遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

狐崎館・戦慄の釜石の陣

2009-11-24 15:23:28 | 釜石

 

 

概要

 館跡は釜石湾に突き出た北方からの延びた丘陵上にあり、眼下には釜石湾を望み、西側は釜石市街地を望むロケーションとなっている。

 北側は山続きとなっており頂部の平場が主郭であり、北側の尾根を一重の堀切で断ち切り、主郭には2段の狭幅な帯郭的平場が周囲を取り囲んでいる。

 西側は急傾斜地となっているが3段程度の階段状の平場が確認できこの方面は搦手と思われる。

 下部には寶樹寺があり、寺回りにも数段の平場が確認できる。

 東側は主郭側から延びる尾根と山野下部付近から延びる尾根があるが、どちらも南斜面に2段~3段の平場が残されている。

 東端の斜面及び南側は断崖となっているが、釜石湾に面した南東部に大手があったといわれている。

 狐崎館はふたつの郭からなる館と考察され、北側山頂の主郭、二の郭は下部の東尾根部分と推察される。

 

 二の郭部分から釜石湾を望む

 

寶樹寺南側の平場

 

主郭背部(北側部)の堀切跡

 

 

 

主郭周りの段差

 

西側斜面の段差(空堀跡と思われる)

 

釜石の陣

 遠野史等によると、中世当時の釜石は遠野阿曽沼氏の領域で、狐崎館には狐崎玄蕃という家臣を配してしたと伝えられている。

 後に玄蕃は遠野附馬牛へ移封となったと伝えられ、またの名を荒谷玄蕃ともいわれも詳細等は不明である。

 ただ、館の西側麓はかつて荒谷屋敷と呼ばれていたとかで、遠野の附馬牛町にも荒屋の地名があり、玄蕃は附馬牛町の荒屋に移封されたものか?後の時代の慶長初めの守将が新谷氏(荒谷)ともいわれますが、いずれその関連も不明である。

 また、釜石近在は阿曽沼支族、大槌氏の範疇でもあったとも語られますが、やはり仔細は不明である。

 

 さて、狐崎館に関わる歴史的事件として釜石の陣の事が伝えられている。

 

 慶長6年(1601)7月、釜石狐崎館の新谷肥後は、葛西旧臣の鹿折信濃(本吉郡鹿折村忍城主・現気仙沼市浪枝)とその配下、金堀衆、その他葛西氏に縁ある武士達を狐崎館に集め、伊達政宗に対して武装蜂起をしたというものであった。

 伊達政宗は気仙郡代官、中島大蔵信貞に狐崎館攻めを命じ、その旗下には磐井郡東山の大肝入、白石豊後、大原の大肝入熊谷元重、気仙の大肝入臼井因獄他野武士、足軽、総勢3百人余をかき集め、さらに政宗の旗本たる岩出山の直臣達も加わって、海路と陸路にて釜石へ進撃したと伝えられる。

 対する狐崎篭城軍は160名余といわれ、壮絶な戦いが繰り広げられるも、海路から上陸した伊達勢が攻撃に加わると、狐崎館側は敗色濃厚となり、160名余のほとんどが討ち取られたり、捕縛されて首を刎ねられたと伝えられる。

 館跡の東側には首切沢という地名が残され、さらになんとか逃れた葛西氏の旧臣葛西六郎は水海海岸辺りまで逃げたが、共に逃れた自らの郎党によって毒殺されたと伝えられる。

 伊達勢の敗者に対する措置は凄惨を極め、打首はもとより全員の鼻を削いで塩漬けにして江戸表へ移送したとか・・・・。

 (貞山公尊伝・巻21・慶長6年條)一部参照

  この時、伊達政宗は西は和賀、稗貫の遺臣達を支援して南部領の和賀、稗貫各郡へ侵攻、西では釜石へ侵攻、中央部の遠野でも阿曽沼広長を擁して遠野侵攻を企て、まさに北侵の野望ととれる内容でもある。

 三方向とも南部領であり、何故に南部領である釜石狐崎館に一揆鎮撫とはいえ侵攻して来たのか?狐崎館は先に気仙落ちした阿曽沼広長が遠野奪還を目指しての進撃ルートとして仮定しての守りを強化する為に南部利直、さらに遠野方が新谷肥後を守将としたものと思われる。

 また新谷肥後は兵力を補うために旧葛西氏遺臣等を館内に入れての防備強化だったのではと推察しております。

 

 翌慶長7年春、和賀、稗貫一揆が鎮圧され花巻駐留の南部勢が遠野勢と共に狐崎館攻撃に進発するが、伊達勢は戦う前に狐崎館を放棄して引き揚げたと伝えられる。

 以後、釜石地域は南部利直が把握する地域となり、大槌孫八郎政貞に与えられた。

 間もなくその大槌氏も絶家となり南部家の完全支配となった。

 

 狐崎館の新谷氏(荒谷)・・・

 一説には本姓菊池の平清水氏の一族ともいわれる。

 


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2 コメント

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南部と伊達 (稲用)
2009-11-26 21:58:05
海が見える館跡っていいですね。
南部と伊達との攻防、手に汗握るものがあります。
政宗は本当に油断なりませんね。そこが魅力でもあるんですが。
一方の利直も戦国武将の生き残りの風情も感じさせます。お父さんが偉かったので大変だったでしょうね。
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戦国をみた男達 (とらねこ)
2009-11-27 10:05:35
稲用さん
大袈裟かもしれませんが、戦国の世をみた数少ない徳川時代初期の武将ですよね。2人とも・・・。
南部の方が小物扱いされますが、それでも利直も策略家というイメージがあって、なかなかな人物だと思ってます。
清心尼公が大河ドラマにもし取り上げられるのであれば南部利直もひとつのキーポイントとなると思いますので、かなり見直されるものと思います・・・笑
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