自燈明・法燈明の考察

成仏とはなんだろね②

 前回の記事に引き続き、この仏教でいう成仏という事について、私の考えについて記事にしてみたいと思います。もし興味があればお付き合い下さい。

 仏教でいう「成仏」という事が、もし人類普遍の事であれば、何もこういった事はアジアの中の仏教圏の中に限定されるものではないと私は思うのです。つまり洋の東西問わず、人間というのが思索をする中で、同様な思想というものは出てくるのではないだろうか。私はその様に思いました。

 そんな中で今回、紹介したいのはニール・ドナルド・ウォルシュ氏の著作である「神との対話」の内容です。

 これから書く事は、なにやら怪しげな「ニュー・エイジ思想」の紹介の様なものになります。まあ抵抗のある方もいると思いますが、ここでお断りしておきたいのは、私はけして最近のニューエイジに傾倒している訳ではありません。このニールの体験した事、そしてそこで体験した内容が、仏教の「成仏」という事を思索する上で、大きなインスピレーションを与える内容でもあったので、ここで少し紹介する事にしました。


 このニール氏ですが、アメリカ合衆国のウィスコンシン州ミルウォーキーに1943年に生まれた人で、ローマ・カトリックの家庭で、その教えのもとで育った人と言います。20歳の時にカトリックの「原罪」という概念に納得できないものを感じて、神に背を向けるようになり、30代後半にはエリザベス・キュブラー・ロスのスタッフをして、女史の考え方に大きな影響を受けたと言います。

◆神との対話
 ニール氏は苦しみや悩みがあると、送る宛ての無い手紙を書くという習慣があったそうで、1992年春に、それまでホームレス生活や離婚を経験、人間関係や仕事に行き詰まった中、自身の人生に憤怒し、テーブルに置いていたノートに瞋りや失望を書きなぐった時に、自動書記の様な事で対話が始まったと言います。

 ここから始まった「神との対話」の内容が1995年にアメリカで出版され、世界的なベストセラーになりました。内容はかなり膨大なもので、実は私もすべてを読み切った訳ではありません。ただかなり興味深い内容がありましたので、そこについてまずは抜粋して紹介したいと思います。

神について
 神との対話の冒頭で、この対話の中のニール氏との対話を始めた存在が、自身の事、つまり「神」という存在について語っている箇所がありましたので、まずはそれについて紹介します。

「まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。他には何もなかった。その、「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」ー、あるのはそれだけで、ほかには何もないから。他に何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じだった。」

 一般的にヤソ教(ユダヤ・キリスト・イスラム教)の神と言えば「エホバ」「ヤハヴェ」というもので、この世界や人類を想像した絶対神を指しますが、1992年の春に、ニール氏と対話を始めた神というのは、そういったヤソ教の神とは違います。ここで語られているのは、宇宙の始まりと共に存在したという「存在のすべて」、これが神だと言うのです。これは別角度で考えると「意識」という事かもしれません。しかしここでは、その意識が宇宙の始まりから存在し、初めは「単一な意識」でしか無かった事から、実は何も無い「無」という事と同じ存在であったと言うのです。

 近年、この「意識」というモノが謎であるという論説が多く出ていますが、ここで語る意識とは、所謂「心」に相当する事なのでしょう。そしてそれはこの言葉によると、宇宙の始まりと共に存在したと言います。

「「父なる神」に多くの霊の子供が生まれると語っている神話がある。生命が自らを増殖させるという人間の経験になぞらえることが、この壮大な出来事を理解する唯一の方法だったのだろう。「天の王国」に数えきれない霊が突然に生まれたのだから。
このたとえで言えば、神話は究極の現実にそう遠くない。なぜなら、わたしという全体をかたちづくっている無数の霊は、宇宙的な意味でわたしの子供だからである。
自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。創造者が、「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
あなたがたの宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは、一部で言われているように物質的な身体が似ているということではない(神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。わたしたちは、同じものでできている。わたしたちは、「同じもの」なのだ。同じ資質、能力をもっている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。」

 この中で、宇宙の始まりから存在していた、ここでは「神」と呼んでいますが、別の解釈からしたら「心」でもよいかと思います。そしてその心は自分自身を「体験的に知る」という目的から、自分自身を分割して、無数の自分を作り出したというのです。

 そして突き詰めると、その無数に作り出された「自分」というのが、私たち一人ひとりの「心」であり、その心には、物質的な側面だけではなく、本質が同じものを備えているというのです。

 少し観点を仏教に戻してみます。
 仏教の法華経には「如我等無異」という言葉があります。これは方便品にある言葉で「仏の目的は自分(仏)と等しい境地に衆生を導くことにあるということ。」という意味がありますが、如来寿量品で久遠実成を明かした時には、諸仏と衆生がともに久遠実成の釈迦と同じ存在であり、この久遠実成の釈迦とは、五百塵点劫という長遠の昔と言っていますが、これはそもそも宇宙の始まりから共にある心であるという意味にも考えられるし、その観点からすると、このニール氏の出会った「神」という存在も、実は久遠実成の釈迦と同質なものではないのか。

 その様に思えるのです。

 ニール氏の出会った「神」は語ります。

「つきつめて言えば、自分が何であるかを知るためには、自分ではないものと対決しなければならない。これが相対性の理論の目的であり、すべての物質的な生命の目的だ。自分自身を定義するのは、自分ではないものによってなのだ。」

 この言葉とはとても含蓄のある言葉で、私たちが生きているという目的の事いついて、この言葉は通じていると思ったりしますが、この事についてはまた別の機会にしたいと思います。

(続く)


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