自燈明・法燈明の考察

仏とか仏界とか考えた事

 前の記事はあまり読み易い記事では無かったかと反省しつつ続けます。

 いろいろと自分なりに考えた結論なんですが、結局、仏とか仏界とか言って、まるでそこを到達点として、生命が完成されるが如き「幸福」というのは、人生では有り得ないのかなと、私は理解しました。

 仏教では確かに「成仏」を目指し、様々な修行を行っています。これは仏教を標榜する各宗教や団体全てに共通することです。しかしこの様な成仏観を、そもそも日蓮自身も「仮の教え」として考えていたようです。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」
(開目抄上)

 ここで日蓮は久遠実成の成仏を「本門」と捉えていて、この本門の成仏観の久遠実成を明かされた時点で「四教(華厳時~方等般若時まで)の因果(修行して成仏)」で言う成仏観は破壊されたと言うのです。またこれにより「爾前迹門の十界の因果」という、これも「地獄から仏界までの横並びにある十界」を元に語られている仏という考え方をも破壊されたと言っています。そして久遠実成で明かされた成仏観こそ「本因本果の法門」であると言っているのです。

 では本因本果の法門の成仏観とは、一体どの様なものなのか。日蓮は続けて述べています。

「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
(同、開目抄上)

 ここでいう九界とは「地獄界~菩薩界」を指していますが、これは人の心に現れる感情や思考などの様々な動きと言っても良いでしょう。そしてこれは「無始の仏界に具し」と言う様に、仏界の働きとして心に元から具わるものだとしています。またこの仏界というのも、過去から現在、そして未来へとつながる九界の心の動きの背景に備わるものだと言うのです。そしてこれこそが「真の一念三千の姿である」と述べたのです。

 これの指し示している意味って解りますかね?
 正直、私はこの内容を初めて読んで理解した時、ひっくり返りそうになりました。

 私は創価学会で活動を始めた時、人生の苦悩は過去の宿業によるもので、それらは御本尊様に御題目を唱え、学会活動をする中で、この宿業を「転重軽受(とても重い宿業を、護法の力で現世に軽い苦悩を受ける事で変えていくという事)」出来る。これを宿命展開と呼び、人間革命とはこの事を言うんだと教わりました。だから一生懸命、創価学会の信心活動に励むんだという事でした。

 しかしこの開目抄で日蓮が言っている事は違うのです。

 私が創価学会で教わった宿命転換とか人間革命という考え方は、全て「この修行の先に成仏する(幸福になれる)」という様な「四教の因果」の考え方と同じですね。しかし本門の因果とは、こういった人生にある様々な悩みや苦しみ、これも九界の中の心の動きの範疇なのですが、これはそもそも「仏界の働き」によるものだと言うのです、そしてこの今の人生や、この先にあるかも知れない未来に渡って、こういった様々な悩みや苦しみ、また喜びも含めて、それらは全て仏界が九界を通じて起こす心の働きだと言うのです。

 おいおい、宿命転換とか言うのはどこに行ったんだ?

 でも確かにそうなんですよね。

 法華経如来寿量品で久遠実成によって明かされた成仏というのは、五百塵点劫という測りがたい程の遠い過去に、既に成仏していた仏(久遠実成の釈尊)が居て、この仏はその遠い過去から現在に至るまで、様々な仏としてこの世界に現れては人々を説法してきたという事を説いていました。

 しかしその一方で、この世界に生まれ出た釈迦も、この久遠実成の釈尊であり、釈迦は生まれた時に母と死別し、様々な喜怒哀楽を経験しながら、この人生の無常を観じ、苦しい修行などに取り組んできました。また過去世に於いては燃燈仏という仏の下で修行したと言いますが、この燃燈仏も実は「久遠実成の釈尊」だという事を如来寿量品では語られています。

 これは創価学会の言う「宿命転換」でも無ければ「人間革命」なんて事でもありませんよね。

 つまり創価学会は日蓮仏法を信奉していたとしても、実際に目指していた事が日蓮仏法とはまるで異なるものであったという事なんです。

◆幸せや不幸せ、四苦に付いて
 さて、日蓮が言う様に九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備り」であったとして、そうなると人生の幸せや不幸、また様々な悩みや苦しみというのは、一体どの様に捉えたらよいのでしょうか。簡単に言えば仏界とは、最高の幸福境涯を指す訳でもなければ、生命の到達点の様なものでも無いという事になり、いわば「心の本質(本来の姿)」という事が仏であるという様なものになります。

 これでは「人生の四苦(生老病死)」の解決なんて、出来ないという事になるのでは無いか。

 しかし考えてみれば、様々な仏教説話に見える苦しみから脱する姿は、まるで仏がもの凄い神通力を備える様な存在であるとか、それにより救済されるとか、そういう事として語っていない話があるのです。例えば「キサーゴータミー」の説話がそうです。

・キサーゴータミーの説話
 キサーゴータミーという母親がいました。
 ようやくよちよち歩きができるようになったばかりの一人息子を失い、悲しみに打ちひしがれます。彼女は、息子を生き返らせ、治す薬を求めて釈尊のもとを尋ねます。
 そこで釈尊はゴータミーに一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言います。
 釈尊の言うがまま、町中の家々を尋ねたキサーゴータミーは気づきます。
「ああ、なんと恐ろしいこと。私は今まで、自分の子供だけが死んだのだと思っていたのだわ。でもどうでしょう。町中を歩いてみると、死者のほうが生きている人よりずっと多い。」
彼女は死はどこの家にもあることに気づかされました。

そこで釈尊が彼女に、

 子供や家畜 財産に
 気を奪われて とらわれる
 人を死王は さらいゆく
 眠りに沈む 村々を
 大洪水が のむように

という詩を送ったと言います。

 死が、生きる者の逃れられない定めであることを教えられたキサーゴータミーは、出家して生死輪廻の苦しみの世界を超えた、仏の悟りの世界を求めていきました。

 この説話にある釈迦は、嘆き悲しむキサーゴータミーに「神通力」なんてものは示していません。釈迦が彼女に示したのは「人の死」の姿と、それを気付く為のヒントです。そしてゴータミーはその釈尊の言葉を実践する事で、その事を心から理解する事で、最愛の子供の死の苦しみを乗り越える事が出来たのです。

 確かに人生というのは、様々な悩みや苦しみが付いてきますが、私たちはその様な「四苦」を消し去るとか、乗り越える、という事ではなく「理解する」という事が本来は必要なのかもしれませんね。

 このキサーゴータミーの説話からは、その様な事を感じたのです。この事については、もう少し続けます。


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