自燈明・法燈明の考察

瓦解する広宣流布観

 いよいよ秋も深まってきましたね。先月までの酷暑も収まり、ここ最近、気温もかなり落ち着いてきて、過ごしやすい気候になってきましたね。

 ところで日本の「ポンコツ化」が近年、急速に進んでいるように感じるのですが、これを感じているのは私だけでは無いと思われます。先日、仕事で職場の営業担当者と雑談した時、この人は北海道出身者なのですが、北海道では近年になり小学校の運動会の行事が行われていないという事でした。その理由は小学生の家庭で母子家庭が増えていて、昔のように家族総出の行事としての開催が出来なくなっているからとの事でした。そして母子家庭の多くが生活保護世帯である事も聞きました。

 まあこれ自体は私が直接見てきた事ではないので、本当なのかとも思ったのですが、考えてみれば私の嫁が近所付き合いの中でも、母子家庭で生活保護を受けている家庭を見たりしているので、あながち間違いではないと想うのです。

 私が生まれてから社会人になるまで、日本社会は「一億総中流社会」と呼ばれ、日本は「もっとも成功した社会主義社会」と欧米から揶揄されたりもしました。当時の日本は終身雇用制度のもと、長く会社に勤務すれば年功序列で給料もある程度上がっていき、四十代になれば大概、自分の家を持つことも出来ました。そして定年後は退職金と年金で第二の人生ともいう生き方ができる社会だったのです。
 しかし今の時代はどうでしょうか。日本社会では人件費はコストと理解され、非正規雇用や派遣労働者が増加しており貧困格差が広がっています。近年、少子化が進んでいる背景には賃金収入が少ない事もあるようです。つまり若い世代に結婚し子育てするだけの経済的なゆとりが無いという事なんでしょう。しかし一方で新築の戸建ては多く建設され、それが売れているという事も見受けられます。「それだけ収入のある人もいるのかな?」と思ったりするのですが、私の友人でも戸建てを購入している人がいるので聞いてみると、今では75歳までローンを組む事が出来るし、生命保険とセットでローンを組んでいるという話を聞いた事があります。これはつまるところ「一億総中流社会」の時代の戸建て購入とは異なる背景がある様です。以前の様に単純に資金があって戸建てを購入しているという事では無いようですね。
 故・安倍元総理の時代「人生100年時代」と言われ、定年なんて関係なく「人々は働きたがっている」と言っては高齢者でも仕事をする社会がこれから来るという事が言われていていました。しかし実態はというと、高齢者の雇用現場はなく、もし高齢者が働くといっても過酷な労働現場が大半になっていたりします。

 そうは言っても低賃金で働く現場はあります。しかしその仕事は過酷な業務内容が多く、そこに就く日本人は減少しています。そこで政府は外国人労働者を日本に呼び込んで、そういった低賃金の雇用現場の労働力を補填しようと考えていて、それが現在、日本国内の各地で起きている移民騒動にもなっていたりします。

 はたして日本社会は豊かになったのでしょうか。

 創価学会を始めとして、日蓮教団関係では「広宣流布」すれば、日本社会は安寧で繁栄する社会になる事が出来る。その様に信徒に教育してきました。しかし創価学会においても戦後七十年以上経過して、政権政党を擁立するだけの力を持ちながら、結果として今の日本の混乱と衰退に手をかしている状況を見るにつけ、この「広宣流布」という言葉の欺瞞性を感じてしまうのです。特に公明党を支援している創価学会の活動家は、社会の現実と政治の状況をリンクして捉える視点を持つ事が出来なくなっていて、いまだに自民党から「集票マシン」「癌」と呼ばれていても、公明党支援をして、それに関係した場合には自民党をも支援し続けています。

 思うに一つの宗派や教団が繁栄する事と、その宗派や教団が属する社会が素直にリンクするという思想自体が大きな間違いだとそろそろ理解すべきなのです。

「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」
 こんなセリフはマヤカシに過ぎないという事を。

 日蓮は「一念三千」を説きました。これこそが心の実相の姿であると。
 一念三千には三つの世間があります。「五陰世間(個人)」「衆生世間(社会)」「国土世間(環境)」。これら世間毎に百界千如がある事を日蓮は述べていますが、これらは「世間」であり単純に連動するという事では無いのです。
 例えば個人の心の動きがダイレクトに社会に反映するかと言えば、そこはプリズムの様に個人の心の動きが社会に反映されていくので個人の思惑とは別の姿を現します。だからこそ「世間」と呼んでいる訳ですね。そして環境とはそういった社会の姿に影響された姿を現すという事を、一念三千では述べているのであって、確かに社会の土壌は個人であったとしても、そこに個人の心の働きがダイレクトに出現するという事では無いのです。


 また教義面でも誤謬があります。
 最近では創価学会でもあまり言わなくなりましたが、「三証(文証・理証・現証)」について。例えば日蓮のある言葉があったとしましょう。まあ天台大師の言葉でも、経典にある釈迦の言葉でも構いません。その言葉や経典、御書などの文言を「御金言」と言って尊重します。しかしそれを解釈するのは一人ひとりであって、たとえ一つの言葉であっても、極端な事を言えば百人いれば百通りの解釈がうまれてしまうのです。
 日蓮の門弟が日蓮没後に多くの分派を形成したという歴史的な事実を見てみれば、この事は容易に想像がつくではありませんか。そしてこれは何も日蓮門徒だけではなく、日興門徒に於いても同じような状況になっています。

 つまるところ一つの教義を持った組織が、その教義をもちいて組織を拡大する事で、世の中が安寧で平和になる事というのは、どだいあり得ない話なのです。

 ここで考えなくてはならない事は、「組織」の事ではなく「各人の心」の事ではないでしょうか。

 人はこの人生に生を受け、そこで様々な経験をします。そしてその経験とはけして楽しい事だけではなく、どちらかと言えば悩ましい事や苦しい事が多いはずです。そしてそういった悩みや苦悩に直面した時、大事になる事はその悩みや苦悩を感じている「自分の心」と向き合う事であり、そこにこそそれ等を超克する可能性があるのです。仏教とは本来、そこを出発点とした思想でもあるのです。釈迦が何故、提婆達多を排斥したのか。それは門信徒を組織化して釈迦を神輿の上に祭り上げて行こうと提婆達多が考えていたからではないでしょうか。

 また今の人類文明の行き詰まり感にしても、人々が己の心と向き合う事を見失っている事から、様々な問題も起きていると思うのです。これは西欧などでは「霊性」という様な言葉で表わされていたりしますが、そういった視点を人類はこれから持つ事が出来るかどうか、そこに今後の人類の行方を決めるポイントがあると思うのです。

 もう「組織の拡大」「教勢の拡大」を見る宗教は淘汰されるべきであり、人の心の外に視点を持って人々を扇動するが如き宗教は不要なのではありませんか?

 私が最近考えているのは、そういう事なのです。

 

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