日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースですが、まだ未完成ですので気長にお待ちください。

アメリカ屋靴店の歴史 その2

2017-09-28 17:04:47 | アメリカ屋靴店
靴業を志した宮崎伊助は商工会議所を辞めて、ポートランド市にあるチッパーシューズ工場に月謝15ドルを払って見習工になりました。

1922(大正11)年、たまたまスタンダード靴の百瀬営業部長と前田技師長が工場を訪れました。
この時に百瀬に伊助を紹介したのが後にワシントン靴店の創業者であり、伊助のライバルとなる東条たかし(舟へんに寿)です。

伊助はチッパーシューズ工場で約3年間勤め、この間に貯金を切り崩しながら製靴機械を中古で買い求め日本に送っていました。

1925(大正14)年8月、帰国した伊助は短期間ながらスタンダードに勤めた後、10月25日に新宿西口に間口二間の小さな靴店、アメリカ屋靴店を開業しました。

宮崎伊助26歳のときでした。

開業当時(店舗拡張後)のアメリカ屋靴店

アメリカ屋靴店の歴史 その1

2017-09-28 10:58:30 | アメリカ屋靴店
1914(大正3)年11月、当時15歳の宮崎伊助は父親から貰った300円の渡航費を握りしめ、アメリカへ渡りました。

大正時代初期の日本は空前の渡米ブームで、岡山や広島から大勢の人がハワイやアメリカ本土へ出稼ぎに行きました。

伊助はポートランド市でトウモロコシ売りから始まり数々の職を転々とし、銀行の頭取のハーディングの計らいにより商工会議所のエレクスクラブで働くことになりました。

ある時クラブ員が靴を脱いでそのままにして取りに来ないので、どんどんその数が増えていきました。
伊助はその靴を1足ずつ丹念に磨いて保管していましたが、誰もその靴を受け取りに来ませんでした。

ある日伊助は理事長に呼ばれ、理事長に「あの靴は古靴なんだ、あれは君が勝手に処分してもいいのだよ」と言われました。

当時のアメリカでは靴は既に履き捨ての時代に入っており、富裕層の間ではちょっと傷が付いたり、踵が減った靴は二度と履かないで捨ててしまうのが常識でした。

それを聞いた伊助はその靴を持って修理屋へ向かい、1足1ドルから1ドル50セントで引き取って貰いました。

ある日ラグランデの町で知り合った友人の佐々木の下を訪ねたときに、佐々木の郷里から送られてきた父親の葬儀の写真を見ると、参列者が皆下駄の代わりにゴム靴を履いているのが伊助には異様に映りました。

このときに伊助は日本人が皆革靴を履く時代が来ることを予感し、日本で靴業を始めることを決心しました。