「大人になるということはバカになるということなんだ。大人ってなにかおかしいんじゃないか、社会ってどこか変だ。君たちが今もっているその感覚をどうか忘れないでいてほしい。」
私の予備校時代のある先生はそういった。その時私はにわかには理解できなかった。大人が正しいんじゃなくて子供の感覚が正しい?一体どういうことなんだ。
しかし、実際正しいのは大人だ。なぜなら人間は社会的動物であり、社会の中で生きることこそが最も適応的なはずだからだ。つまり、社会という観点から見たとき、大人の方が正しいのだろう。
しかし、同時に「社会に適応する」ということは「社会に毒される」ことである。
自身が身を置く「社会」のフィルターを通してしか、物事を見れなくなるということである。
なぜそれが「毒される」ということになるのか?社会でうまくやっていくために大人の振る舞いを身につけ、処世術を見につけ、現実的な考え方をして社会の中でやっていくのに必要なスキルを身につけることの一体何が毒なのか。
それは、ともすると本質を見失うことになりかねないからである。社会が無条件に正しいものであると信じて疑わず、身を置く社会のフィルターを通して見たものこそが真実である、と思っていることに何の疑問も持てなくなってしまう。
たとえばあなたはたぶん日本人だろう。だとすると、「虹の色は何色?」と聞かれてほぼ間違いなく「七色」と答えるだろう。だが実は答えは国によって違う。「3色」である国や「5色」である国もある。色は本来無限である。その無限のグラデーションを便宜上、歴史的経緯などから日本では伝統的に「七色」ということに落ち着いているだけの話である。同じく、月の模様が文化的背景などから日本では「餅をつくウサギ」となっているが、「カニ」や「蝶」である国もある。
社会のフィルターを通すということはそういうことだ。
たぶん予備校の先生はフィルターを通してしか物事を見れない人を「バカ」と言いたかったのだろうと思う。だからフィルターに過ぎないと意識できることが必要なのだと思う。それは社会生活を円滑に営むための道具に過ぎず、決して真実などではないはずなのである。しかしやはり人間は社会的動物なので人と違うことばかりいっていてはまともに生活できない。だから社会のフィルターはただの道具と意識し、たまにはフィルターを外して見ることも大切なのではないかと思う。
じゃないと本当に「社会に毒される」ことになってしまう。
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コメントまで残してごめんなさい。
このようなコメントを残していただけるとは夢にも思っておりませんでした。
実際人に見られているのだと思うと恥ずかしい気もしますがこんなんでも読んでいただけて光栄です。
ありがとうございます。