自燈明・法燈明の考察

「死」は悪い事なのか

 「DEATHー死とは何か」という本を、未だチマチマと読み続けています。でもこの本は、内容的に「死」という実像に迫るというよりも、「死」という文字を撫で回している感がどうも否めません。まだ全体の三分の一程なので、これから新たな展開があるのかもしれませんが、どうも今ひとつ面白みに掛ける本だという感じがしています。

 この本で、いま読んでいる処に「死はいつの時点で、私にとって悪いのか」と言う言葉のがありましたが、この事について少し今の段階で私が考えている事を書いてみます。

◆「死」とは悪なのか
 以前にあの「失楽園」で一世を風靡した小説家、渡辺淳一氏のエッセイを読んだ事がありました。渡辺淳一氏は既に故人ですが北海道大学医学部講師でれっきとした臨床医(整形外科が専門)でした。彼は若い頃に自分が何れ死んで、この世界から居なくなるという事実を認識したとき、恐怖で夜も眠れなかったと言います。
 人はこの世界に生まれ落ち、立ち歩きを覚えてからは、常に前を向き手を伸ばし、様々なものを求め、得ていきます。それはお菓子であったり玩具であったり、洋服や車、その他様々なものを求めて行きます。もの以外にも友人や家族を得て、人によっては地位や名誉をもこの世界で生きていく中で得ていきます。また人に依っては技能を身に着け、体も成長する中で様々な能力を身に着けていくでしょう。

 「死」とはこの世界で得たこれらの物を一切合切失う事です。そればかりてはなく、この世界にある自分という存在自体、消えてしまうという事なのてす。仏教では三途の川の岸辺にいる「奪衣婆(だつえば)」として、こういう事を表現していますが、これを考える時、やはり「死」というのは悪と捉え、恐れ慄くのは自明の理であると言えます。

 人の心には「執着」というモノが常にあります。自分の持つものに対する執着、これは物質的・肉体的・精神的に持つものへの執着を指します。また家族や友人との人間的なつながりへの執着もありますし、一番の根源的なものに自己への執着があります。しかしいくら執着しようとも、「死」は突然やってきては無情にもそれら全てを剥がしにかかり、人はそれに抗することは出来ないのです。

 「DEATHー死とは何か」という本の中で、著者であるシェリー・ケーガン氏は、「死」という事を微に入り際に入り語っていますが、この一点を持っても、人にとって「死」とは悪であり、最大の悲劇にしか感じないでしょう。

◆仏教における死
 仏教でもこの「死」という事については、様々な観点で論じられています。残念な事は、いま日本に存在する仏教では形骸化が著しく、本来、こういった問題に対しては指導的な思想にならなければいけないものが、仏教関係者でも現代の言葉で平易に語る人物は極めて少ないと思います。「葬式仏教」と揶揄されるのも、僧形をした人の中で、その様な人材が社会に出ていない事によると私は感じています。

 創価学会に於いては、過去に様々な対談集(池田会長が実際に対談したのかどうかは脇に置いておきます)や教学研究という冊子で、こういう問題について様々な観点で論じていた時期もありました。しかし昨今では選挙や自分達の機関紙の新聞拡販しか興味が無くなったのでしょうか、その様な論陣を張る事もありません。過去に池田会長はハーバード大学で「二十一世紀と仏教」と銘打ち、「生も歓喜、死も歓喜」という言葉を語ったことがあります。要は仏教を基本とした有意義な人生を生き抜けば、死は悲しみではなく生き抜いたという歓喜に溢れるものでもある、という様な内用であったかと思います。

 確かにこの人生を生ききる事で、満足した心を得られれば、死というのは例えば壮大なドラマのエンディングの様な歓喜の姿を見せるのかもしれません。これはこれで人々の中に、なる程、共感を広げられる語り口だと思います。しかしすべての人達が、人生をその様なドラマチックなエンディングを迎えられる生き方が出来るのかと言えば、実はそんな簡単な事ではありません。

 因みに法華経では以下の言葉があります。
 「方便現涅槃」
 これは衆生に対して仏を恋慕させる心を起こさせる為に、方便として仏は涅槃「死」の姿を現じるという事です。ただここで言う「仏」とは、久遠実成の釈迦であり、仏教始祖の釈迦ではありません。久遠実成の釈迦とは、仏教の始祖の釈迦でもあり、その釈迦が過去世に教えを受けた多くの仏菩薩の本地でもある釈迦なのです。それに恋慕を起こさせるというのは、一体どの様な意義があるのでしょうか。
 またこの久遠実成の釈迦とは、同じ法華経において「常住此説法(常に娑婆世界に住み説法教化する)」とのべ、その存在は出るとか退く(生死)するものではないと言うのです、

 先にもあげましたが、「死」というのは人に取っては極めて理不尽な出来事とも言えますが、仏教の中の法華経において、この「死」とは方便であり、それは久遠実成の仏に対する恋慕を起こさせる為だと言うのです、ここには極めて大事な示唆が含まれていると私は感じています。そしてそれは単に「永遠の生命論」というものでは無い様に思えてならないのです。

◆「死」を見つめて見えること
 この世界に生きている人たちは、誰もがもれなく「死」という出来事に直面します。そしてこの出来事に直面する事で問われるのは、実はそれぞれの「生きる事」でもあるのです。そうであれば、死とは本来、悪いものではなく、とても意味深い出来事と捉えられると思うのですが、あくまでもそれは個々の人生観に依存します。

 そうであれば今一度、自分の生き方はどうなのか。そこについて思いを馳せる必要があるのではないでしょうか。


 

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