靴業を志した宮崎伊助は商工会議所を辞めて、ポートランド市にあるチッパーシューズ工場に月謝15ドルを払って見習工になりました。
1922(大正11)年、たまたまスタンダード靴の百瀬営業部長と前田技師長が工場を訪れました。
この時に百瀬に伊助を紹介したのが後にワシントン靴店の創業者であり、伊助のライバルとなる東条たかし(舟へんに寿)です。
伊助はチッパーシューズ工場で約3年間勤め、この間に貯金を切り崩しながら製靴機械を中古で買い求め日本に送っていました。
1925(大正14)年8月、帰国した伊助は短期間ながらスタンダードに勤めた後、10月25日に新宿西口に間口二間の小さな靴店、アメリカ屋靴店を開業しました。
宮崎伊助26歳のときでした。
開業当時(店舗拡張後)のアメリカ屋靴店
1922(大正11)年、たまたまスタンダード靴の百瀬営業部長と前田技師長が工場を訪れました。
この時に百瀬に伊助を紹介したのが後にワシントン靴店の創業者であり、伊助のライバルとなる東条たかし(舟へんに寿)です。
伊助はチッパーシューズ工場で約3年間勤め、この間に貯金を切り崩しながら製靴機械を中古で買い求め日本に送っていました。
1925(大正14)年8月、帰国した伊助は短期間ながらスタンダードに勤めた後、10月25日に新宿西口に間口二間の小さな靴店、アメリカ屋靴店を開業しました。
宮崎伊助26歳のときでした。
開業当時(店舗拡張後)のアメリカ屋靴店