自燈明・法燈明の考察

五重の相対の考え方①

 前回の記事では立正安国論について、少し考えている事を書かせて貰いました。今回は「五重の相対」について考えている事を少し書いてみたいと思います。

 私は創価学会で活動していた頃には、教学は青年教学一級で、一応、青年部当時は「教学部長」なんてものもをやっていました。また創価班では「広宣部」もやっていたんですが、いずれも「創価学会の教義」という事について、自分自身、大きな信頼を置いていたのです。でも壮年部になり、実際の組織運営とその活動内容に疑問を持ち、組織とも軋轢があった中で活動を止めた訳ですが、活動を止めて組織に気兼ねなく教学関係を学び直してみると、この創価学会の教学がけっこう「グズグズ」である事が理解出来たのです。

 壮年部になると青年教学1級は教授という教学部の呼称になるのですが、私の場合、当時の幹部に活動を止めた事を言っていたので教授登用もありません。でも壮年部の中では御書を読めなくても、同時中継の会合に参加する事で教授になる活動家も居たりします。創価学会にとって教学部とは、そういったレベルの話なんですね。

 まあ与太話はここまでにして、五重の相対について話を進めます。

 五重の相対とは、日蓮の立てた教相判釈で開目抄に述べられています。教相判釈とは思想や宗教を比較して、そこで高低・浅深・勝劣を判定する事で、自身の述べる法華信仰を最大一のものだと証明していました。

 先の立正安国論でも述べましたが、この日蓮の述べた五重の相対を現代に展開し、それをもって例えば日蓮正宗という宗派の教えが正しいとか、いやいや創価学会こそが一番正しいなんていう事自体、すでに開目抄の内容や、現代という時代を読み間違えていると言わざるを得ないのですが、未だに日蓮系の宗教では、自分達が正しいという時にこの教相判釈を根拠にして主張しています。

 そもそも宗教には正しいものとか、間違えたもの、邪まなものというのは有りません。しいて言えば、信徒を己が宗教組織の駒として利用する宗教こそが悪であり邪まな宗教であり、教えを通じて一人の人間の心の理解に寄与する宗教は正しいという言い方はあるかもしれません。

 何れの宗教であれ、その教義とは文献でまとめられていますが、その文献を解釈するのは人間です。であればその解釈する人間によって、幾らでも解釈が異なってしまうと言う事はある話です。世にある宗教が分裂を起こすのも、根源的に見ればこの文献という事の脆弱さを現していると言ってもいいでしょう。
 日蓮の門弟にしても、大きく分けて日蓮宗、日蓮宗不受不施派、日蓮宗不受不施講門派に分かれ、勝劣派は、本門法華宗、法華宗、本妙法華宗、顕本法華宗、本門宗、日蓮正宗に分かれています。
 創価学会は日蓮正宗の分派の様なものですが、今の処、池田大作氏のカリスマ性により分裂はしていませんが、既に会内では創価学会に見切りをつけて離脱している会員も出ています。私はその内の一人になりますかね。

 思うに日蓮は、鎌倉時代の天台教学に基づいて、経論の比較によって自分が知り得た法華信仰を最高最勝の教えである事を、開目抄の中で説明し、時の門弟たちに語り残そうと思ったのでしょう。そして構成の門弟がそれを「五重の相対」としてまとめ上げたのでしょう。

 ちなみに開目抄を「人本尊開顕の書」と呼んでいますが、当時、日蓮が置かれている立場、社会情勢などを鑑みるに、開目抄とは日蓮の「遺言書」とも言うべき内容で、日蓮はそこで自分の知り得た法華信仰が、当時の宗教の中で最高最勝である事を訴え遺しておきたかったのでしょう。日蓮の生涯で教学的に重要なものは、富木常忍へ渡していますが、開目抄は四条金吾を始めとする門下一同に対して渡しています。「法本尊開顕の書」と言われる如来滅後五五百歳始観心本尊抄は富木常忍に託されていますが、開目抄は富木常忍には託されていません。そこから見ても開目抄を「人本尊開顕の書」という捉え方は違うと思うのです。

 少し話がぶれたりしましたが、私はこの五重の相対については、この様に考える様になりました。

 では現代において、この五重の相対は無意味なものかと言えば、私は別の観点で考えてみる事により、より信仰をする人にとって有意義な視点を得られるのではないかと考えても居ます。この続きは次回で。


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