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パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

マザー・テレサの祈り、神の愛、仏教の極愛一子地

2010-01-22 09:30:55 | 宗教
マザー・テレサ (著), ブラザー・ロジェ (著)『祈り―信頼の源へ』を本棚から取り出し、パッと開いたところを見てみた。
そこを引用させていただこう。

わたしたちはすべて
  神にとってかけがいのない者
道端で死んでゆくあの男の人も
  神にとってかけがいのない者
あの百万長者も
  神にとってかけがいのない者
あの罪を犯してしまった人も
  神にとってかけがいのない者
神は わたしたちを愛しておられるのだから

この、わたしたちへの神の愛を理解するためには、祈りが不可欠です。
もし、真剣に祈りについて考え、祈りたいと望むならば、今すぐ祈り始めなければなりません。
それは祈りへのほんの第一歩ですが、今、決心して、その第一歩を踏み出すことなしに、その最終地-神の現存-に到達することはできないのです。


以上、引用終了。

本当にすばらしい言葉である。
マザーテレサのこの祈りは、仏教の念仏・禅定にも通じるものである。
神の愛はすべての人に注がれている。神はすべての人を愛しておられる。
仏教も同じことを説く。
極愛一子地。如来はあらゆる人たちを我が独り子のように愛する。
一闡提という極悪人すら如来はわが独り子のように愛する。
極愛一子地とは如来であり、仏性であり、法身である。

極愛一子地については、緯線のエントリーで書いたので、興味のある方は参照下さい。
極愛一子地 - パンの仏道日記
原始仏典の釈尊と極愛一子地の菩薩、提婆達多と善星 - パンの仏道日記

【わたしたちへの神の愛を理解するためには、祈りが不可欠です。】とマザー・テレサはいう。
同じく、仏道でも、如来の極愛一子地を知るためにも仏道の実践が不可欠である。
如来を体感して知ることが大事である。
ダンマ・如来が貫き、放散されるようになる。そのしっかり確定した境地が終地であり、それを原始仏典に登場するブッダの四無量心の放散であると玉城康四郎は説明した。

終地は極愛一子地ではないことは以前のエントリーでも説明した。
終地の実現者は、その後、極愛一子地の菩薩となるために、ひたすら仏道の実践されていく。
極愛一子地の菩薩は超人的で、普通の人間には縁がないとごく普通に生きるわれわれにはそう思える。それは究極の理想像といえるのだろう。

われわれは現実にそのような菩薩にはなれなくても、極愛一子地が何であるかは、われわれの全人格体でもって知ることができる。そのためにこそ、行道の実践が不可欠である。
その実践によって、われわれは誰でも、玉城康四郎のいう終地に達することができる。

終地は仏道の根本・基本を実現したにすぎない。それはその人がその人のままに、如来とともに仏道を歩むことである。これが仏道の根本である。

終地の実現者は発心し、如来となることを目指して歩んでいく。あるいは、極愛一子地の菩薩となることを目指して歩んでいく。あるいは、浄土に往生して、そこで暮らして、ついに成仏を目指すという道もある。

マザー・テレサは【もし、真剣に祈りについて考え、祈りたいと望むならば、今すぐ祈り始めなければなりません。】というように、
仏道を歩もうとするわれわれも、如来を直接体感したいと望むならば、いますぐ、行道の実践を始める必要があるのではないだろうか。

アビラの聖テレサ、「恍惚・歓喜」の神秘体験

2010-01-14 12:12:08 | 宗教
アビラの聖テレサは、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家であり、修道院改革に尽力した人物である。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。イエズスのテレジア(Teresa de Jesús)としても知られる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

神秘体験者である彼女の体験はどのようなものであったのだろうか。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によって、以下、見てみよう。

テレサの全著作を通じての神秘思想の要点は、4つの段階を経る魂の向上である(『自叙伝』第5章22節)(訳注:この段階については諸説があり、必ずしもここでの説明が全てではない)。

その4つの段階は次のようになっているという。
第一段階の「瞑想」、第二段階は「静寂」、第三段階は「合一」、第四段階は「恍惚あるいは歓喜」。

第四段階は「恍惚あるいは歓喜」について、『ウィキペディア(Wikipedia)』より、以下、引用しよう。

第四段階は「恍惚あるいは歓喜」(devotion of ecstasy or rapture)という受動的な状態であり、ここでは身体が存在するという感覚が消滅する(「コリントの信徒への手紙二」12.2-3)感覚の働きが消えるということは、つまり、記憶や想像力までもが神にすっかり夢中になってしまう、あるいは、酔ったような状態になってしまうということである。身体と精神は、甘美な激痛、幸せな苦痛、恐ろしいまでに激しい輝きと完全な無能・無意識との間の交替現象、そして、しばしの窒息状態の中に置かれる。そしてそれは、身体が文字通り宙に浮く恍惚の浮揚のような現象によって時々中断される。半時間ほどこうした現象が続いた後、数時間の気絶のような衰弱状態の中で反動の弛緩を味わう。この時、神との合一の全ての働きを否定する気分を伴う。ここから、主体は自分の涙に気付く。つまりそれが神秘体験の絶頂、恍惚状態の創出なのである。

甘美な激痛、幸せな苦痛を除けば、彼女のそれは、玉城康四郎のいうダンマの顕現の体験に似ているといえる。
「身体が文字通り宙に浮く恍惚の浮揚のような現象」については、ちょっとどうかな?気がする。人によって、そのような感じはあるのかもしれない。仏教の禅定の、身体が軽安となることに相当するかもしれない。

身体や感覚の消失した、ダンマの顕現の【大爆発】はそれに似ているだろう。その絶頂状態から次第に醒めて、涅槃の安楽に留まるわけであるが、それもまた、次第に醒め、元の日常的な状態へと戻るのである。この体験も彼女のそれも同じようである。
彼女のいう「この時、神との合一の全ての働きを否定する気分を伴う。ここから、主体は自分の涙に気付く。」は意味がわからない。どのような意味なのだろうか。

それはさておき、両者の体験はとても似ている、というより、同じではないかと思う。ダンマの顕現の体験が、宗教の枠を超えた普遍的なものであるという玉城の主張の妥当性が、アビラの聖テレサの「恍惚・歓喜」体験を検討してみると、そのなかのひとつとして確認できるであろう。

以前のエントリーで説明したとおり、スーフィの【ファナー】も、アビラの聖テレサの「恍惚・歓喜」体験も、ラマナ・マハルシの【アートマンの実現】も、仏教のダンマの顕現も、みな同じであることがわかると思う。宗教の根源はこの体験にあるのだ。玉城康四郎はそのことを力説した。


ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作
サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア聖堂 コルナーロ礼拝堂
天使の持つ神の炎の矢で胸を衝かれるアビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)
http://yaplog.jp/raguan/archive/148より。

鎌田東二「トランスと異次元と進化」

2009-12-31 20:37:15 | 宗教
京都大学公開講座「進化とは何か?」2009/10/18 (Sunday) 鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター 教授)「トランスと異次元と進化」


つい最近、鎌田東二さんの動画を見つけた。京大の公開講座のようです。
今日、時間をつくり、見ることにした。
大変面白い講義であったので、ご紹介します。

トランス状態、ヌミノース体験、アマテラスの天の岩戸、トランス技術としての音楽、空海の求聞持法による明星来影体験など、が語られる。

以下、鎌田さんの言っていることとは別の面から、玉城康四郎のいうダンマの顕現の視点から少し述べてみよう。

ご存知の通り、玉城康四郎は空海の先の体験をダンマの顕現の体験であろうと見ている。

ざっくりとした理解で言えば、トランス状態は、仏教でいえば、第三禅の楽の状態と見てもよいだろう。
玉城はこれを【ひとかたまり】の状態、【カララ】、【心(しん)】であると説明した。四念処の心念処に相当する。
仏教では、楽の状態から進んで、解脱の状態の実現を目指す。
仏教は、純粋生命・形なきいのちそのもの体験を実現することを何よりも重視している。ダンマを尊重することが仏道の根本である。

このダンマの尊重する仏道者の姿勢は、そればかりに目が向いてしまうために、魂・心の持つ多神教的な面を無視してしまうことになりやすい。これを無明や魔、煩悩の領域として退けてしまう。

心・魂の持つ自然の豊かさを切り捨ててしまう。人間性、動物性を無視してしまう。これは大変よくないことである。このことは以前のエントリーで述べた。

いまの日本社会は、アニマ・魂を無視してしまっているように私には見える。

さて、今年、日本社会は明治維新以来の歴史的転換と評される政権交代が実現した。その政権は行き過ぎた市場原理主義を改め、国民生活第一の政治を行うと詠っている。去年は、心ある市民によって行われた年越し派遣村は、政府や自治体によって担われる公設派遣村が実施されている。このことは、それまでの政治と比較して、国民の生活第一とする政治のささやかな一歩となったといえそうである。

あと何時間かで、次の年が始まる。
私は、この現代社会が喪失してしまったかのように見える「魂の持つ豊かさ」について、どのように回復していったらよいのか、一市民として考え、一市民として、その回復に取り組んでいきたいと思っている。

来年は寅年。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、【「寅」は「螾」(いん:「動く」の意味)で、春が来て草木が生ずる状態を表しているとされる。】と。
日本社会が真冬を越えて、春を迎え、新生した社会が草木のように育っていくような年となることを願って止まない。
われわれ市民がそのようにしていくためにも、一人一人の自覚とその行動にかかっていることはいうまでもない。その一人として、努力していきたい。

アスタロト、イシュタル、アプロディーテー、クリスマス、弥勒、終い天神

2009-12-25 19:11:35 | 宗教
ウヒヒヒヒ。私はアスタロトだ!

『ウィキペディア(Wikipedia)』から以下、引用しよう。

[アスタロト]


コラン・ド・プランシー著『地獄の辞典』の挿絵におけるアスタロトの姿

アスタロト(Astaroth)は、数々のグリモワールに登場する高位の悪魔。ソロモン72柱の魔神の1柱で、40の悪霊の軍団を率い、序列29番に位置する大公爵とされる。

悪魔の位階において告発者(中傷者)と呼ばれる第8位階の君主である。

第一階級の悪魔の一人として怠惰を司り、聖バルトロマイの敵対者である。堕とされる以前は座天使の君主であったという。

皇帝ルシファー・君主ベルゼビュートと並んで地獄を支配する三柱の霊として名を上げられており、大公爵の地位にあるという。

召喚されると、巨大な蛇またはドラゴン(あるいはドラゴンに似た獣)にまたがった天使の姿を取り、右手には毒蛇を持ち、口からは毒ガスを吐き出すため、間近に寄らせるのは危険とされる。蝿の王ベルゼブブのそばに、ロバの姿で現れることもあるという。黒白の色をした人間の姿で現れることもある。
 過去と未来を見通す能力を持つ。質問者に学術を教授することもある。天地創造から天使がいかにして堕天したかということも語るが、天使として自分が受けた罰が不当であるとも主張する。
 数々のグリモワールや悪魔学者によって高位の悪魔として言及される背景としては、旧約聖書にも異教の神としてしばしば登場するアシュトレトを起源に持つことが挙げられる。(アスタルテ#カナン地域におけるアシュトレトも参照のこと)

一方、初期のアスタロトは後代のそれと全く異なっており、黒い服を着た美しい姿だが非常に残忍な性格で、唇からは一筋の血を流し続け、他人の苦痛に微笑むという[要出典]。元になった女神アシュタロトはカナン神話のアナトなどでは美しくも勇猛、残忍な争いの女神としての側面を持っているため、初期のアスタロトもこうした神格を反映した悪魔だったのだろうと思われる。なお、女神としてのアシュタロトはイシュタルからアフロディテへとその性格を伝播している。


上記に「アスタルト#カナン地域におけるアシュトレトも参照のこと」とあるので、以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』 を見てみよう。

[アスタルト]

アスタルト (‘ṯtrt [‘aṯtart])は、地中海世界各地で広く崇められたセム系の豊穣多産の女神。崇拝地はビュブロス(Byblos、現在のレバノン)などが知られる。 メソポタミア神話のイナンナ、イシュタル、ギリシア神話のアプロディテなどと起源を同じくする女神と考えられ、また周辺地域のさまざまな女神と習合している。

<カナン地域におけるアシュトレト>
この女神はカナンなどでも崇められており、旧約聖書にも、主要な異教の神としてヘブライ語形 アシュトレト (עַשְׁתֹּרֶת)の名でしばしば登場する。 ちなみにこの女神の本来のヘブライ語名はアシュテレト (עַשְׁתֶּרֶת)である。アシュトレトとはこれに「恥」を意味するヘブライ語ボシェトの母音を読み込んだ蔑称である。宗教的に中立とは言い難い呼称だが、以下本節では聖書の記述に従い こう表記する。
 アシュトレトの複数形アシュタロト (עַשְׁתָּרוֹת)はまた、異教の女神を指す普通名詞として用いられた。また旧約聖書には地名としても出てくる(『申命記』 第1章第4節他)。
 この地域においてもウガリットと同様に軍神的性格は後退し、もっぱら豊穣・繁殖の神として崇められた。この地域で出土するふくよかな体型の女神像の少なくとも一部はアシュトレトであると考えられる。

豊穣神としてのアシュトレトは特にこの地域の農民にとって極めて魅力的であり、同じく豊穣神であるバアルと共に極めて熱心に崇拝された。この地域に入植したヘブライ人たちにとってもバアルやアシュトレトは魅力的であり、ヤハウェ信仰の脅威となるほどの崇拝を受けた(『士師記』第2章第13節)。また、旧約聖書『列王記』上第11章第5節には、晩年のソロモン王が妻達の勧めにより、アシュトレトをはじめとする異教の神々を崇めた事が記され、この頃には為政者側にまで異教の神々への信仰が浸透していた事がわかる。それ以後もイスラエル王国の多くの王たちはその信仰を容認したため、ユダヤ教聖職者から激しく攻撃された。
 また、『エレミヤ書』に登場する女神天の女王も、彼女の呼称の一つと考えられている。

この旧約聖書におけるアシュトレトが、後にヨーロッパのグリモワールにおいて悪魔・アスタロトとされた。


では、イシュタルについては、以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

[イシュタル]

イシュタル(Ishtar)とは、古代メソポタミアにおいて広く尊崇された性愛、戦、金星の女神。
イシュタルはアッカド語名であり、シュメール語におけるイナンナに相当。
その親族関係に関しては、異なる伝統が並存する。主なものには、月神ナンナ/シンの娘、太陽神ウトゥ/シャマシュの妹という位置づけがある。他、例えばウルクにおいては天神アヌの娘とされる。
様々な女神と神学的に同定された。主なものはアッカド市の女神アヌニートゥ、バビロン市の女神ベーレト・バビリ(「バビロンの女主」の意)など。ただし、いわゆる母神と同定される事はなかった(よってイシュタルは創造者としての地母神的性格は弱い)。
主な崇拝地はウルク、キシュ、アッカド、バビロン、ニネヴェ、アルベラ。

イシュタルは出産・豊穣に繋がる性愛の女神。性愛の根源として崇拝されていた一方で、インポテンツ(ED)など性愛に不具合をもたらす女神としても恐れられていた。また性同一性障害とも関係づけられ、その祭司には実際に性同一性障害者が連なっていた可能性も指摘されている。他、娼婦の守護者であり、その神殿では神聖娼婦が勤めを果たしていた[1]。イシュタルの正式な配偶神は存在しないが、多くの愛人(神)が知られている。これは王者たる男性が恋人としての女神から大いなる神の力を分け与えてもらうという当時の思想に縁っている。最も著名な愛人は男神ドゥムジ(タンムズ)。イシュタルとドゥムジにまつわる数多くの神話が知られている。『イナンナの冥界下り』(シュメール語)/『イシュタルの冥界下り』(アッカド語)をはじめとするそれらの神話において、ドゥムジはイシュタル(イナンナ)の身代わりとして殺され、冥界に送られる。(以下、省略)


『イシュタルの冥界下り』
ハンドドラム研究/イシュタルの冥界下りでわかりやすく説明されている。
神話でよくみられる「死と再生」巡る物語である。

次に、アフロディテについて。『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

[アプロディーテー]

アプロディーテーは、愛と美と性を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。美において誇り高く、パリスによる三美神の審判で、最高の美神として選ばれている。また、戦の女神としての側面も持つ。日本語では、アプロディテ、アフロディテ、アフロディーテーなどとも表記される。
元来は、オリエントや小アジアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神であったと考えられる。アプロディーテーは、生殖と豊穣、すなわち春の女神でもあった。

<東方起源の性格>
古くは東方の豊穣・多産の女神アスタルテー、イシュタルなどと起源を同じくする外来の女神で、『神統記』に記されているとおり、キュプロスを聖地とし、「キュプリス」という別名を持つ。オリエント的な地母神としての性格は、繁殖と豊穣を司る神として、庭園や公園に祀られる点にその名残を留めている。そして愛の女神としての性格を強め、自ら恋愛をする傍ら人々の情欲を掻き立てて、恋愛をさせることに精を出している。同じく愛の神エロースと共にいる事もしばしばである。また、これとは別に航海の安全を司る神として崇拝されたが、これはフェニキアとの関連を示唆すものと考えられる。
 スパルタやコリントスでは、アテナのように、甲冑を着けた軍神として祀られていた。特にコリントスはギリシア本土の信仰中心地とされ、アプロディーテー神殿[1]には、女神の庇護下の神殿娼婦[2]が存在した。この所作もまた東洋起原のものとされる。
 古くから崇拝されていた神ではないために伝えられる説話は様々である。ヘパイストスの妻とされるが、アレースと情を交わしてエロスなどを生んだという伝承もある。アプロディーテとエロスを結び付ける試みは、紀元前5世紀の古典期以降に盛んとなった。

<金星の女神>
本来、豊穣多産の植物神としてイシュタルやアスタルテー同様に金星の女神であったが、このことはホメロスやヘーシオドスでは明言されていない。しかし古典期以降、再び金星と結び付けられ、ギリシアでは金星を「アプロディーテの星」と呼ぶようになった。現代のヨーロッパ諸言語で、ラテン語の「ウェヌス」に相当する語で金星を呼ぶのはこれに由来する。
 グレゴリオ聖歌でも歌われる中世の聖歌『アヴェ・マリス・ステラ』の「マリス・ステラ(Maris stella)」は、「海の星」の意味であるが、この星は金星であるとする説がある。聖母マリアがオリエントの豊穣の女神、すなわちイシュタルやアスタルテーの系譜にあり、ギリシアのアプロディーテや、ローマ神話のウェヌスの後継であることを示しているとされる。


『イシュタルの冥界下り』に類似の話しがアプロディーテーにもある。プシューケーに与えたアプロディーテーによる試練。
プシューケー - Wikipediaにある。
また、愛の神 エロスは、この物語を大変わかりやすく書かれているので、おすすめする。パンの神も慰め役として登場する。

ところで、今日はクリスマス。12月25日 - Wikipediaを見てみた。以下。

<クリスマス>
イエス・キリストの降誕を記念する日。聖書等にはキリストの誕生日についての記述はなく(4月~9月の間とされ、確定できているのは12月の寒い時期ではないという事である)、各宗派がそれぞれに日付を定めてキリストの生誕を祝っていたが、元々太陽信仰のミトラ教の信者でキリスト教に改宗したローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、336年にミトラ教の祭である冬至祭の日であったこの日をイエス・キリストの降誕の日と定めた。


ミトラ教の祭である冬至祭の日、何でしょう?
ミトラ教 - Wikipediaによると、
<クリスマスとミトラ教>
12月25日はイエス・キリストの誕生日としてキリスト教の祭日となっている。しかし実際にはイエス・キリストがいつ生まれたかは定かではなく、12月25日をクリスマスとして祝うのは後世に後付けされた習慣である。聖書にもイエス・キリストが生まれた日付は記述されていない。
 前述のローマ帝国時代において、ミトラ教では冬至を大々的に祝う習慣があった。これは、太陽神ミトラが冬至に「生まれ変わる」という信仰による(短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから)。
 この習慣をキリスト教が吸収し、イエス・キリストの誕生祭を冬至に祝うようになったとされる。


なるほど、太陽神ミトラが冬至に「生まれ変わる」という信仰によるのか。
太陽神ミトラは、仏教の弥勒菩薩と関係があるとは知らなかった。

<アーリア人の神ミスラ>
元々、ミトラス神は、アーリア人の古い神話に登場する光明の神であり、イランの『アヴェスター』においても、インドの『リグ・ヴェーダ』においても登場する有力な神であった。ゾロアスター教でも、ミトラは中世ペルシア語でミフルヤズドと呼ばれ、重要な役割を持ち、多数の神々のなかでも特殊な位置付けであった。
<仏教の弥勒信仰>
仏教には、弥勒菩薩が存在し、「弥勒信仰」がある。この弥勒は、サンスクリット語ではマイトレーヤというが、マイトレーヤとは、ミスラの別名である。またはミスラから転用された神名であり、仏教では菩薩として受け入れられ、マイトレーヤを軸とした独特の終末論的な「弥勒信仰」というものがある。
<マイトレーヤ信仰とミトラ教>
仏教の弥勒信仰以外にも、イランやインドではミトラ信仰があり、マイトレーヤ信仰があったことは分かっている。マイトレーヤ信仰または弥勒信仰が中国に伝わり、独特な宗教を構成したとする考えも、かなりの歴史的妥当性を持って確認できる。


さて、今日クリスマスは終い天神の日でもあるようだ。ちょっとびっくり。
12月25日 - Wikipediaより。
<終天神(しまいてんじん)・ 納天神(おさめてんじん) >
天満宮で毎月25日に祀られ行われる縁日の一年最後の祭典。


終い天神とは何だろう。
御祭神菅原道真公の誕生日6月25日、薨去の2月25日に因み毎月25日は、天神さまの御縁日として、終日境内周辺に露店が所狭しと立ち並び、参拝者の人波が絶えない。
特に12月25日は、終い天神(1月25日は初天神)と呼ばれ、京都の一年の行事を締めくくる恒例神事として毎年京阪神はもとより全国からの多数の参拝者で賑わう。(例年約15万人の参拝者)

北野天満宮ニュース 終い天神より。

ちなみに、今日のニュース。
行く年に感謝「終い天神」 京都・北野天満宮に15万人 - MSN産経ニュース

以上。おもしろいつながりがあった。
【死と再生】が主題となっている。宗教だから、当然か。また、【否定的側面と肯定的側面】にも注意したい。