創価学会では選挙戦を「立正安国論に沿った闘い」とか「四俵の静謐のための闘い」と言い、日蓮の言う「正法を立て国を安んじる」ための活動だと主張し、多くの活動家はその事を信じ切っているからこそ、選挙となれば能動的に捨て票を集め、公明党の議席確保に必死となるのです。そこには公明党議員の資質とか、公明党の掲げる政策なんて実の処、関係ありません。
日蓮の遺文では「正法」とは法華経と言っていて、御題目を唱え弘める事でこの世界は安寧になると述べています。しかし最近の創価学会では日蓮仏法ではなく「池田哲学」が現代における「正法」と考えている様です。しかし実際に今の活動家に「では正しい法とは何か?」と質問をすれば、恐らくその回答は千差万別なものが返ってくると思いますが、どうでしょうか。
これは創価学会というのが「組織活動」を「信仰そのもの」として教えている為に、「何のために活動するのか」という、その「何のため」とい思想的軸について、あまり問わないという組織文化によると思います。
まあこのあたりは別の機会に書かせてもらうとして、今回は「一念三千」という事について、少し考えた事を書かせてもらいます。
◆一念三千の構成
前の記事でも紹介しましたが、日蓮は開目抄の中で法華経の肝心は「一念三千」と述べています。では一念三千とはどういった内容なのか、以前にも幾度かこのブログで触れましたが、再度ここで復習してみます。
一念三千の具体的な事は「如来滅後五後百歳始観心本尊抄」で説明されています。
「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り」
ここでは心は十界(地獄界から仏界)を具えていると言います。そしてそれぞれの界毎に十界を具えていると言います。これを十界互俱と言います。ここで十界にそれぞれ十界が備わるので百法界となるとも言います。
この百法界の一つ一つに三十種の世間があると言います。これは五陰世間(色・受・想・行・識)という有情単体の世間、そして衆生世間という有情が集合した世間(社会)、国土世間という衆生の生きる土地や環境。この三つを三世間と呼び、それぞれの世間には十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)という実相を備えていると言うのです。これを三十種の世間と呼んでいます。
この事から人の瞬間の心には三千の世間が備わっているとして、一念三千と呼んでいるのです。
・十界互俱
ここで十界互俱とは、人の心の動き(感情や想いなど)は、単純な十種類に分類されるという事ではなく、瞬間の感情や想いが相互に関係しあって、心の働きがあるという事を表現したものだと言われています。
一つ例を示すと、泥棒する人(餓鬼)であっても、それは家族を養う為(菩薩)為であったり、人を救うため(菩薩)に、悩み苦しむ(地獄)という様な事を互俱として表現しているのです。
・三十種の世間
これは瞬間の心の働きが、個人の姿や行動に現れますが(五陰世間)、それは社会との相互影響の事であり(衆生世間)、そして住む場所や周囲の環境とも相互影響がある(国土世間)と言う事を示しています。
しかしこの「一念三千」の法門とは天台大師の教えの中では、明確に文献として述べられていないという事を日蓮は観心本尊抄の中で述べています。
「問うて云く玄義に一念三千の名目を明かすや、答えて曰く妙楽云く明かさず、問うて曰く文句に一念三千の名目を明かすや、答えて曰く妙楽云く明かさず、問うて曰く其の妙楽の釈如何、答えて曰く並に未だ一念三千と云わず等云云、問うて曰く止観の一二三四等に一念三千の名目を明かすや、答えて曰く之れ無し」
ではこの「一念三千」とは、どこに明かされているのか。日蓮はその事について次の様に述べています。
「故に止観の正しく観法を明かすに至つて並びに三千を以て指南と為す乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に「説己心中所行法門」と云う良に以所有るなり」
つまり観心を行う段階に至って、(一念)三千の考え方を手ほどきとして教えている。これは究極の極説なのである。だからこの事を摩訶止観の序には「説己心中所行法門(己心の中で説く所の行ずる法門)」と言われていると言うのです。
つまり最重要な法門であり、観心行を行う際の指南として教えられるのが一念三千という事で、中国の天台宗は「禅宗」と呼ばれ、修行者は観心の為に瞑想をひたすら行っていたと言われていますが、自らの心を観じる際のヒントとして教えられた事であったというのです。
◆正法と一念三千について
日蓮は法華経が正法と言いましたが、法華経が正法であった理由とは、そこに一念三千という肝心な教理が明かされていたからと言います。
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」
法華経とはそのまま読めば壮大な物語です。そして寿量品では久遠実成という物語が説かれていますが、その久遠実成の物語の奥底に一念三千という教理は存在していました。だから日蓮は「文の底にしづめたり」と述べているのでしょう。龍樹菩薩や天親菩薩と言った過去の論師たちは、この事に気づいていましたが表立って語らず、天台大師のみがそれを取り出して、心の中に抱いていたと言います。確かに摩訶止観等、天台宗の主要な論釈には明確に語らず、観心行のヒントとして教え伝承していたというのは、「これをいだけり」と言う表現に合致していると思います。
では一念三千とはどの様な事を示す教えなのか。
それに関するヒントは日蓮の開目抄の中にあると私は思うのです。
「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
ここで日蓮は、本門で久遠実成を述べる事で「この娑婆世界で修行して成仏した」という成仏観を否定する事となり、法華経以前の成仏観(四教の果)を否定する事は、それまでの仏道修行観(四教の因)も否定される事になると言い、これにより法華経以前の衆生と仏の関係等も打ち破ったと述べています。
そして打ち立てたのが「本門の十界の因果(一念三千)」だというのです。
大乗仏教全般では、衆生は長期に渡り仏の下で修行を重ね、その積み重ねにより悟りを開き成仏すると述べていますが、この一念三千の教えからすれば、人々の様々な心の働きとは、ここでは「無始の仏界」と言いますが、人々が元来、心の奥底にある仏界の働きによるものであり、人々の過去からの心の働き(無始の九界)についても、全てこの仏界の働きによるものであるという事になると言うのです。
つまるとこと、例えば四苦八苦と言われる様々な苦悩にあっても、それらは一念三千からすればすべて仏界の働きによるものであり、私達はこの仏界の働きとは不可分な存在である、そういう事を指向していると言うのです。
ここは少しややこしい話になりますが、よくよく吟味する必要があります。
ちょっと長くなりましたので、この話は次回にも続けます。
(続く)