パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

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イスラエルは入植をやめるべきだ

2009-09-10 02:42:32 | 国際情勢
去年の年末からイスラエルによるガザへ大規模な空爆により、罪のない人たちに多数の死者が出ました。

今日、ネットニュースで知りましたが、死亡者は1387人、その半数は民間人であるといいます。本当に酷いことです。

以下、その記事を転載。


民間人殺害は軍発表より大規模とイスラエル人権団体、ガザ侵攻
2009.09.09 Web posted at: 21:09 JST Updated - CNN

エルサレム(CNN) パレスチナ自治区ガザで昨年12月末から1月にかけてイスラエル軍が実行した大規模侵攻で、同国の人権擁護団体「B'tselem」は9日、衝突で殺害されたパレスチナ人の半分以上は民間人だったとの報告書を発表した。


死亡者は1387人で、773人は戦闘行為などに加わっていなかったとし、うち320人は未成年だったとしている。同団体はこれらの数字や死亡者の背景について数カ月間にわたり調査、多数の消息筋からの情報も引用したとしている。


イスラエル軍は今年3月、侵攻で死亡したパレスチナ人は1166人、うち709人はガザを実効支配するイスラム強硬派勢力ハマスの構成員らと強調。戦闘に参加していない民間人の死者は295人で、うち89人は16歳以下の若者だったとしている。イスラエル軍は民間人の死亡について、ハマスが人間の盾としたためとも主張していた。


同人権擁護団体の数字はこれに真っ向から反論するものとなっている。


侵攻作戦は、ガザ内からイスラエル領へロケット弾攻撃を繰り返すハマスを掃討するのが狙いだった。ハマスはイスラエルの認知を拒否、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸を拠点にするアッバス自治政府議長と対立している。


「B'tselem」は報告書を発表した声明で、イスラエル軍が国際人道法の根本的原則を踏みにじったことへの重大な懸念を表明。一方、イスラエル軍は同団体の報告書に盛られた数字は事実、正確な統計に基づいていないと主張し、同団体が「信頼出来る情報収集能力を保持しているとは考えられない」とも反論した。


ガザの人権擁護団体も同紛争の民間人被害者についてはイスラエル軍の数字を大きく上回る水準を発表している。また、イスラエル軍が民間人の死亡者に警官を含めていたことも批判を浴びていた。


最近、イスラエルは占領地ヨルダン川西岸にあるユダヤ人入植地での入植住宅建設を許可した、とあります。
何ということでしょう。イスラエルの暴走はとまりません。

以下、その記事を転載。


信濃毎日新聞
イスラエル 身勝手さが目に余る
9月9日(水)

 イスラエルのネタニヤフ政権が、占領地ヨルダン川西岸にあるユダヤ人入植地での入植住宅建設を許可した。3月末に同政権が発足してから、本格的な許可は初めてだ。

 国際社会のほとんどはイスラエルの入植地建設について、「国際法違反」との立場である。今度の身勝手な行動に対し、国際社会は結束してあたるべきだ。

 パレスチナ和平交渉再開を目指す米オバマ政権は、入植活動の停止を強く求めてきた。イスラエルはこの要請を無視した。

 パレスチナ指導部は、入植活動が停止するまで交渉の再開には応じない姿勢を示している。仲介役の米国は厳しい立場に立たされそうだ。中東和平の行方はますます不透明になってきた。

 イスラエルの2月の総選挙で右派勢力が伸長し、国会の過半数を占めた。この結果を受けて、右派リクードのネタニヤフ党首を首相とする右派政権が発足した。

 同政権は、和平交渉の再開を定めたオルメルト前政権とパレスチナとの合意を「正当性がない」などと批判し、当初から強硬路線をあらわにしていた。

 一方、オバマ大統領は、イスラエル寄りだった歴代米政権の姿勢を修正し、中立的な立場に軸足を移した。

 大統領は6月、エジプトで、パレスチナ国家の樹立が中東和平の「唯一の解決策」と言明。イスラエルとの2国家共存構想を推進する決意を示している。

 さらに、イスラエルの入植地建設の継続を認めないことをあらためて強調し、パレスチナ側にも暴力を放棄するように求めた。

 国際社会はオバマ演説を歓迎したけれど、その後に開かれた米国とイスラエルとの閣僚級会談は、特段の進展もなく、物別れに終わってしまっている。

 オバマ大統領は今月下旬の国連総会に合わせ、ネタニヤフ首相、パレスチナ自治政府のアッバス議長と会談し、交渉再開の道筋をつける考えでいる。このままでは会談が見送られる可能性もある。

 国際社会が傍観し続け、米国がイスラエルに譲歩するようなことになれば、アラブの中で失望が広がり、パレスチナ強硬派を勢いづかせることにもなりかねない。そうなれば、和平の実現はさらに遠のいてしまう。

 中東和平は世界の安定と不可分の関係にある。世界的な課題と受け止めなくてはならない。打開に向け、オバマ大統領がどんな手を打つか、注目したい。


イスラエルの勝手さをこのまま、世界は容認してはならないはず。
われわれは傍観者であってはならないでしょう。
市民として、この横暴に声をあげて、反対する必要があるのではないでしょうか。
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阿羅漢と大乗の如来とはまったく別です

2009-09-09 12:11:08 | 仏教
きのう、仏教の勉強会に参加しました。

大変残念なことに、またしても、原始仏典の阿羅漢と大乗の仏と同じと考えて、大乗を講義していました。
それを聞いている参加者からも、異論がでず、なるほどと頷いていました。
大変困ったことですが、この刷り込みからは、容易に抜け出せないのではないかと感じました。
私はそこで、異見することはしませんでした。既に、その会で、私の見解は発表済みですから…。

『勝鬘経』は、はっきりと、声聞の阿羅漢と大乗の如来とはまったく別であると説いています。
これを無視してしまえば、大乗経典を読んでいても、その核心から遠く離れてしまいます。
大乗経典を読みながらも、原始仏典の阿羅漢を目指すのであれば、まったく発心していることにはなりません。
発心は、経典が教えているように、大乗の報身の如来となることを目指すことです。阿羅漢ではまったくありません。
これは、絶対に間違ってはいけないのですが、きわめて残念なことに理解されていない人が多いようです。本当にがっかりです。
法華経は仏乗は難信難解であるというように、現在の世も、それがあてはまってしまうのでしょうか。
仏教の知識はなくても、純粋に仏を礼拝している人のほうが、比較にならないほど、如来の心に適っていると改めて思いました。

残念至極です。

如来をひたすら礼拝する。本当は、それこそ大事であると思います。

悟りを得ようとするばかりに、間違って理解すれば、仏乗から離れるばかりです。
みなさん、どうでしょうか。そうではないでしょうか?
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護身法

2009-09-06 10:46:05 | 仏教
密教の行法の基本に護身法というものがあるようだ。

この意味について、考えてみる。
ダンマが浸透、通徹いく過程であると思える。

護身法 

・浄三業
未敷蓮華印を結ぶ。
一切は本来清浄であるから、われもまた清浄である。
われわれは如来蔵であり、本性は法身である。
未敷蓮華は浄土での蓮華のつぼみの中にいることを表しているのだろう。

・仏部
如来の加持をいただく。

・蓮華部
開敷蓮華印を結ぶ。
開敷蓮華は浄土での蓮華のつぼみが花開くことを表しているのだろう。
ダンマが浸透し、花開く。ダンマ浸透が進んでいく。

・金剛部
ダンマの浸透を受け、三昧に入っている様。

・被甲護身
ダンマの甲冑を着る。
ダンマが浸透し、通徹する。身体より、ダンマが放たれていく様。

以上。

真言、印、観想によって、行われるものであるようだが、おそらく、それは方便(手立て)であり、大事なのは、如来の加持力にこそ、である。
ダンマの働きによってこそ、われわれは三昧に入り、ダンマは通徹する。
護身法は如来の加持力、つまり、ダンマ・如来によってこそ、実際に、ダンマが通徹するものでなければならないだろう。

護身法は在家信者でも、僧侶より教えてもらえれば、行ってもよいものとされているようだ。関心のある方は、ご僧侶に相談されるのもありかもしれない。
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理趣経、大楽

2009-09-05 12:24:46 | 仏教
理趣経は大楽を説く。

大楽とは法身・ダンマです。

また、一切は本来、清浄であると説く。
清浄とは、ダンマ・法身である。
一切は本来、法身である。大乗経典の根本を説く。

貪り、怒り、愚かさの三毒は本来清浄。心は本来清浄。

有名な句に「男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である」とある。
どういう意味であるのだろうか。

禅定において、ダンマ・如来が顕わになり、妙なる恍惚は菩薩の境地であるといえる。しかし、性愛の恍惚は、禅定のそれとは同じではない。
忘我となり、真っ白な世界で、恍惚となるという点においては、同じといってもよいかもしれない。しかし、人は誤解して、性愛の恍惚を禅定の恍惚と同じとしてしまう危険があるかもしれない。
如来と交わるという意味では、なかなか核心をついている。恍惚や楽という点もそういえる。

ダンマが実感される禅定の楽は浄土の楽と同質である。
如来の本願力によって、浄土が建立されている。それは禅定において、如来の本願力によって、体験される世界が浄土になっている。また、楽と体験されることに相似する。

本願力は加持力。如来の働きによって、われわれは三昧に入ることができる。経典はそう説く。

法身の働きによって、われわれはいつかは、成仏する。功徳が完成して報身を得る。これが大乗の説く成仏。原始仏典のそれとはまったく違っている。原始仏典のダンマの体験者を阿羅漢といっているのはそのため。

阿弥陀仏も法身の働きによって、成仏した。浄土を建設した。
われわれも、同じく、そのようになる。

親鸞は若い頃、性愛について悩んだが、それが仏道の実現に妨げになるものではないと自身の探求によって、知った。

理趣経は、仏教がそれ以前に、性愛を仏道の妨げるものとして、退けていたものをあえて、このように登場させていることは、それの否定や拒否によって、人間の本性を歪めることはふさわしいことではない、といっているように感じる。

本当に注目すべきことは、本来清浄である法身こそ、である。
法身を実感し、身に体感して学ぶことにある。
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行道の実践

2009-09-05 00:13:02 | 仏教
玉城康四郎先生は、誰でも、ブッダの教えに従って学べば、終地に達することができると強調する。先生は「私にもできたのだから、他の人にも可能である」という。

「う~ん、本当かな?玉城先生は天才であり、天才だからそれができた。凡人には無理なのでは?」という考えもある。「実際に実践していても、ダンマの顕現を得られない。まったく手がかりを掴めず、ほとんど無理に思える」という人もいると思う。

玉城先生は、ダンマの顕現は、木っ端微塵の大爆発のものといっている。
確かにそう。しかし、それにとらわれてしまい、その体験を得ようと必死になるのはかえって、それに逆行してしまう面もあると思う。それに必死になって取り組むことも大事で、その努力が報われて、実現することは事実。といっても、それだけが唯一の方法というわけでもないのも事実。

実際、自ら行じ、全人格体で探究していくよりほかない。

仮に「ダンマを実感することがまったくできない」という人がいるとする。
たとえ、そうであっても、行道を実践しているのだから、如来との関わりを持っていることに間違いない。いまは、実感することはできなくても、必ず、いつかは、自然と実感できるようになるはずと玉城先生は著書で述べている。無量寿経も蓮華のつぼみの中に生まれたとしても、時がたてば、そこから出られるといっている。両者は同じことを意味するだろう。

四禅の第三禅の楽は、極楽浄土の楽と同じであると経典はいう。
このことは、行道の実践に関し、きわめて大切なことを教えてくれている。
楽は三昧へと進み、ついに解脱(ダンマの顕現)に到る。
私見をいうと、解脱にこだわらず、三昧に留まることが何より大切であると思う。
三昧とは、玉城先生のいう「ひとかたまり」となること。一心になること。
原始仏典の四念処の心念処に相当する。心念処は自然と法念処(解脱・ダンマの顕現)に至る。玉城先生は心念処になることが大事であると著書で述べられている。

玉城先生は、禅定も念仏も同じであるという。
念仏の肝心は一心になること。それは三昧である。ついにそれは、光明が顕わになり、包まれる。
両者は同じ。

一心とは何か。楽とは何か。自身の体で探究していく。
過度な期待もせず、決め付けもせず、かといっても、いい加減にもならず、結果を得ようとあせらず、いらいらせず、リラックスして取り組む。かといって、だらしないことになりすぎてもいけない。
私見をいうと、心地よいと感じる方向へと進むようにするとよいと思う。

行道の選択は、玉城先生の言うように、自分にあったものを選べばよいと思う。
私もいろいろと試した。それを試すのはおもしろい。
禅や密教の実践は、師の指導を受けることが大事だという。やはり、そうした方がよいのではないかと思う。独習書も出ているので、そちらもありかもしれない。

行道は二つに大別できると思う。
便宜上、それらを
1.禅定門(坐禅など)
2.帰依門(念仏など)
としよう。
禅定門はことばのまま、坐禅(瞑想)。
帰依門は如来への帰依、信仰心によるもの。
どちらを選んでもいいし、あわせて学ぶのもいいかもしれない。
気持ちに素直に選ぶ、試すのがよいと思う。
どちらを選ぼうと、その先は同じです。

終地をめざして、学びが開始される。
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