:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ インカルチュレーション =宗教の文化への受肉=

2008-09-19 14:29:12 | ★ アーミッシュ

 

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★ インカルチュレーション

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先の ★ いま明かす、アーミッシュに拘った本当の訳(その-2) の中で、私はインカルチュレーション」 

宗教の文化への受肉)=という「流行語」が、教会の権威を代表する責任ある人々の間で、慎重に正しく定義されることもないまま、自説を正当化し権威づけるために、我田引水、恣意的に

用いられ、混乱を招いているという感想を述べました。

 

そして、

不遜にも

「それなら私が正しく定義してあげようではないか」と大言壮語し、実際に着手しましたが、拙速に走ってはかえって問題を複雑にするおそれがある一方で、ここで長考一番、慎重に時間をかけて考えていてはブログか停滞して先に進めない、というジレンマに陥りました。

 

そんなところへ、聖座(バチカン)が近い将来「インカルチュレーション」に関連する「回勅」乃至は「教書」の類を発表する準備を進めているらしい、と言う情報 

 

(裏を取って確認したわけではまだないのですが) 

が入りました。恐らく聖座も今の混乱を放置することを望まれなかったのだろうと思います。

 

渡りに船、とはまさにこのような場合のための言葉でしょう。さっそく前言を撤回し、無謀な試みを引っ込めることといたします。

 

 

 ローマが定義するらしいという噂さだけでも抑止力が働き、勝手な用語の乱用、独り歩きが少しでも控えられればもうそれで十分ではありませんか。

 

 

"Roma locutus, causa finita

 est

." 聖座がもの申せば、論争は終焉する)と諺にもある通り、ローマの裁定を待てばよいわけですから、私が拙速に走って怪我をする必要もないわけです。

その代わりに、と言っては何ですが、定義自体は聖座に譲るとして、一足飛びに地方教会の権威者の発言のなかで「おや?」、「それはちょっとおかしくない???」、と平素私が疑問に思ってきた幾つかの点について、自由に、順不同にのべて見たいと思います。まず手始めに:

 

★ インカルチュレーションと「二段階宣教論」

劇的なキリスト教離れと、急速な回教圏化への道を突き進んでいる「元キリスト教圏ヨーロッパ」は、もともと2000年のキリスト教的文化の土台がある世界のことだから、再宣教の手段として有効であることが既に検証されている新しいカリスマ-たとえば「新求道共同体」-が、いきなりキリスト教の本質、ギリシャ語で「ケリグマ」と呼ばれるもの、をぶつけたとしても大きな違和感はない(一段階宣教論)

また、16世紀植民地主義時代に発見された南北アメリカ、アフリカなどの新大陸は、もともと未開な世界だったから(それは思い上がりだろうが)、いきなり「ケリグマ」をぶつけることに違和感はなかった(一段階宣教論)

しかし、キリスト教の宣教活動の主舞台として「第3千年紀はアジアの時代」と言われる時、そのアジアの多くの部分はキリスト教にとっては処女地であり、しかもそこには歴史と伝統を誇る偉大な文化と宗教が先に存在する世界である。

インドのバラモン教ヒンズー教は言うに及ばず、チベットや東南アジアの小乗仏教、中国や韓国の儒教や道教、日本の神道や大乗仏教など、偉大な文化に受肉した固有の伝統宗教が既に先に存在する。それらの先輩達に敬意を表し、彼らが産んだ偉大な文化に自ら進んで受肉しながら、時間をかけて次第にその世界に受容されていくのが大切。諸宗教対話を進め、第一段階として、よき隣人となり、世界平和や、社会正義や、人権や、環境問題や、エコロジー、etc. 、同じ土俵に立って手を取り合える分野で共棲して、溶け込む。自らがまずその土地の文化にインカルチュレートして、十分それが定着したその上で、「第2段階として」キリスト教固有の教理、信仰の真髄、を徐々に前面に出して理解を求める二段階宣教論」(間接宣教)

一見、極めて謙虚で、常識的で、賢明で、したたかな、誰でも受け入れられやすいよい戦略のようではないか。

いつのころからか、おおざっぱに言って、インドから東のカトリックの地方教会指導者の多くが、上のような宣教論イデオロギーに染まっていったように私には思える。

「新求道共同体」のように、また「アーミッシュ」のように、「西暦紀元の最初の3-4世紀の初代キリスト教会」のように、つまり、ナザレのイエスが自身と、キリストの使徒たちと、その直接の後継者たちがやったように、ひたすら直接に福音の真髄をぶつける、「ケリグマ」を説く、宣教の「一段階宣教論」(直接宣教)は、どうやらアジアの地方教会の指導者達の多くが採用してるイデオロギーには非常にシャープなアレルギー反応を起こすもののようである。

《 つづく 》

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2 コメント

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Roma locutus causa finita est+ (xxxDANIAxxx)
2011-01-16 22:38:15
Amen! Sancta Sedes locutus causa finita est+
Gloria tibi Domine+

谷口神父様から喜ばしいニュース、もう2度目です!
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三位一体 (新米信徒)
2024-05-29 10:12:19
谷口神父さま 

この記事は神父さまのブログの初期の記事だと思いますが、このブログへの私の最初のコメントは恐らく、何者かによるこのブログのコメントへの、森司教さまの著書からの言葉の引用に関わることだったはずです。「あなたにとって神とは? ー 神は神頼みの神か 苦難の中の光か 森一弘(司教さま) 女子パウロ会(2014)」のことについて何度かコメントに引用いたしましたが、神父さまが、例えば上の記事に書かれたこととはほとんど対極にあることが書かれているように、今は感じます。以前には、気が付きませんでしたが、この書の「第五章 一神教の神の難しさと魅力」に、あるいはこの書全体を通して「三位一体の神」ということについてはっきりと書かれていないのではないか、と感じます(素人の感想)。今、「カトリックの信仰 岩下壮一(神父さま)筑摩書房(2015)」の第七章 御托身(その一)と第八章 御托身(その二)を読んでいます。このことは、岩下神父さまの神学の土台のように感じます。正教会の教えに少しですが触れて、そのことを強く感じるようになったと思います。この書の「解説 稲垣良典(先生)」の IV 結びかえて、に、「・・・。ただ私自身、解説を書くにあたり、あらためてこの書物を読み返したところ、以前何度か読んだ時には心に浮かばなかった感想を持った点がいくつもあったので、そのニ、三を記して読者の参考に供したい。
 第一に、かっては本書を読む度に著者の博覧強記、そして議論の至るところで示される鋭いひらめきや絶妙なユーモアに感嘆したのに対して、今回は難解・複雑で、日々の祈りや信心とは無縁として遠ざけられがちな神学的議論が、実はキリスト信者やキリスト教に関心を有する者にとって極めて親密な現実であることを説明しようとする熱意に感銘を受けた。その一つが三位一体の神秘に関する解説であって、岩下神父によると三位一体の教えは信者の宗教的生活と没交渉な信条では決してなく、むしろ神が自らの心の底を愛する子等に打ち明けねばやまぬ有難い親心なのである。神が話してくださらなければ人間には決して知られえない自らの生命(いのち)の秘密を打ち明け、自らの至福に与らせようとの摂理が三位一体の信条にほかならない、と著者は説く。さらに著者が強調するように、神が最高の知恵と測り難い愛を有するペルソナであることは三位一体の教えによって始めて明らかになるのであってみれば、三位一体の神学を古くさい古代・中世的キリスト教の産物として無視しておいて、神を愛する(愛するに傍点)、神を信じる(信じるに傍点)、というのは空虚であり、まして意味のある仕方で『神は愛(傍点)である』と信仰告白するのは不可能ではないか、と岩下神父は言う。・・・」cf. pp. 948-949. ミサの「集会祈願」の最後の訳が改められたこと(ラテン語の祈願に近づけられたこと)は当然のことであると感じます(素人の感想)。岩下神父さまの言は古い(古いことの意味が曖昧ですが)のでしょうか。岩下神父さまは机上の学者ではなく、病者とともに(共同体?)おられた方ではないでしょうか。神父さまのブログ全体の内容と深く関わっているように思い、長い引用をいたしました。
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