:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇フランシスコのメッセージ=新求道期間の道の50周年記念式典で

2018-06-14 00:00:20 | ★ 新求道共同体

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新求道期間の道の50周年記念式典での

教皇フランシスコのメッセージ

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ローマのトール・ヴェルガータの草原にて

2018年5月5日(土)

 親愛なる兄弟姉妹のみなさん、こんにちは!

 あなた方に出会い、あなた方と共に「感謝!」と言えるのは、わたしにとって大きな喜びです。神様に、また、遠くから旅してきた人々をはじめ、ここに集う全ての皆さんに心から感謝します。あなた方が福音を生き、福音を告げ知らせるために、神からの呼びかけを受け入れ、「はい」と答えてくれたことに対して感謝します。そして、50年前に新求道期間の道を始めた方にも深く感謝します。

 「50」という数字は、聖書の中で大切な数字です。復活された方の霊は50日目に使徒たちの上に降り、世界に教会を現わされました。それより以前に、神は第50番目の年を聖別され、「50年目の年はあなたたちのヨベルの年である」(レビ記25章11節)と言われました。それは聖なる年であり、その年に選ばれた民は、解放と圧迫された者の帰国などの新しい事実に手で触れることができました。「全住民に解放の宣言をする。・・・あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(10節)と主は言われました。さて、「道」の50年間の歩みを経て、あなた方各自が「主よ、あなたはわたしを本当に解放してくださったこと、教会の中に自分の家族を見出すことができたこと、あなたの洗礼によって古いものが過ぎ去り新しい命を味わっていること(2コリント5章17節参照)、この「道」を通して、あなたの父としての優しい愛を発見するための道筋を教えてくださったことを、あなたに感謝します」と言えたら何と幸いなことでしょう。

 親愛なる兄弟姉妹たち、あなた方は最後に「神の愛と忠実の故に感謝するためにテ・デウム」を歌うことになっています。神の愛と忠実の故に神に感謝するということはとても美しいことです。多くの場合、わたしたちは、神がわたしたちに与えてくださる恵みや贈物のために神に感謝します。そうするのはいいことです。しかし、神が愛において忠実であられることそれ自体の故に神に感謝するのは、更にいいことです。神の愛はわたしたちによるものではありません。わたしたちがどんなことをしても、神は忠実にわたしたちを愛し続けられます。これこそが、わたしたちの信頼の源であり、人生の大きな慰めです。だから、元気を出して、悲嘆にくれることがないように!そして、問題の雲があなた方の日々を重苦しく覆うように見える時も、神の忠実な愛が沈むことのない太陽のようにいつも光り輝いていることを思い起こしなさい。神の善はあらゆる悪よりも強いのです。そのことを思い巡らしなさい。そうすれば、神の愛の甘美さを想起することは、すべての苦悩の時にあなた方の助けとなるでしょう。

 感謝しなければならない大切なことがまだ一つ残っています。それは宣教に出かけようとしているあなた方のことです。今日の教会の最優先課題である宣教について、一言言及したいと心から望んでいます。宣教とは、神の忠実な愛について語ることです。そして、たとえ私たちが愛することに疲れてしまうことがあったとしても、主は、わたしを、あなたを、わたしたちを、そしてわたしたちのこの世を愛することにおいて、決して疲れることがないということを告げ知らせることです。宣教とは、わたしたちが受けたものを与えることです。宣教とは、今耳にした「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という主の命令を果たすことです。あなた方と共にこの言葉について少し考えてみたいと思います。

 「行きなさい。」宣教は出かけることを要求します。しかしながら、人生においては、安住し、リスクを取らず、状況を掌握するだけで満足する誘惑には強いものがあります。自分を愛してくれる人々に囲まれて家に残る方が簡単ですが、それはイエスの道ではありません。彼は、「行きなさい」と言って派遣されるのです。彼は中途半端な態度を許しません。彼は、旅費の一部の支給や、立て替えた旅費を後で埋め合わせることを保証すことなく、ご自分の弟子に、ご自分のすべての弟子に、ただ一つの言葉「行きなさい!」しか話されません。「行きなさい」とは、キリスト教生活の隅々にまで響き渡る力強い呼び掛けで、常に出向いて行くように、神の愛の喜びをまだ知らない兄弟を探しながら世界中を旅する巡礼者になるように、というはっきりとした招きです。

 しかし、出かけるためにどうすればよいのでしょうか。身軽に行動する必要があるので、すべての家財道具を持ち運ぶことなどできません。聖書もそれを教えています。神は、選ばれた民を解放されたとき、神への信頼という手荷物ただ一つだけを持たせて、荒れ野を行かされました。神ご自身も、人となられると、彼には枕する所もない(ルカ9・58 参照)という状態で、貧しさの中を歩まれました。彼はご自分の弟子たちにも同じ態度を要求されます。出かけて行くためには身軽でなければなりません。告げ知らせるためには捨てる必要があります。この世を捨てる教会だけが、良く主を宣べ伝えるのです。教会は、権力とお金に束縛されず、勝利主義や聖職者至上主義から解き放たれたときにだけ、キリストが人間を解放される方であることを説得力をもって証しすることができるのです。キリストへの愛のために過ぎ去る物を捨てることを学ぶ人は「自由」という大きな宝を抱きしめます。もはや、絶えずより多くを求めながら決して心の平和が得られない執着心への隷属状態から解き放たれて、落ち着きの中で心が広くなるのを感じながら、神と兄弟のために身を捧げる用意ができるのです。

 宣教の動詞である「行きなさい」は、わたしたちにもう一つのことを語っています。この「行きなさい」は複数に活用されている動詞なのです。主は「あなたは、行きなさい。次にあなたも、それからあなたも……」とは言わないで、「行きなさい、あなた方みな一緒に」と言われるのです。円満な宣教師とは、一人で行く人ではなく、ともに歩む人なのです。共に歩むということは常に、毎日修練すべき技能なのです。例えば、相手に自分の歩幅を押し付けないように気配りをしなければなりません。むしろ、相手の歩み方が自分のそれとは同じでないことに心をとめ、相手に寄り添い、相手を待つことが必要です。人生においては、他者と全く同じ歩幅の人が一人もいなように、それは信仰においても宣教においても同様です。自分で孤立したり、自分の歩み方を押し付けたりすることなく、一緒に前進するのです。抜け駆けをしたり、自分よりペースの遅いものに文句を言ったりすることなく、牧者たちも兄弟姉妹全員も共に、教会として整然と前進するのです。わたしたちは兄弟たちに伴われながら、他の兄弟たちに寄り添う巡礼者であり、神への応答は偽りのない真摯な自由の中にのみ成熟するのですから、一人ひとりの歩みに配慮し、それを尊重し、誰に対しても成長を強いることなく、個々人に対してしっかりと対応すべきです。

 復活されたイエスは「人々を弟子にしなさい」と言われます。宣教はこれです。「征服しなさい」とか「占領しなさい」などと言わないで、「人々を弟子にしなさい」、つまり「受けた賜物、あなた方の人生を新たにした愛の出会いを他の人々と分かち合いなさい」と言われるのです。これこそ宣教の核心です。つまり、神がわたしたちを愛し、神が共におられると、真の愛、すなわち、家庭でも職場でも、奉献された者としても結婚した者としても、如何なる場においても命を与えるように駆り立てる愛が可能でることを証しすることです。宣教とは、イエスの新しい弟子たちとともに、自分も弟子にもどるということです。それは、自分がキリストの弟子なる教会の一部であることを再発見することです。言うまでもなく教会は教師なのです。しかし、まず娘でなければ母にはなれないのと同様に、教会はまず弟子でなければ師にもなれません。御父の娘でありながら、師の弟子であり、人類の姉妹であることを喜びとする謙遜な教会、これこそがわたしたちの母なのです。弟子である者が他の人々を弟子にするという「弟子のありかた」のダイナミズムは、強引な改宗活動のダイナミズムとは全く別物です。

 ここに、世が信じるようになるための告知の力があります。役に立つのは説得的な論証ではなく、人を引き付ける生き方であり、押し付ける能力ではなく、奉仕する勇気なのです。そして、あなた方は聖家族の模範に倣い、謙遜と、素朴さと、賛美をもって家庭生活を営みながら、この[福音を]告げ知らせる召命をⅮNAの中に持っています。荒廃し愛情に欠ける多くの場所に、この家庭的な雰囲気をもたらしなさい。イエスの友として知られるようになりなさい。すべての人を友と呼び、すべての人の友でありなさい。

 「行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。」イエスは「すべて」と言われるとき、その心にはあらゆる国民のために場所があるということを強調しておられるように見受けられます。誰も除外されることなく。父親と母親にとって自分の子供たちがそうであるように。たとえ大勢であろうとも、大きい人達も、小さい人達も、一人ひとりが心を込めて愛されています。なぜなら、愛は配られることによって決して減少することなく、かえって増加するものだからです。愛はいつも希望しています。両親がまず気にするのは、子供の欠点や過ちではなく、子供自身であり、その視点の中で子供の問題やその困難を受け止めるように、宣教師たちも神に愛された民に対して同じ態度をとります。彼らは否定的な面や改善すべきことを前面に置くのではく、「心で見る」、つまり、尊重する眼差し、尊敬するアプローチ、忍耐する信頼を持つのです。あなた方もこのように、「ホーム試合」のつもりで宣教に出かけなさい。なぜなら、主にとってどの国民もご自分の家の民であり、あなた方が着く前から聖霊が既に種を蒔いておられるからです。そして、この上なく世を愛してくださるわたしたちの御父(ヨハネ3章5節参照)を思い起こしながら、人間そのものに情熱を傾け、皆の喜びのために協力する者(2コリント1章24節参照)になり、身近にあって信頼できるもの、近くにいるから聞き入れやすい相手でありなさい。予め作った理想像を押し付けることなく、あらゆる国民の文化と伝統を愛しなさい。理論や計画からではなく、具体的な状況から出発しなさい。そうすれば、聖霊ご自身がその時や方法に沿って宣教を形成されます。そして、教会も聖霊の似姿として、つまり、国民、賜物、カリスマの多様性における一致として、成長することになるのです。

 親愛なる兄弟姉妹たち、あなた方のカリスマは、現代教会に与えられた神からの大きな賜物です。この50年間の故に主に感謝しましょう。この50年間のために拍手しましょう!また、神の父性的な、兄弟的な、そして情け深い忠実さを見ながら、決して信頼を失うことがないように。彼ご自身が、愛する弟子のように、あなた方を謙遜な単純さとともにすべての国民のもとに行くよう駆り立てられるその時、きっとあなた方を守ってくださるでしょう。わたしもあなた方に伴い、あなた方を励まします。前へ進みなさい!そして、どうかここに残るわたしのために祈るのを忘れないでください。

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