自燈明・法燈明の考察

心のかたちについて-中間世➂

 ホイットン博士は自身の誘導ミスからポーラの語った中間世の言葉を切っ掛けとして調べはじめ、チベット仏教の「チベット死者の書」の中から、これにふさわしい記録を見つけました。この「チベット死者の書」とは、チベット人により人の生と死に関して洞察されたもので、欧米ではターミナルケア(終末期医療)でも採用されている文献ですが、そこには次の言葉が述べられていました。

 「汝は血と肉の身体をもたない。それゆえ生じくるいかなる音、色、光線も汝を痛めつける事はできず、汝は死ぬことができない。・・これがバルドの状態であると知れ」

 またそれ以外にもインドのカタ・ウパニシャッドにも同様の記述を見つけました。

 「肉体は滅びても、自己は滅びる事はない。霊であり自己であるところのアートマンは生きとし生けるもの全ての胸の奥深くに隠れており、極微の原子よりもちいさく、極大の宇宙よりも大きい」

 これらの記述は中間世を証明する言葉ではありませんが、生と生の間の概念について表現をしているもので、実はこういった事について人類では昔から語られていた事を立証しているものだと考え始めたのです。



 翌1975年にレイモンド・ムーディー博士の研究からなる「かいまみた死後の世界」が出版された時、その内容をみてホイットン博士は、この死後の世界に対して更に関心を深め、そこから自身の研究内容について見直しを行い、ポーラの語った内容についても再検討が必要だと考え始めたのです。

 「ひとつの転生と次の転生の間には一体なにが起こるのだろうか」

◆生と生のはざまで
 ホイットン博士はその後、三十人の被験者に付き添い、自身の催眠誘導によって数年間に渡り、この生と生のはざまの世界に連れて行きました。中間世にひとたび足を踏み入れると、被験者の前には様々なビジョンが現れるようで、被験者たちはそれらをまとめながら自分の体験している事を言語化し、伝えなければならないのですが、そこには大変な労力を必要したと云います。
 人が言葉で伝達する場合には、ビジョンを「シンボル化」して伝えなければならないのですが、このシンボル化が容易くできる人と、そうでない人では、伝達する内容にも差が生じてしまう事もあったようです。

 中間世への旅は、多くの場合に被験者の過去世の死の場面から始まります。ホイットン博士はまず被験者を前世の状態に催眠誘導し、そしてその人生の最期の場面へと誘導します。その段階で被験者に対して質問をすると、そこにはレイモンド・ムーディー博士等が集めた臨死体験そのままの情景を語りだしたと言います。この時の被験者は死の経験から苦悶の表情を浮かべたり、恐怖や恐れの表情を浮かべ、その後に無表情になると言います。そして安らいだ表情になったのち、その後、驚きの表情に変わったと言います。
 恐らくこの段階で被験者の眼前には、それまで経験した事のない情景が広がっている様で、その光景にすっかり夢中になっていたと言います。ホイットン博士はこの状態に被験者を慣らすために、少し時間を置いて語り掛ける事にしていました。またこの状態の被験者には、それぞれの人生の人格を生み出している「永遠の自己」に対して語り掛ける事になると言います。

 被験者の中で、エレクトロニクスの技術者であった人は、この時の状況について次の様に語りました。

 「過去世を体験しているとき、自分があきらかに感情的な反応を生じる一つの人格だというのは解るのですが、中間世では目に見える体というのはありせません。私はイメージに取り巻かれた観察者なのです。」

 中間世の体験というのは、この肉体が無い存在だという事から始まるようです。そしてその時、被験者は戸惑いを感じると言います。中間世の体験というのは、時間の経過や三次元的な感覚がすっかり欠落してしまう様で、簡単に言えば理論も秩序も時の経過も関係なく、全てが同時に起きるというのです。この様な混沌の中から、どの様に証言を引き出したら良いのか。ホイットン博士は幾つかの経験から、このコラージュの様な中間世に現れる沢山の断片を持った出来事から、一つ一つの出来事を被験者に語ってもらう様にしたと云います。

◆語られた中間世
 この中間世について、ホイットン博士の研究によれば、幾つかの段階があるようてす。

 ①この世を去る
 臨死体験でよく「トンネル体験」として語られていますが、ホイットン博士の被験者たちは、下の方に横たわった自分の体を「見て」から、円筒形の長い通路を引っ張り上げられたと言います。この時に「案内人(ガイド)」に会って連れて行かれる人もいたそうですが、大抵は一人で進むようです。ケースに依っては、ここで先に亡くなった身内や親族にめぐり逢う人も居るそうです。

 ②光との出会い
 その後、目も眩まんばかりの光や、圧倒的な明るさと出会うのも中間世に入った時の特徴だと言います。そしてこの宇宙意識ともいうべき、広大な体験をすると言います。ホイットン博士によれば、その始まりはいつも完全な驚きとして感知され、視野を遮っていた目隠しが突然取り外され、宇宙が展開される有様と、その宇宙のどの位置に自分が位置するのか、また人間が転生するのは何故か、永遠の生命とは何かなど、様々な謎もこの段階では簡単に解けていくというのです。

 ③裁判官たち
 日本の仏教では「閻魔大王」とか「十王」とも言われ、古代エジプトでは「精霊の裁判官」といい、ギリシャ神話では「無慈悲な裁判官」と言われていますが、先の光との出会いのあと、ホイットン博士の被験者達も同様な事を語りました。人によりその「裁判官」の姿は様々な表現をしていたと言います。ある人は三人の老賢人であったといい、またある人は四人の老賢人であったといい、ある人は宗教上の「大師(マスター)」であったとも言います。これらは各人のもつシンポルにも影響された表現かもしれませんが、ある被験者は次の様に語りました。

 「案内者は私の腕をとって、長方形のテーブルを前に裁判官が着席している部屋へと連れて行きました。裁判官たちはゆったりとした白い衣装を着ており、みな歳をとっていて賢そうでした。この人達と一緒にいると、我が身の未熟さを痛感しました。」

 そしてこの場で、その人が今しがた終えてきたばかりの人生を評価するというのです。それは言語ではなく直感的なやりとりの中で行われますが、けして「裁判官」が裁くのではなく、自ら顧みる事で行われたと言います。

 ホイットン博士は言います。生と生のはざまに各人にとっての地獄があるとすれば、それは自分自身を顧みるこの瞬間であると。前世での失敗に対する後悔や罪悪感、自責の念が心から吐露され、そのために見るも無残なほど苦悶し、悲痛の涙にくれると言います。この世に生きていれば、こういった感情はごまかす事は出来ますが、どうやら中間世ではこういった感情は生々しく再現され、妥協は許されないそうです。他者に与えた痛みは自分への痛みの様に感じ、それを悔い改めようとも既に人生が閉じられてしまった事が一番の悔恨にもつながるというのです。

 この時、ある被験者はこの苦しみから、自身の身体に障害がある様に感じ、またある被験者は、その罪深さを昔ながらの十字架を背負ったキリストのイメージで語ったと言うのです。

(続く)


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