自燈明・法燈明の考察

正法について考えた事⑤

 さて「正法」について少し考えてみます。
 日蓮の「立正安国論」とは「正を立て国を安んじる論」という事ですが、それでは「正を立て」とはどういった事なのでしょうか。

 日本に仏教が伝来したのは、奈良時代に百済(今の朝鮮)から伝わって来たと言います。この伝来の歴史についても、別に書いてみたいと思いますが、日本に伝来した仏教はその後、「鎮護国家の仏教」として日本に根付きました。

 私は井上靖氏の「天平の甍」という小説を以前に読みましたが、これは中国の仏教僧、鑑真和尚の日本に招聘に活躍する青年僧達の話でした。当時の仏教とは大陸(中国)から伝来した最新の思想であり文化でした。そして日本で僧侶とは朝廷から許可された「官僧」であり、それ以外に勝手に得度(出家)するのは「私得僧」と言われ、今で言えば犯罪者に近い立場であったと言います。

 何故「官僧」であったかと言えば、当時の日本の仏教とは朝廷を中心とした「国家」を護る為の教えであり、僧侶とはその執行官でもあったのです。だから律令制度の中で、官僧は人々に対して弘教は禁止をされていました。
 また当時は「民衆」という概念はそもそもありません。民衆という言葉すら当時無く、あっても「民草」という程度であったと思われます。

 インドで始まった仏教は、釈迦が人々の苦悩を救いたいという事で始まったのに、日本に伝来するとそういった教えになっていたのですから、変な話です。

 この日本の仏教が変化し始めたのは鎌倉時代。仏教は人々の中に浸透すると共に、様々な宗派が勃興した時期が、この鎌倉時代でした。この時に興た宗派を鎌倉仏教とも呼びます。

 この鎌倉仏教の先駆けはやはり「法然房源空」であったと、私は理解しています。日蓮宗系では「念仏無間」として忌み嫌い、法然房を悪鬼の様に謗りますが、この法然房がそれまでの「国家鎮護の仏教」というものを、初めて人々の中に「救いの教え」として展開したと私は思っています。法然房が弘めたのは念仏であり、仏教の教義的には様々な問題を孕んでいたと思いますし、その事については日蓮も自著の様々な処で指摘をしています。



 この法然房は幼少の頃に、目の前で父親を殺害されました。しかしその父親の遺言により、当時は当たり前の様にあった「敵討ち」をその父親から封じられ、元々利発な少年だった事もあり、出家し比叡山延暦寺で修学しました。そして比叡山では秀才として認められたのですが、法然房は自らが求めた答えがここでは得られなかった事から、比叡山延暦寺から黒谷に移り叡空を師として修行します。

 思うに幼少の頃に目の前で実父を殺害されたという事もあり、法然房はかなり内省的な人物ではなかったのではないか、私は勝手に想像しています。そして内省的な人物を納得させるだけのものを、当時の比叡山延暦寺は与えられなかったという事なのではないでしょうか。

 その後、念仏宗を開き「専修念仏」を説きましたが、これは人々や貴族の間に瞬く間に広がっていきました。法然房は官僧でした。官僧は法律では人々の間に仏教を弘めてはならないとなっていたのですが、この法然房の念仏宗がその形骸化した姿を変え、鎌倉仏教の始まりとなったと言っても良いでしょう。

 日蓮は「立正安国論」の中で、念仏宗について次の様に語っています。

「而るを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の教典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る、故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し」

 ここでは法然房の残した選択集の教えによって、人々は念仏宗を尊び、そのほかの仏や経典は捨て去るだけではなく、阿弥陀仏には供養しても、それ以外の仏には供養する想いも無くなり、国内の仏教各寺院は衰退したと言うのです。
 しかし考えてみれば、念仏宗が拡大したのは人々の求めに合致した事を法然房が説いたという事であり、他の宗派が衰退したというのは、その当時の既成仏教は、そもそも人々の想いすら理解せず、形骸化し権威主義が蔓延っていたからではないでしょうか。それを考えると、仏教界が衰退した姿を顕す切っ掛けとして法然房の念仏の教えだったというだけでしょう。

 また日蓮は立正安国論で、法然房の選択集を責めますが、その中で客人が「華洛より柳営に至るまで釈門に枢�u在り仏家に棟梁在り、然るに未だ勘状を進らせず上奏に及ばず汝賎身を以て輙く莠言を吐く」と質問、これはそんな法然房の教えが悪かったと言うが、京都から鎌倉までの間に多くの僧侶がいるが、何ら責める人が無いではないかという事の質問を提起して、次の様に語っています。

「其の上去る元仁年中に延暦興福の両寺より度度奏聞を経勅宣御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ其の門弟隆観聖光成覚薩生等は遠国に配流せらる」

 ここでは延暦寺や興福寺といった大寺院から「浄土宗は仏教を乱す悪しき輩だ」と朝廷に直訴したという歴史的な事実を取り上げて、それにより当時の仏教界も憂いていた様に言いますが、これについて「仏教を乱す」と延暦寺や興福寺が訴えたのは単なる言いがかりであり、この当時の念仏宗には平重衡や、一の谷の合戦で平敦盛を討った熊谷直美が念仏宗に帰依するなど、背景には異常なまでの勢力拡大をした法然房の念仏宗への「妬み」もあった様です。

 この当時の延暦寺では「僧兵」などを抱え、事あるたびに朝廷などに強訴を繰り返し、すでに日本の根本道場であった比叡山延暦寺などは腐敗の極みに達していたのです。1183年には天台座主である明雲が木曽義仲に打ち取られる事件も起きていましたが、それは象徴的な事件であったとも言われています。

 この様な歴史的な背景を少しでも知ると、法然房が弘めた念仏宗によって、当時の仏教界が廃れ凋落したのではなく、既に腐敗の極みの中にあった延暦寺を中心とした当時の仏教界の中で、その人々を魅了した教えを説いたのが法然房であり、時代にも合致した事から燎原の火の様に広がり、結果として仏教の凋落を後押ししたに過ぎないという事でしょう。

 そしてこの法然房の行動を先駆けとして、人々の中にそれまでにあった「鎮護国家の仏教」ではなく、「人々の救済」を説く仏教運動が始まったと、私は理解しています。そして日蓮はこの鎌倉仏教の中で活躍した僧侶の一人なのです。

 日蓮は法華経を中心とした教義を中心に据え、小難しい形式的な儀式とかなしに「お題目」を唱える事で人々は救われると述べました。そして法華経を中心に据える事こそが、日本の仏教界を正す事にも通じ、それによって世の中も安寧になると立正安国論で主張したのです。
 またそこでは仏教を破壊するのは僧侶であり、その仏教の破壊を後押しするのが、そういった僧侶に唆された為政者である事を主張しました。そしてその結果、国が乱れるのであり、これを正さなければならない。これを正すためには僧侶を教学的に糺し、そして為政者も僧侶の本質的な事を見極めるべきであるという主張をしました。

 いま、日蓮の門下を自称してる創価学会や日蓮正宗などは「正法」とか「広宣流布」なんて簡単に述べますが、こういった当時の歴史を振り返れば、日蓮が述べた主張とは、単なる自宗派の拡大等という浅薄な事では無いと思わないのでしょうか。

 少しは当時の歴史的な背景を俯瞰して、考えてほしいものと思います。

(続く)

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