自燈明・法燈明の考察

哲学と宗教そして題目

 早くも3月になりました。2月末から始まったウクライナ紛争ですが、聞く処によるとロシアのプーチン大統領は短期決戦を考えていた様です。しかし何時になったら収束するのでしょうか。報道の映像を見ていると、ウクライナの女性や子供たちがかわいそうでなりません。

 最近になり感じている事ですが、私はこの世界の現実、また自分が信じて来た事に対する認識をあまりせずに「世界平和」なんて事を口にしていました。
 この年齢になるまで、そんな事を考えもせずいた事には、個人的にはかなり自責の念を持っていたりもしますが、ただ自責の念を持つだけでは、あまり意味もないので、では何が不足してどう間違っていたのか、その事をまずは「文字化」して整理をしてみたいと思います。



◆哲学と宗教について
 私が「世界平和」という事を語るための基軸にしていたのが、創価学会という宗教団体の教えでした。
 創価学会では「人種や宗教の枠を超えて、人間が互いに理解し合える思想は池田思想である」と教えていました。そして「池田思想」とは、鎌倉時代の僧である日蓮(創価学会では日蓮大聖人と呼んでましたが)の思想を現代に展開したものだと言うのです。
 しかしその実態はと言えば、ここ数年であからさまになってきたのは、そもそも「日蓮大聖人仏法」というもの自体が、日蓮が語った内容とは異なるという事、そしてそれは江戸時代中期の賢樹院日寛師が中古天台を元に構築した内容であった事、また「池田哲学」とは言っても、そもそも哲学性として独自性を持ったものではなく、いわゆる「良い言葉」のパッチワークでしかないというものでした。

 しかしこの「哲学性、思想性」の欠如があったとしても、当の創価学会の活動家自体、その問題性に向き合う事はなく、ただ「行動する事の重要性」を言い、そもそも「哲学性、思想性」の重要性を理解していません。

 創価学会に於いては「哲学、思想」とは「理論」であり、日蓮大聖人仏法は「事の仏法」と考え、それは「理論」と共に「行動」があるという事だと考えており、「宗教」と「思想、哲学」の違いとは、この「行動」の有無、そして生活実感として「功徳(御利益)」があるかどうかだと考えられています。

 しかしこれは大きな誤解ですね。

 「思想、哲学」とは簡単に言えば、物事に対する見方や考え方、そしてその捉え方の事だと言っても良いでしょう。
 そして宗教とは、ある指導者の「思想、哲学」を普遍化(この場合には共通言語化すると言っても良いかと思います)し、それを「教義」として、その教義を信じる人達の社会組織という事になります。
 そこから考えれば「思想、哲学」という事を蔑ろにして良いはずもなく、単に宗教とは「思想、哲学」に加えて「実践」があり、「功徳(御利益)」があるものだという認識自体が間違えているのです。

◆御題目(祈り)について
 最近では創価学会の男子部長がツィッターのアカウントを持ち、そこで今回のウクライナ紛争について「私たちは戦火にさらされている人々の無事と一日も早い事態の終息を祈り、今すぐ戦闘を停止することを重ねて強く求めたい。」と発言をしていました。この発言自体を云々するつもりはありませんが、創価学会では何か問題があると「祈る」事を重視します。
 しかし創価学会に於いて「祈る」というのは「南無妙法蓮華経」と唱える事、そして唱える中で「祈る内容を想像しながら」祈る事を言います。

 正直「南無妙法蓮華経」と祈る事、祈る姿勢にどんな意味があるのでしょうか?

 私は正直、今の時代に創価学会の教えるような、御題目を唱えて、平和を祈る事には意味を見出していません。
 ただし私は人の行う「祈る」という行為自体を否定してはいないのです。「御題目で祈る」という事に対して、私は意味を見出せないのです。

 「南無妙法蓮華経」という事を「ナム・ミョウホウレンゲキョウ」と唱えるのか、では「ナンミョーホーレンゲキョー」と唱えるのか、いやいや「ナンニョーホーネンネキョー」と唱える事を言っているのか、そこからして創価学会の公式見解は何もないのです。
 これ、私はなにも馬鹿にして言っているのでは無いのです。祈りをするのに「御題目だ」というなら、まずはそういう「唱え方」から大事にすべきなのではないかと思うのですが、そこすら大事にせず、ただ日蓮の文字曼荼羅に向い、文字曼荼羅の中にある「妙」という文字を見つめて祈るんだと教えたところで、その発音の意味する事、それによりどの様に祈るのかさえ、組織として統一見解もないまま、御題目で祈るんだという姿勢に、私は大きな疑問を持っていますし、その為に、その様な行為に意味を見出す事が出来ないんです。

 私は人の「祈り」には「どの様な事を祈るのか」がまずは問われるべきだし、それ自体は一人ひとりの内面に関わる事だと思います。そこを問わずに、組織として形式的な言葉で指導者が「早い事態の終息を祈り」と発言しても、それにはあまり意味が無いと思っているのです。

 ちなみに「南無妙法蓮華経」という御題目自体、実はもう少し意味を理解して咀嚼すべき事もあるのですが、今回の記事ではあえてこの事には触れないでおきます。

◆今問われなくてはいけない事
 2022年に入り、大国ロシアがウクライナで戦争を始めました。戦争自体には、どちらかが「絶対的な正義」で、もう一方が「絶対的な悪」という事ではありません。戦争自体は、人類の取る行動の中では最大の愚かな行為に違いないのですが、その戦争が持つ構造は、とても多重的多面的な要因も絡んでいるので、一言で語る事は難しいのです。しかしそうは言っても早急に収束に向けて進む事が求められて来ますし、やはりその戦争で傷つく人、亡くなる人が少しでも少ない状況で短期で終息する事を、私自身も心の中では常に祈っています。

 ただ今の人類社会が抱えている問題は、何もこの戦争だけではありません。未だに終わりが見えない世界的なパンデミック、貧困格差問題、食糧問題、エネルギー問題や環境問題、あと人口爆発問題と、その問題は広い範囲で顕在化しているのです。そしてこの問題を解決するには、人類は自分達の中にある「心の姿」という事を理解しなければ、これらの問題について根治的な解決には至らないと思いますし、その為のヒントが「仏教」の中にあると私は考えています。

 仏教とは本来、「宗教」ではない。これが最近になって私が感じている事なのです。

 これからの時代、人類がこの地球上で今の文明で生活を継続していくのであれば、私は人類が自分達の中にもつ「心」という事に向かい合い、それに対する理解を深めていく事に取り組まない限り、この先、今の人類文明の永続性はないと思います。

 そしてこの事に気付く人達が増えていく事、その為に「思想、哲学」の重要性に眼を向けて動き始める人が増えていく事でしか、その可能性を広げる術はないのではないか。

 まあ、手遅れ感がとてもある事なんですが。


クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「思う事」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事