネパウロ2世から教皇ベネディクト16世、そして教皇フランシスコへと3代にまたがる教会の最高牧者の一貫した宣教方針の結果であるということを如実に物語っているのではないだろうか。

特筆すべきことが一つある。閉鎖された高松教区立神学院は、ローマに移されて教皇預かりの「日本のための神学院」になったが、この度東京に上陸するに際して「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」という名を戴いたことだ。これはもはや日本のためだけに限定されないインド以東のアジア全体のための神学院になったということだ。西はローマの「ウルバノ大学」、東は東京の「レデンプトーリス・マーテル」という位置付けの礎石が置かれたと言う意味に私は解している。

さて、フィローニ枢機卿と言う人は、これまでも職務上の必要とあればネオカテクメナートのことを常に公正に処理してきた。それはバチカンの誠実な官僚として当然のことをしたまでのことであって、だからそれをもって彼がネオの熱心な信奉者・擁護者である証拠だと結論づけるのは当を得ていない。

フィローニ枢機卿はネオカテクメナートを正しく評価し、多くの善をおこなわれたことは疑いない。だから、枢機卿の人柄や手腕を過小評価したり、これまでの賢明な問題対処の仕方を批判する理由はいささかもない。前例のないことには敢えて自ら手を染めないと言うのも、彼の権限の範囲ではけだし当然のことだったのだ。

カトリック教会の中にネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者を敢えて探すなら、それは公会議後の歴代の教皇、パウロ6世、ヨハネパウロ1世、聖教皇ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコ教皇だろう。

この9月の上旬、イタリアでネオカテクメナートの神学生の集いがあり、江戸川区一之江で日本語を勉強中だった神学生3名も参加したが、世界中の神学生の卵たちが集っている会場にフランシスコ教皇からの激励の電話が入った。キコはその肉声をアイフォンのスピーカーからマイクに拾って集った大群衆に聞かせ、会場のどよめきは同じ携帯を通して教皇の耳に届いた、と帰ってきてから興奮して報告してくれた。

なぜ歴代の教皇が擁護するのか?それはネオカテクメナートが第二バチカン公会議(1965年閉幕)の決定を忠実に実行に移したものだからに他ならない。

因みに、フィローニ枢機卿は久しぶりのイタリア人パパビレ(次期教皇候補)と噂されている。何百年、ローマ教皇はイタリア人と相場が決まっていた。それがポーランド人、ドイツ人、アルゼンチン人と3代続いた。次はアフリカか、アジアか、と取りざたされる中で、イタリア人も決して黙ってはいないことだろう。

(つづく)

 

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