パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

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加持

2009-08-28 00:51:52 | 仏教
加持

 加持祈祷について考え見ます。密教の加持祈祷は大乗の身体変現の説法を基にしているものと考えられます。行者が加持力を深く体感していくと、共時的に、受者の身体にも加持力が生じる縁起的な現象が生じることを狙いとしているものと考えられます。

『十地経』では、身体変現の自在さは第八地において実現されるといい、玉城康四郎のいう終地の禅定の実現と、発心、三界、身体の区別の知を前提としています。『法華経』では、現一切色身三昧といいます。『楞伽経』では、如幻三昧といいます。法師となるための不可欠な最低限の要素のひとつです。

密教についてどうなのでしょうか。『大日経』の具縁品では、阿闍梨の資格として、発心し、般若波羅蜜(ダンマ)に通じ、陀羅尼を身につけ、三乗の差別を知り、灌頂を受け、曼荼羅を描くことができることなどとあります。このことは、やはり先の大乗が説くところと一致するものと考えられます。灌頂を受けることは『金剛頂経』にあるような金剛名灌頂を一切如来より受けるものでなければならないでしょうし、ダンマ、陀羅尼、般若波羅蜜、金剛杵によって貫かれて、如来が中心となる曼荼羅が実現されていなければならないというのでしょう。三乗の差別を知るのは、『十地経』にあるように、身体の区別、教えによる身体の違いを身をもって知るのは、第八地の身体変現においてであることから、終地の禅定の実現を前提としているでしょう。発心することは、終地の禅定を実現した者に対して諸仏が発心することを要請しているのですから、その意味によって解釈しなければならないことになります。

 この加持祈祷の行者の資格は、おそらく、第八地以上の者であるべきと考えられます。それは、しっかりとした結界を作れることが前提となっているのでしょう。
結界とは何であるか、ダンマの世界へと受者を入れることはどういうことであるのか、そこで生じることはどういうことであるのか、施者と受者と関係とはどうあるべきなのか、外界(結界を解くこと)するとは何であるか、外界し、そこから出ることはどういうことであるかをわきまえていることが必要であることを表しているでしょう。

河合隼雄氏は心理療法家として、時間・場所・料金の設定を守ることが実に大切であることを教えてくれている。では、仏道の指導についてはどうなのでしょうか。

密教の金剛界入壇儀礼について考えて見ることにします。『金剛頂経』によると、その次第は以下のようになっています。

覆面、誓水、加持護念、投華得仏、覆面を解き、曼荼羅を見る、灌頂、四種悉地智、秘密法、四種印智、諸儀則

つまり、それは、これから密教の実践の開始にあたって、そのために必要な誓いをし、その誓いができた者には、曼荼羅を見ることが許され、その功徳によって灌頂がされて、密教の行法が授けられるというものです。

この次第の中心は曼荼羅を見ることにあります。曼荼羅を見ることによって、弟子のなかに加持力が生じ、灌頂される。そのイニシエーションを経て、はじめて、密教の行法の開始が許されているのです。

さらに重要なことは、曼荼羅を見るためには、まず弟子の誓誡を前提としています。誓誡がなければ、曼荼羅を見ることは許されない。それが許されないことは、密教の行法を学ぶことは許されないということです。

誓誡は二つからなっています。それは秘密の保持阿闍梨(法師)を誹謗しないことです。
必ず、守らなければならないこととされていて、それを犯すことは最大の罪であり、悪とされています。このことは『法華経』においても説かれていて、『法華経』をみだりに説かないこと、正法護持者を誹謗することは如来を誹謗することより、はるかに罪が重いとしています。では、なぜ、それらが必要だというのでしょうか。それは仏道の指導においては、それを間違って学ぶことの危険性と指導に当たっての師弟間の信頼関係が形成されることが必要であることという常識的な意味であるのでしょうか。

まず、秘密の保持についてどう考えればいいのでしょうか。心理療法家は秘密保持をどのように考えているのかが参考になりそうです。東山紘久著『心理療法と臨床心理行為』では、口が固いことはその個人の人格の大きさや自我の強さと関係しているといっています。治療者は秘密保持にあたり、そのような器が要求されるといっています。

このことは、密教の儀礼についても当てはまるといってよいでしょうか。この儀礼の誓いを行うのは、弟子の方であり、師のほうではありません。とはいえ、この誓いは密教を学ぶ者のすべてが守っているものですから、当然、師もその誓いを守っていなければならないことにはなります。密教を習う者に対して、自我の強さと人格の大きさを求めているということができるでしょうか。このことは、『大日経』が、入壇儀礼の前提として、阿闍梨の資格と、弟子が密教を学べるだけの器を求めていることにも通じています。

『大日経』では、阿闍梨は衆生をみるとき、諸垢を遠離し、大信解と勤勇と深信があり、利他を思うような者が法器となるに堪えられるかどうか見極める必要があるというのです。ある程度の自我の強さと人格の統合性を前提としています。その法器の者を見つけ、招きいれます。それが次の作壇作業ということになります。誓誡とはその意味によって成されるべきことになります。この儀礼は仏道に招き入れると同時に、拒否して追い返すという両義性を具えていることになります。七母天が誘惑し、鉤召すると同時に、降三世明王が怒り、追い返すのです。寺院において執金剛神、仁王が門前にて、参拝者を威嚇していることも安易な接触や決まりを無視した無礼な行動を決して許さない姿勢の現われであるといえるでしょう。仏や法師を守護しているばかりではなく、そこへ近づこうとする危険を防ぐことで保護しているかのです。

次にこの次第の最後の諸儀則を見てみたいと思います。諸儀則の最後は、撥遣です。これをもって、この儀礼は終了するのです。撥遣とは一切如来たちをもとの世界へとお帰りいただくことです。その前に、阿闍梨は弟子たちに再び秘密を保持することを厳重に戒めます。この儀礼を終え、自身の生活に戻るとき、いま与えられた行法を語ってはならないのです。もし、その戒めを破れば、最悪の罪であり、もはや、密教行者としての資格を失うのです。秘法を語ってしまいたい衝動を抑える必要があります。そのような抑止ができないようなら、密教の実践は不可能であるというのでしょう。

撥遣のとき、如来たちにもとの世界にお帰りいただくのですが、また再び会うことを約束してお帰りいただくのです。撥遣の真言には、仏の境に行きたまえ。再びまた来たらんがために(津田眞一訳)とあります。もし、その戒を破れば、教団から追放され、再びその行法によって如来に会うことはできないことになってしまいます。行法の実践は不可能ということになるでしょう。密教の行法のほとんどは、撥遣によってその行法は終わるのですから、日々の行法の実践は常に秘密を保持し続けることが必要となるでしょう。行法の実践によって如来と対面し、そこで別れ、日常に戻れば、それを語ることをしない。教えてもならない。それを教えることができるのは、阿闍梨のみであるというのです。阿闍梨は、法師としての力量を具えていることが必要とされるのです。また、行法の実践による世界をそのまま、現実の世界へと持ち込むことをしないということも意味します。それは仏の世界と現実の世界を区別して、仏は仏の世界へとあるべきあり方に戻るのであり、現実に生きる人間はもとの現実の世界へと戻ることを意味するからです。この区別がつかないとき、不適切な行動によって、問題が生じてしまうことにもなってしまうのでしょう。

 この儀礼は先の二つの戒を守られていてこそ、経典が説く本来の儀礼に具わる機能が発揮される可能性があるということになるでしょう。
ですから、密教の行法は阿闍梨なしには全くありえないということになるでしょう。そうであるならば、阿闍梨の資格がきわめて厳しく問われなければならないことになるでしょう。心理療法がそのための資格を得た専門家によってのみ行うものでなければならないように、仏道指導もその資格を得た専門家でなければならないということになるでしょう。

しかし、現在の仏道の世界を考えると、全く現実離れした理想でしかない。いま私たちができることは、仏道の儀礼の実際とは何かを探求し、それとの関係を洗練化していくことにあるでしょう。

心理療法の場は、時間・場所・料金の設定を守ることが結界として重要な用件であるといいます。それは訓練された専門家である心理療法家が存在するからこそ、意味のある力のある結界となるのでしょう。仏道の結界も同じようであるべきでしょう。そこに儀礼によって結界を作るとしても、それは法師としての力量をもった阿闍梨がいてこそ、真に結界となる。その力量とはダンマの直接体験の実現ではなく、実際に仏道の指導が可能である技量を意味するでしょう。それが仏道指導の理想であるでしょう。ダンマを直接体験すれば、正しい師であるとするのは、全くのナンセンスであるでしょう。その結界は魔界である。そこでのイニシエーションは魔界に誘うものでしかなくなってしまうでしょう。

仏道指導の場としての結界について実際的な知を持つ人は結界そのものである。その人は結界内のことそこから出ることの意味をよく知っている。その人こそ、法師として相応しいということなのでしょう。

(5年まえに書いたものを掲載)
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般若心経 勝手な訳

2009-08-28 00:29:47 | 仏教
有名な般若心経を勝手な解釈をまじえて、訳します。

般若波羅蜜多心経

「観自在菩薩が、深甚なる般若波羅蜜多(ダンマ)が顕わになるとき、五蘊(色・受・想・行・識、つまり人間全存在)のすべては本来、空であると、ダンマが顕わになっている禅定の実現によって知られた。その体験する境地は、一切の苦しみから解放されている。

舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならない。色(物質・形あるもの・身体)は本来、空であり、空はそののま色である。受・想・行・識(感覚・表象・働き・識別作用)もまた同じ。

舎利子よ、この諸法(あらゆる存在)は本来、空であり、空は生ずるものではなく、滅するものではなく、垢や浄の区別を離れている。

このため、空の立場からすれば、色はなく、受・想・行・識も無い。
眼・耳・鼻・舌・身・意(六根・六つの器官)も無く、色・聲・香・味・蝕・法(六根の対象物)も無し。眼界から意識界(六界)も無い。
無明も無く、無明が尽きるということも無い。(十二因縁のそれぞれに続く)老死も無く、また老死が尽きるということも無い。

苦・集・滅・道(四諦)も無く、空は、知るというなく、得るということもない。

得るということもないのであるから、
菩提薩埵は、心に妨げがなく、般若波羅蜜多に安住している。妨げなく、恐怖なく、顛倒する想いから離れていて、涅槃に安住している。

三世諸佛も、般若波羅蜜多によって、阿耨多羅三藐三菩提(最上の悟り)を得た。
それゆえに知るべきである。 般若波羅蜜多は、大神咒(ダラニ)、大明咒、無上咒、比べるものなき咒である。

このダラニである般若波羅蜜多は、よく一切の苦を除く。真実であり、偽りではない。般若波羅蜜多咒を以下に説こう。
掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧婆訶。
般若心経。 」

空とは何かいうと、ダンマであり、般若波羅蜜多のこと。
一切の存在は本来、空、つまり、ダンマ・法身であるという。
われわれが認識している世界もこの自分の存在も、本来、空。
空の体験を得て、はじめて知ることができる。
空という境地は涅槃の境地。
諸仏はダンマ・空・般若波羅蜜多によってこそ、究極の悟りを実現した。

ということです。難しいことはありません。
解説書などに、空を実体がないとか、空はとらわれない心とか、平等に見る心とか、そういう理解がよくありますが、それは、かなりダメです。

ただ、この経は空のみに注目して説明しているので、無明が絶滅することを目指すという仏道の目的を否定するものと理解してはならない。
空そのものに無明を超えているといっているだけで、たとえ、その空の境地にいる修行者が無明もなく、無明も滅することもないという心境は確かにそれはそれでとてもよいのだけれども、さらに修行し、進歩していくと、底知れぬ無明の存在に気づくようにならないとダメです。そこが注意すべきことです。
玉城康四郎の言う業熟体の存在を修行者は無視してはならない。ここに陥穽があると注意すべきです。
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結界

2009-08-27 08:48:36 | 仏教
結界

 河合隼雄著『心理療法序説』によると、儀式は神に接近していける意味と、神との直接的な接触による危険を避ける意味との両面があるといいます。この両面について考えることは仏道の儀礼を学ぶ上でも重要なものと考えられます。仏教の儀礼もその例外ではないでしょう。ここでは、密教の儀礼の基本である十八道を挙げて、簡単に考察してみることにします。

 理解の便宜のために、その構成を簡略して示すと次のようになります。護身、結界、荘厳道場、勧請、結護、供養、念誦ということになります。この次第の最後にある念誦は本尊加持であり、如来と一体となることの意味ですから、この次第は如来と一体となる過程を表していることになります。如来の加持力が次第に行者の身体に浸透していく過程です。

このなかで注目すべきは、荘厳道場のところです。
如来の働きを体感することで、その世界が浄土となることを表しています。護身において如来を体感し、次第にそれが深まっていく。その道場は浄土となっていくことを表しているのでしょう。

仏を迎える勧請は、如来の働きの体感をますます深めていくことを表しています。供養は浄土の住人が仏に供養の品を具えることのあり方と同じであるでしょうから、浄土の禅定状態を体感することを表しているでしょう。

最後の本尊加持は如来と一体となることでありますが、これも必ずしも、無生法忍を表しているのではなく、ひたすら、如来の一体化を深め続けていくことを表していると解するべきでしょう。

入我我入観、正念誦、字輪観も、如来との一体感を象徴的な表現によって表しているのであり、本来は如来との一体の禅定状態の意味であるので、その観想にとどまっていると、空見となる危険があります。頭の中で仏をイメージし、それと一体となろうとすることは適切な仕方で学ばないと、全く仏道を否定してしまうことになってしまいます。イメージすることは悪いことではなく、それどころか観想行は如来の働きを体感するためのひとつの重要な手立てであるのですから、適切に学べば、有効な手段であるでしょう。

真言密教の字輪観ア、バ、ラ、カ、キャの梵字を順次に観想するようですが、本来の意味は地、水、火、風、空という粗大から微細へ至る禅定の深まりの意味であり、「空」の境地の実現を意味するでしょう。「空」の境地がそのままの身体へと実現されていることがア字であるというのでしょう。

ア字は法身であり、法身即衆生であり、衆生とは切り離すことのできない法身であり、如来蔵のことを表している。如来と一体となった禅定状態であり、一切は本来、法身であるということを表しているのでしょう。そのことを自らの身体によって体感することが本当の意味であるでしょう。

 以上のように、如来の働きを体感していく過程であることになるのですから、その結界の意味は、如来の働きを体感する基本の実現を表していると考えられます。如来の働きを体感することの基本ができていないと、結界とはいえないということができるでしょう。では、ただ、如来の働きを体感することができれば、結界をすることができたということになるでしょうか。先にもくり返し、強調していたように、禅定は現状を検討し、反省する意識がそのための不可欠な要素であることになります。よって、金剛薩埵とは如来の働きと一体となる者を意味するだけでなく、現実を検討する自我の機能も表していると述べたことがこの結界についても当てはまることになります。

 そのためでしょうか、この結界法の構成のなかに、発菩提心、三摩耶戒、大金剛輪という金剛薩埵に関する真言があることは興味深いことです。その真言を唱えた後に、地面に金剛の杭を打ち込むのです。地盤を固め、杭を打つのです。しっかりと足場を固めなければ、その上に成り立つ禅定は揺らいでしまい、下手をすれば、倒壊してしまうというのでしょう。自我の適切な機能がなければ、禅定は適切に学べないというのでしょう。

もうひとつ重要なことは、発心です。発心することができなければ、その禅定は阿羅漢や独覚と同じとなってしまうというのでしょう。如来と一体となれば、成仏であると見做してしまうことになってしまいます。発心するからこそ、その禅定は菩薩の修行となるでしょう。そのため、次の真言である三摩耶戒は金剛薩埵の真言となっているのでしょう。ただし、これは菩薩となったという意味であり、普賢行を行える金剛薩埵となったことを表しているのではないことに注意しなければならないでしょう。三摩耶戒は、地に足がついた自我機能を表していて、密教の相続者である金剛薩埵が自分自身であると自認したり、あるいは、それと一体化して、自我肥大となり、現実の自分を見失うことになったりすることを意味しないのです。三摩耶戒の真言を唱え、金剛薩埵になったつもりでいることとは全く違うことになるのです。この真言の意味を知らずにいれば、結界を形成することはできないことになります。その結界は魔界が猛威を振るうことになり、知らず知らずのうちに魔に支配されてしまいかねないでしょう。自らは魔と無縁であり、自分こそ正統であると考える妄想に陥ってしまいます。仏道が最大の罪とすることに陥ってしまうのです。

オダージンク著『瞑想とユング心理学』では、個人的な無意識と超個人的な無意識との間をつなぐ運び役となっているのが自我であるが、そのつながりがぷっつりと切れたならば、精神病が起こるかもしれないと警告し、深刻な瞑想修行をする人々は、強力な自我構造を発達させて、現実との強固のつながりを保っていたほうがよいといっています。たとえば、僧が経験しているような長期の身体的心理的苦行は、弾力のあるたくましい自我構造の発達をもたらすといっています。(p.75)

 苦行が強固な自我形成に役立つといいますが、壮絶な苦行をする人が現実検討の力が脆弱であったり、慢心を抱く傾向があったりする場合があることについては、どうなのでしょうかと強く疑問を感じてしまいます。ともかく、ある程度の自我の強さであること必要であることは間違いなさそうです。そこに、何らかの工夫が必要であるかもしれません。

(5年まえに書いたもの。それを少し訂正しました。)

自我の強さがどの程度必要であるかは私にはわかりません。というのは、私自身がそれが強いとはいえないでしょうから。
この道を進む人たちによって、検討していく必要があるのではないでしょうか。
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アフガン和平会議

2009-08-24 09:31:06 | 国際情勢
アフガン和平会議、11月東京で開催されるようだ。

asahi.com ニュース 2009年8月22日より。

アフガン和平会議、11月東京開催 超党派議連が予定

 アフガニスタン和平に向けて、日本の超党派議員連盟が11月下旬、東京で国際会議を開く予定であることがわかった。日本が和平構築への外交努力を積極的に進め、アフガン支援に取り組み続ける姿勢を示す。米軍が増派されたアフガンでイスラム過激派テロが相次ぎ、「テロとの戦い」が泥沼化している現状を踏まえ、テロと宗教が絡み合う問題への処方箋(せん)も話し合う。

 会議は、「地球規模問題に取り組む国際議員連盟」(PGA)と「世界宗教者平和会議」(WCRP)の各日本委員会の共催。アフガン政府や国連、国境が武装勢力の温床となっているパキスタン、内戦の仲介にあたるサウジアラビアの関係者のほか、WCRPの推薦で世界の宗教指導者らも出席の見通しだ。

 議長は、世界各地の紛争の調停に貢献し、08年にノーベル平和賞を受けたアハティサーリ・元フィンランド大統領が務める予定。主催者は、アフガン和平実現に向けタリバーン穏健派との対話を探ることも視野に入れており、イスラム教国インドネシアのアチェ紛争で05年に「全当事者を含んだ包括的な和平プロセス」を主導したアハティサーリ氏の手腕にも期待する。

 衆院解散前にはPGA日本委の役員に河野洋平衆院議長(当時)や自民党の外相経験者のほか、民主党の鳩山代表らが名を連ねている。同党はインド洋での給油に代わるアフガン問題への対応として、和平に向けた積極外交を検討している。今回の会議の準備にも同党議員が深く関与。総選挙後に民主党政権が誕生した場合、政府の外交方針とも連携を強めることになる。



「地球規模問題に取り組む国際議員連盟」(PGA)と「世界宗教者平和会議」(WCRP)の各日本委員会の共催とある。WCRPは以前、島薗進さんのブログの紹介で、挙げた。
泥沼になってしまったアフガン情勢に、宗教者が積極的に和平に向けて働きかけることを強く期待したい。
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サルタヒコ

2009-08-21 01:10:11 | 宗教
サルタヒコ

天孫が降臨する際、その道中に立ちはだかる神。

アマテラスはアメノウズメに「なぜ、たちはだかるか」と聞いてきなさいと命じる。アメノウズメがその神に訊ねると、その神は「自分は国つ神で名をサルタヒコという。天孫を道案内するために参上した」といいいます。サルタヒコは天つ神にとって異人です。しかし、アマテラスが異人スサノオに対して誤解して武装した行動はここでは見られません。既にアマテラスは天の岩戸の引きこもりから外へ出てくるイニシエーションを通過して、アメノウズメの持つ肉体的側面を具えています。その機能が地上に降りるために必要であり、それが橋渡し、先導するというのでしょう。

サルタヒコは天孫一行を日向へと案内した後、アメノウズメとともに伊勢へと向かいます。どうやら、サルタヒコはアメノウズメと結婚するということになるようです。アメノウズメが巫女の側面があることを考えると、巫女となるためのイニシエーションが関係するようです。神が地上に降りるには、あるいは、神を降す巫女には、サルタヒコ、アメノウズメの機能が重要であるということなのでしょう。
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