概要
鳴沢館は、宮守町上鱒沢地内猿ヶ石川沿い、舟渡と呼ばれる地区の山野に残されている。
館跡がある地帯は通称鳴沢とも呼ばれるが、地域内を見渡せる小高い山野でもある。
館の造りは単郭であるが、山頂は南東側のさらに高い隣接山野につながっており、広めの尾根となっている。
南東側は主郭の背後となるが、尾根等を堀切等で切断といった工作は施されていない。
南~西は急斜面を形成し、3~4段の階段状の腰郭が配置され、北西部分は館の前面となるが主郭から続く3段~4段の不規則で小規模な階段状広場が構築されている。
また東部分は緩やかに斜面となっており、主郭下に3段の要郭及び空堀らしい形状も確認できる。
主郭(山頂)
南部分の腰郭
西側斜面
北西部分
北側部分
東部分の階段状の形状
釜石自動車道工事で前景部分が破壊されている。
以前の前景(2008年当時)
歴史等
館主を鱒沢館主、鱒沢氏家臣の佐々木氏と語られ、鱒沢館の出城という説が主流である。
築年代は室町時代中期頃~戦国時代末と推測されますが、中世遠野領主、阿曽沼氏の分家、鱒沢氏は上、下鱒沢と小友の半分、約1千石といわれ、遠野西方面の盟主的立場でもあったと伝えられ、主家をも凌ぐ勢力を誇っていたとも伝えられる。
鳴沢館がどのような機能、役割を担っていたかは不明であるが、その昔、金山採掘も若干ではあるが盛んでもあったといわれる鱒沢地域、その関係も含み江刺郡、和賀郡への軍事、交通の要衝との位置付けでもある鱒沢地域のひとつの守りの要の役割も担っていたと推測される。