浅草寺と浅草神社の由来を挙げておきましょう。
浅草寺のHP http://www.senso-ji.jp/about/index.htmlによると、以下のようにある。
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浅草寺縁起(由来)
時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。
大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されている。
広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)さま(794~864、浅草寺中興開山・比叡山天台座主3世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。
鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、年間約3000万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。
本尊感得の図(「浅草寺寛文縁起絵巻」より)
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浅草神社は観音さまを引き上げた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟とその観音さまを自宅で供養した土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)を祭っている。浅草神社のHP(
http://www.asakusajinja.jp/asakusajinja/yuisyo.html)には以下のようにある。
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浅草神社の由緒
推古天皇の三十六年三月十八日のことでした。
漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置しました。そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明しました。
兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く祈念しました。
翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができました。
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。
土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。
これによると創建は今を去る千三百五十年程の昔ということになりますが、これは少々無理のようで、平安の末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以後、三氏の末裔が崇祖のあまり浅草発展の功労に寄与した郷土神として祀ったものであろうと推定されます。
奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の名称に至ります。
今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社ですが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのようによばれています。
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一般の庶民が祭られている。とても親しみやすい。ここに庶民による信仰の基礎があるように思う。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
「ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。」と。
ちなみに、駒形橋は観音様が引き上げられたところのようだ。
天神・菅原道真と浅草神社とは縁があるようだ。菅原道真は土師氏の出身だそうです。
太宰府天満宮HP http://www.dazaifutenmangu.or.jp/shiru/kankou.htmによると、
「菅原氏は、古代豪族の土師氏の出身で、道真公の曾祖父古人公が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となったのです。」とあります。
また、
http://www.ten-f.com/haniwa-nominosukune.htmによると、
「皆さん良くご存知の菅原道真(すがはら・みちざね、845~903、贈太政大臣)は土師の流れを汲む人物で、道真の曾祖父さんは元々土師宿禰古人と称していたのですが、桓武天皇の時代に願い出て、居住地の「菅原」に姓を改めました。…だから、彼の祖先は野見宿禰ということになります。その縁で、上宮天満宮に摂社として野身神社が祀られているのです。」
土師氏祖先の野見宿禰とは誰か。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
「天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えたという[1]。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなったという[2]。『播磨国風土記』によると、播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬されたとある[3]。
ところで、埴輪創出についての考古学的な知見からは、これは伝説にすぎないとされているが[4]、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説がある[5]。それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである。」
出雲国の相撲取りで、埴輪の造りの元祖のようだ。
殉死に代わる埴輪の制。
それを案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなったという。土師真中知や天神・菅原道真も、そのような出自との関連を考えてみると面白いかもしれない。
天皇の葬儀は大喪・大葬というようだ。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
「大葬(たいそう)とは、天皇・皇后ら三后の葬儀のこと。近代の宮中祭祀および関連法令においては、「大喪」と表記されている。
古代においては、殯宮を設置して1年間遺体を安置する慣わしであったが、持統天皇の時に火葬が導入されて以後は簡略化されて30日間が通例とされた。聖武天皇の時に仏教に則った方式に変更された。平安時代以後は、生前に造営した寺院などで行う事になったが、北朝の後光厳天皇以後は京都泉涌寺で開催されることとなった。江戸時代の後光明天皇以後は様式は火葬のまま、実際には土葬の制が復活し、孝明天皇の時に様式も土葬のそれとなった。なお、この時までは仏教による葬儀であったが、明治維新と東京奠都の影響により、その3年祭は東京に移された宮中で神道に則って開催された。以後、英照皇太后と明治天皇の神式の例を踏まえて、1909年に皇室服喪令、続いて1924年に皇室喪儀令が制定され、天皇及び三后の逝去を「崩御」・葬儀を「大喪」と呼称する事が定められた。戦後の皇室典範改正により、皇室服喪令・皇室喪儀令は廃されたものの、慣例としてこれに準じた儀礼が採用された。1989年の昭和天皇の場合には、日本国憲法の政教分離原則に反しない形で国家儀式の大喪の礼と皇室儀式の葬場殿の儀・斂葬の儀が分離されたものの、実際には連続して開催されている。」
明治維新以前は、仏教による葬儀で、それ以後は神道によるものとなったようだ。
次に、殉死について見てみよう。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
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日本 [編集]
古代 [編集]
考古学的に確認できる確実な殉死の例はなく普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品のみられない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている。また、5世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている。
中国の歴史書『三国志』の魏志倭人伝に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者百餘人」とあり、邪馬台国の女王卑弥呼が死去し塚を築いた際に100余人のが殉葬されたという。また、『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したという(埴輪の起源説話であるが考古学的には否定されている)記載がある。
『書記』大化2年(646年)3月22日条によれば、大化の改新の後に大化薄葬令が規定され前方後円墳の造営が停止され古墳の小型化が進むが、このときに人馬の殉死殉葬も禁止されている。
武士の殉死 [編集]
主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。中世以降の武家社会においては妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。主君が病死等自然死の場合に、追い腹を切る習慣は、戦国時代になかったが、このため世代交代がうまく行かず、結局亡国の憂き目にあった大名家も多くいるとする説がある。
江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、世間から讃えられると一層まねをするものが増えた。遂には近習、特に主君の寵童(男色相手を務める者のうち、特に主君の寵愛の深い者)出身者、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった。この弊害に、名君といわれる大名は早くから気づいており、殉死を抑えようとしたが、あまり効果は無かった。なお、家を後継したばかりの若い主君では、先代の重臣たちに実務面で太刀打ちができず、主君を中心とした統一的な行動が難しくなる。そこで主家のために、先代に重く用いられたものは潔く死に、円滑な世代交代を実現する役割があったとする説もある。
明良洪範では殉死を真に主君への真の忠義から出た「義腹」、誰かが殉死するために自分も殉死しなければならないとする理屈に基づく「論腹」、殉死することで子孫の栄達を図る「商腹」に分類している。しかし、殉死者の家族が加増を受けたり栄達したケースは皆無であり、「商腹」は歴史的事実ではないとされる[1]。
1663年、4代将軍徳川家綱、5代綱吉の治世期に幕政が武断政治から文治政治すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行し、寛文3年5月(1665年)の武家諸法度の公布とともに殉死の禁が口頭伝達され、天和3年(1683年)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ本格的な禁令がなされた。
近代 [編集]
明治には、1912年の明治天皇崩御の際に殉死した陸軍軍人の乃木希典の殉死が社会的影響を与えた。
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三浦 佑之 殉死と埴輪 『東北学 』3 http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/junshi-to-haniwa.htmlによると、以下。
■■引用開始■■
殉死する臣下
主君のために殉じるというのであれば、近代における乃木希典にまでつながる美学とでも呼べるような殉死の思想があった。そして、主君を追って死ぬという行為に、臣下の一つの理想像を見ようとする考え方は、すでに古代から存在した。たとえば、次のような伝承である。要約して引用する。
a 垂仁天皇の命を受けて常世国に永遠の木の実を採りに行った田道間守(たぢまも り)が帰国すると、天皇は死んでいた。田道間守は天皇の陵の前で「叫び哭きて、自ら死」んだ。 (垂仁紀九十九年の明年三月条)
b 安康天皇を殺した眉輪(まよわ)王は、雄略(大長谷)の怒りを恐れて、坂合黒彦皇子とともに円(つぶら)大臣の屋敷に逃げ込むが、火を着けられ、大臣も二人の皇子も焼き殺されてしまう。その時、黒彦皇子の壬生部(養育氏族)であった坂合部連贄宿禰は、黒彦皇子の屍を抱きながら焼き殺され、のちに舎人たちが骨を分けようとしたが見分けがつかず、一つの棺に入れて葬った。 (雄略紀即位前紀条)
c 市辺押磐皇子が雄略に殺され、皇子の帳内(とねり)であった佐伯部売輪(うるわ)も、屍を抱き泣き叫び悲しんでいるところを殺された(雄略紀即位前紀条)。後に、その死体を掘り出したが、頭蓋骨以外は区別ができず、墓を二つ並べて一つの墓のようにして葬った。 (顕宗紀元年二月条)
いずれも『日本書紀』から引いたが、これらの伝承は『古事記』にも語られており、aでは陵の戸の前で「叫び哭きて死にき」とあって(垂仁記)、記紀ともに、天皇に殉じるかたちでタヂマモリの死は語られている。また、bの場合は、『古事記』では黒日子(黒彦)と宿禰との関係は描かれないが、黒日子は雄略に捕まり、「穴を堀りて、立て隋(なが)ら埋みしかば、腰を埋む時に到りて、両の目、走り抜けて、死にき」と語られており、垂仁紀の陵墓に立てられた殉死者と同じ姿で殺される。また、天皇の軍に囲まれた都夫良意美(つぶらおみ)は、逃げ込んできた目弱王(眉輪王)のために奮戦するが力尽き、王に命じられて王を殺したうえで、自らも首を切って死ぬ(安康記)。cの場合、帳内は『古事記』に出てこないが、『播磨国風土記』には、殺された市辺王の二人の王子を逃がすために、乗ってきた馬の筋(腱)を切り、自ら経死する日下部連意美(おみ)という忠臣が語られている(美嚢郡)。
このように、天皇や皇子たちと臣下との関係をみると、いずれの場合も、主君に殉じて死を選ぶのであり、それが臣下としての理想化された死であったために、伝承においてさまざまに語られているのだと言えよう。
また、女たちの中にも男の後を追って自死する場合があり、その代表的な事例は山辺皇女で、夫の大津皇子が謀叛の疑いで殺されると、「妃皇女山辺、被髪(かみをみだ)し、徒跣(すあし)にして、奔赴(はしりゆ)きて殉(ともにみまか)る」と描かれている(持統紀即位前紀)。しかも、それを知った人々は、「皆歔欷(なげ)く」と記されており、こうした死に方が共感され、感嘆される死であったということがわかるのである。その共感や感嘆が制度化されれば、容易に殉死や殉葬は行われることになるだろう。
女たちにしろ、臣下にしろ、にしろ、殉ずる者たちは、いずれも、制度化された身分関係のなかで、死を選ばされてしまうのである。その数が多いか少ないかとか、陵墓に生きながら立てられるか否かとか、人であるか馬であるかとか、そういう区別はさして重要なことではない。
忠誠はどのように行為化されるか、王の権威はどのように示されるか、その一つの具現化として、殉死はごく自然に存在しえたのではないかというふうに考えてみることが必要なのである。
そして、このように説話群を読み解いてくると、殉死(殉葬、殉殺)という行為が、たんに伝承の問題としてではなく、現実の行為としても行われていたということは疑う余地がないように思われる。そこに残酷さや野蛮さをみることは可能だが、古代的な主従関係のなかで、従う者たちの選ぶべき道として、殉死は選ばされていたにちがいないし、ある種の美意識といったものが、死ぬほうにも、それを強いる側にもあったのは間違いなさそうである。
■■引用終了■■
乃木と天皇はどのような関係だったのだろうか。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
「乃木は明治天皇からの信望が厚く、明治天皇が後継者と期待していた裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係として学習院院長に命じられる。幼親王も乃木を慕い、乃木も聡明な親王に陽明学を勧めた。殉死の前日、乃木は親王に自ら写本した山鹿素行の『中朝事実』と『中興鑑言』を渡し、この本がいかに素晴らしいかを説き、熟読するよう念押しした。当時弱冠10歳の親王は、乃木のただならぬ気配に、これは遺言だと気付き、思わず「閣下はどこかに行ってしまわれるのですか?」と聞いたという。昭和天皇は晩年まで、生涯で最も尊敬する人物として乃木の名を挙げ続けた。」
乃木の殉死は世間からどのように受け止められたのか。
「この事件は当時の社会にあってきわめて衝撃的にうけとめられ、結果的に死後乃木の盛名をさらに高からしめることになった。事件に対する態度は主として、
1.天皇に忠誠を誓う武士道的精神、軍人精神の極致として賞賛するうけとめかた
2.封建制の遺風による野蛮で時代遅れの行為として皮肉にとらえるうけとめかた
3.作戦失敗を繰り返し、多くの部下を無為に死傷させた、当然の結果といううけとめかた
4.古武士のような徹底した清廉な生き方を称賛するうけとめかた
の4種類に区分できる。生前から(4)の受け止め方は国民の間で主流であった。事件直後は(1)(2)(3)(4)が混在していたが、やがて大正デモクラシーの影響によって(2)の立場を取る側とそれに対抗して乃木を神格化しようとする(1)の立場が主流になる。昭和初年ごろから社会全体が右傾化してゆく風潮のなかで(1)が圧倒的な勢力を得たこともあった。戦後は、陸軍悪玉論や軍人に対する嫌悪感から(3)を支持する意見と、(4)を支持する意見がある。」『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
乃木は野見宿禰の殉死に代わる埴輪制を結果として、無視した。
それは何を意味するのだろうか。日露戦争の勝った日本人は上へ上へと舞い上がっていったのではなかったか。天の神であるアマテラス、地の神であるスサノオ。天の神の行きすぎを止める働きをもつ地の神。地の神を無視すれば、天の神は暴走する。かつ、地の神は祟り神として暴悪さをあらわすようになる。
河合隼雄は日本において、両者のバランスが働いているとし、片方のいきすぎを戻す働きを「ゆりもどし」と呼んだ(河合隼雄(著)『神話と日本人の心』)。その「ゆりもどし」は最悪なかたちとなって現れたといえるかもしれない。