自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

日蓮本仏論への所感

2020年01月30日 07時26分55秒 | 日蓮仏法再考
 新型コロナウイルスによる感染拡大は、勢いが増してきた感じがしますね。その発生源の国である中国は、習近平氏がWHOに対して緊急事態宣言回避に期待とかいう、誠に意味のわからない報道もでてましたが、本当の処、中国の実態はどうなんでしょうね。「報道発表の数字は二桁違う」という噂もありますから、わかりません。

 さて、私は日蓮をキッカケに仏教に対して興味を持ったことは、プロフィールにも書いていますが、だからと言って日蓮を末法の御本仏とは考えていません。
 ネットの中を見るに、今の創価学会の会員の中では、この事にこだわりを持つ人はあまり居ないようですが(教義すら興味無いから当然かも)、法華講等の人達では、いらぬ文証引っ張り出し、このこの事について反論している人も多く居るようです。

 今日はこの事について書いてみます。

◆日蓮が久遠元初仏でないと困るのか
 まず初めに、日蓮が明確に自身を釈迦をも迹仏であるほどの本仏だと自身で明言した遺文というのはなく、明確に書いてあるという、その殆どが「相伝書」といわれる後世の創作の疑いが濃厚な文献です。しかしこの本仏論を信じている人はその他の遺文を「忖度」して読み取っていたりします。
 日蓮の真筆と言われる遺文の多くでは自身を「上行菩薩の再誕」として明かし、久遠実成の釈迦の本門の弟子と位置づけをしていますが、信じる人はそういう名言をも忖度して本仏だと解釈するようです。

 日蓮を信じる人が、彼を久遠実成の釈迦よりも根本仏だと信じることは勝手です。何故ならば信教の自由とは個人に認められた権利であり、そこは何人も犯すことができません。またそもそも信仰は自身の内面の世界の事なので、どの様な人であってもそこを犯すことは不可能でしょう。そしてご利益を求める姿勢があれば、どの様な信仰でも大なり小なりご利益というのはありますから、そのご利益を盾に「やっぱ、日蓮大聖人は御本仏なんだ!」という、信仰の確信を持った人であれば、これを覆す事はかなり困難です。

 だから私は別に日蓮を信じる人で、彼が釈迦以上の根本仏であるというなら、そこの考え方を覆そうなんて思いません。

 しかしその事により、仏教という思想哲学の理解が深める事が出来ないという事も、相手には理解をして欲しいものだと考えています。

 日蓮を末法の御本仏と考える人達は、釈迦は自分達にとって「無縁の仏」という理解でいます。それはまるで日蓮が阿弥陀仏を「無縁の仏」と考えていた事と同様であり、そこから釈迦が生涯に渡り語り残した言葉、そしてそこから派生した様々な論文や解釈ですら、自分達には不要なものだと切り捨ててしまいます。

 仏教の流れで見れば、日蓮の遺文(御書)とは論文や解釈と言った人師の言葉であるはずで、そこは必ずしも「無謬(間違いが無い)」という事にはなりません。でも日蓮を本仏とした場合には、ごの遺文が経典と同じになり、そこに従来の仏教の流れから見ても異質な内容があったにしても、日蓮こそが根源仏なので、100%それらを受け入れる体質が、この日蓮本仏の教団には出来上がってしまいます。

 私は創価学会の独善体質というものも、その根源を尋ねた時には、この日蓮本仏論というのが、根っこの奥深くにはあると思います。これは今の宗門(日蓮正宗)についても同様で、特に創価学会崩れで法華講に行った人は、この傾向が強いと思います。

 また組織指導者に対する過度の依存体質についても、この日蓮本仏論が影響を及ぼしているのかもしれません。創価学会では池田会長、宗門では当代法主に対して、その掲げる論理性とは裏腹に、あまりにも指導者を疑う事なく信じ、その指導者の論説についても、あたかも仏が説いたが如く受け入れる姿勢の背景には、この本仏論は一役買っているのかもしれません。

◆久遠元初というのは珍説
 そもそもの話をすれば、五百塵点劫という時間と五百塵点劫の当初(そのかみ)という時間を比較し、日蓮が悟りを開いた五百塵点劫の当初に比べたら、釈迦が悟りを開いた五百塵点劫という時間なんかは、昨日の様なものだと、日蓮本仏論を唱える人は語りますが、それ自体が法華経の意味を破壊し、久遠実成の意義を破壊している事に気付かなければなりません。

 法華経に於いて、五百塵点劫とはいかなる数字なのかについて、以下の様に書かれています。

一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ

 ここでは声聞や縁覚といった二乗、つまり人智の最高の人が「無漏智」という最高の智慧を以てしても理解出来ないというのです。つまりこの五百人智点劫とは、数学的き大きいとか小さいとか、浅いとか深いというレベルの話ではなく、意味を図るなら「そもそも、元来、根源的に」という事の表現なのです。
 釈迦の成仏は「何時」という時間枠で語られる事が多く、様は「どれだけの期間修行した」とか「何人の仏の下に付き従った」とかいう話が常に成仏という話には付いてきます。しかし法華経において五百塵点劫という「久遠」を示す事で、成仏というのはその様な時間枠で語るものではないと宣言しているのです。
 しかし日蓮本仏論では、そういう概念の例えをサイト時間枠という事に引き戻し、日蓮を久遠実成の釈迦をも迹仏(仮の仏)にするのです。これは法華経で指し示した本来の久遠仏の考え方を破壊し、五百塵点劫という譬喩を破壊する珍説と呼んでも良いでしょう。

 創価大学の宮田教授は、日本宗教学会の席上、海外のSGIでは本仏を釈迦と教え、日蓮は鎌倉時代の仏教僧として教えていると語ってました。それが証拠に海外のSGIのホームページの何処にも、実は日蓮本仏論は一切書かれていないというのです。この事から私はフランスSGIのホームページを見ましたが、そこは確かに宮田教授の言うようにSGIの目的は、鎌倉時代の仏教僧の日蓮を学ぶ組織とありました。また創価学会で一時期持て囃したティナ・ターナーは今でもお題目を唱えてますが、最近のYouTubeでお題目の唱え方を語る動画では、文字曼荼羅は仏像の脇におき、大きな釈迦仏像の前で座禅をしながらお題目を唱えています。

 要は創価学会として国内外のダブル・スタンダードを引いているわけで、国内では日蓮を本仏として、海外ではそれを一切出していないのです。

 そろそろ日蓮を本仏とする考え方は、改めるべきではないのでしょうか。

 私はその様に考えています。


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大我と小我とか

2020年01月28日 12時40分53秒 | 思う事
 「関東は平野部でも大雪が予報され・…‥」
 昨日は帰りの電車の中でも、ニュース番組でも、そんな言葉ばかり聞かされました。しかし本日の朝は、強い雨。最近、全く雪が降らなくなりましたね。これもまた地球温暖化の影響という事になるのでしょうか。
 そう言えば過去にイギリスのBBCで放送された「第三の選択」という番組では、1950年代にアメリカのハンツビルに世界の科学者が集まり会議。そこでは地球温暖化の事が話し合われ、21世紀になると地球は人類が住めなくなると勧告したとありました。

 オーストラリアの大火災、アマゾン森林の減少、まあ様々な事が起きていますが、これを見ていると強ちハンツビルの会議もウソでは無かったのかと思ったりします。

 さて今日の記事ですが、心の構造について少し書いてみたいと思います。実は心の事を考えると、「意識」というものが焦点になる様に思えます。これは日常生活で常にある「私(自我)」の事であり、この自我を感じているのが意識ですね。そしてこの意識が自分と他者を区別していて、私達の日常生活は成り立っていると言っても良いでしょう。

◆九識論から見る意識
 意識というのは仏教用語ですが、この事を知っている人は以外といません。天台大師が説き出したのが「九識論」ですが、そこでの意識とは六識とも呼ばれています。
 この意識とはどの様なものかと言えば、五識(眼・耳・鼻・舌・肌)という感覚器官に関連する識別機能から得られた情報を取りまとめ、自分が置かれている環境や状況を認識する心の働きです。この意識の奥底にある七識は末那識と言って自我(エゴ)の本体とも言われる心です。そしてこの七識よりも深くに八識(阿頼耶識)があると述べています。この八識とは永遠の過去からの業を蓄積している心だと言います。

 ここでとても興味深いのが、周囲を認識する意識の奥にエゴがありますが、一般的な意識といえば、周囲の状況認識と、自分という自我が合わさった心を指しますが、これは六識と七識の組み合わった様なモノです。そしてその意識を確固成らしめているのが八識という構造なんですね。ここから考えると私達が日常の中で「意識がある」とか「自分はこの様に考える」とか「今この様に感じている」というような、極めて一般的に言う「意識(仏法でいう六識の意識ではありません)」とは、五識+六識〜八識まで組み合わさったものと言えるのではないでしょうか。

 この意識では遠い過去からの記憶を、その奥底に持ち、その記憶している経験(業=カルマ)に依って自我(エゴ)が成り立ち、その自我が六識までの認識や思惟する心の働きをによって、瞬間瞬間を生きている。九識論からこの「不可思議なる心の働き=意識」を考えた時に、その仕組みや姿とはそういう表現が出来ると思うのです。

 しかし人間の「意識」とは、果たして「自我」を中心とした働きだけを言うのでしょうか。九識論では先の八識(阿頼耶識)の更に奥に九識(阿摩羅識)があると立てて、そこを「九識心王真如の都」と呼んでいるのです。

◆九識心王真如の都とは
 ここで「心王の都」とありますか、これには心の中心という意味もあります。つまり自身の心の中心、本質という事であって、それは遥か久遠からの記憶(業)の奥底にあり、それら業も九識により成り立っているという解釈も出来ます。

 昨今言われている事ですが、一人の人間の記憶をクラウド・コンピューターの上に置くことで、人は永遠に生きられるという話もありますが、この九識論からすれば、人の心の本質とは記憶の奥底にあり、ここにより業(記憶)も成り立つのであれば、単に記憶をコピーしたところで、それは個人の意識や自我を保存した事にはなり得ないという事かもしれません。

 またこの九識論で明かしている心の重層的な構造とは、法華経で明かされた「久遠実成」という事にも当然の事、通じる内容があります。
 久遠実成では、五百塵点劫という途方もない昔に釈迦は成仏していて、様々な時代、様々な仏国土に出席者して人々を教化してきたと述べています。そしてこれには釈迦の過去世の修行時に教えを受けたという燃燈仏等も久遠実成の釈迦の姿だと述べています。
 このブログでも前に書きましたが、この久遠実成では、仏法を説く方と、その教えを受け、修行する方の双方共に久遠実成の釈迦であるという姿が見えてきます。これを考えるに「久遠実成の釈迦=九識(阿摩羅識)」という構図も成り立つのではないでしょうか。

◆小我と大我
 少し話は変わりますが、チベット仏教では臨終の時を重要な時と認識をしています。これは日常の生活の中で、心の奥底に埋もれている心の本質(大日如来)と出会えるタイミングであり、そこでこの本質と同一化できれば解脱(輪廻転生からの離脱)が出来ると考えているからです。

 近年になり医療の進歩もあってか、臨死体験で様々な体験が語られる様になりましたが、そこで語られる中には多くの共通点が存在します。それは体外離脱(自分の意識が体から抜け出す)であったり、トンネル通過と大いなる光との出会いというのがありますが、もう一つは「この世界の成り立ちを理解できた」「しかしそれは言葉で表すのは困難」というモノです。また他者との関係性についても「宇宙にある共通意識により、他人も自分であった」という証言も多くありました。この体験でこの辺りを顕著に証言しているのは、コメットハンターと呼ばれる木内鶴彦氏の体験談です。時間のある方は、YouTube等で検索して見てください。

 それらの事から、今の私はこの様に感じています。それはこの日常世界の中で「自分」「他人」と区別して認識している意識(自我)がありますが、それらはその心の奥底にある、もう一つの「意識=九識とも言われ、久遠実成ともいう心の本質)」では、同じ存在であり、共に同じ心から派生している存在なのではないかと言うことです。

 日常、私達が理解している「自我」とは、この心の奥底にある本質から派生した存在であり、共にこの「大我」がこの世界に出現した姿だという事。つまり心の奥底では全ての人々や全ての生き物は同じ存在なのかもしれません。だから他者を傷付ける行為は自身を傷付ける行為と同じであり、他者を殺害するのは自分を殺害する行為に等しいとも考えられます。そして他者を大事にする事は自身を大事にする事であり、他者を守る事は自分を守る事なのかもしれません。

 皆さんは如何思いますか?

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憲法に自衛隊を明記するという事

2020年01月27日 12時47分16秒 | 思う事
 今日は夕方から関東では雪になるらしいですね。子供の頃、朝起きて窓を開けると一面雪景色で、静かにフワフワ雪が降っていると嬉しくなったものですが、この年齢になると「通勤が大変」「仕事のスケジュール」等などが頭を駆け巡り、子供の時の様な無邪気な喜びなんて感じなくなってしまうんですよね。これは寂しいことです。

 さて今回は自衛隊を憲法に明記する、という事について、書いてみます。思うに今、安倍政権が目指している「憲法への明記」とは、本来如何なる事なのかという基本的な議論が日本国内では為されてません。公明党なんて「加憲」で事足りるなんて、極めて短絡的な意見しかいいませんし、そんな公明党を支援する創価学会員は、「議員の仰る通り」程度にしか考えていないでしょう。

 前の記事でも触れた内容なのですが、何度でもこの事は触れないと、これは極めて危険な事ですからね。

◆自衛隊は軍隊ではない
 初めに基本的な理解として置かなければならないことですが、自衛隊とは国際的に見て「軍隊」の要件は満たしていません。確かに日本国内では「陸上自衛隊(Japan Ground Self Defence Force )」「海上自衛隊(Japan Maritime Self Defence Force)」「航空自衛隊(
Japan Air Self Defence Force)」と呼んでいますが、国際的には通称で「Japan Army(日本陸軍)」「Japan Navy(日本海軍)」「Japan Airforce (日本空軍)」と呼ばれているようです。

 その昔、防衛費の1%枠という事も言われていた時代がありましたが、最近では増加傾向にあるようです。その様な背景から自衛隊の装備に関して言えば、確かに先進国の他国と比較しても遜色ないものになっていますが、国内法上、自衛隊員とは行政官であり軍人ではありません。

 世界の国の軍隊とは国際法上で活動できる様に各国の法律では規定されているのです。具体的に言えば軍隊に所属している軍人は、国内法ではなく「軍法」の元で動くことを規定しています。またこれは装備品に関しても同様で、例えば戦車等も日本では道路交通法に則り動かさなければならないのです。

 何故、軍隊は軍法の下で動くのか。
 それは軍隊の行う任務が特殊な事だからによります。例えば戦場に於いては敵兵を殺傷しなければならない事もありますし、そもそも戦場という特殊な状況で国内法を守って行動など出来ません。
 また戦闘行為に於いては、上官の下で一糸乱れぬ行動を兵隊には強いなければならず、極限状態においても、規律は優先され、その為に上官の命令は絶対的でなければならず、場合によっては上官の判断で兵士を処刑する必要も出てきます。(これは敵前逃亡とか脱走等が該当します)

 こういった事を考えると、憲法条文で以下の事柄との整合性も取れなくなるのではありませんか?

第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 また軍隊とする場合には、当然、軍司法を定めなければなりませんが、これを考えると以下の憲法条文とも整合性がとれませんよね。

第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。


 私は法学関係には全く縁遠いのですが、そんな立場で考えても、現行の憲法で第九条だけ弄ればそれで済むと言う様な、安易な事でもないのが解ります。

 「憲法に自衛隊を明記する」という事は、突き詰めて考えると、この日本という国をどの様な国にしたいのか、そういう根本命題に必ず突き当たります。果たして今の日本国民が、そこまでの意識を持ち合わせているのか、甚だ疑問に私は思うのですが、このあたりはどうなんでしょうね。

 単に自衛隊を憲法に明記した行政官のまま、本来、軍事部門を利用して動く他国の軍隊と国際強調の動きを取るのは難しく、では軍隊として正式に規定するにも国民が議論を出来る状態ではない。今の日本の政治家の中で、改憲とか加憲を語る人に、こういった基本的な捻じれ状況をどこまで理解されているのでしょう。

◆文民統制(シビリアン・コントロール)
 この軍隊ですが、絶対要件として文民統制(シビリアン・コントロール)が要件です。ここでいう文民とは「政府」と言っても良いでしょう。戦争とは外交交渉が決裂した場合に取られる国の行動です。国の行動であれば軍隊は必ず政府の下で、その指示に従わなければならないのです。当然、法整備としてもそれを取り決めしなければなりません。

 太平洋戦争が何故、あの様な無様な負け方をしたのか。また多くの兵士が「戦死」と言いながらも実態が「餓死」を多く出す状況になったのか。ここには無責任な官僚主義と共に、当時の軍部の暴走があった事は解っています。

 そしてこの軍部の暴走を許したのは、大日本国帝国憲法が定める「統帥権」というもので、平たく言えば軍隊の統帥権は当時、天皇の下にある事を定めていました。だから軍部が言うことを政府の方針に抗弁するには「我々は天皇陛下の軍隊である!」と言えば撥ね付けられました。また内閣についても、制服組から大臣として閣僚入りしていましたので、軍部の思惑に合わない場合には、内閣総辞職に追い込むことも可能な状況だったのです。

 この様な状況であっても、日清・日露戦争では政府と軍部がよく連携をとり、薄氷を踏むような「勝利」を掴み取ることが出来ましたが、それは政府と軍部の要人たちが、共に幕末を戦った人間であればこそ成し遂げられた事であり、簡単に言えば法整備が未整備であっても、臨機応変な対応を取ることが出来たからだとも言えるでしょう。

◆国民の意識が重要
 また太平洋戦争では、その責任を全て東条英機一人に背負わせる事で切り抜け、国民として何ら総括をしていません。東条英機の自宅から、戦争遂行を熱願する多くの国民からの嘆願書我見つかったという事実を知っての事でしょうか。
 確かに当時の日本は、常に続いていた国際的な動乱の中、重い軍備費を賄う重税に苦しみ、また軍部政府の引いた思想統制の下、国民は多くの苦しみを受けていました。だからアメリカを中心とした連合国が日本を破り、進駐軍として日本を占領した事を、まるで解放軍の様に捉えてしまい、自分達の国がどの様な歴史を経て戦争に至ったのか、また戦争の何が悪かったのか、その原因は何かと言うことを日本人として総括すらしていません。

 そればかりか、その後の日本に訪れた平和と経済的な繁栄のバックボーンに、一体何があったかすら、理解もせず、与えられた歴史観に右往左往して今に至っているのでは無いでしょうか。

 国家が軍隊を持ち、それを維持・運用するという事は、国際的に見ても何ら悪の行為ではありません。問題なのは、そう言った「暴力組織」をコントロールする事を、果たして今の日本人は出来るのかという、国民の中にある意識的な事だと私は考えています。であれば改憲論以前に必要な事は、自国の歴史への振り返りであり、特に近代史をもっと日本人としてしっかりとした歴史観を持つ事なのではありませんか?

 そこには必然的に「教育」という事に対する取り組みもありますし、その為に日本人としての価値観や倫理観も必要になってくるでしょう。

 だから今の安倍政権が語らう「改憲論議」はあまりにも刹那的であり、そんな事で憲法改正しても、ロクなことにはならない。そうは思いませんか?

 少しは考えてほしいものですね。


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法華経を持つという意味

2020年01月24日 18時30分45秒 | 日蓮仏法再考
 やっとこさというか、あっという間というか、今日は週末です。この土日はのんびりしたいと思ってますが、幸いな事にやる事が一杯ありまして、あまり休めないかもしれません。

 さて、今回は創価学会の法華経観について、少し書いてみたいと思います。興味がある方はお付き合い下さいね。

 草創期の創価学会の法華経観というのは、日蓮正宗の教学によるものと寸分違わぬものでした。これは初代会長の牧口氏な二代目の戸田氏の過去の指導を拝見すると、よくわかる事です。それはどの様なモノかと言えば、日蓮の残した文字曼荼羅を法華経として、そこにお題目を唱え、人生を物心共に豊かに出来るというものです。これはある意味で純朴なまでの日蓮正宗の信心でした。

 ただ戸田会長の時代には、夕張炭鉱事件、また小樽問答や選挙活動などに取り組み始めた事から「勝利」という形への執念というのが、そこに乗っかって来たと思われます。ああ、、あとは七十五万世帯への達成という目標を打ち出したから、その傾向性をより強めたのかもしれません。

 そして三代の池田会長の時代は、政党を作り、しかも戸田会長がやらなかった衆議院への進出、そして世帯数の増加も止まらず、社会との軋轢も増えたという事もあり、より日本社会の中で叩かれるという事もあったので、この「勝利」という形への拘りは、より強固に前面に出てきたのではありませんか?

 そういう事から、池田会長の以下の指導なんかも組織で語られ始めたのかもしれません。

「権力の魔性と戦い続ける事が、法華経を持つ事である。」

 池田会長が創価学会の組織の中で根付けた思想の一つに「勝他の思想(他に勝る思想)」があると私は考えています。また衆議院とは国家権力の一つでもあり、その権力闘争の場に公明党を出先機関として置いた訳ですから、権力側との抗争も出てきた事でしょう。だからこんな指導が如何にも信仰の思想として根付いて行ったのでしょう。

◆法華経を持つ事
 「勝つことは愉快、負けることは苦しい」という事も、折ある度に池田会長は会員に対して指導していました。だから会員や中心となる幹部にしても「勝利」という形に拘る傾向も強くなっていき、法華経の信心とは「勝利することなんだ!」という刷り込みも強くなっていったのでしょう。

 しかし待てよと。

 本当に法華経を持つ事というのは、そういう事だったのでしょうか。創価学会が法華経を信仰を中心に据える組織であれば、心ある人ならばこの事を考える筈です。しかし創価学会の組織文化はそういう「内面的な思索」というのを徹底して排除する傾向性が強いので、そういった人は組織内から排除されるか、自ら組織を離れて行ってしまいます。だから創価学会の中に居ては、そんな振り返りをする人に出会うことも無いでしょう。多くは勝利の事ばかりを語ります。

 さて、一口に「法華経を持つ」と言っても、単に経典を所持するとか、日蓮の文字曼荼羅を持つ事を言うわけではありません。大事な事は、法華経に明かされている思想性を理解して、日々の生活の中で自分なりに展開して生きる事、また日蓮の顕した文字曼荼羅についても考える事でしょう。これを「法華経を持つ事」と言いますよね。

 では法華経には何が書かれているのでしょうか。これについて日蓮は御書の中で述べています。

「但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり」
(開目抄上)

 ここで日蓮がいう「ニ箇の大事」とは、言わずともしれた「一念三千」と「久遠実成」です。「一念三千」とは自身の心には仏性があり、この仏性とは日常の森羅万象に具わる事を明かし、しかもそれは個人だけに収まるのみならず、社会やその生きる環境にまで広がる事を明かしています。そして「久遠実成」とは、その仏性とは事実の上でどの様なものなのかを示した事だと思います。
 つまり「法華経を持つ事」とは、こういう法華経で明かされた事を信じて、そこからどの様に一人ひとりが自分の人生の上で展開して行くのか、そこを述べているわけです。

 池田会長はその思想を「勝利する」という形を人生の上て体現する事だと考えたのでしょう。勝利とは必ずその背景には敗北が存在します。「勝負」と書いて「勝った」「負けた」があるのは文字面を見ればりかいできる事で、詰まるところ「相対的な出来事」なのです。

 まあ個人の信仰というレベルでいうなら、こういう解釈も許容されますが、それをそのまま多数の人達に「真理」だと指導するのはどうなんでしょうかね。私が「池田思想」という事に心酔出来ないのも、こういう事があるからなんです。

 法華経の思想とは、必ず勝利するという事を説いているわけではありません。そして日蓮がそういった事を考えていなかった事などは、門下の四条金吾に語った言葉を見れば明らかです。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ」
(四条金吾殿御返事)

 ここで日蓮が語っているのは自分の人生で苦しい事も楽しい事も、お題目を唱えて生きていきなさいという事です。そしてその生きていく事こそが「自受法楽」なんだから、強くその事を信じていきなさいと言っています。人間、とかく苦しくなると自分自身の人生を呪い、否定していくものですが、そういう事も実は「法楽」なんだと捉える事が、法華経の生き方なのではないでしょうか。

 「権力の魔性と戦う」のは、本来、権力者に向く事であり庶民に向く事ではありません。また法華経は単なるレジスタンスを後押しする思想でもないのです。法華経とはある意味で究極の「自己肯定」であり、そういう自分を信じる事を説いている教えであると私は考えています。

 こういった誤解を与える指導性を多く出した事が、結果として創価学会で生きる人達を狂わせ、そういう人達が政治に関与する事で、日本をおかしくしているのではありませんか?
 

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自国の安全保障を考える時

2020年01月23日 08時37分34秒 | 思う事
 こういう記事を見つけました。
「アメリカの日本防衛義務」誤解されているその中身 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200123-00059043-jbpressz-int #Yahooニュースアプリ
 そもそも常識として、自国の軍隊は自国の外交活動で利益を守る為に働く「暴力装置」という意味合いがあるでしょう。そこから考えたらアメリカ軍はアメリカ合衆国の利益を守るために戦うのであって、日本の利益を守る為に戦うわけではありません。

 日米安全保障条約とは、東西冷戦という時に、極東におけるアメリカの権益を守る為に、日本が必要である事から締結されました。しかしその東西冷戦が終わって久しい今の時代に、当時と同じ認識で日米安全保障条約を考えるのであれば、それは大きな問題だと思います。

 安倍政権は憲法改正に躍起になっているという報道もあり、近年では現行憲法解釈を、かなり捻じ曲げて安保法制を通したりしましたが、これには慶応大学の小林節教授なども警鐘を鳴らす程の内容でした。

 これはあくまでも私見ですが、安倍政権にいる人達の中には、先に上げた日米安全保障条約の問題点を既に理解しており、そこから憲法改正が必要と考えている人達もいる事でしょう。何故なら先に上げたことは、いくら間抜けな人であっても、常識的に考えるのであれば、容易に理解ができる事だからです。

 私自身の意見としても、現行の憲法は本来であれば改正すべきであり、最低限、今の自衛隊については「国防軍」としての体裁を法制度的に明確に規定できる憲法の内容にすべきだと思います。そしてそれは単なる「加憲(文言や条項を加える程度)」で対応できるものではありません。またそもそも憲法前文に以下の内容も変えるべきではありませんか?

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

 この前文には、確かに高き理想を書き述べていますが、日本国民の安全と生存を「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」していては、滅びる事を前提にしているようなものではないでしょうか。

 現に今の極東アジアの各国に、はたして公正と信義は存在するのか。あるのは各国の思惑であり我利我利の国家利益ばかりです。そういう国際社会で日本人の安全と平和を保てますかと言う事です。
 理想派確かに周辺国の公正の信義に、平和の維持を求めたいものですが、ロシアとの北方領土問題、韓国との間の竹島問題、中国との尖閣諸島や南沙諸島の問題。あと北朝鮮による日本人の拉致問題。これらのどれを取ってみても、それぞれの当事国と日本との間に、その様な関係を求められるのでしょうか。

 またアメリカにしても同様です。確かに今の人類社会は「パックス・アメリカーナ」の時代でした。しかしそのアメリカは今や「アメリカンファースト」を明確に打ち出していて、そこには日本にある一定の配慮はあるかもしれませんが、日本にとって「善なる友人」という訳ではありません。今のままでは自衛隊等もアメリカ軍の下請けとして、利用されてなしまう危険性が大きいのではありませんか?

 やはり日本はそろそろ「戦後」のくびきを離れ、自主独立の国になるべきだとも考えたりするのです。今のままでは、所詮、アメリカの従属国程度でしかありません。

 しかしその一方で、今の日本はこの憲法改正を真正面から捉えられるかと言うと、そこはとて悩ましい事なのです。

 一つは政治家のレベルで、この憲法を全うに考えられる人達が、どれだけ居るのかという問題です。
 いわゆる「左」の人達の多くは、現行憲法をまるで「不磨の大典」の様に考えている人達が多数います。また戦後七十年経ったというのに、未だに政治の上で戦争という事を理解している人達がいません。単なる「護憲」という言葉をいうだけで、この先も日本の平和と安寧が得られると安直に考えている人達が、あまりに多く居るように私には見えてしまいます。
 またこれは「右」にいる人達も同様で、「自虐史観」という言葉がありますが、日本が明治以降、どの様な国であったのか、そして何故、太平洋戦争で国が滅んでしまったのか、冷静に語れる人を見たことがないのです。あるのは「日本の兵隊は素晴らしかった」と言う様な、所謂、浪花節的な感傷の言葉ばかりが目についてしまいます。

 二つ目は国民の意識です。今の日本では「国」という概念が極めて希薄であり、それと併せて自国の歴史にも関心があまりに低い状況だと思います。私はなにも神代の時代からの皇統譜を知らないとか、そういう事を言っているわけでわはありません。例えば江戸幕末から明治にかけて、日本人が何故、近代国家の建設を急いだのか、また明治時代の人達はどの様な考えで日清・日露戦争へと突入したのか、その後に何故、太平洋戦争は起きて日本は滅んだのか。そういう事を多くの人は関心を持ってませんし、そもそも語れるだけの事を知りません。この様な国民の意識では、政治家のレベルも判るように思えるのです。

 大学生の中にも、過去に日本はアメリカと戦争したという歴史すら、知らない人がいるのですから。

 この様な事を、つらつらと考えていくと、やはり今の日本は変えられないのかなと感じたりもしますが、どうなのでしょうか。とても薄ら寒い思いすら感じてしまうのです。


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