:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ シュロの木に登った私 ーヘルマン・ホイヴェルスー

2019-03-08 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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シュロの木に登った私

ヘルマン・ホイヴェルス

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ホイヴェルス家の納屋の前のこどもたち。まるで、ありし日のヘルマン少年とそのお兄さんのよう

シュロの木に登った私

 12歳の時でした。お母さんが「ヘルマンや、ピアノをならいたくはないかね」、とおっしゃいました。私は、ピアノってとてもなんぶつだし、それに毎日おけいこ、おけいことめんどうくさくてしょうがない、と考えましたから「ぼく、やりたくありません。でも笛なら吹いてみたいのです」と答えました。お母さんはそれならそうなさいとおっしゃいました。

 それからすこしたって、町へ買い物に出たとき、お母さんは私をある店につれていって、笛を一丁買って下さいました。

 さあ、私はうれしくてたまりません。家へかえってからピーピープープーと毎日のように練習しました。そして、しばらくすると、自分の知っているいろいろなふしを上手に吹きこなせるようになりました。

 ところで、私はまえから木登りがすきでした。家のまわりにある木でまずだいすきになったのは東側にあるリンゴの木でした。(クリスマスにはこのリンゴをどっさりいただいたものです)それからすぐ隣の梨の木、南側にあった桜の木、子供部屋の窓の栗の木、それから西側にあった菩提樹でした。いつか学校で図画の時間に菩提樹をかきました。そのほか西側には広い牧場のまわりに大きなかしの木がたくさんありました。このかしの木にひそんでいる意味と美しさがほんとうのわかったのは、私がふるさとのあのウエストファリアの歌をならってからでした。その歌の文句に

    庭の番人さながらに

    いかめしくぞそびゆるかしの木

とありました。

 あるとき、私はかしのなみ木にそってあゆみ、中でもあまり太くない木をさがしました。ちょうど良さそうなのをみつけると、私はおのを革帯にさしてよじのぼっていきました。てっぺんのこんもりしたところへくると、あたりの枝をきりはらい。腰かけるのにぐあいよくしました。

 それからやがておとずれる五月六月の明るい静かな、日永の宵をまっていたのです。そのような夕方がやってきました。私はだいすきな笛をもってかしの木にのぼり、四方をみまわしながら、じっと耳をそばだてました。

 なんとしずかな夕べでしょう、それはちょうど

   おちこちの峰にいこいあり

   なべての梢には

   そよとの風もなく

   小鳥は森にしずもりて

   ・・・・・・ 

の詩そっくりの気分でした。遠くから水車のめぐる音だけがきこえてきました。

 このしずけさを乱してよいものでしょうか。――私はおそるおそる笛を口に当ててそっとあの「よなきうぐいすのふし」をふきはじめました。こんな美しい宵にまだ足りないものがあるとすれば、それはこの笛の音だけだという気さえしたのです。そこでいよいよ力をこめて吹きました。

 その笛の音は水のせせらぐ川のかなたまでひびいていきました。すると、その音にさそわれてか、あちらこちらでうぐいすが目をさまし、私と、きそってうたい始めました。人びとにも気にいったのでしょう。やがて水車小屋から幾人かでて来てやはり夜なきうぐいすの歌を四部にわかれて合唱しました。こうして、私は知っている歌を次々にふきました。

 アイヒエンドルフの「水車の歌」「美しきライン」の歌、故郷ウエストファリアの「かしの木をたたえる歌」シューベルトの「菩提樹」など。うぐいすはちっともつかれを知りませんでした。私はもうじゅうぶんにふいたので木から降りてしまったときにも、うぐいすはあいかわらずさえずりつづけていました。――夜通しあくる朝までも。

 お母さんは「どこにいたの。まるで天からきこえてきたようだったよ」とたずねました。

 「ええ天に近いかしの木のてっぺんです」と私はこたえました。次の日ふとしたとき、近所の人がはなしているのを聞きました。「きのうの晩はあれは何です。だれだかとてもきれいな音楽をやっていたようです。どこから聞こえてきたのでしょう」

 こうして、私は毎年五月と六月には夕方になるとかしの木にのぼって笛をふいていました。かれこれ十八歳の頃までつづいたでしょうか。

 一九〇九年四月十九日、いまでもよくおぼえていますが、あけがたの三時に私は故郷に別れをつげました。荷物のなかに笛をしのばせて、かしの木には最後のあいさつをして――。どこもみなひっそりとしていました。はるか遠い川岸から水車をまわす水音だけが聞こえていました。

x    x    x

それから六年たって、私はインドで学校の先生をしていました。そこでは生徒たちがたいこや笛の楽団を作っていました。私たちは、ある日遠足をして小高い山にのぼり、そこでとてもめずらしい、しゅろの木をみつけたのです。これはおそらく世界に二つとないもので、おもしろいかっこうで弓なりにまがって生えていました。

 「この木の写真をとろう。みんな木の前にあつまりなさい」と友達の英語の先生が言いました。「だれか生徒がのぼったら、もっとよい写真になります」と私が言いました。ところが生徒はだれもシャツやズボンのことを心配してのぼろうとしないのです。「みんなどうしたのですか」と叫んで私は自分からのぼりはじめました。丘の上のしゅろの木からは、インド洋をみはるかすすばらしい眺めでした。そのとき、私が故郷のあのかしの木を思い出したことはいうまでもありません。

 

 このさり気ない文章の上品さ、格調の高さ、味わい深さにまず皆さんの注意を喚起したい。これが成人してから渡来したドイツ人宣教師の日本語だということに驚かれないだろうか。 

 私はホイヴェルス神父様が里帰りで北ドイツはウエストファリアのドライエルヴァルデ(三ツ森村)に滞在されたときに、コメルツバンクの任地デュッセルドルフから愛車を駆って師の生家にお会いしにいったことがあります。

 師のふるさとはその頃もこの随筆に描かれた通りのたたずまいでした。師の姪ごさんのタンテ・アンナがまだ健在で、師と私のために昼食を用意していてくだいました。お部屋はなんと、ヘルマン少年とお兄さんの思い出の勉強部屋でした。

 師はとてもくつろいで語られ、来年には歌右衛門主演の「細川ガラシャ夫人」の歌舞伎一座を引き連れてドイツに戻るから、その時の現地マネジャーはお前に任せよう、とご自分の夢を語られました。しかし、この計画はついに実現することなく終わったのでした。 

 私は以前に師から一枚しかないと思われる希少な写真を預かっていました。それは、この短編の最後に記されたインドのボンベイ(ムンバイ)の海を見遥かす丘の上の世界に一本しかない面白い形のしゅろの木に登ったホイヴェルス神学生(当時まだ司祭に叙階される前だった)とその生徒たちの写真です。師の自筆の日付こそないが、間違いありません。服が汚れるのを嫌ってしゅろの木に登ろうとしなかったインドの良家の子どもたちも写っています。

ドライエルヴァルデの森とアア川(「アア」は川と言う意味だから「川川」となる)の水車小屋の小麦を挽く音。6月の宵、かしの木の頂きでホイヴェルス少年の幻がうぐいすの鳴き声をまねて笛を吹くと、ナイチンゲールはきっと夜を徹して歌い続けるに違いないと、ふと思ったことでした。

 

(つづく)

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