暗いブログ
 



ついに歯の神経を抜きました。

痛いといってかれこれ2週間以上、いじくりまわされたあげくしょうがないから神経を抜くしかないということになったのです。

噛みあわせが悪いのではないかと言われ何でも無い歯を削られましたが治りませんでした。

というわけで痛みのもとであろう歯の神経を抜いたわけです。

医者は最後まで抜きたくはないが他に方法が見つからないのでやむをえん!といって抜きました。

そろそろ麻酔が切れてすさまじい痛みが襲ってきそうです。

恐怖体験です。

これでも治らなかったら、医者かえます。

ずっとその歯医者で長い付き合いなんで情があるわけなんですが、自分の体のことですから情でヤブ医者にかかるわけにはいきません。

治らなかったら見切りをつけて違うとこいきます。

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 今日は、「ら」抜き言葉について私の異端者的発想を書きたいと思います。

 みなさんは「ら抜き言葉」を言葉の乱れと、いかがわしく思うでしょうか?

 結論から言えば、私は全くいかがわしいことではないと思います。
それどころか、これは言葉の立派な進化です。


 ら抜き言葉とは、「食べれる」「見れる」などの言葉を指します。本来の「食べられる」「見られる」という形から「ら」が抜け落ちてしまった、正しくない活用をしている言葉です。つまりは、本来的な活用とは違う使い方をしているのがけしからん、というのが否定派の意見です。
 しかし、それを「けしからん」という方々の多くは、言葉の意味まで見ていないような気がします。簡単に言えば、どんな若者でさえ、「ら抜き言葉」を使い分けているという事実に気づいていないのではないでしょうか。
 
 例えば、「食べれる」は、「このきのこは食べれる」「これ以上食べれない」という使い方をします。決して「ライオンに食べれる」などという使い方は誰もしません。つまり、「食べれる」は「可能」の場合にしか使っていないのが現状だと言うことです。「受身」の意味の時はどんな若者もきちんと「食べられる」を使うのです。
 つまり、ら抜き言葉は、語の活用において「違う意味で同じ形が存在する」という冗長性を排除するための、画期的な活用だったのです。私は、「受身」と「可能」で意味が違うのだから、形が違っても当然だ、と思います。長い時間をかけてようやく「食べれる」という一意性を持った活用が誕生したのです。これは言語学にとっても歴史的なことではないかと私は考えます。これをただ伝統に反するなどという理由で「けしからん!」と一掃してしまうのはあまりに保守的ではないかと思うわけです。
 
 このように、「ら抜き言葉」は言語的にかなり優れた、進化した言語だと私は考えます。

 
 ついでに、昔中学の先生が「超」って言葉を批判してたんです。「みんな何でもチョーチョーつけやがって、なんなんだあれは。」という具合に。ところが、その先生の批判には、落とし穴がありました。というのも、先生は「超ってのはすごいって意味だろ?てことは旅行に行ってすごい山~とかすごい川~って感動する時は超山~とか超川~とかいうんですかね?言わないでしょいくらなんでも」なんてことを言いました。
 そりゃそうです。「超」は「すごい」ではなく、「すごく」なのですから。つまり、我々が普段使っている「超」は「形容詞」ではなく「副詞」なのですから。副詞だから名詞は修飾できません。「超山」なんてだれも言わないのはそのためです。それなら「超すごい山」という使い方をします。先生のくせにあきれた批判をするもんだと、非常に違和感を感じた覚えがあります。


 
 言葉は進化してきたではありませんか。
熟語だって明治時代にやっと生まれたのではありませんか。
熟語なんてみんな外来語の訳語じゃないですか。
それがよくて「食べれる」がいけないなんてのは身勝手じゃありませんか。
たかが一世代や二世代で言葉が変化したからって、意味も考えずに批判ばかりするのはいかがなものかと、言いたいわけです。
屁理屈を言えば平安時代の言葉なんて誰も普通にしゃべれませんよ。

 「最近の子はナイフで鉛筆が削れない」という批判も同類です。ではそういう方々に「火をおこせるのか」と問いたい。「弓矢を作って獲物を狩れるのか」と問いたい。多少屁理屈ではありますが、比較するスパンを長くしたらそれと同じだと思います。そういう若者批判をする人は、恐らく「ブラインドタッチ」など出来ないでしょう。つまり、「自分たちの世代のもの」だけに凝り固まっているのです。「ナイフで鉛筆を削る」以前の技術もなければ、それ以降の技術もないのです。無能だと言いたいのではなく、保守的であるがゆえに身に付けるチャンスを自ら逃してきたのです。
 自分たちのジェネレーションにアイデンティティを保てなくなると人はそのように若い世代を批判し始めるようです。大昔から続いていることのようです。老人が若者を批判すると言うことは。だから若者を批判している自分の姿に気づいたら、「年取ったんだな」と認めるしかありません。

 頭が混乱したので続きはまた今度。後半はいつも意味がわからなくなってきます。。もっと小出しにしていけばうまくかけるんだろか。。


 

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 私の異端者的発言が増えてきたので、内容的に重苦しくて見てらんない、という類のものは「異端者」という新カテゴリーを設けてまとめました。
あとはCDの紹介を「レビュー」というカテゴリにしました。
本当は、何度も言うようにこの「音楽」と「レビュー」カテゴリの数を充実させたいわけですが、「異端者」が勢力を伸ばしてます。まあ根暗ですから当然です。

 この新カテゴリ増設に伴いまして、ブログをいじってました関係で、昔の記事が今日の日付になったりしてます。つまり、昔書いたものをあたかも今日書いたかのように見せかけているという、にせ更新です。
 この「にせ更新」技術を使えば記事をローテーションさせることによって頻繁に更新しているかのように見せることが出来ます。しかし、当然ながらそんなことをすれば信用を失って誰も寄り付かなくなるので注意が必要です。


 

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「大人になるということはバカになるということなんだ。大人ってなにかおかしいんじゃないか、社会ってどこか変だ。君たちが今もっているその感覚をどうか忘れないでいてほしい。」

 私の予備校時代のある先生はそういった。その時私はにわかには理解できなかった。大人が正しいんじゃなくて子供の感覚が正しい?一体どういうことなんだ。

しかし、実際正しいのは大人だ。なぜなら人間は社会的動物であり、社会の中で生きることこそが最も適応的なはずだからだ。つまり、社会という観点から見たとき、大人の方が正しいのだろう。

しかし、同時に「社会に適応する」ということは「社会に毒される」ことである。
自身が身を置く「社会」のフィルターを通してしか、物事を見れなくなるということである。
なぜそれが「毒される」ということになるのか?社会でうまくやっていくために大人の振る舞いを身につけ、処世術を見につけ、現実的な考え方をして社会の中でやっていくのに必要なスキルを身につけることの一体何が毒なのか。

それは、ともすると本質を見失うことになりかねないからである。社会が無条件に正しいものであると信じて疑わず、身を置く社会のフィルターを通して見たものこそが真実である、と思っていることに何の疑問も持てなくなってしまう。

たとえばあなたはたぶん日本人だろう。だとすると、「虹の色は何色?」と聞かれてほぼ間違いなく「七色」と答えるだろう。だが実は答えは国によって違う。「3色」である国や「5色」である国もある。色は本来無限である。その無限のグラデーションを便宜上、歴史的経緯などから日本では伝統的に「七色」ということに落ち着いているだけの話である。同じく、月の模様が文化的背景などから日本では「餅をつくウサギ」となっているが、「カニ」や「蝶」である国もある。
社会のフィルターを通すということはそういうことだ。

 たぶん予備校の先生はフィルターを通してしか物事を見れない人を「バカ」と言いたかったのだろうと思う。だからフィルターに過ぎないと意識できることが必要なのだと思う。それは社会生活を円滑に営むための道具に過ぎず、決して真実などではないはずなのである。しかしやはり人間は社会的動物なので人と違うことばかりいっていてはまともに生活できない。だから社会のフィルターはただの道具と意識し、たまにはフィルターを外して見ることも大切なのではないかと思う。
じゃないと本当に「社会に毒される」ことになってしまう。

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The Stone Roses
The Stone Roses
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無人島に一枚しかCDを持っていけないとしたら何を持っていくか?
と考えてもっともお気に入りのアルバムを選ぶとかなり迷いますが私は
THE STONE ROSESの「THE STONE ROSES」
に決定いたしました。

このアルバムが私の洋楽における原点であり、また本当に好きなアルバムだからです。
いわゆるUKロックへの道と、リズム系への道その両方をこの一枚によって開かれたのです。
このアルバムが出たとき私は9歳だったのでリアルタイムでその衝撃を味わうことはなかったのですが、
今聞いてもこのアルバムはあまりに新鮮で、あの当時では考えられないほどの衝撃があったのかもしれない。
80年代のおわりにこんなアルバムをだすなんて、彼らはものすごい人たちなのです。たぶん。




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彼女とラーメンを食べた。
我々は日頃究極のラーメンを追い求めてあまり多くはないが有名といわれるような
ラーメン屋に何度か足を運んでいる。

しかし、どれもこれも物足りない。ものによってはカップラーメンの和風だしパックのにおいが
プンプンする。「うまい!」という「感動」を受けるにいたっていない。食べるたびに
「うーん いまいちだなぁ。こんなんで行列作れるかい!」という代物ばかりだ。
我々はまたしても感動と希望を求めラーメン屋に足を運んだ。そしてそれはまた絶望へとかわった。

そこで彼女が言った。
「ラーメンはもともとそんなにおいしいものじゃないんだ。ラーメンという食べ物には限界があるんだ。」

私ははっとした。そうだ、まさにそれだ。結論から言うと、ラーメンに「うまい!」という「感動」を求めすぎていたのだ。ラーメンはノスタルジックなものなのだ。ラーメンが我々に与えられるものがあるとすればそれは「懐かしさ」であり「安堵」であり「感動」ではない。しかし、我々はラーメンがあたかも高級料理であるかのように錯覚し、たとえばおいしいエビチリを食べたときの「うまい!」という感動、未知の味に触れたときの感動をラーメンに求めていたのだ。記憶をたどってみると、確かに舌に鮮明に残るラーメンの味というものを私は覚えていない。ラーメンを食べてうまいさしみでも食った時のような衝撃を感じたことはない。ばーちゃんにつれてってもらった洋食屋のエビフライに感動したことこそあれ、ラーメンで似たような体験はない。だが我々はラーメンを「おいしいもの」だと思っている。記憶が美化されているのだ。
もともとラーメンは陳腐な食べ物だったはずだ。あまりに身近に存在し、金のないときはラーメンのお世話になる、そういう存在だったはずだ。
その昔の記憶が美化されているのだ。ラーメンは味噌汁に近いともいえる。本当にうまい味噌汁というものが我々はなんなのかうまく想像できないのが普通ではないだろうか。うまい味噌汁を口にしてもそこにあるのは感動というよりむしろ途方もない安心感といったものではないだろうか。どんなにうまい味噌汁があろうともそれは所詮我々日本人的感覚で「味噌汁」でしかないのだ。イセエビでもボンと入れれば別だろうが、味噌汁は高級料理足り得ないのではないだろうか。イメージとして。
ラーメンにもそのイメージは付きまとうはずだが、いつしかその記憶は美化された。そこにうまく入り込んだのがこの「ラーメンブーム」である。卵が先かひよこが先かだが、ブームによって美化されたのか、あるいは我々の日常からラーメンが遠くなりつつあって美化されたのか、理由はわからないが、「おいしいラーメン」を追い求めるという風潮が生まれたのは事実だ。
つまりラーメンブームによって人々は「美化されたラーメン像」を追い求め、やたらめったら凝ったラーメンに行列を作ってまで群がるのだ。しかし、多くの人は感じているのではないだろうか、本当にうまいラーメンにまだであっていないと。
そう、出会うはずもない。真の三角形は存在しないというイデアのように究極のラーメンなど存在しないのだ。イデアを求めているのだ。だからこそ、人は更なる高みを目指してまた行列に並ぶのである。いつしか人々の心の中に「ラーメンの本質は懐かしさである」という思いがよみがえるかもしれない。すると、この加熱しきったラーメンブームは次第におさまっていくのではないかと思っている。徐々にシンプルなものを求めるようになり、近所の廃れかけたラーメン屋で食べた一杯に至福の喜びを感じるようになるかもしれない。近所のラーメンをすすったその瞬間、もっとも強い「感動」を覚えるかもしれない。

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