前回、見性とダンマの顕現のエントリーを書いた。玉城仏教のごくごく簡単なまとめとして。玉城康四郎の著書を読んだ方なら、なんとなくでも、それを理解してもらえるのではないかと思う。
玉城康四郎著『仏道探究』が絶版になったので、もう少しあとで、暇を見て、その解説をこのブログで書いていきたいと思う。
今回は、特別なことはない。
行道の実践について、ちょっとだけ書いてみる。
以前も書いたが、行道というと、何か大袈裟に感じてしまう。お勤め、勤行という意味でよいと思う。
悟ろうとか、ダンマの顕現を得ようとなど、考えずに、信仰心に従って行じるのが良いと思う。
坐禅は別にして、念仏、唱題、読経など、われわれにとって馴染みにある勤行は、如来に対し、深く帰依して、ひたすら、如来を実感することを大切に行っていくのがよいと思う。深く帰依するとは、ある教義を信じることの意味では全くなく、われれに自然と具わっている如来に対する気持ちのことを指す。それを大事にして、従っていく、深めていくことを行を通じて、体で学んでいく。
仏壇を前にして座る。仏壇がなくてもいい。本尊の前に座る。本尊がなければ、思い浮かべるのでもいい。如来を前にして座る。そこに自然と湧いてくる信仰心が何より、大事。それを大切に行ずればいい。
お寺に行くのもいい。私はたまに行く。如来を実感することが出来る。
如来の実感が深まっていけば、いずれ、玉城康四郎のいう[ダンマの顕現]の意味が、自らの体で理解することができるだろう。
玉城は、それこそ、重要であると説いた。体で頷いていくことが何より大事であると。このことに、プロ・アマ問わないだろう。だからこそ、誰でも可能であると、玉城はいうのだろう。玉城は妙好人に親しみを感じていた。自らも、そうであると。
では、坐禅についはどうか。
私は師事して学んだことはない。禅宗では、師事して学ばないものはすべて魔境であると看做すようだ。私は我流であるのだから、きっと、禅宗の立場から見れば、魔境と看做されるのではないだろうか。だから、私は禅宗の坐禅については、語ろうとは思わないし、その教えもほとんど知らないので語れない。
もし、禅宗の坐禅を学びたいのであれば、やはり、坐禅道場で学ぶのがよいのではないかと思う。ただし、前回のエントリーでは、禅宗の見性については、玉城が示したことについて簡単に説明した。その問題点がある。その克服ができるのかどうかだ。
私は、玉城の著書を学び、原始仏典の四念処、入息出息念定については自らの体験に基づいて語ることは出来るが、それを他人に勧めようとはあまり思わない。
四念処が本格的、プロの行という考えも経典が述べていることから、ある程度理解できなくはないが、それにこだわるのはどうかと思う。
個人的には、ヒーリング的なもの、リラックスして座るのがもっともよいと思えるが、それで変な道に迷い込む危険がないとはいえない。危険が伴うこともありえるだろう。無責任だが、そうとしかいえない。無難に、師について学ぶのがいいのでは?というごく常識的なことしか言えない。
坐禅と念仏・唱題など、どちらを選ぼうとも、その本質は同じである。玉城は禅定と念仏は同じであると原始仏典のブッダの教えを例にして、説明した。実際、そのとおりであると思う。
どちらを選ぶかは、やはり、玉城の言うように、自身の縁に合ったものを選ぶのが良いのではないか。
玉城康四郎著『仏道探究』が絶版になったので、もう少しあとで、暇を見て、その解説をこのブログで書いていきたいと思う。
今回は、特別なことはない。
行道の実践について、ちょっとだけ書いてみる。
以前も書いたが、行道というと、何か大袈裟に感じてしまう。お勤め、勤行という意味でよいと思う。
悟ろうとか、ダンマの顕現を得ようとなど、考えずに、信仰心に従って行じるのが良いと思う。
坐禅は別にして、念仏、唱題、読経など、われわれにとって馴染みにある勤行は、如来に対し、深く帰依して、ひたすら、如来を実感することを大切に行っていくのがよいと思う。深く帰依するとは、ある教義を信じることの意味では全くなく、われれに自然と具わっている如来に対する気持ちのことを指す。それを大事にして、従っていく、深めていくことを行を通じて、体で学んでいく。
仏壇を前にして座る。仏壇がなくてもいい。本尊の前に座る。本尊がなければ、思い浮かべるのでもいい。如来を前にして座る。そこに自然と湧いてくる信仰心が何より、大事。それを大切に行ずればいい。
お寺に行くのもいい。私はたまに行く。如来を実感することが出来る。
如来の実感が深まっていけば、いずれ、玉城康四郎のいう[ダンマの顕現]の意味が、自らの体で理解することができるだろう。
玉城は、それこそ、重要であると説いた。体で頷いていくことが何より大事であると。このことに、プロ・アマ問わないだろう。だからこそ、誰でも可能であると、玉城はいうのだろう。玉城は妙好人に親しみを感じていた。自らも、そうであると。
では、坐禅についはどうか。
私は師事して学んだことはない。禅宗では、師事して学ばないものはすべて魔境であると看做すようだ。私は我流であるのだから、きっと、禅宗の立場から見れば、魔境と看做されるのではないだろうか。だから、私は禅宗の坐禅については、語ろうとは思わないし、その教えもほとんど知らないので語れない。
もし、禅宗の坐禅を学びたいのであれば、やはり、坐禅道場で学ぶのがよいのではないかと思う。ただし、前回のエントリーでは、禅宗の見性については、玉城が示したことについて簡単に説明した。その問題点がある。その克服ができるのかどうかだ。
私は、玉城の著書を学び、原始仏典の四念処、入息出息念定については自らの体験に基づいて語ることは出来るが、それを他人に勧めようとはあまり思わない。
四念処が本格的、プロの行という考えも経典が述べていることから、ある程度理解できなくはないが、それにこだわるのはどうかと思う。
個人的には、ヒーリング的なもの、リラックスして座るのがもっともよいと思えるが、それで変な道に迷い込む危険がないとはいえない。危険が伴うこともありえるだろう。無責任だが、そうとしかいえない。無難に、師について学ぶのがいいのでは?というごく常識的なことしか言えない。
坐禅と念仏・唱題など、どちらを選ぼうとも、その本質は同じである。玉城は禅定と念仏は同じであると原始仏典のブッダの教えを例にして、説明した。実際、そのとおりであると思う。
どちらを選ぶかは、やはり、玉城の言うように、自身の縁に合ったものを選ぶのが良いのではないか。