自燈明・法燈明の考察

成仏とはなんだろね

 間もなく関東地方も梅雨入りするという様な話を、朝の番組のお天気コーナーでやっていました。近年、地球の気候はかなり変動しはじめていますが、そんな中でもまだ日本では「梅雨」という季節があるんだと思いました。

 ついこの間、といっても四月の初めにはまだエアコンで「暖房」を使っていたのですが、もう六月になり、毎日、扇風機を使い続けてます。本当はエアコンで冷房をつけたいのですが、エアコンが故障しているらしく、これがまた全然冷えないのです。明日に業者に診てもらいますが、もうエアコンなしではきつくなりそうな季節になってきました。

 さて、前置きはともかく今日のお題です。
 前に書きましたが現在、立正安国論を読み進めていますが、その主題を考える中で、ふと「成仏」とは何かについて思いを馳せています。



◆成仏という事について
 成仏というのは、言うまでもなく仏教用語です。
 ネットでも例えば創価学会の活動家とか、法華講の活動家(こちらは創価学会崩れの人に顕著かな)、が「成仏の直道」とか「そんな事では成仏できるわけがない」という事を、本当に容易く語りますが、では「成仏」とは何ですか?という質問をすると、途端に空理空論で形而上の話となり、曖昧モコな話に終始してしまいます。

 まあ創価学会の活動家にしても、法華講の人にしても、実際に具体的な事として考えた事が無いから、こんな曖昧モコな回答になってしまうんですね。

 しかしこれは仏教全般にも言える事で、何故この様な事になるかと言えば、そもそも仏教では「成仏」という事について、具体的な内容が語られていない事から、こういった議論の迷走が起きてしまうのです。
 成仏と言えば日本では「人が死んだ時」とかにこの単語を使いますが、本来、仏教では「悟りを開いた」という釈迦の姿を成仏と言います。では釈迦は「悟りを開いた」といいますが、具体的には何を悟ったのか、そういう事は語られず、この悟りを得た釈迦の姿程度の話題しかありません。

◆日蓮の理解した成仏観
 こんな事を言うと、創価学会の活動家もそうですが、法華講あたりからは「大謗法・増上慢もここに至れり」「悩乱者の極み」という事を言われそうですが、続けます。だって私は創価学会も心情的には辞めていますし、法華講でもありません。だから思索はいつだって自由なのです。もし創価学会でも法華講でも、私の言質が大謗法だというなら、読まなければ良いのです。

 続けます。
 日蓮はこの成仏について、法華経の観点に立って、開目抄などでは2種類の事を述べています。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す」
(開目抄上)

 この開目抄で日蓮は、法華経の如来寿量品で久遠実成が明かされた後、「四教の果」と呼んでいますが、久遠実成を明かす以前の成仏観である「修行→悟りを開き→成仏」という流れを、如来寿量品の久遠実成で「やぶれば」という事で壊され(否定)て、それにより「本門の十界の因果」という新たな成仏観である「元来悟り→娑婆世界常住」という事を「とき顕す」という事で打ち立てられた事を述べています。

 つまり「成仏」というのは、修行(因行)の結果(果徳)である目標などではなく、私達一人ひとりが生きるための「大前提」という事に大転換されたと言うのです。

 通常、仏教では何かしら「悟りを開く」事から「仏と成る」という成仏観でした。しかし何を「悟る」という事については、ある人は「無我の境地」と言ったり、ある人は「全ての惑(迷い)を断じた境地」と言ったりしていました。しかし大乗仏教の中、法華経に於いて成仏とは「仏を成(ひらく)」という事だと述べたのです。この事について日蓮は以下の様に述べています。

「法華経方便品の略開三顕一の時仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給う」
(開目抄)

 ここでは仏の目的について、「開三顕一」と呼んでいますが、声聞・縁覚・菩薩に弟子に境涯を得させたのも、一仏乗(仏性)を開く為だという意味です。従来は「仏に成る」と言っていたものを「開く」という表現に変えたのです。

◆何を開くというのか
 ここで少し観点を変えて、九識論からこの事(開く)という事について述べてみます。九識論については以前のブログに書いています。


 ここで一人ひとりの記憶(過去からの業)について収納されている心は「阿頼耶識」と呼んでいますが、九識論では阿頼耶識の更に奥底に「阿摩羅識」という心があり、それを天台大師は「九識心王真如の都」と呼びました。そしてその心こそが、久遠の昔から常に自分の中にある「仏性」でもあるのです。この事について日蓮は以下の様に述べています。

「然るに一切衆生は法性真如の都を迷い出でて妄想顛倒の里に入りしより已来身口意の三業になすところ善根は少く悪業は多し」
(女人成仏抄)

 日蓮は全ての人が「法性真如の都を迷い出て」と述べていますが、自分自身の心の奥底にある「久遠実成の釈迦」を日々の生活の中で忘れてしまい、様々な苦悩に顛倒した状況になっていると述べています。

 つまり「成仏=仏を成(ひらく)」とは、この自分の心の奥底にある、この仏性とも言うべき心を自覚できるのか、出来ないのか。そこだけの話でもあるわけです。自覚する事が出来なければ、それを「信じる」という事がとても大事であり、その事を「以信得入(信じる事を以って入る)」と云い、それでも構わないというのです。

 どうですか?
 こう考えていくと、やれ「宿命転換」だとか「仏と境地冥合する」だとかいう事が、とてもオカルトチックに思えはしませんか?
 ましてや「三世永遠の幸福境涯の確立」なんてものが、この成仏観とは異なるものだという事、少しは理解できないでしょうか。

 この話題については、もう少し続けていきます。


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