自燈明・法燈明の考察

心の師とはなれど心を師とせざれ

 今日は少し「心」という事について書いてみたいと思います。今回のタイトルは、恐らく創価学会の活動家であれば聞いたことがあると思います。

 この言葉の語源は涅槃経にある言葉で、日蓮も御書の幾つかに引用していますが、創価学会ではこの言葉を用いて、会員が独自に思考し、判断することを戒める時に使ったりします。要はちっぽけな自分自身の境涯で判断するのではなく、組織や幹部にしっかりと指導を受けなさいという事だと言うのです。また教学的な事も、この言葉で戒めたりする幹部も居たりします。要は「日蓮大聖人の言葉をちっぽけな自分の境涯で解釈するな!」ですね。

 私が宗教が問題だと考えるようになったのは、実はこういった、信徒が独自に思考し判断する事を阻害し、宗教組織に利用するために過去の先哲の言葉を利用している事があるからなんですね。創価学会の事を引用しましたが、この傾向とは日蓮正宗や顕正会でも同じものがあり、世の中にある宗教と云うものは、大なり小なり同じ事をやっています。

 さて、この「心の師とは云々」ですが、これは実にうんちく深い言葉なのです。

 人は生活する中で、激しく感情が揺れ動く生き物です。仏教では1日に8億4000万回、感情がころころと動くと説いています。十界論でいう「人界」も、見た目が平静であっても、実はその心の奥底では、この感情は実に不安定であり、常に揺れ動いて居るとも述べています。

 これは皆さんも経験していることでしょう。

 私が思うに人という生き物は、自分の過去を省みて、未来の事を考えて、自分がやるべき事を考えられる生き物です。これは他の生物には無い特性だと思います。しかしその一方で、人は大いに感情という事に左右されてしまいます。例えるなら理性という思考が、感情という荒馬に乗って動き回る生き物みたいなモノでしょう。

 生きる中で、過去に「嗚呼、こんな事をやっておけば良かった」という後悔を誰もが持っていると思いますが、その大半がこの感情に振り回された結果、後悔を持つようになってはいませんか?

 感情とは脳器官の小脳を中心にした旧皮質による働きで、理性は大脳にある新皮質の働きとも言われていますが、この感情とは人の心の根源的な処から起きる事なので、なかなか統制が難しい事なのです。しかし大事なことは、この感情的な心に振り回される事なく、理性的な心を以てその感情をも理性でコントロールできる様になるのが大事なのではないでしょうか。

 「心の師とはなれど」とは、そういった理性的なマインドで感情を理解する事を指し、「心を師とせざれ」とは、暴れまわる感情に振り回されて物事を捉え行動してはいけない。そういう事を指しているのではないでしょうか。

 これは個人の人生に於いても大事な事です。仏教では貪瞋痴と言いますが、貪り、瞋り、愚かは全て感情に振り回されている姿です。仕事の事、家庭の事、社会の事を感情に振り回されては大事な判断を見誤ります。あえてその感情に動き回る心を客観視して、理性を持って判断する事、出来る事がとても人生にとっては大事な事でしょう。
 またこれは社会の動きについても同様です。ニュース等の報道もそうですが、近年ではSNSで「炎上」と言われる現象も、その根底には人々の心の中の感情に働きかける情報が多く、それによって人々が突き動かされ、発生していると言っても良いでしょう。

 さて、ここまで書いてみて、では「感情に振り回されない」という事の為に、何が大事なのでしょうか。それは一人ひとりが自身の心の姿「実相:実際の姿」をしっかりと理解する事だと思うのです。それは大乗仏教で言えば、一念三千であり、久遠実成の釈尊であり、そういった「仕組み」によって自分は動いているという事実を学び、理解しなければ出来ません。また理解する為にも、それを少しづつでも自分の人生の中で、それを経験を通して実感していくしかないのです。

 すいません、最後は非常に抽象的な言葉になってしまいました。ただこの言葉を単に宗教組織が信徒をコントロールするための解釈ではなく、実は人の心の姿と、その心との付き合い方について、大きなヒントがある言葉である事を、理解して頂けたら幸いです。


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