まもなく年末年始の休暇が終わり、仕事に復帰するわけですが、仕事はじめ草々に重い仕事がある事から、だんだんと憂鬱になり始めています。しかしこの2020年の年明け早々に世界は何か良からぬ方向に動き始めている感じがしてなりません。
(朝日新聞DIGITAL)
人類社会は「モザイク世界」という状況です。様々な民族が様々な文化を持ち、それぞれに歴史的な背景をもって共存しています。文化が異なるという事は、極端に言えば「常識が異なる」という事であり、相互理解というのはとても困難な状況を生み出してしまいます。
ここ近年、「ダイバーシティ」という言葉で「多様性の受容」という言葉が良く言われていますが、これは簡単に言えば「我慢をしあう事」だと言われています。つまり民族や文化が異なると、それぞれ常識も異なるので、お互いに「非常識」を受容しなくてはなりません。
今の人類社会が今後も繁栄を続けるためには、こういった事で互いの違いを人類として乗り越えられるのか、そこが問われていく時代になっているのです
以前にわたしが創価学会の男子部時代、ある幹部は以下の様に述べていました。
「池田先生の池田哲学は、人種や文化、宗教の違いを乗り越え、人類を結び付けられる哲学なんだ。いま世界は池田先生の哲学を求めている」
創価学会は現在、徐々に衰退をし始めていますが、いまだ現場の活動家や幹部たちは、この「池田哲学」という思想を弘める事で、人類の悲劇を乗り越えられると信じています。創価学会が「広宣流布」と呼んでいるのは、そういった事なんです。そしてその実現手段として、毎回の国政選挙や地方選挙に、多くの活動家や幹部たちは集票活動に血道をあげています。
こういった観点で考えてみると、創価学会の行っている事は既に「トンチンカン」な事であると解るでしょう。
この「広宣流布」とは、創価学会では牧口会長や戸田会長も述べていましたが、そもそもは日蓮正宗の中にある言葉であり、その淵源をたどれば鎌倉時代の日蓮が提唱していた言葉です。そしてそれは法華経に述べられていた言葉でもあったわけです。
「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。
我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、
断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。
宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。」
我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、
断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。
宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。」
法華経において広宣流布を託されたのは、宿王華菩薩に対してであり、その目的とは法華経を広く宣べ流布して断絶させて魑魅魍魎が動き出さない様にしなさい。そしてその為に神通力をもって、法華経を守っていきなさいという事なのです。
創価学会や日蓮正宗の人などは、広宣流布は地涌菩薩に託されたのであると言われています。そしてそれは別付属であり、総付属という事で言えば、全ての仏菩薩に対して付属されている事で、そういう観点で言えばここで宿王華菩薩に語られていてもおかしくないと考えるのでしょう。
でも根源的な事を考えるのであれば、単に法華経という経典を弘めるとか、お題目を弘めるとか、ましてや日蓮の残した文字曼荼羅を広げる事が、果たして広宣流布なのでしょうか。
先にも述べましたが人類社会とは「モザイク世界」です。宗教という観点で見ても仏教という一つの宗教で人類をまとめられるとは思えません。現にキリスト教やイスラム教徒を相手に仏教を教え、それに帰依させる事が出来るでしょうか。恐らくイスラム教の国でこの行動を行えば、その人間は簡単に殺害されてしまうでしょう。池田名誉会長もイスラム教国に行った時、随行の側近幹部に勤行を禁じた事は有名な話です。
だから一つの宗教で人類社会を統一する事なんかは、実際には限りなく「不可能」に近いのは、誰でも冷静に考えれば理解できる事です。
この事について創価学会の活動家に言っても、出てくる言葉は「だから人間主義の池田哲学なんだ」という事を安易に言うでしょう。しかしそもそもその「池田哲学」の実践組織でもある創価学会が今の体たらくではそんな事は語るまでもありません。組織活動に不満を持つ一部の会員がネット上で発言している事に対して「法律をもって叩き潰す」なんて言い、スラップ訴訟をする様な組織の思想が、果たしてどれだけ役に立つと言うのか。
そうなると法華経で語られる「広宣流布」という四文字の言葉を、単に一つの宗教や宗派等を拡大する事と考えるのは、結果として法華経の言葉を殺しているに等しいと理解をすべきなのです。
そもそも法華経が述べている思想とは、どういった事なのか。そしてその思想をもって人間の心の中にある魑魅魍魎を、どのように抑え込む事が出来ると言うのか。
広宣流布を語るのであれば、そういった観点を持たない限り、何らこの法華経の言葉は何も意味を為さないものとなってしまうのです。
でも今の時代に「広宣流布」という言葉を使う人達の中で、そういう事を真剣に考えている人が、果たしてどれだけいるのでしょう。僕は今まであったことがありません。大半は自宗教や自宗派の事しか考えていませんよね。
だから今、私は「広宣流布」という言葉を安易に使う事は止めました。この言葉を語るには、もっと多くの事を学び思索し、その上で語る必要があると考えているのです。