:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ポーランド巡礼-4

2008-08-28 11:48:27 | ★ ポーランド巡礼記

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 ヨハネ・パウロ2世のパネル展

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 彼の生涯は1920518日から、200542日まで。

 

19781016日に教皇に選ばれて在位27年は、教皇としては長い方ではないか。ハドリアヌス6(オランダ出身)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラブ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。

着座した時、自分の後継者はこの人(右)だとすでに知っていたか、いなかったか?

 

暗殺されたケネディー大統領同様、当時の教皇は銃弾に対しては全く無防備だった。それに比べると、私の見る限り、今の教皇の身辺警護は厳重を極めている。

 

 

やはり撃たれたか!(注)

 

ポルトガルのファチマの牧童に託され、ずっと秘密裏に封印されていたマリア様の第3の予言は、一般にはこの日のことを指していたと考えられているらしい。(注)

 

 死の一発」の弾道をマリア様が奇跡的に逸らされた、と教皇は信じているという話を聞いているが、真偽のほどを私は確かめていない。

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(注) 1917年、ポルトガルの一寒村、ファチマに住む3人の牧童の前に聖母マリアが6回にわたって出現し、最後の日には10万人の大観衆の前で大奇跡を現出させ、当時のヨーロッパ全土に一大センセーションを巻き起こした。しかもその際に「人類の未来にかかわる3つのメッセージ」が託された。これが有名な「ファチマ予言」である。
  第一と第二のメッセージ(予言)は、25年後の1942年にバチカンから発表された。第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発に関するもので、いずれも細部にいたることまであまりにもピタリと的中していた。
  そこで人々は、第三の予言の発表を待ち望んだ。なぜかこの予言だけは、1960年まで公表してはいけないとメッセージされていたからである。
  だが、予言は1960年になっても発表されなかった。
  第三の予言を読んだ法王パウロ六世が、内容の重大さにショックを受けて卒倒し、「これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持っていく」といって、発表を差し止めてしまったからである。自分に関する予言と早とちりしたか?(陰の声)
  その後も第三の予言は秘密文書として、バチカン宮殿の奥深く、厳重に秘匿されて、そのため「ファティマ第三の秘密」ともいわれていた。

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この二人が、ソ連の共産主義政権を解体した。ゴルバチョフ議長に私は人間的な魅力を感じていた。

公表されているマリア様の第二の予言(第三ではない)の言葉を翻訳すると、次のようになる:

もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。

最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、ある期間の平和が世界に与えられるでしょう。 」

私は、聖母マリアが歴史に介入し、言葉を語ると言うことに、強い違和感と抵抗を感じる。もしそれができるのなら、他にもしてほしいことが山ほどあるからだ。

ユダヤ人のホロコーストはナチスドイツの手によるものだから、直接この予言と関係づけていいかどうかは分からない。しかし、カティンの森(これはあとで触れる)では、ソ連がポーランドの将校を大量に抹殺した事実がある。これは、上の言葉と結び付くものなのだろうか?

「ある期間の平和が世界に与えられるでしょう。」 ですって?朝鮮戦争は?ベトナム戦争は?9.11の茶番で始まったアフガンは?イラク戦争は・・・・? 局地戦に限って言えば、マリア様、あなたの予言は完全に外れですね。それとも、これは既に「第三次世界大戦」の予言と解すべきものなのでしょうか?そうだとすれば、愚かというか、いまの世界は余りにも泰平ムードだ。ノアの洪水前夜の乱痴気騒ぎにも等しい。もっと危機感が必要なのではないだろうか。

第3の予言が、前教皇暗殺未遂ですでに終わったのか、実は本番はこれからなのか、神のみぞ知るだと私は思っている。だから、現教皇の警護の厳重さは、単なる彼の臆病と笑って片付けていいものかどうか・・・・

それはさておき、

 

私が何度かずつ握手したことがあり、現代の聖人だと信じている3人のうち二人の仲睦まじい写真も展示されていた。

 

 

2000年(第3千年期の前夜)にイスラエルを訪れ、エルサレムのユダヤ人の嘆きの壁で祈る教皇ヨハネ・パウロ2世。私もこの時イスラエルにいた。教皇と若者の祭典、「世界青年大会」の会場には、当時すでに「ドームス・ガリレエ」と言う巨大な施設がキコさんの設計でほぼ完成していた。この時、教皇はその部分落成式を自らの手で執り行っている。

 

問題は、ですね・・・・、次の写真です。

 

 

私たちは、この日(巡礼の2日目)の午後、「神の憐れみ」の聖地に徒歩で10数キロ巡礼することになっているのだが、このパネルによると、教皇ヨハネ・パウロ2世自身、ここを訪れてミサを司式し、この場所に対する自分の信心を公にしている事実がうかがい知られる。

実は、これが困るんですよねェ、全く!

こういうことがあると、不信心な私の霊的「花粉症」がにわかに発症し、最高に鬱陶しく私を悩ませるのでありますが、それはまた後で触れることとしましょう。

 

 

2005年、今回の巡礼の対象の二人の聖人の一人が逝った。棺に聖水を振りかけているのは、恐らくヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(現教皇)ではないかと思うが、右のポーランド語の説明は解読できず、今となってはこの写真からは断言できない。

 

 

葬儀の日の空からの写真。先日の若者の集いは、混んでいたのは中央のオベリスクあたりまでだったから、広がりで約この半分、群衆の密度に至ってはこの半分以下だったろうと見受けられる。それでも75000人だった。だから、そこから演算すると、この写真の群衆は20万人を優に超えているのではなかろうかと思われる。

世界中が最高級の弔問外交を展開したこの日、日本の政府は音痴にも、「世界で最も大物の教皇の葬儀に、川口順子(元外相ではあったが)しか派遣しなかった馬鹿さ加減。政治家なら、(せめて)沢山いる首相OB、皇族なら、皇太子夫妻を出すべきだったのです」とは、私の尊敬する友人の言葉。

《つづく》

 

 

 

 

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